一九四二年七月四日。
 英領スリランカ島は例年通りに雨季の終焉を迎えていた。先月、先々月と大量に降り注いだ雨天はすでに過去のものとなっており、七月に入ってからは満天の青に若干の白い雲が見える日々が続いていた。
 しかしスリランカ島北東部のトリンコマリーに駐留する英国東洋艦隊司令長官ジェームズ・サマーヴィル海軍中将の心は空のように晴れ渡ることはなかった。
 むしろサマーヴィルにとって雨季の終了が逆に憂鬱を運んできていた。雨季の終了によってインド洋の空も波も静かになり、空母機動部隊を派遣し、トリンコマリーに空襲をあびせるには絶好の天候となったのだ。シンガポールに駐留していた英国東洋艦隊主力だけでなく、合衆国海軍太平洋艦隊までも打ち破り、今や世界最強の艦隊となった大日本帝国海軍の矛先がインド洋へ向けられた場合、サマーヴィルはその矛を防ぎきる自信がなかったのだ。
 先にもチラリと触れていたが、英国東洋艦隊はかつてシンガポールを拠点としていた。しかし英日開戦からわずか二日後に生起したマレー沖海戦で英国東洋艦隊は戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを沈められ、さらには当時の司令長官であったトム・フィリップス中将まで戦死に追い込まれ、果てにはシンガポールからトリンコマリーへの撤退を余儀なくされていた。
 散々な目に合わされた東洋艦隊を引きついたサマーヴィルは本国に対し増援を何度も要請したが、しかし時同じくしてドイツ海軍の動きが活発化。ようやくにして完成した空母グラーフ・ツェッペリンや戦艦ティルピッツが北海を舞台に暴れ始めたのだ。
 そのためイギリス本国のダドリー・パウンド第一海軍卿は東洋艦隊に送る援軍を出し渋ったのだった。
 よって現在のサマーヴィルの手元にある戦力は下記の通りである。
 戦艦:ウォースパイト、レゾリューション、リヴェンジ
 空母:インドミタブル、フォーミダブル
 巡洋艦六隻、駆逐艦一二隻………とても帝国海軍の侵攻を防ぎきれるとは思えない陣容であった。
 しかも日本の暗号解読結果を信じるなら、かなりの確度で帝国海軍はインド洋を目指そうとしているらしい。
 サマーヴィルはパウンドに対してほとんど悲鳴に近い文面で増援要請を繰り返していたが、本国のパウンドからしても「無い袖は触れぬ」のが事実であった。いかに英国の至宝と呼ばれるインドが危険に晒されるからといって、イギリス本国の防備を減らすわけにはいかない。女王の駒がチェスの戦局を左右するといって、王の駒を危険に晒して女王の駒を守ろうとするのはヘボにも程がある。だからイギリス本国はサマーヴィルの増援要請に応えることができないでいた。
 そう、サマーヴィルの要請に応えたのはイギリス本国ではなかった。イギリスにとってかつての植民地であり、今や戦争遂行に欠かせない頼れる同盟国となった人類史上最大の人造国家、アメリカ合衆国海軍がインド洋に援軍を差し向けることを決定したのだった。
 一九四二年七月四日。スリランカ島北東部のトリンコマリー基地に合衆国海軍第三艦隊が入港した。空母エンタープライズとレンジャーを中核とする空母機動部隊である合衆国海軍第三艦隊と東洋艦隊との合流………。これが帝国海軍と合衆国海軍との戦いの第二ラウンドの開幕であった。

