………まだ『帝国』との戦争が始まる前の頃だ。
 アレクセイ・ナジェイン大尉はバタフライ練習機の後部席に乗って空を飛んでいた。
 バタフライ練習機は胴体の上下に二枚の主翼を持った複座の複葉機で、搭載している三〇〇馬力ウェザーエンジンもクセが少なく、空軍で鍛えられたナジェインからすれば手足のように気軽に操縦することができる機体だった。
 しかしこの時のナジェインが乗っていたバタフライ練習機は風が少し吹くだけで右に左に揺れ、機首も上下に揺れて、安定からは程遠い飛び方をしていた。まるで寒風に震える子犬のようにバタフライ練習機がガタガタと揺れていた。
「操縦桿をもっとしっかり持つんだ。ただ、操縦桿ですべて制御しようとしてもダメだ。ラダーを使うんだ」
 ナジェインが前部席で操縦桿を握るパイロットに声をかける。「は、はい!」と上ずった声が返ってくるがナジェインの言葉が理解できているかどうかは微妙なところかもしれない。なにせこのパイロットは今日初めて操縦席に座り、バタフライ練習機を飛ばしているのだから。
「………わかった。君に空軍秘伝の気持ちの落ち着け方を教えよう。左の手のひらに、右の人差し指で鳥の絵を描いてみなさい」
 ナジェインの言葉に従って操縦席のパイロットは左の手のひらに右の人差し指で鳥の絵を描きはじめる………。あれ? これをやってしまうと………?
「描いたか?」
「あ、はい、描きました」
「描いてる間、練習機の揺れが止まったのはわかったかい? つまり揺れを起こしていたのは君の操縦の結果だったということだ」
 ナジェインはパイロットの両手を操縦から放させることで練習機の揺れの原因をパイロットに自覚させたのだ。
「………はい」
「飛行機というのはちゃんと飛べるように設計技師が計算して設計してくれているものだ。自分の手でなんでもやろうとするんじゃない、飛行機とパイロットである自分の二人三脚で飛ばすものなんだ。わかったかい?」
「はい!」
「よし、では操縦桿を持ってみて」
「はい!」
 操縦席のパイロットが再び操縦桿を手にする。だが今までとは違い、すべて自分の操縦桿で制御しようとするのではない。バタフライ練習機を飛ばすのではなく、バタフライ練習機と共に飛ぶ。そのことを知覚しながら操縦桿を手にするのだ。その時、パイロットはようやくにしてバタフライ練習機と一つになれた気がした。
 そしてその証拠に今までのバタフライ練習機の揺れは嘘のように収まり、まっすぐに飛ぶことができていた。ナジェインは満足げに頷いて操縦席のパイロットを褒めた。
「そう、その感覚だよ、ラリッサ・クリーナ。それが飛行機の操縦で一番大切なことだ。絶対に忘れてはいけないよ」
「はい、教官!」
 ラリッサ・クリーナ。飛行倶楽部第一二期生で一番最初にバタフライ練習機での飛行訓練にこぎつけた、才能にあふれた少女はナジェインの言葉に快活な返事を返したのだった。

魔女と呼ばないで!?
