………後にリリヤ・パブロワが「あの日」のことを振り返った時、真っ先に思い出されたのは実家にあったラジオのことだった。
 近所の乾電池工場で働く父と、近くの学校で子供たちに国語を教えていた母、そしてリリヤと弟の四人が暮らすパブロワ家は当時の『共和国』における平均的な家庭だった。そんなパブロワ家のラジオは購入から五年以上が経過した古いラジオだった。
 あの日、大陸暦一九三九年六月二一日午前七時四九分、パブロワ家のテーブルの上に置かれていたラジオは国営放送の番組が流行歌を発していた。
 だがその音楽が不意に途切れた。パブロワ家のラジオは五年以上の酷使で機械の接触が悪くなっていたのか、時々音の出が悪くなることがあった。
 そうなった時はラジオを揺すって機械の接触を促すのがリリヤの仕事だった。古いラジオは不思議なことにリリヤが揺すればたちまち機嫌を直すことが多かった。リリヤはそんなラジオをもう一人の出来の悪い弟のように愛おしく感じていたのだった。
 リリヤの細く長い指が無音になったラジオに伸び………そしてラジオに触れる前にラジオから再び音が発せられた。触れるまでもなくラジオが調子を取り戻した? いや、違う。最初からラジオは不調になっていなかったのだ。国営放送の方にトラブルがあったのだ。
「番組の途中ですが、緊急ニュースをお知らせします」
 ラジオから聞こえてきたのは流行歌の続きではなく、八時からのニュース番組を担当するアナウンサーの声だった。いつも他愛のないニュースでも無駄に重々しい口調で伝えてくることに定評がある国営放送のアナウンサーだったが、この日の声はいつも以上に重いものだった。
「『帝国』が我が『共和国』に対して宣戦を布告しました。我が国は『帝国』との戦争状態に入ります」
 宣戦布告? 『共和国』の西にある『帝国』が国境を越えて東進してきた!?
 リリヤも弟もその言葉の意味は理解していた。だが、『帝国』と自分たちの国、『共和国』が戦争になったと言われてすぐに実感がわくはずがなかった。むしろパブロワ家の子供たちにとっての現実とは、このニュースを聞いた母が落として割った陶器の皿の破片を片付けることだった。
 だがリリヤの記憶にはこの日の風景が強烈に刻まれることになる。血の気の引いた表情の母。そんな母の肩を抱いて慰める父。そして現実感のない表情で床に散った皿の破片を集めるリリヤと弟。大人はこれから何が起きるのかを理解していて、子供は理解していない。それは今後のパブロワ家の運命も暗示しているようだった。今となってはそんなことも思えてしまう。
 アナウンサーは重い口調のままニュースを続けていく。
「『帝国』の軍勢は国境を越え、次々と攻め寄せてきています。共和国軍は軍の総力をあげてこれを阻むことを発表し、パーヴェル・マルシェフ首相は緊急の閣議を開き………」

魔女と呼ばないで!?
序章「状況:セットアップ」

 大陸暦一九三九年六月二三日。戦争開始から二日。
 突如として宣戦を布告し、『共和国』領へと侵攻を開始した『帝国』は抵抗らしい抵抗を受けずに国境から二五キロメートルも部隊を進めていた。
 たった二日で二五キロメートルも進軍できたのは『共和国』軍の動員がほとんど行われていなかった、つまり完全な奇襲を受けたこともあるが、なにより『帝国』軍は驚異的な機械化率を誇っていた。戦車とそれに随伴する自動車化歩兵の進撃速度は『共和国』の軍司令部が目を剥くほどだった。
 だが、それよりも『帝国』の進撃が順調であった最大の理由は空にあった。国境近くの『共和国』空軍の飛行場は開戦直後から『帝国』空軍から激しい空爆を受けて空軍の航空機は多くが地上撃破されてしまったために出撃することすらままならず、『共和国』軍は制空権を完全に失っていたのだった。
 大陸暦一九三九年六月二三日午前七時一五分。
 国境から一〇〇キロメートルほど離れた場所にあるエレド飛行場は空襲警報のサイレンに包まれていた。
 エレド飛行場に駐留していたのは『共和国』空軍の第五航空団隷下の第五一二戦闘機連隊だった。この部隊は今年に採用されたばかりの最新鋭機、ファルコン戦闘機を装備する戦闘機隊で、本来なら『共和国』首都のカピタル第二飛行場を拠点としていた。だが『帝国』との戦争が始まり国境付近の『共和国』空軍の多くが地上撃破されたために増援として空を守るべく派遣されていたのだが………
「クソッ! 空襲!? 『帝国』のか?」
 第五一二戦闘機連隊のアレクセイ・ナジェイン大尉はけたたましいサイレンに思わず毒づいたが、即座に自分の言葉の間抜けさに気付いた。
 アホか、俺は。『帝国』と戦争してるんだから、空襲してくるのは『帝国』の爆撃機に決まってるだろが!
