昭和二〇年八月………。
 外は雲一つない快晴の天候で、うだるような暑さだと「聞いている」。だが内閣総理大臣の窪田 角一はその話の真偽を確かめることができなかった。
 何故なら今の窪田は窓一つない部屋にいるからだ。
 空調のおかげで不愉快な室温ではないが、しかし窪田は額の汗をハンカチで拭った。その汗は暑さから吹き出たものではなかった。それは今から窪田が宣言しなければならない「事実」の重さを知るが故の冷や汗であった。
「連合艦隊の壊滅から半年、米英連合軍が本土に上陸してから一カ月。今や同盟国であったイタリアもドイツもなく、中立条約を締結していたソ連すら満州に攻め込んでくる始末………もはやこれまででしょう」
 総理大臣の言葉に海軍大臣の志村 正はただうなだれるばかりであった。陸軍大臣の白井 正辰は何か言い返そうと立ち上がったが、しかし唇は動けども言葉は紡げずじまいであった。
 窪田のいうように帝国海軍自慢の連合艦隊はすでに壊滅から半年が経過し、陸軍の主力部隊も連合軍の侵攻を抑えきれずに東京を失陥する有様。今や大日本帝国の首都機能は長野県の松代に掘られた超巨大洞窟へと落ち延びていた。
「無条件降伏の受諾、これに反対する者はおりませんね?」
 窪田の視線を受けても白井はまだ立ち続けていた。………しかしそうやって立ち続けて一体どうなるだろう? 状況に好転の要素が一欠けらもない今、一刻も早く戦争を停止させ、これ以上の戦死者を増やさないようにするべきではないのか?
 窪田のみならず、この場にいた全員に白井の心の内での葛藤が伝わってくる。それは全員に共通した葛藤だったから、共有は簡単であった。
「………した」
「は?」
 白井の声を窪田は聞き逃してしまう。白井はそのため二度、この言葉を口にしなければならなかった。
「わかり、ました………無条件降伏、受け入れましょう………」
 窪田は白井に頭を下げた。軍人にとってこれ以上ない屈辱を二度も強いてしまった事に対する謝意だった。白井はたった二度、言葉を口にするだけで真っ白に燃え尽きてしまった。力なく椅子にもたれかかる白井に誰が言葉をかけられよう。
「………では、大日本帝国の総理大臣として、私が陛下にこの決定を報せに行きます」
 窪田はそう告げると部屋を出て、洞窟の奥におわす畏れ多き存在の許へ歩みを進め始める。その足取りは重く、力のないものだった。戦争を決断してしまった自分たちの愚かさを悔いる靴音だけが洞窟に響いていき………