第一章「再会の飛行場」

 大陸暦一九三九年一〇月二七日。
 湖の町、オゼロに造られたオゼロ第五飛行場で訓練を行っている第九一四戦闘機連隊の飛行隊長に任命されたアレクセイ・ナジェイン少佐は着任したばかりの自分たちの前に整列した第九一四戦闘機連隊の面々を左から右に視線を流して見ていた。
 目の前の約三〇〇名もの隊員はすべてが女性だった。第九一四戦闘機連隊は『共和国』空軍初の女性戦闘機連隊として編成された部隊であった。
 ナジェインと共にオゼロ第五飛行場にやってきた第九一四戦闘機連隊連隊長のルキヤン・ポポフ大佐が簡単な自己紹介と訓示を述べる中、ナジェインは視線を流し続けていた。
 そんな中、ナジェインは隊員の中に一人見知った顔を見つけた。ナジェインが飛行倶楽部で教官を務めていた時に非凡な才を発揮していた才女、ラリッサ・クリーナだった。
 ラリッサ・クリーナの方もナジェインの視線に気付いて素早く片目を閉じてウィンクしてみせた。ナジェインの記憶ではラリッサ・クリーナは今年で二一歳になるはずで、今は本来は野暮ったいはずの草色の軍服を着ていてもモデルのように長い脚と柔らかそうな胸が見て取れた。
 まさか君を率いて戦争を戦うことになるとは思わなかった………。ナジェインは胃が少し縮むのを感じた。
 ポポフの訓示も終わり、ナジェインもそれにあわせて何かを話すことになる。約三〇〇名の女性から視線を向けられるというのはナジェインにとっては経験の無いことだった。合計六〇〇余りの瞳が目の前の飛行隊長がなにを話すのか期待を込めて見つめてくる。ナジェインは口の中が乾くのを感じながら話を始めた。
「私の名はアレクセイ・ナジェイン。階級は少佐だ。この第九一四戦闘機連隊の飛行隊長を務めることになった。さて、諸君らは我が空軍にとって初となる女性戦闘機連隊になる。何分初めてのことだから私としても、空軍としても予期せぬ問題が発生するかもしれない」
 ナジェインは息を吸い、力強い口調で続ける。
「しかし! だがしかし、だ! 私は確信している。諸君らが飛行倶楽部で見せてくれた才能と経験には何の問題も発生することはない、と。私と共に、必ずや『帝国』を打ち倒し、平和な『共和国』を取り戻そう! 私からは以上だ」
 ナジェインの力強い断言口調に目の前の異性たちはほうと息を呑んだ。そして号令と共に敬礼。とりあえずナジェインは彼女らの尊敬を手にすることはできたようだ。ナジェインはその尊敬を維持するだけでなく、拡大しつつ彼女らの訓練をこなしていかなければならなかった。



 着任の挨拶を終えたポポフとナジェインが案内されたのは小さな木造のログハウスだった。どうやらこのオゼロ第五飛行場、元々はキャンプ地だったようでその時に使われていたログハウスや小屋が隊員の宿舎として利用されているようだった。
 このログハウスのリビングルームに黒板やら机やらを設置して臨時の司令室としていた。
「お二人とも、見事な演説でした」
 クセが強く波打つ髪を後ろで束ねた眼鏡の女性が盆にコーヒーカップを載せてテーブルまで運んでくる。彼女は連隊附整備班を率いるイエヴァ・クレシェバ大尉だった。事前に目を通していた資料によれば年齢は三四歳で、戦争が始まるまでは『共和国』首都カピタルで営業していた民間航空会社の修理工として働いていたという。
 だが彼女の人生で特筆すべきは飛行倶楽部創設と男女同権での参加資格を集めることを主張した女性パイロット、ガリーナ・ヤーシナが一〇年前に行った『共和国』横断単独飛行で使われた航空機、「赤い口紅」号の整備を担当したということだ。『共和国』の東の果てにある街、ケーニェツボストクから西の街、ザパドグラードまで二〇〇〇キロ以上におよぶ長距離飛行とその成功に携わったイエヴァ・クレシェバは『共和国』最高の女性エンジニアの一人だと言ってよかった。