海神の戦記
第七章「帝国海軍西進せよ」


 四月に生起したフィリピン沖海戦の結果、帝国海軍は赤城、加賀、蒼龍、翔鶴の飛行甲板を破壊されていた。
「二度の決戦に向けた長期持久戦略」を採用していた帝国海軍は次の決戦までの期間がまだ先であることを理由にフィリピン沖海戦で損傷した空母の修理の優先順位を下げ、南方からの資源を運ぶための輸送船やその航路を護衛する海上護衛総隊用の駆逐艦の整備を優先していた。
 故に損傷した四空母に所属していた搭乗員たちは母艦がないため無聊の日々を過ごすことになる。少なくとも当事者の一人である風祭 貴士一飛兵はそう考えていた。赤城の母港は横須賀だから、たとえば熱海の温泉街にでも繰り出してフィリピン沖海戦の死線を潜り抜けた自分に褒美を与えるのもいいな。風祭はそんな甘いスイーツことを考えていた。
 しかし一九四二年六月一四日現在、風祭は温泉に浸かることはなく、それどころか空母に乗り込んで海の上で訓練に明け暮れていた。
 零式艦上戦闘機二一型、通称零戦と呼ばれる単座戦闘機の狭い操縦席の中で風祭は操縦桿、スロットルレバー、ラダーペダルの三点で必死に、巧みに、そして苛烈に愛機を飛ばしていた。
 風祭の零戦の前方にはもう一機の零戦が翼に風を乗せていた。その零戦の操縦席に座っているのは風祭の所属する小隊の小隊長であり、風祭が敬愛する和木 駿介中尉であった。
 不意に和木機はゆっくりと機首を持ち上げ、緩やかに上昇を始める。風祭もそれについていくために操縦桿を引き、スロットルレバーを開く。エンジンの唸りがさらに大きくなり、上昇によって失われる運動エネルギーを補填するパワーが生み出される………しかし和木機と風祭機の距離は徐々に開きつつあった。
「和木中尉はもっとスロットルを開いているのか?」
 風祭はそう考えてスロットルレバーを押し、零戦の栄エンジンにさらなる馬力を要求する。零戦は風祭の要求に応え、和木機と風祭機の距離が今度は縮まりつつあった。
 両機の距離が最初の間隔に戻り、一呼吸置いてから和木機が翼を翻して背面からの降下を開始する。今度はスロットルを逆に引き、エンジンの馬力を下げることで必要以上の速度を出さないようにしていた。風祭は再び和木機の軌道についていくため操縦桿とラダーペダルで自機を一八〇度横転させ、降下を開始する。世界が目まぐるしく回転し、風祭の零戦は地球に機首を向けて突き進む。
 和木機は降下を続けながら雲の中に飛び込み、風祭機もそれに続く。そして真っ白い雲を突き抜けた先に一隻の空母と四隻の駆逐艦があった。
「訓練であれだけグルグル飛び回って、正確に母艦に辿り着いて訓練完了、か………」
 単座の、つまり一人乗りである零戦で風祭を連れて訓練飛行を行い、自らの機位と母艦の位置を完全に把握する。風祭は改めて自分と和木との腕前の差を思い知らされた。
 高度一〇〇〇メートルで降下をやめた和木機が風祭機の傍によって翼を並べてくる。風祭が和木機に視線を向けると風防越しに和木が手振りで「先に母艦に降りろ」と言ってきた。風祭もまた身振り手振りで応え、着艦に向けて機首を巡らせる。
 そしてゆっくり、階段を一段一段降りるように高度を下げ、自身の零戦の機尾についたフックが母艦の制動索を掴めるように操縦を続ける。
 ガクンッと大きく揺れて風祭の狙い通りにフックが制動索に引っかかって零戦の動きが止まる。着艦、成功である。
「………ふぅ」
 風祭は手袋の中が汗でじっとり湿っていることを自覚する。何度やっても着艦というのは緊張する。わずか二〇〇メートル程度の長さしかない空母に時速二〇〇キロ弱で突っ込んでいってフックを制動索に引っ掛けなければいけないのだ。その難易度と心労は着陸の比ではなかった。
「着艦は何度やっても慣れないな………」
 赤城がフィリピン沖海戦の結果、修理のためドック入りするようになってすぐのこと。風祭や和木といった赤城に所属していた戦闘機搭乗員の多くが、新たに連合艦隊へ編入された隼鷹へ転属を命じられた。
 隼鷹は豪華客船橿原丸として起工されたが、日米開戦を見据えた海軍によって空母に改造された改造空母であった。そのため航空隊を新設する予定だったが、「どうせ赤城がしばらくドック入りするのなら」と考えた上層部の判断で赤城や加賀、蒼龍、翔鶴といったフィリピン沖海戦で損傷した四空母の搭乗員たちを隼鷹に転属させたのだった。このおかげで隼鷹は新造艦でありながら搭乗員の錬度は健在の飛龍や瑞鶴に引けを取らないと考えられていた。
「少し強引に動きすぎたからついてこれないかと思ったが、そうでもなかったな」
 風祭に次いで着艦した和木が零戦の操縦席から飛び降りながらそう言って微笑んだ。
「さて、最後の確認でどうなるかが楽しみだな」
「え、確認………?」
「おい、事前に説明していただろう。今日の訓練では飛行後の残存燃料量を確認するって」
「ああ、そういえば………」
 そう言われて風祭は今日の訓練は搭乗員の技量差で燃料消費量がどれほど変わるのかを調べることも含まれていることを思い出した。
「やれやれ、風祭、相変わらず飛ぶことだけ考えてやがったな?」
 風祭の様子に若干あきれた顔を見せる和木。しかし和木は表情を引き締めて続ける。
「いいか、この戦争はまだまだ続く。戦争が長引くということは、お前も下士官となって若い兵を率いる時が来るということだ。それまでにもっと広い、後輩を気遣えるくらいの視野は身につけておけよ」
 ………そしてその日の訓練がすべて終了した後、隼鷹の格納庫に張り出された紙に燃料消費量の少ない順で名前が記されていた。
 和木は上から四番目で、風祭は真ん中より少し上程度であった。
 和木と風祭は特に同じ時に飛んでいるのだから、二人の技量の差がハッキリと開いている証であった。風祭はその明確に開いた和木との差に卑屈になるわけではなく、しかし間違っても恨みを抱くこともなく、己の技量に対するさらなる向上心を湧き上がらせたのだった。
 ………風祭がこの日の和木の言葉を本当の意味で理解するのはまだ先のことであった。