海神の戦記
第六章「戦略原論」


 一九四一年八月二七日、大日本帝国帝都東京。
 首相官邸の窓から見える空は雲一つない快晴で、外はうだるような暑さだった。
「………で、何ですか、これは?」
 不機嫌そうな顔と不機嫌そうな声で不機嫌を露にしたのは陸軍大臣の東条 英機陸軍中将であった。
「私は総力戦研究所が出した日米開戦時の机上演習の話を聞きにきたのです。このような三文小説を読みに来たわけではありません」
 東条が各員に事前に手渡されていたB六サイズの本の表紙をペシペシとはたく。
 ………総力戦研究所。
 中国と戦争をし、世界のはみ出し者であるドイツ、イタリアと同盟を組んだ大日本帝国。大日本帝国の国際的な立場は日増しに悪化し、七月にはABCD包囲網と呼ばれる米英中蘭による対日禁輸措置が完成。もはや大日本帝国は包囲網を形成する世界に対して屈服するか、世界大戦の一員として資源を奪うかの二択しか取るべき道がなくなっていた。
 総力戦研究所は戦争の道を選んだ場合の日本が採るべき道を模索する、国家主導の一大机上演習であった。今日はその研究結果を発表するために政治家、軍人、財閥といった日本の指導者たちが集められていたのだった。
「おや、お気に召しませんでしたか」
 総力戦研究所を代表して所長の星野 直樹が東条に応えた。しかし星野も口ではそういったが、内心では東条の不機嫌も無理のないことだと思っていた。
 なぜならば、今回の総力戦研究所の研究成果発表会の事前に配られた冊子、東条の言う「三文小説」には日本がアメリカとの戦争に全力で取り組み、そして無様に敗れていく話が書かれているからだ。
 日本が滅茶苦茶に滅ぶ。そんな不吉なことを告げる話を読まされて、不機嫌にならない日本人は存在しない。ましてや東条は軍人の立場であり、その戦争の当事者なのだから。
「しかしその話、『絶対に起こりえない』と主張できますか?」
 うわべはつくろっているが、尊大な調子の声。東条や及川 古志郎海軍大臣が声の方に怒りの視線を向ける。会に出席した軍人たちが殺気立つのを感じた星野は丸眼鏡を外して眉間を揉む。そして声の主の名前を呼ぶ。
「結城海軍少佐」
 星野に名を呼ばれた三〇代半ばの青年がすっと立ち上がる。中肉中背、眼光の鋭さを除けばことさら特筆すべき点のない海軍少佐が立ち上がる。この青年にとって外見は重要ではなかったし、周囲もそう認識していた。そう、特筆すべきは外見ではなく、彼の頭脳にあった。
 結城 海神海軍少佐は日米両国の国力をGNP、人口比率、就学率、各種資源の生産量、食糧生産量、保有船舶トン数等、多岐にわたる角度で比較し始めた。詳しい数字は割愛するが、日本はアメリカに対して大きく劣っている。その一点を理解していればいい。そう結んでから結城は結論を述べる。
「………さて、以上のことから大日本帝国がアメリカ合衆国に対して短期決戦を図ったとしても、ハワイ占領できるかできないかの辺りで攻勢限界点を迎えてしまうのが関の山でしょう。攻勢限界点を迎えた帝国は合衆国の反撃を受け、そして一度でも戦力の天秤が合衆国側に傾けば最期、帝国は合衆国に為すすべなくやられてしまいます」
 東条も及川も、会に参加した軍人たちは皆一様にぐぬぬと歯噛みして結城の言葉を聞いている。異議を申し出たい。しかし結城の、いや、総力戦研究所が調べたデータの正当性が、軍事のプロフェッショナルである彼らには理解できてしまっていた。故に結城の述べる未来予想図を覆すことができないでいた。
「………では、我々はどうすればいい?」
 この会に出席していた海軍の佐官がつい疑問を口に出してしまう。そして一同が結城の答えを固唾を飲んで見守る。
 それは異様な光景だといわざるをえなかった。この会に出席している日本の軍官民を代表する誰もが「戦争は避けられぬ」と認識していながら、日本の必敗を主張する結城の主張に返す言葉がなかったのだ。
「ABCD包囲網に屈して許しを請う………それが出来れば苦労はしないのですが」
 結城がアメリカ人のように肩をすくめて冗談めいた口調でそう言った。そして冗談が通じない男、東条が結城に断言した。
「それが出来ないから君たちに研究を依頼したのです」
 東条の言葉は一同の心に乾いた空気を吹き込んだ。外はうだるほど蒸し暑いのに、この部屋の心象風景は乾ききっていた。