 彼女は第九一四戦闘機連隊では整備班を率い、そして男たちの司令部と女性たちとの橋渡しとしての役割を期待されて大尉として従軍することになったのだった。
 縁が丸くてレンズが大きな眼鏡の下に笑みをたたえながらテーブルにコーヒーカップを置くクレシェバ。
「とりあえずコーヒーです。角砂糖一つくらいなら砂糖も入れられますが、どうされますか?」
 開戦以来、砂糖は真っ先に配給制にすることが決定され、今や貴重品の一つだ。それでも隊の飛行隊長と連隊長ならば相応の贅沢もできるとクレシェバは言う。
「いや、私はブラックでいいです」
 しかしナジェインはブラックコーヒーを好んでいたので砂糖の消費を断った。
「ミルクなら使えるか?」
「はい。多めに入れておきましょうか」
「すまない」
 ポポフもミルクを多めにすることで砂糖の消費は断った。三人はコーヒーを一口飲んで一息ついてから話を始めた。
「今、ここにある機体はバタフライ練習機だけなのか?」
 ナジェインの質問にクレシェバは事前にまとめておいた回答を澱みなく答えた。
「はい。バタフライ練習機が一二機あります。連隊の定数には足りていませんが、そもそも連隊の装備機はファルコン戦闘機になる予定ですしね」
「少佐、ファルコン戦闘機への機種転換訓練は一二月からだ。それまではバタフライ練習機で基礎訓練となる………といっても、彼女たちはバタフライを飛ばすことならもう不足はないはずだ」
「つまりファルコン戦闘機の到着までに編隊飛行や空戦で使用するマニューバの訓練が主になりますね」
 ポポフの言葉に頷いたナジェインがクレシェバの方に向き直って尋ねる。
「大尉、一二機のバタフライの稼働状況は?」
「基本的には全機可動状態です。一機だけ、連隊長らが来られるまで飛ばしていたのがありましたが、それも簡単な整備だけですぐに飛ばせるようになります」
「わかりました。では私は明日以降の訓練プランを作成します」
 ナジェインは残ったコーヒーを一気に飲み干してから立ち上がって敬礼。彼の作業を開始した。



 ………ラリッサ・クリーナは今年で二一歳になる。ただし彼女の誕生日は一一月九日であったため、二一歳になるにはもう少し日数が必要であった。
 そんな彼女は『共和国』南部最大の都市であるユージュナの大学に通う大学生であったが、『帝国』との戦争の始まりによって運命が加速し始めたのだった。
 日増しに後退していく前線。『帝国』の占領地となった都市で繰り広げられたという乱暴狼藉の「噂」。止まらない『帝国』軍の勢いは、このユージュナをも飲み込んでしまうのではなかろうか。そういった不安が彼女の周囲にも流れ始めた頃、クリーナはラジオから呼びかけられる声を聞いたのだった。
 その声は伝説の女性パイロット、ガリーナ・ヤーシナの呼びかけであった。曰く、「飛行倶楽部で航空機の操縦技術を身につけた者たちの空軍への志願を待つ」ということ。そしてそれは「男性だけを対象とせず、女性であっても構わない」ということだった。
 クリーナの両親は反対したが、しかしクリーナの決意はそれ以上に頑なだった。………もしかしたら決意を盲進することで不安から逃れたかったのかもしれない。
 とにかくラリッサ・クリーナは行動に移った。ガリーナ・ヤーシナに空軍へと志願したいという思いをつづった手紙を送り、ヤーシナから『共和国』首都のカピタル行きの鉄道切符を添えられた返事を受け取った。そして鉄道を乗り継いで『共和国』首都カピタル最大の鉄道駅、カピタル中央駅に向かったのだった。
 着替えや生活用品が詰められてパンパンになったトランクを両手で抱え、カピタル中央駅からガリーナの呼びかけに応じた飛行倶楽部女子会員の集まるビルに向かおうとするクリーナ。しかし彼女のトランクは勢い余って別の女性に当たってしまったのだった。