 ナジェイン大尉はがなりたてるサイレンと慌てふためくパイロット、整備兵の合間をぬうようにして格納庫目指して駆ける。そして格納庫の隅で誰も搭乗していないファルコン戦闘機のコクピットに乗り込もうとする。
「大尉、敵機はすぐそこまで来ているんです! 退避してください!!」
 コクピットに座り込んだナジェインを見た整備兵が慌てて声をあげる。だがナジェインはそれに従わなかった。
「一機でもいい、空に上げる! そうすれば『帝国』の爆撃機なんざ、蹴散らしてやる!!」
 ナジェインは整備兵にそう返し、「回せーッ!」と怒鳴る。整備兵は一瞬だけ困惑した面持ちを見せたが、すぐにファルコン戦闘機の機首にエナーシャハンドルを挿し込んで回し始める。
「コンタクトーッ!!」
 整備兵がそう叫びながらクラッチハンドルを引く。それを期にファルコン戦闘機の機首についた三枚のプロペラが回転を開始。ナジェインはそれを確認してからエンジン始動のスイッチを押す。ファルコン戦闘機のプロスパーエンジンに火が灯り、爆音がサイレンに負けじと響き始める。
 プロスパーエンジンによってプロペラは見る間に回転速度を上げ、肉眼では回転が追いきれないほどに速く回転していく。回転するプロペラが空気をかき、プロペラによって流された空気は風となり、ファルコン戦闘機を前へ進める推力に変わる。発明から四〇年近く経過した航空機は、このプロペラの回転が生み出す推力によって前へと進むのだ。
「よし、出るぞ!」
 ナジェインがファルコン戦闘機を格納庫から滑走路に向けて走らせる。だがすでに『帝国』の爆撃機はエレド飛行場から見える位置にまでたどり着いていた。『帝国』の双発爆撃機は胴体部分の爆弾槽を開き、黒く塗られた爆弾をポロポロと投下し始める。
「野郎ッ!」
 爆弾が炸裂し、その衝撃と轟音がナジェインの乗るファルコン戦闘機にも伝わってくる。だがナジェインの闘志は衰えることはなかった。ナジェインはスロットルレバーを押し開き、エンジンの出力を最大限にまで上昇させる。一〇〇〇馬力を誇るプロスパーエンジンが猛り、ファルコン戦闘機をぐいと加速させていく。
 そしてあと少しで離陸できる速度に達しようとした時、『帝国』の爆撃機に護衛としてついていた単発単座液冷エンジンの戦闘機が降下してきたのだった。
「ファルコン!」
 ナジェインがなぜその時、愛機の名前を呼んだのか。それは本人にもわからなかった。愛機がいつもより早く飛び立つことを期待したのか、それとも飛び立たせられないことを謝ろうとしたのか。後にナジェイン自身が回想してもどちらだったのか、あるいはどちらともだったのかわからなかった。
 ただわかっているのは、『帝国』の戦闘機が行った機銃掃射がナジェインのファルコン戦闘機を撃ち抜き、ファルコン戦闘機の右主翼が根元から破断していき、それによってバランスを崩したファルコン戦闘機は飛び立つことなく、爆弾の炸裂によってできた穴に吸い込まれるようにして崩れ落ちたことだけだった。そして離陸寸前の速度で穴に落ちたナジェインのファルコン戦闘機は機首がひしゃげるほどの衝撃を受け、ナジェインはファルコン戦闘機の計器盤に顔面から激しく突っ込んでいく形となり、ナジェインの意識はそこで途切れてしまった………。



 大陸暦一九三九年一〇月二六日。
 開戦から四ヶ月。『共和国』軍は動員が完了した部隊から前線に投入し、『帝国』軍の侵攻を阻止しようとしていた。だが、その成果はかんばしくなかった。
『帝国』の最前線はすでに国境から二〇〇キロメートル近く進んでおり、『共和国』にとって西方最大の都市であるザパドグラードも陥落していた。『共和国』軍はザパドグラード防衛に失敗したこととその後の戦いで陸軍の第三軍と第五軍が降伏、一〇〇万近い兵を失っていた。
 つまり『共和国』軍は大敗を喫したのだった。今や『帝国』軍は『共和国』首都のカピタル侵攻に向けて準備を整えていると言われていた。