 戦争をすれば負ける。それがわかりきっていながら、戦争を回避する方策を採らない。その理由は戦わずしてABCD包囲網に降伏するということは、自分たち軍隊の無能を晒すということだった。今まで日本国民から集めた税金を膨大に消費しながら、ABCD包囲網に対して勝つことができないという無能。この会に参加していたのは軍隊という組織の出世コースに乗るべく努力してきたエリートであったため、自分が属する組織を無能のそしりから護りたいという思いが優先されていた。
(組織防衛、か………)
 自分が属する組織、つまり軍隊を愛しているから護りたい。そういう思いなら(結城自身は賛同するつもりなどないが)理解できなくもない。しかし彼らの組織防衛の根底にあったのは、組織の出世コースを歩くために労してきた努力を不意にしたくないという思いであった。極論を言えば、国を危険に晒してでも護らなければいけないのだ、自分が今まで払ってきた努力というものは。
 結城は心の中でため息を吐いた。しかしそんな心の動きは臆面にも出さず、東条のリクエストに応えた。
「我々が取るべき手段、それは長期持久戦です」
「長期持久戦、だと………!?」
 結城の言葉に及川が目を剥いた。長期の持久戦。それは国力の限りをつくして戦う総力戦を意味する。あれだけ日米の国力差を主張しながら、国力勝負に持ち込むというのか。
 及川たちの狼狽を見ながら結城は言葉を続ける。
「そうです。南方の資源地帯を押さえ、長期自給態勢を整える。そして押し寄せる合衆国の軍勢を弾き返し続けるのです」
 ざわ………。
 結城の言葉に軍人も、政治家も、企業経営者もぞっとした表情を浮かべる。それはつまり………。
「ちょっと待て、さっき言っていた合衆国の国力がもしも真実とするなら、合衆国の国力は我が国をはるかに上回っているはずだ。そんな国を相手に長期戦を挑むというのか?」
「まぁ、長期戦云々についてはその覚悟が必要という認識で構いません。私の提案は、持久戦を短期間行うものです」
 持久戦を短期間行う。結城の矛盾した発言を聞いた誰もが怪訝な表情を浮かべた。周囲の表情を楽しみながら結城が言葉を続ける。
「開戦を一九四一年末と仮定して、一九四二年の春までに最初の艦隊決戦を行い、勝利します。それもただの勝利じゃない、日本海海戦ばりの大勝利を収めます」
 日本海海戦。日露戦争末期にロシアのバルチック艦隊を完膚なきまでに撃滅した海戦史上に残るワンサイドゲーム。この大戦果に匹敵する勝利を結城はまず求めた。
「そして陸軍にはその間に南方の資源地帯を押さえ、長期持久態勢を確立します」
 結城はここで一旦言葉を区切り、すっかり冷めた茶を口に入れた。
「そのまま米英を中心とした連合軍を相手ににらみ合いを続け、一九四四年夏までに再び攻め寄せる合衆国軍に対し最後の決戦を挑み、再び大勝利を重ねて講和のテーブルに合衆国をつかせます。この計画ならば都合、二度の決戦のみとなるので消耗も最小限となるでしょう。………簡単に概要だけ申し上げましたが、これが私の提案する作戦になります」
「一九四四年までに再び押し寄せると何故言い切れるのです?」
 東条の疑問に対して結城が持ち出したのは新聞だった。その新聞には昨年のアメリカ合衆国大統領選挙の結果を報せる記事が一面に記載されていた。
「現大統領のルーズベルトの任期は一九四四年までです。次の大統領選でルーズベルト自らが出るか、他の民主党の候補が出るかはわかりませんが、対する共和党は先の選挙でもモンロー主義を標榜していました。最初の決戦で負け、二度目の決戦でも負けた民主党政権が愛想をつかされ、共和党が勝利し、モンロー主義に回帰することは十分考えられることでしょう」
「うぅむ、なるほど、二度の決戦に向けた長期持久戦略か………」
 だが、本当にそう都合よく勝てるのか? 日本海海戦に匹敵する大勝利を二度も繰り返せるものなのか?
(………いや、それは軍人に問うてはならぬ話か)
 東条はそれ以上は口に出さなかった。代わりに視線を及川に向ける。しかし及川は何を話せばよいのか、咄嗟には出てこない様子だった。そしてこれが総力戦研究所の、結城 海神の戦略が大日本帝国に受け入れられた証となった。
 その後も総力戦研究所と日本政府、軍部、産業界との打ち合わせは何度も続けられ、そして一九四一年一二月八日に大日本帝国はアメリカ合衆国、大英帝国、その他諸々の世界に向けて宣戦布告を発表し、一九四二年四月一日のフィリピン沖海戦で合衆国太平洋艦隊を相手に最初の大勝利を収めたのだった………。