「キャッ!?」
 ラリッサ・クリーナのトランクにぶつかったのも女性だった。ラリッサより少し歳若く、まだ少女といって差し支えないように見える。ただ全体的に色素が薄く、銀色に近い髪と雪のように白い肌がラリッサの眼を引いた。
「ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか!?」
 クリーナはトランクにぶつかって転んだ少女に手を伸ばす。少女はクリーナの手を取ってゆっくりと立ち上がった。小さく、華奢な体つきに見えるが、筋肉はしっかりとついているらしく、立ち上がる際の動きはしっかりしたものだった。
「私なら大丈夫です。私も注意が足りていませんでした………」
 少女はそう言ってペコリと頭を下げる。その際にクリーナは気が付いた。少女が手にしている手紙、それと同じものを自分も持っていることに。
「あなたも飛行倶楽部なの?」
 クリーナはポケットからガリーナ・ヤーシナからもらった手紙を取り出して少女に見せる。文面に多少の違いはあれども、少女の持つ手紙と同じ内容が書かれていた。
「あ、あなたもなんですか………!?」
 ラリッサ・クリーナも飛行倶楽部の女子会員で、自分と同じようにガリーナ・ヤーシナの呼びかけに応じて志願してきたのだと知った少女は嬉しそうな笑顔をみせた。そして少女はリリヤ・パブロワと名乗った。パブロワは『共和国』首都カピタルより少し北に行った小さな町、マレンキーグラド出身で、カピタルに来るのは初めてなのだという。
「パブロワさんもカピタルは初めてなんだ。実は私もなの。だから一緒にヤーシナさんの所にいく方法を探しましょ」
「はい! 正直、私一人だとどこにいけばいいのかわからなくて途方に暮れていたんです………」
「おっと、あんたたちも飛行倶楽部かい?」
 ラリッサ・クリーナとリリヤ・パブロワが意気投合する背中にかけられる声。細かいことにこだわらない大雑把な性格が口調の時点で漏れていた。二人が声の方に振り向くと女性が一人立っていた。短く黒い髪をボブヘアーにまとめた、年齢的にはクリーナと同じくらいに見える女性だった。
「えぇと、あなたは………?」
 リリヤ・パブロワが恐る恐る尋ねる。途中、クリーナにも「知っている人ですか?」と言いたげな目線を送ったが、クリーナも彼女のことは知らなかったので首を横に振った。
「アタシ、ユリヤ! ユリヤ・クロチキナっていうんだけどさ、アタシもカピタルは初めてでよくわかんないんだー」
 ユリヤ・クロチキナと名乗った女性はそういってにししと笑う。
「だからあんたたちと一緒に同行させてよ!」
「なんだ、要するに迷子が三人に増えたってことね?」
 胸を張って同行を希望するユリヤ・クロチキナにクリーナが肩をすくめて言った。
「あはは………」
 クリーナの言葉にパブロワも苦笑い。
「まー、そうなんだけどさ。だいたいここは『共和国』で一番でっかい駅なんでしょ? そりゃ迷うのも仕方ないって」
「そんなものなのかしら? ま、とりあえず一緒に行きましょうか」
 それから三人は駅をしばらく歩いて付近の案内板を見つけ、ガリーナ・ヤーシナの面接を受け、最終的に三人とも第九一四戦闘機連隊に配属されることになったのだった。それが大陸暦一九三九年九月五日のことであった。
 そして第九一四戦闘機連隊としての訓練としてオゼロ第五飛行場に向かったクリーナたちは少尉候補生扱いとなり、軍隊として基礎となる行進や敬礼といった作法の訓練を行いつつ、オゼロ第五飛行場でバタフライ練習機を飛ばす日々を送っていたのだった。
 それからおよそ一月後の大陸暦一九三九年一〇月二七日。ずっと空位だった第九一四戦闘機連隊の連隊長と飛行隊長が着任し、飛行隊長がクリーナが飛行倶楽部時代に教官として航空機操縦のイロハを教わったアレクセイ・ナジェイン少佐だったということにクリーナは運命を感じずにはいられなかった。