 開戦三日目にエレド飛行場で乗機を破壊されたアレクセイ・ナジェインは生きていた。彼の(本人が後から振り返っても無謀だったと思ってしまう)行為は軍の広報から「勇敢で英雄的な行為だ、我々も(惜しむらくは失敗したが)彼のように勇敢に戦い続けよう!」と宣伝に使われ、それもあってか彼は少佐に昇進することができた。
 しかしアレクセイ・ナジェイン少佐の心は晴れなかった。いや、心だけじゃない。彼の視界も晴れていなかった。
 あの日、開戦三日目のエレド飛行場で乗機を撃破されたナジェインはファルコン戦闘機の計器盤に顔面をしたたかに打ちつけた。それが原因でナジェインはパイロットとしてもっとも大切な要素、視力を大きく失ったのだった。幸い、失明には至らなかった。だが、彼の眼は遠くを見据えることができなくなり、昔はあれだけはっきりと見えていた世界がどこかぼやけたものになってしまったのだった。
 そんなナジェイン少佐は『共和国』首都カピタルにある中央病院から退院してすぐに『共和国』軍の統合作戦本部に呼び出されたのだった。
『共和国』軍の統合作戦本部は大きく分けて統合戦略研究、陸軍、海軍、空軍四つのビルがあり、そのうちの統合戦略研究ビルが現在は『共和国』政府と軍部の参謀本部として機能していた。ナジェインは空軍ビル三階の第三応接室に呼び出されていた。第三応接室は大人六人程度が座り、話ができる程度の広さの小さな部屋で、黒い革張りのソファーと装飾がほとんどない木目のテーブルが置かれているだけの地味な部屋であった。
「まずは退院、おめでとう」
 第三応接室に通されたナジェイン少佐を労ったのは中肉中背の中年男だった。彼の名はルキヤン・ポポフ。階級は大佐になる。
「ありがとうございます。ですがこの視力ではもうファルコンには乗れません。そんな私が少佐に昇進しても、祖国に対してなにができるか………」
「まぁ、そう落ち込むな。俺だって老眼のせいでもうパイロットとしては『あがり』になったんだが、今は空軍の士官として祖国に貢献できている………はずだ」
 ルキヤン・ポポフ大佐がそういってナジェインの肩を叩いた。ポポフ大佐は今年で四八歳。若いころは優秀なパイロットとして『共和国』空軍の黎明期から活躍していたが、もう一〇年以上操縦桿を握っておらず、空軍の士官として務めてきた男だ。確かにポポフ大佐の人生はこれからのナジェインにとって参考になるはずだ。
「とはいえ、少佐はまだ二八歳だったか? 戦時任官ゆえに若くして少佐になったとはいえ、コクピットを離れるには若すぎる、か………」
 ポポフはそう言ってナジェインの嘆きに理解も示してくれた。空を飛ぶのが好きで、それで空軍に入隊したパイロットは昇進に無頓着な者が多い。かつてのポポフもそうだったし、目の前のナジェインもそうなのだろう。だが、ナジェインは元々から大尉、今や少佐だ。相応の「覚悟」で『帝国』との戦争に臨んでもらわなければならない。
「ま、とりあえず………」
 ポポフはナジェインにソファー座るように促し、自分もナジェインと対面のソファーに腰かける。ポポフはポケットからタバコを取り出してくわえ、マッチを吸って火をつける。
「少佐も吸うか?」
「いえ、私はタバコは吸いませんのでいりません」
「もしかして嫌煙家だったか?」
「いえ、単純にタバコが美味いと思えないタチでして。配給のタバコはいつも美味いと思う連中に譲って、代わりにキャラメルなどの菓子を譲ってもらっていました」
「そうか。んじゃ俺はこのまま吸わせてもらうぞ」
 ポポフは美味そうにタバコを吸い、紫煙をぷわーと吐き出した。それで満足したのか吸いかけのタバコを灰皿の上に置いてポポフは一束になった書類を取り出してテーブルの上に置いた。
「これは………?」
 見てもよいのですか?と言いたげなナジェインに対してポポフは頷いて書類を束ねていたクリップを外してみせた。