 戦艦大和の第三砲塔分隊長から海軍砲術学校に転任させられた大峰 当少佐(転任に伴って昇進した)は基本的に自堕落な人間だった。
 軍務も雑なら私生活もぐうたら。友人の結城 海神少佐が彼の家を訪ねた時、ゴミが散乱した部屋で埃が堆積した床に腰掛けて酒を飲んでいたくらいだった。
 しかしそれは彼が部屋を綺麗にすることに価値を見出していないだけなのだ。彼は彼自身の興味が惹かれるものに対しては周囲が引くほどに貪欲で、労力を惜しまなくなる。つまり大峰 当という男は、生まれてくるのが半世紀ほど遅ければ「オタク」と呼び称されるような人種であった。
 帝国海軍にとっては幸運なことに、そんな大峰が価値を見出すモノの第一が「砲術」であった。大峰は戦艦の大砲の命中率を向上させることに対して興味を持っていて、その興味を満たすためにとありとあらゆる手段を動員して勉強を続けていた。
 しかし大峰の熱意に反して現実は大峰に厳しかった。
 帝国海軍の艦船はすべて光学式の測距儀で敵艦との距離を測っていた。つまり二つのレンズで敵を写し、敵との距離を測るのだ。しかし(当たり前の話だが)敵との距離が遠くなれば遠くなるほどに敵は小さく見えていく。それは大和に世界最大級の一五.五メートル測距儀を搭載しても逃れられない宿命だった。
 測距儀での距離計測は晴天下の二万メートル付近までなら的確に行える。しかしそれ以上の距離になれば精度は絶望的になる。さらには夜間や雨天のような時間や気象にも巨大な影響を受けてしまう。実際問題、フィリピン沖海戦で帝国海軍は合衆国海軍の遠距離砲撃に対して完全に無力であった。
 では、どうすればよいか。結論は合衆国海軍と同じ方法を帝国海軍も採用するしかないということだ。
 即ち、帝国海軍の艦艇にも電探を搭載し、敵との測距を機械的に行うということだ。
 日米開戦前から大峰は上記の結論を出していたが帝国海軍は大峰の意見を取り入れず、大和の第三砲塔分隊長に任命して中央から遠ざけた。
 しかしフィリピン沖海戦で電探射撃の有効性に気付いた帝国海軍は慌てて大峰を海軍砲術学校に転任させ、大峰に電探射撃の研究を行わせることにしたのだった。
 紆余曲折はあったが、念願の電探射撃研究に関わることができたので大峰は(表面上は)文句を言うことなく電探射撃の研究を開始していた………が。
「………やっぱダメだな」
 大峰は憮然の思いをハッキリと口にした。
 一九四二年六月一六日。横須賀の海軍砲術学校で電探の研究を行うよう命令された大峰だったが、その進捗ははかばかしくなかった。
 大峰に与えられた任務は電探を使用した射撃照準技術の確立だったのだが、しかし肝心の電探機材の精度と信頼性が残念すぎた。今も電波を発信しようとしたら真空管が故障して、結局電波が発信できずじまいだった。
「も、申し訳ありません、大峰少佐………」
 民間の企業から電探開発のためにやってきた痩身の中年男が大峰の言葉を聞いて恐縮で身を強張らせている。身長一八一センチ、体重九五キロと平均的な日本人から見れば巨大な体を持つ大峰が不機嫌そうになると必要以上に周囲へ恐怖を与えてしまう。そのことを思い出した大峰は心の中で自分を殴り、苛立ちを抜き去ってから言った。
「いや、開発途中のものの信頼性が優れないのはどこでも同じです。うちの戦艦だって、最初は砲塔が回らなかったりして上に下に大騒ぎするものですよ」
 大峰の言葉を軽口として中年男がクスリと笑う。少しわざとらしい笑い声だったが、張り詰めていた空気がいくらか和らいだので大峰はよしとした。
海軍うちからの予算が増えたのはいいですが、まだ増額分の人員手配ができてないのが現状ですかね? 今のも真空管の設定ミスだそうですが」
「それもありますが、まだまだ基礎研究の土台が固まっていないのが正直な所です。何分、まだ研究を開始したばかりですので………」
「ふむん………。シンガポールで鹵獲した英軍の電探を見てもまだ足りませんか?」
「ああ、あれですか………。あれはあくまで鹵獲品ですからね。現地で使う説明書などはあっても、なぜそのように作られたのかの仕組みがわからなければ、我々のような研究開発を行う者には厳しいですね」
「やはり、そうなりますか」
 その時、部屋の扉が開けられて一人の青年が入ってくる。歳若い、兵学校を出たばかりといった新米少尉は大峰の巨体を見つけると急いだ歩調で近づいてくる。
「大峰少佐、結城少佐からお電話です!」
 ………………
 電探の研究用に建てられたプレハブから海軍砲術学校の本館に歩いて向かい、大峰は黒電話の受話器を手に取った。
「はい、大峰です」
『よっ、今日は実機を使った試験だったんだろ? どうだった?』
 大峰の友人であり、連合艦隊の戦務参謀を務める結城 海神少佐の声。
「てめーの嬉しそうな声に苛立ちを覚える程度だな」
 その明るい響きの声に、憮然とした調子で大峰は応えた。
『そうか、残念だったな………』
「で、何のようだ?」
『ああ、前に忠鳥で遠方の朋の話をしただろ? あれの手配が完了したんでな、それを報せようと思ったのさ』
「何? 本当に手配できたのか!?」
『ああ、迎えの準備もできている。来たらすぐそっちに顔を出すように言うさ』
「ふむん、よし、頼んだぞ、結城!!」
 受話器を置いた大峰はスキップ交じりの歩調でプレハブに向かった。周囲は大峰の機嫌のよさに何かよからぬ企みの臭いをかいだが、口に出してその企みについて尋ねる者もいなかった。