 アレクセイ・ナジェイン少佐が訓練プランをまとめ終えた時、すでに太陽は西の彼方に沈みきっており、夜の帳が降りた空には月と星が淡い光を放っていた。
 夜空にまたたく月と星の光は『共和国』にとって建国に深く関わる逸話があり、それが故に『共和国』の国旗や国籍マークは月と星で作られていた。当然ながらアレクセイ・ナジェインも月と星の光に特別な想いを持つ『共和国』人であった。故にナジェインは司令室兼男性宿泊施設になっているログハウスを出て、少しだけでも夜風にあたろうと考えた。訓練プランを作成するのに熱中しすぎて晩御飯も食べていないが、一食抜いたくらいで音を上げるほど『共和国』空軍軍人はヤワではないつもりだ。
「教官!」
 ナジェインの背中にかけられる声。その声と呼ばれ方にナジェインは懐かしさを感じて振り返る。声の主はラリッサ・クリーナ少尉候補生だった。
「………ラリッサ・クリーナ、今の私は教官ではないよ」
 ナジェインの返答にクリーナが一瞬だけ悪戯っ子のような笑みを浮かべてから真顔に戻って敬礼する。
「失礼しました、飛行隊長!」
「………まさか君が女性航空隊に志願していたとは思わなかった」
「私も教か………いえ、ナジェイン少佐が隊の飛行隊長になるとは思ってもいませんでした」
「私が飛行隊長になったのは、偶然だな。負傷して目が見えにくくなったから、今の私はパイロットとしては戦えなくなったから隊の飛行隊長を拝命したんだ」
「え? 飛行隊長、目が………?」
「失明したわけじゃないんだが、遠くが見えなくなったんだ」
「そんな………」
 ナジェインは夜空を見上げてぼやけた視界の先に映る星の光を見つめる。
「戦闘機乗りとしては終わった。だけど、第九一四戦闘機連隊の飛行隊長として『帝国』との戦いは続けていく。そしてクリーナ、君も志願したからには空軍のパイロットとして戦うことになる………」
「はい!」
 クリーナの元気のよい返事にナジェインはそっと目を閉じる。ラリッサ・クリーナ、君は戦争を軽く考えているのではないか? いや、それは私も同じであろう。私も開戦直後に負傷して今までずっと病院暮らしだったのだから、本当の戦争はまだ知らないのかもしれない。
 だからこそ、みんなで乗り越えていかなければならないのだろう。
 昼間に着任の挨拶でナジェイン自身が語ったことが思い出される。
「私と共に、必ずや『帝国』を打ち倒し、平和な『共和国』を取り戻そう!」
 この言葉はナジェイン自身を縛る決意の言葉でもあるのだ。女をも戦争に投入することの後ろめたさを縛り、戦争の勝利のために戦うための決意の呪いなのだ。
「………明日からは私が訓練の指揮を執る。明日も早いから今日はもう寝ておきなさい」
 ナジェインは自身の決意を内に隠し、クリーナにそう言って手を振った。
「はい。お休みなさい、飛行隊長!」



 リリヤ・パブロワ少尉候補生は今年で一九歳。体が小さく肉付きも薄い、ほっそりとした肢体の少女だった。しかし筋肉はしっかりとついているために動作は機敏で力も強い方だった。新体操の選手のそれを思い浮かべれば一番わかりやすいだろう。
 実際、彼女が幼少の頃は新体操の教室に通っていた。ただ、新体操では彼女の興味を満足させるには至らなかった。物心がついた一三歳のパブロワが両親に頼み込んだのは新体操教室を辞めて、飛行倶楽部に通うことだった。
 それから六年の月日が流れ、今のパブロワは第九一四戦闘機連隊のパイロットとして訓練に励んでいた。
 大陸暦一九三九年一一月六日午前一〇時二分。
 リリヤ・パブロワとソフィア・アヴェリーナの二名はそれぞれバタフライ練習機の操縦席に乗って編隊飛行の訓練を行っていた。