 一九四二年五月八日午後一八時二八分。
 フィリピン沖海戦で甲板を爆撃された空母赤城の修理は赤城の母港である横須賀港で進められていた。
 甲板に開いた大きな破孔、それを埋めるために赤城の木甲板の交換が行われているらしい。
 横須賀鎮守府の会議室の一室に無断で入り込み、窓越しにドック入りしている赤城を眺めている大峰 当大尉には甲板の様子が見えないため伝え聞いたことしかわからない。
 しかも赤城の修理はさほど急いでいないようで、赤城が入渠しているドックの灯りはすでに消えている。作業員は今頃晩飯のために家路を急いでいることだろう。しかし赤城の隣のドックの灯りは未だに灯ったままで、今も作業が続いていた。赤城の満載で三万トンに達する巨体から見れば小人のように小さな駆逐艦。その建造が急ピッチで進められているのだった。
「二度の決戦のための長期持久戦略、か………」
 今からおよそ一年前に決められた帝国の戦略原論。結城 海神の理論によって帝国海軍は二度の艦隊決戦に勝利するための長期持久態勢を急速に整えつつあった。南方、つまりはインドシナやインドネシアからの資源を輸送するための海上護衛総隊の設立もその一環であった。
 赤城の修理よりも優先度を上げ、昼夜問わず建造が続けられている駆逐艦、松型と呼ばれる輸送船団護衛用簡易量産型駆逐艦はその海上護衛総隊の整備のために建造されているのだ。すでにネームシップの松を初めとする何隻かが南方に向かう輸送船の護衛を担当しており、評判もよいと聞いている。
 カチャリ
 小さな音と共に会議室の扉が開く。………扉を開けたのは大峰の見知らぬ若い少尉だった。兵学校を卒業してすぐにこの鎮守府に配備されたのだろう、まだ子供の面影が顔立ちに多く残っている。
「おっと、会議室を使うのかな?」
 無断で会議室を占拠して、ずっと茶を飲みながら松型駆逐艦が建造されているのを眺めていた大峰が、若い少尉に文句を言われる前に先に尋ねる。
「あ、いえ、大峰大尉、ですよね? 結城少佐がお探しでしたから………」
「おっと、そうか。呼びに来てくれてサンキューな」
 大きな体をそそくさと扉に吸い込ませ、会議室を出た大峰はすぐに結城を見つけることができた。
「おい、おせーぞ」
 結城 海神と大峰 当。二人は海兵の同期であり、そして友人の関係であった。
「ああ、すまない。待たせてしまったな」
「横鎮の近くに美味い飯屋があるって呼び出したのはお前だぞ」
「冬の寒空の下で待たせなかっただけマシと思え」
「カノッサの屈辱ごっこは確かにゴメンだな………」
「まぁ、とにかく行くぞ」