 ………ここで舞台は冒頭、トリンコマリーへ戻る。
 一九四二年七月四日、トリンコマリー港に停泊する戦艦ウォースパイトに合衆国海軍第三艦隊の面々は案内されていた。
「合衆国海軍第三艦隊司令長官、ウィリアム・ハルゼー中将であります」
「王室海軍東洋艦隊司令長官、ジェームズ・サマーヴィル中将であります」
 三ツ星と三本線の米英両国の海軍中将が互いに敬礼を交わす。
 そして自己紹介もそこそこに、両艦隊の司令長官と幕僚たちがウォースパイトの作戦室でインド洋を取り巻く状況の確認を行う。
「まず、ここ数週間の日本軍の通信を傍受し、解読した結果の話ですが、彼らの海軍は艦隊を編成し、インド洋を目指しています」
 東洋艦隊の通信参謀を務める中佐が第三艦隊の面々に向かって告げた。
「彼らの通信とスパイからの情報によると、艦隊の規模は空母六隻と数は多いですが、うち三隻が一万トンクラスの小型空母となっているため、搭載機数では我々とさほど変わらないでしょう」
「戦艦は確認できているのか?」
 ハルゼーの質問にも東洋艦隊の通信参謀は即座に答えた。
「戦艦はコンゴウクラスが二隻確認できています。あくまで空母護衛用に使用するつもりで、砲撃戦を挑むつもりはないのでしょう」
「つまりこの戦いは空母機動部隊同士の決戦となるわけだ」
 ハルゼーの言葉に第三艦隊の面々はゴクリと唾を飲んだ。第三艦隊は元々合衆国海軍初の本格的空母機動部隊として編成された艦隊だった。帝国海軍の真珠湾奇襲攻撃による被害と責任の擦り付け合いでハルゼーが査問会にかけらていたため第五艦隊と看板と司令長官を変えてフィリピン沖海戦を戦い、そして敗北した。
 スプルーアンスが率いる第五艦隊時代でも手を抜いたつもりはないし、全力を出し切った事実もある。しかしユーキ・テフラを初めとする参謀たちにとってスプルーアンスはやはり代理の上司ではあったし、フィリピン沖海戦は空母機動部隊同士の戦いというよりは戦艦が主役の、旧態依然とした砲撃戦であった。本当の上司であるハルゼーの下で、帝国海軍の機動部隊を相手に、本当の航空戦を戦える。その想いが第三艦隊の幕僚たちの闘志をかきたてる。
「帝国陸軍の動向はどうなっている? 日本はこのセイロン島に上陸するつもりなのか?」
「いえ、今回出撃してきたのは帝国海軍の艦艇のみで、上陸用舟艇は随伴していない模様です」
「ということは彼らの狙いはこの東洋艦隊そのものというわけだな」
 東洋艦隊に打撃を与えてシンガポール方面の安全を確保する。南方、インドネシアの資源地帯を確保した日本が長期持久の態勢をより磐石にするためにインド洋へ侵攻を行う。それは確かに筋が通った戦略であった。
(………何か変じゃないか?)
 しかしユーキ・テフラ中佐はその戦略に違和感を感じていた。
 上陸部隊を伴わず、空母機動部隊だけで出撃してくるのはいいが、もしその艦隊決戦に我々がノらなければどうなる? 東洋艦隊がさらに後方に下がった場合、帝国海軍は無駄足を踏むだけになるんじゃないのか?
 いや、そうでもないか。仮に東洋艦隊が後方に下がった場合はトリンコマリーを徹底的に破壊し、艦隊根拠地として使い物にならなくすることができる。そうすれば東洋艦隊の最前線基地がさらに後方になり、インド洋の制海権も喪失する………。