 パブロワがチラリと計器に目を落とす。現在の高度は一二〇〇メートルで速度は時速一八〇キロ。その情報を頭に入れつつ、視線を右方向に移す。ほぼ同じ高度と速度で並んで飛行するバタフライ練習機の姿が視界に映る。パブロワに視線に向こうも気付いたようで、ソフィア・アヴェリーナが小さく左手を振ってみせた。
「パブロワ少尉候補生、もう少しアヴェリーナ機に接近するんだ! 今は編隊飛行をしているんだぞ!!」
 リリヤ・パブロワの後方から聞こえる声。複座の練習機であるバタフライには操縦席の後方に副操縦席がある。そしてパブロワのバタフライの副操縦席にはアレクセイ・ナジェイン飛行隊長が乗っていた。
「は、はい!」
 パブロワは操縦桿をしっかと握り、フットバーを蹴ってラダーを操作して機体を横滑りさせてソフィア・アヴェリーナのバタフライに近づこうとする。
「遅い! これじゃ編隊を組むまでに日が暮れてしまうぞ!!」
 おっかなびっくりで近づこうとするパブロワに容赦なく浴びせられる怒声。
「飛行隊長、でもこれ以上近づいたら衝突してしまいます!」
 パブロワがおずおずとナジェインに応える。ナジェインは小さく息を吐いてからパブロワに言った。
「見本を見せてやる! 操縦桿から手を放すんだ!!」
「え? は、はい!」
「アイ・ハブ・コントロール!」
 練習機である関係上、バタフライは副操縦席からでも操縦が可能だ。ナジェインはパブロワからバタフライの操縦を引き継ぐと、操縦桿を横に倒し、機体をぐいと右に傾けた。
「ひっ!?」
 横に傾いたバタフライの操縦席でパブロワが恐怖の声をあげる。アヴェリーナが乗るバタフライが見る間に近くなっていき、それにしたがってパブロワの目に大きく見えていく。
 ぶつかる………! パブロワはそう思って身を強張らせる。だが衝突の衝撃はいつまで待っても来なかった。ナジェインはバタフライをアヴェリーナ機のすぐ近くまで接近させただけだったからだ。パブロワ機とアヴェリーナ機との距離はメートル未満にまで近づいている。パブロワはナジェインの操縦の腕に舌を巻いた表情だった。ナジェインは今度は機体を左に傾けて機体をアヴェリーナ機から離してから言った。
「今のが見本だ。できるな?」
「は、はい!!」
 ………空の上でナジェインがどのような訓練を行っているのか、地上からでは正確には把握できていない。バタフライ練習機には無線機がついていないため、機上での会話を地上で聞くことができないためだった。しかし司令室兼男性宿泊施設のログハウスの窓から空を眺めていたルキヤン・ポポフ大佐は訓練途中で急に機敏になったバタフライ練習機が描いた飛行機雲を見て苦く笑った。
「ナジェインめ、やはり空への未練が残っているな」
 編隊飛行訓練中の練習機に同乗したナジェインが見本と称して操縦を楽しんでいる様子がポポフには手に取るようにわかった。なぜならばかつての自分もそうだったからだ。とはいえ今の第九一四戦闘機連隊は教官役ができる者がナジェインくらいしかいないのも事実で、しかもそのナジェインも視力を失った関係上、練習機の副操縦席から教えるのが関の山ではあった。
「飛行倶楽部で基礎ができているとはいえ、いざ実際の戦闘機に乗る時はこれで大丈夫なのだろうか………?」
 ポポフは誰に言うでもなく呟き、視線を手に持っていた紙片に移す。そこには第九一四戦闘機連隊が装備するべき戦闘機の搬入予定スケジュールが書かれていた。
 大陸暦一九三九年一一月二六日にファルコン戦闘機四八機分の機材を送る。
 ポポフが手にする紙片にはそう書かれていた。訓練はまだ続くが、訓練のレベルを一段階上へと上げる時は刻一刻と近づいてきているのだった。


序章「状況:セットアップ」

第二章「隼は舞い降りた」

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