「現在、オゼロに作った飛行場で訓練途中の部隊がある。俺はそこの連隊長、少佐は飛行隊長として任にあたってもらう。まずは訓練工程の完遂からだ」
 オゼロとは『共和国』首都カピタルから東に一二〇キロメートルほど離れた場所にある湖の傍にある町だ。人口は三〇万程度の小さな町で工業より農業が中心の、いわゆる田舎町だった。
『帝国』は『共和国』の西にある国で、東に向かって侵攻を続けている。オゼロはそういう意味でカピタルからさらに一二〇キロメートルも前線から離れた安全な後方だった。
「私が飛行隊長? 飛べない飛行隊長ですか………」
「お前はそう言うがね、キチンとした訓練を受けて自力で飛ばすこともできたパイロット目線をもった士官というのは今や宝石のように貴重なのさ」
 ポポフは灰皿に置いていたタバコを持ち直して一気に吸い終えて吸殻を灰皿に捨てて話を戻す。
「部隊名は第九一四戦闘機連隊。今回の戦争で新設された第九航空団の所属になる」
「第九航空団ですか。しかし開戦以来、既存部隊も多くやられていると聞いています。部隊を新設するだけの人員がよく確保できましたね」
「少佐、君は『飛行倶楽部』の教官を務めていたね?」
 飛行倶楽部。大陸暦一九〇〇年代初頭に発明され、それから三〇年余りで爆発的に進化し、今なお発展し続ける航空機。その航空機に対する理解と発達を少年少女に啓蒙するための国営の取り組みであった。国営であるため中流や下流家庭でも受講できるほど安価で、さらに空軍の現役パイロットが教官を務めるため講義の質も高く、最終的には空軍の練習機を飛ばすこともできたことから『共和国』の少年少女の多くが参加していたほどの人気のある「習い事」であった。
 ナジェインは休暇中でも練習機とはいえ航空機を飛ばせられる点に惹かれ、戦前はこの飛行倶楽部の教官を熱心に務めていた。そしてナジェインは飛行倶楽部に関してずっとささやかれていた「ある噂」に思い至った。
「飛行倶楽部のメンバーを徴兵したのですか!?」
「そうだ。元々、飛行倶楽部は有事の際の空軍の補充のアテの一つとされていたからな」
 ポポフがナジェインに語り始める。
『共和国』空軍は戦争が始まった場合、既存の部隊を「第一陣」として敵の初撃を耐え、飛行倶楽部や民間機のパイロット、退役した空軍パイロットといった「経験者」の徴兵、再召集で集めた部隊を「第二陣」とし、第一陣と第二陣でまったくの新規で訓練したパイロットが前線に出せるまでの時間を稼ぐというドクトリンを定めていたという。
 そして「第二陣」とされた部隊を率いるのは「第一陣」の士官に任せるとしていたのだ。
 そういう意味でパイロットとしての視力を喪失したナジェイン少佐は「第二陣」の飛行隊長としてこれ以上にない適任者だったのだ。
「第九一四戦闘機連隊は飛行倶楽部でも最終工程だった練習機を飛ばしていた者たちを集めて編成した部隊だ。飛行時間も飛行倶楽部時代だけで平均で三〇〇時間はある」
 パイロットの錬度の高さは飛行時間に正比例すると言っていい。確かにポポフが言うように、飛行倶楽部で練習機を何百時間と飛ばしていた者たちというのは空軍からすれば得がたい戦力であろう。従軍していなかったとしても、パイロットとしての基礎が出来ている者とまったくの素人とでは戦力化までの時間がまったく異なるのは想像に難くない。
 ナジェインは以前ほど見えなくなった眼を惜しむように目頭と鼻の付け根の間を揉みながら自分が飛行倶楽部で関わった少年少女たちのことを思い出す。
 やんちゃ坊主がそのまま大きくなったようなアドリアン・コトフ。常に冷静で周囲をよく見ていたヴィクトル・クドリン。少女でありながら男顔負けの飛行技術を身につけていったラリッサ・クリーナ。………いや、ラリッサ・クリーナは女の子だ。彼女は戦場に出ることはないか。
「………此度の戦争はそう簡単には終わらない。我が国は使えるものはなんでも投入してこの戦争を戦い抜くと決めたのだ」