 トリンコマリーに投錨した空母エンタープライズ。その格納庫では戦闘機部隊VF−6のパイロットたちが集まって雑談を行っていた。
「そういや聞いたか? 今晩に王室海軍が宴会を開くらしいじゃん。どんな美味いもの出るかなー?」
「それは聞いたけど、イギリスの料理で何か美味いものあったっか?」
「フィッシュアンドチップスてのが美味いんだろ?」
「それが晩飯って寂しくないか?」
「じゃあ………ローストビーフってイギリス料理じゃなかったっけ?」
「あー、そういやそうだったな」
 VF−6はフィリピン沖海戦にも参加し、フィリピン沖海戦での帝国海軍のファイタースイープにより隊員の大半が未帰還となっていた。そのため現在の隊員の平均年齢は非常に若く、錬度も低いものだった。しかしそれを危ぶむ者はいなかった。彼らはまだ実際の戦争を知らない。それが楽観を生む温床となっていたのだった。
 フィリピン沖海戦に参加して生還した数少ない例外の一人であり、VF−6を率いる立場にあるジョン・サッチ少佐から見ればフィリピン沖海戦以降に配属された新米たちには緊張感のなさが目に付いていた。
 サッチ少佐もその緊張感を是正しようと、何度もフィリピン沖海戦での経験を新米たちに話していた。しかし緩い意志しか持たない者に釘が刺さるはずも無く、結局サッチ少佐の苦労は徒労になってトリンコマリーに到着していた。
「少佐、苦い顔をしていますね」
 そう言ってサッチの肩を叩く者。彼はサッチと同じくフィリピン沖海戦を生き残った数少ない例外の一人であるクレイブ・アンドリュー大尉であった。
「クレイブか」
「彼らと俺たちじゃ、見えている世界が違うんです。俺たちのようにしろという方が無茶ですし、そして俺たちもかつてはああだった」
 クレイブの言葉にサッチはばつが悪そうな表情を見せた。
「………確かにそうだな。真珠湾が攻撃されるまで、自分が戦争に参加するなんて思ってもいなかった。軍人となってはいるが、実戦を経験することなく、退役までいけると勝手に信じ込んでいた………」
「しかし戦争は始まってしまった。合衆国は極東の帝国と戦うことになった」
「………しかしこのままじゃあいつらはフィリピンでの俺たちの二の舞になるんじゃないのか?」
 サッチの懸念にクレイブは強く断言した。
「そうはなりません」
「?」
「あの時は戦争を知る者がいなかった。だが、今は俺たちがいます。俺たちが、フィリピンの惨劇を再現させません」
 力強く言い切るクレイブ。サッチはその言葉に理以上の説得力を認めた。
 ………そうだ、その通りだ。俺たちはフィリピンで失敗した。だが、今度は失敗しない。俺たちは、必ず雪辱を果たしてみせる!

 様々な思惑が渦巻く中、一九四二年七月九日、後の世にインド洋海戦と呼ばれる戦いの幕が開くのであった。


次回予告

 インド洋を攻める帝国海軍と守る王室海軍、合衆国海軍の混成艦隊。
 二度目の艦隊決戦の火花がインド洋を激しく照らす!
 そして眩い光の下を、本命の影が通っていき………

次回、海神の戦記
第八章「決戦! インド洋海戦」
戦火の影に秘宝が潜む


第六章「戦略原論」


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