 横須賀の街に一店の鳥料理屋がある。店の名は「忠鳥」という。
 店の規模はさほど大きくはない。せいぜい二〇人程度で店の席からあぶれる者が出るほどだ。
 だからこの店は店員を雇わず、一家で一切のやりくりをしていた。年老いた父母とその娘、店の規模が規模だからこそ三人で充分回すことができていた。
 そんな忠鳥に三つしかないテーブル席の一つに空母赤城に所属する明石 晃一飛曹と鏡 一平一飛曹が腰を下ろしていた。
「お久しぶりです、店長」
「おかげ様で無事に帰ることが出来ましたよ」
 明石と鏡は厨房の奥で鶏肉に衣をつけている五〇代半ばの男に自分たちの生還を報告して敬礼してみせた。厨房の奥といっても明石たちが座る席から三メートルも離れていない。忠鳥店長は明石たちにニコリと笑顔を見せて再会を祝した。
「お忙しいでしょうに、わざわざおこしいただいてありがとうございます」
 店長の妻にして忠鳥の女将が深く頭を下げる。
「新聞、見たわよ。またかっこいいこと言っちゃって〜」
 店長と女将の長女が自分のことのように誇らしげに明石たちに報せる。忠鳥の看板娘、真木野 八重子は今年で二四歳と明石たちと同い年になる。しかしまだ女学生といっても通用するほど童顔で、そしてほがらかであった。
 明石たちは新聞社に先のフィリピン沖海戦での顛末についての取材を受け、そして一部の誇張を交えながら見事に受け答えを済ませたのだった。八重子が言ったのはそのことだった。
 八重歯が見えるほど大きく口を開けて笑う八重子を女将が母としてはしたないとたしなめる。
「まったく、お前も結婚したというのに変わらないねぇ」
 女将の言葉に明石と鏡は「ははは」と笑う。しかしどこか無理をした笑いに聞こえなくもない。
「おや、お前たち、来ていたのか」
 一家が暮らす家になっている忠鳥の二階からひょっこりと姿を現したのは真木野 茂二中尉であった。明石と鏡の上官であり、八重子の夫でもある。
「真木野中尉………」
 慌てて敬礼をしようとする二人を制して茂二は言った。
「おっと、今の俺は久しぶりに海軍軍人の真木野中尉じゃなくて忠鳥の真木野 茂二だ。敬礼は不要だよ」
 その言葉通り、真木野 茂二は白く清潔な調理衣を纏っていた。
「お義父さん、あの二人の注文は私が受け付けますよ。支払いも私が持ちます」
「あら、よかったわね、二人とも。うちの旦那様に感謝しなさいよ」
 明石と鏡は「あざーす」とわざとおどけた言い方で謝意を表現した。二人にとってこの忠鳥は学生時代から通っている店であり、勝手も知り尽くしている馴染みの店であった。彼らにとってこの店は安息の象徴であり、そして未だ消え去らぬ青春でもあるのだ。そして二人にとって………
 ガラガラガラリ
 明石と鏡の意識が秘められた深層に及ぼうとした時、忠鳥の引き戸が開けられる。その音で明石と鏡の意識は現実へ戻ることが出来た。
 入ってきたのは二人で、一人が中肉中背、もう一人が巨漢で、少佐と大尉の階級章をつけた二人の海軍士官であった。
「すいません。予約していた結城です」
「ああ、お待ちしておりました。こちらへどうぞ………」
 女将に案内されて二人の海軍士官が店の一番奥にあるテーブル席へ案内される。
「ご注文は何にいたしましょうか?」