 使えるものはなんでも投入する、か。ナジェインはポポフの言葉に薄ら寒いものを覚えながら書類に目を通していく。それは第九一四戦闘機連隊のパイロットの名簿だった。
 ソフィア・アヴェリーナ、二二歳。性別、女。飛行時間三五一時間。技能、優秀。
 ポリーナ・プロシナ、二七歳。性別、女。飛行時間四八二時間。技能、並。
 リリヤ・パブロワ、一九歳。性別、女。飛行時間二九六時間。技能、優秀。
 ん? 違和感を感じたナジェインは名簿の性別欄だけにすべて目を通し、そしてすべて「女」と書かれていることを確認して驚いた。
「………女!?」
 ナジェインの驚きは思わず口からこぼれてしまうほどだった。ポポフはナジェインの驚きが想定内だとばかりに努めて平静に応えた。
「そうだ、女だ。第九一四戦闘機連隊は『共和国』空軍初の女性戦闘機連隊として編成される。もっとも連隊長や飛行隊長が務まる女性はいないことから我々、男性が当てられているがね」
「じょ、女性を戦争に巻き込むのですか!?」
「先ほど言ったとおりだ。『此度の戦争はそう簡単には終わらない。我が国は使えるものはなんでも投入してこの戦争を戦い抜くと決めたのだ』と」
「それはそうですが………」
「それに飛行倶楽部が男女問わず会員としていたのはある実験でもあった」
「実験?」
「つまり、航空機の操縦において性別は大きな差となりうるか否かだ。そしてこの問いについて、飛行倶楽部のデータから『共和国』空軍が出した結論は性別は航空機の操縦において大きな差とはなりえないということ。女性パイロットは男性パイロットとなんら変わりないということだ」
 それに対してなお何か言いたそうなナジェインに対してポポフが続けた。
「それからな、少佐。第九一四戦闘機連隊は全員が自主的に志願で集まってきた者たちで作られた部隊だ。『共和国』はまだ女性を徴兵するつもりはなかった。だが、飛行倶楽部創設メンバーであり、女性パイロットの先駆者としても有名なガリーナ・ヤーシナが飛行倶楽部の女子部に働きかけて一〇〇〇名規模の志願者を集めてきたのさ」
 一〇〇〇名規模の女性パイロット候補生。これが少しの訓練で前線に投入できる「第二陣」として使えたならば、開戦以来大きく傷ついた『共和国』空軍の再建がかなり早くに達成されるであろう………。つまり『共和国』空軍はその餌に食らいついてしまったということか。
「何にせよ」
 ポポフが二本目のタバコに火をつける。そして一息分吸ってから紫煙を天井めがけて吐き出した。
「ナジェイン少佐、私はここで貴官とジェンダー問題についてどうこう議論するつもりはない。なにせ第九一四戦闘機連隊の編成についてはもっと上が決めたことだからな」
「我々は上の決定に従うのみ、ですか」
「軍、いや、組織とはそういうものだろう。それがイヤなら出世することだな」
 突き放したようなポポフの言葉にナジェインは思わず口を挟んでしまった。
「辞めるという選択肢もあるのでは?」
 ナジェインの反論にポポフは哀れむような視線をナジェインに向けた。
「嗚呼、少佐、君は楽観的だー。今は戦時中、辞職なんて選択肢が機能していると本気で考えているのかーい?」
 ポポフが謡うように告げ、ナジェインはそれに対して苦く笑うしかできなかった。ポポフは二本目のタバコも吸い終えて、それから話を戻し始めた。
「繰り返すが、我々の目先の任務としてはオゼロの飛行場で訓練中の第九一四戦闘機連隊の訓練工程の完遂だ。これを年内に終わらせる」
 ナジェインは応接室の壁に貼られたカレンダーに視線を移す。今日は一〇月の二六日。およそ二ヶ月か。
「明日の朝の汽車を抑えてある。それで我々もオゼロへと向かうぞ」
「はい」



 大陸暦一九三九年一〇月二七日。
『共和国』首都のカピタルから汽車に揺られること三時間。オゼロ駅についたポポフとナジェインは駅に待たせてあった車に乗り、舗装されていない土の道を半時間ほど進んだ。石ころや土の塊を車のタイヤが踏むたびに車内は激しく揺れる。この車はサスペンションがうまく機能しておらず、揺れが収まるどころか倍加させられているのではないかと思うほどだった。
「随分と、揺れるな………」
 助手席に座ったナジェインは車の天井に手を突き、揺れに抗っていた。
「コイツ、これでもオゼロに残った車の数少ない一台なんですよ。他は軒並み陸軍に徴収されちゃいましてー」
 運転席に座る少年の面影が濃く残る空軍の一等兵が応えた。
「それは要するに、この車が徴収する価値もなかったと………いうことか!?」
 ポポフの表情は揺れに酔ってきたか、だんだん青くなってきていた。
「あー、そうだったのかもしれませんねー」
 一等兵の暢気な言葉にナジェインが溜息を吐きながら車の窓の外を見やる。南から西に傾きつつある太陽と、その陽光を受けて飛ぶ小さなシルエットがあった。以前までのナジェインの視力ならそのシルエットを見て判別することができただろう。だが、今のナジェインはそれの放つエンジン音を聞いて判別することしかできなかった。
「あれはバタフライ練習機………高度を下げつつあるから、着陸に入ろうとしているのか?」
「さすがだな、少佐。この車内であれがバタフライだとわかるとは………うぷ」
 ポポフの顔色の青みが増してきたように見える。これはもうもたないのでは?とナジェインが思った時、一等兵が暢気な声で告げた。
「さあ、見えてきましたぜ。オゼロ第五飛行場でさぁ」
 一等兵の指差す先に見えたのは平に地ならしした芝生と半円型をした体育館ほどの大きさのハンガー、そしてログハウスのような簡素な宿舎だった。飛行場としてはほぼ最低限の設備しかないように見える。
「ここはあくまで訓練用に急遽整備した飛行場なんだ。年末まで訓練した後、どこの戦線に投入されるかは………戦況次第となるだろうな」
 ポポフの言葉にナジェインがなるほどと頷き、そして車は飛行場の門を潜り、駐車用に芝生が刈られた空き地に停止する。
「では自分は第三飛行場に向かいます」
 ポポフとナジェインが車から荷物を降ろしたのを見るや、一等兵は運転席から降りることすらなく、再び揺れる車を走らせ始めた。このオゼロに残った数少ない車というのは誇張でもなんでもなく、他の飛行場でも脚として使いまわされているのだろう。
「やれやれ、汽車に乗ってた時間の四分の一もなかったはずなのに何倍も疲れたな………」
 ポポフが右手で左肩を揉み、首を右方向に傾けながらぼやく。右方向に曲げた首間接がバキバキと音をたて、ポポフ自身がその音に驚いた面持ちを見せた。ナジェインが苦笑いを浮かべてポポフに声をかけようとした時、飛行場に設置された拡声器に電源が入り………
「整列!」
 凛とした号令が発せられ、ハンガーと宿舎から駆け足で人が集まってきた。『共和国』空軍の戦闘機連隊は三個中隊、定数四八機を基本としている。パイロットの数は四八名になるし、連隊附整備班を含めれば三〇〇名近くに膨れ上がる。
 その隊員が新たに到着した連隊長と飛行隊長の前に集まってきたのだ。
 ポポフとナジェインの前に集まった三〇〇名ほどの「女性」隊員がびしっと直立で整列する。そして隊員たちを代表し、左端に立った妙齢の女性が声を張り上げた。
「連隊長と飛行隊長に、敬礼!」
 ザッと音を立てて三〇〇名の女性隊員が一斉に敬礼。多少のズレはあったものの、それは軍人の魅せる敬礼だった。決して民間人が軍人の真似事でするものではなかった。
 俺は本当に彼女たちを率いて『帝国』と戦うのか………。言葉で聞いて納得はしていたつもりだったが、実際に彼女たちを前にするとナジェインの感情に揺らぎが生じた。
 しかしナジェインに拒否権は与えられていなかった。彼はこの部隊を戦線に投入できるように鍛えることから始めなければならなかった。


第一章「再会の飛行場」

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