「なるほど、この店は結城が『美味い店』と称するだけのことはある」
 冷の日本酒をくいっと呷り、手羽揚げにかぶりつきながら大峰はそう言った。
 忠鳥自慢の若鶏の手羽揚げは初見の大峰が驚くほどに巨大だった。何せ「手羽」と言いながらも手羽部分よりも胸の部分の肉までついているのだ。いい意味で大峰の「手羽」感を打ち壊すインパクトがそこにはあった。
 だがそれは驚きの始まりにすぎなかった。カリッと揚がった衣に大きな肉部分から溢れる肉汁と鳥の旨味が封じられているのだ。これが美味い。見た目にも実際にも巨大な手羽揚げなのだが、それを食することに苦痛を感じさせない。美味さがすべてを忘れさせてくれている。
 そして手羽揚げに次いで登場したとりさしはさっぱりとしており、酒を進めるのにちょうどいい味であった。
「うぅむ、ここまで美味いと他の品も気になるな」
 今回、大峰はこの店に来るのが初めてだったので注文は結城に任せていたが、しかし磯辺揚げやとりみそレタス巻きなど気になる品はまだまだ沢山あった。
 こうなると大和の母港が呉なのが惜しまれるな。
 今日、大峰が横須賀鎮守府に足を運んだのは明後日に東京の海軍省へ向かう用事があったからだった。横須賀の飛行場に向かう輸送機に便乗して横須賀の友人、結城の家で一泊してから東京に向かう計画だ。さて、次に呉から東京、もしくは横須賀方面に向かう用事があるのはいつのことになるだろうか?
「何だ、呉在住が嫌になったか?」
 大峰の内心を表情から読み取ったのか、結城がズバリと読心術を披露してみせる。
「こんな美味い店があるなら呉在住はやめてもいいな」
 〆の鳥そぼろご飯を二つ、女将に頼みながら結城はニヤリと笑った。
「そうかそうか。じゃあそんなお前に朗報だ」
「?」
「お前が東京に行く用事はな、お前を横須賀の砲術学校へ転任させる手続きなんだよ」
「ほぅ………ということは、俺に電探の研究をやらせるってことだな」
 先のフィリピン沖海戦で優秀なレーダーを搭載した合衆国海軍の戦艦ノースカロライナに一方的な射撃を続けられた経験が大峰にはある。それ以前からもレーダーの重要性を深く認識している大峰が、その研究の一翼を担うのは当然の話だった。
「そうだ。合衆国の仕掛けてきた電探射撃。あれをうちでも出来るようにしておかなければ次の決戦で勝ち目がない」
「うむ、フィリピンじゃ本当にギリギリだったからな………」
 四六センチ砲を搭載する超々弩級戦艦大和の堅牢な防御力と、致命的な場所に被弾しなかった剛運。その二点がなければ決戦に敗北し、日本は亡国になっていたかもしれない。フィリピン沖海戦の大勝とはそれほどギリギリの所で拾ったものだった。
「だが、今から研究を始めるようじゃ次の決戦に間に合わせることはどう考えても無理だぞ」
 帝国海軍のレーダーに対する無理解からレーダー研究は今までほぼ行われていないに等しかった。そんな状態ですでに電探射撃を完成させつつある合衆国海軍に追いつこうとする。その気概は素晴らしいが、どう考えても無謀であった。
「安心しろ。はるか遠方の朋にそこらへんは手配してもらうさ」
「遠方の朋、ねぇ………」
 トモダチならもう少し選ぶべきだろ、と思わんでもないが………利用できるものは何でも利用する、それがオトナの世界のやり方か。
 大峰がそう心の中で呟いた時、鳥そぼろご飯の入った木箱が運ばれてきた。大峰は結城と難しい話を続けるのはそこまでとし、タレがよくしみこんだ鳥そぼろご飯の味を満喫することに全身の感覚を振り向けたのだった。



 一九四二年五月一〇日。
 フィリピン攻略のために大日本帝国陸軍が送り込んでいた本間 雅晴中将が率いる第一四軍は、バターン半島に立て篭もるアメリカ極東軍の包囲をずっと続けていた。
 アメリカ極東軍に包囲を打ち破るほどの力はなく、唯一の望みとしていた援軍の到来もフィリピン沖海戦での合衆国海軍の大敗によって潰えた。
 アメリカ極東軍を率いるダグラス・マッカーサーは本国の命令のためにすでにバターン半島からは脱出しており、後任の司令官に就いていたウェインライト中将も必死に部隊と士気の維持に務めていた。しかし寡兵で、包囲され、援軍の望みもないという状況で士気と部隊を維持し続ける方が無謀というものだった。
 まず最初にフィリピン軍、つまり現地住民で構成されていた部隊が離反した。そして第一四軍に対して降伏を申し入れたのだ。数的にはアメリカ極東軍の三倍以上とバターン半島防衛の主力となっていたフィリピン軍の離脱によってウェンライトの心はついに折れてしまった。彼やミンダナオ島での抵抗を続けていたシャープ少将の部隊は次々と降伏を受け入れ、フィリピンを巡る戦いに決着がついたのである。
 そう、前述の日付はフィリピンの戦いが終了した日付であった。
 しかしフィリピンの戦いの終結が本間中将の評価を上げることはなかった。海軍との協定でフィリピン南部にアメリカ極東軍を追い詰めるだけ追い詰めて、合衆国海軍太平洋艦隊をおびき出すエサとすることが決まっていたとはいえ、フィリピン沖海戦終結後に本間が指導した総攻撃は失敗に終わったからだった。
 ではフィリピンの戦いで一番名を上げたのは誰だったかというと、戦闘指導の名目で大本営から派遣されたこの男であった。
「フ、米軍め、やっと諦めたか」
 頭髪をすべて剃り上げ、丸眼鏡をかけた痩身の男。軍服ではなく袈裟でも着れば高名な僧侶に見える男の眼は氷のように冷たく、そして油のようにぎらついていた。
 男の名は辻 政信といった。
「まったく本間の奴に任せきりではこの勝利がどれだけ遠くなっていたことか」
 辻はそういうと軍服のポケットから煙草を取り出して咥える。それを待っていたかのように、すっと火のついたライターが煙草の先を撫でる。ライターの火を向けたのは埃まみれの服を着た汚らしい初老の男だった。
 初老の男は自分より一回りと少し若い辻に対してへりくだった言葉をつむぐ。
「ヘヘヘ、流石は作戦の神様だ。参謀殿の言う通りにフィリピン軍に噂を流したら、フィリピン軍の奴ら、えらい大騒ぎでしたぜ、へへへ」
「当たり前だ。フィリピン軍など所詮土民の群れだ。皇軍が本気を出すといえば、その噂だけで自壊するに決まっている」
 辻が紫煙をくゆらせながら己の書いた筋書きに酔う。
 つまりはこういうことだった。
 辻は自らの息がかかった工作員をバターン半島にばら撒き、フィリピン軍を動揺させるデマを流し、フィリピン軍の離脱を促したのだった。結果、その策は大成功を収め、アメリカ極東軍の全面降伏につながったのだった。
 辻の謀略は中央でも高く評価され、戦闘指導の名目で大本営から派遣された辻は今後、フィリピンを統治する部隊の参謀長を務めることが決定されていた。
 だが、俺はこの程度では納まらん。俺は最終的には帝国陸軍、いや、帝国全体を動かす総理大臣の椅子に付くべき男なのだから。
「クク、ハハハッ………」
 目の前で「自らが笛吹けば世界が踊る」と信じる悪魔が嘲笑うのを見ながら、悪魔の片棒を担ぐ初老の男は別のことを考えていた。
 ………フン、若造が。儂を利用してお前が権力の階段を駆け上がるというのなら、儂はお前と共にその階段を登らせてもらうぞ。そして、いつかかつて儂がいた場所、帝国陸軍に返り咲いてみせるのだ………ッ!
 初老の男、牟田口 廉也「元」帝国陸軍大佐は内心のどす黒い欲望をおくびにも出さず、この場はただ辻に対するおべんちゃらを並べることに終始した。



 かくして男たちの戦記は次なるステージへ向かい始めた。


次回予告

「二度の決戦に備える長期持久」。
 その戦略原論に従い国力を温存する大日本帝国が、あえて敵中へ向かわんとする。
 その目標はインド洋。
 大英帝国の至宝、インドへ通じる母なる大海。
 規定の戦略を修正してまでインド洋へ向かう帝国海軍の狙いは何なのか?
 答えを得られぬまま、もう一人の海神はインド洋へ向かう。

次回、海神の戦記
第七章「帝国海軍西進せよ」
我が求めるはレムリアの秘宝


第五章「吼える巨砲」

第七章「帝国海軍西進せよ」

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