艦これショートショート
「艦娘どろぼう」


 ………儂の名は瀬良 源三。齢四九になるしがない泥棒だ。
 夜の闇に紛れ、音も立てずに忍び寄り、どんな鍵でも開いてみせる。つまらん儂の人生において、この泥棒の腕だけは誰にも並ぶものがいないと自負しておる。
 カチリ
 小さな音を立て、金庫の鍵が外される。儂は染み出す歓喜を必死に抑え、金庫の扉を小さく開く。儂が侵入する際に外した窓から差し込む月光が金庫の中にも差込み、金庫の中身が儂の目の中に入る。
「現金が二五〇万………あとは宝石貴金属か」
 儂は札束に手を伸ばし、その中から諭吉様を一〇枚ほど抜いて元に戻す。札束の内から何枚かだけ抜いておくことで、泥棒に入られたことすら気付かれにくいし、万一気がつかれても小額故に警察に通報することもない。………儂が泥棒として長く生きられるのは、偏にこの慎重さ故だと自負しておる。
 儂は外しておいた窓をそっと戻しつつ、痕跡を一つも残さずに盗みから出て行った。
「ひっひっひっ………」
 今日も成功。大成功。抑えていた歓喜が口から思わずこぼれ、闇の中をスキップで逃げていく。
 そんな中、街灯に照らされた赤いポストに気付いた儂は、あることを思い出した。ポストを見て思い出す用事は決まっている。手紙を出すことだ。
「そうじゃった。今日は手紙を出さねばならんのだったな」
 儂は懐から葉書を一枚取り出し、ポストに投函する。そして夜の帳に包まれた公園のベンチに腰かける。ベンチは夜の冷気にさらされていたために座る儂の尻が冷たくなるが、それが盗みの興奮も醒めさせてくれる。
 そして公園の街灯の下で、儂は懐から小さな日記帳を取り出した。そして懺悔の筆を進めていく。
「………娘よ、儂はまた悪いことをしてしまった。もう少し金が溜まったら、旅にでも出るよ。………恵美」



 瀬良 源三にとっての原罪は、一三年前にさかのぼる。
 女房に逃げられ、娘の瀬良 恵美を一人で育てていた源三だったが、仕事も長く続けられない弱い源三では恵美を育てることは不可能であった。
 だから彼は恵美が三歳の時に「親戚のおばさんの家で暮らすのだ」と偽り、娘を施設に預けた。必ず迎えに来ると心の中で誓いながら。
 ………だが、それから一度もその施設に行くことすらなく、一三年が過ぎ、源三は泥棒として糊口をしのぐほどに落ちぶれていた。
 ただ、彼が娘を想わなかったわけではなかった。彼が月に一度、ポストに投函する葉書には娘への愛情が記されていたからだった。もっとも、葉書の中の彼は海外を忙しなく飛びまわり、順調に出世を遂げるという虚飾が施されていたが。
 娘を迎えにもいけず、便りにも嘘を書き、泥棒として生きる自分。瀬良 源三にとっての人生とは夜の闇の中で自己嫌悪の海に浸ることを意味していた。
 公園のベンチに腰かけたまま、自己嫌悪の海に浸りながらうつらうつらとしていた源三に、眩しいばかりの朝日が差してくる。
「夜も明けたか………帰るか」
 源三は頭を振って海に使っていた心を奮い立たせる。朝日に伸びる源三の影は今日も源三と共にある。
「ん?」
 コンビニでおにぎりをいくつか買って、朝食をとる源三の眼に豪邸の前に停まる黒い高級車が映った。
 あれは………そうだ、前田工業の社長さんの車だ。
 おにぎりを頬張りながら、源三の眼が鋭く光る。
 黒い高級車の運転手が大きなトランクを車に載せている。そして前田工業の社長夫婦が楽しげに車に乗り込み、車がエンジンをうならせながら豪邸から発進していく。
「大きなトランク。あれはきっと海外旅行だな。あの老夫婦には子供もいない。そしてお手伝いさんが来るとしても一〇時まで来ない………」
 源三が腕時計を覗く。午前七時四三分。二時間余り、あの豪邸は無人ということになる………。源三はジャケットのポケットにねじ込んでいた軍手を取り出し、そっと手にはめる。それは泥棒、瀬良 源三が仕事を始める合図であった。
(よーし、俺もそろそろ脚を洗う潮時か。この家には大金がある。ここで大きく勝負して、これを最期の仕事としてやるか!)
 源三がそっと扉に近寄り、針金一つで扉の鍵を外す。
「この儂の手にかかって、開かない鍵など存在しない」
 そう豪語する源三の面目躍如だ。そして豪邸の内部に侵入する泥棒。まるで流れる雲のように自然で、無駄のない動き。傍から見る分にはそれは芸術点が与えられてもおかしくないほどに洗練された動きだった。
 ………半時間もたたないうちに源三は豪邸の金庫を見つけ、そして金庫の鍵開けに取り掛かる。だが、百戦錬磨の泥棒である源三にとって金庫の鍵開けなど児戯に等しく………
 カチリ
 金庫の鍵も外れ、そして源三は金庫の扉を開き………。
「へぇー、本当に開いちゃうんだー」
 不意に聞こえた声に源三の全身が逆立つ。源三が「ギャッ!」と声をあげなかったのはさすがというべきか。その声の主は薄緑色の髪をした一五歳くらいの少女だった。少女は好奇の眼で源三の金庫破りを見ていた。
 見られた! いつから!? いや、そんなことを気にしていても仕方ない!! 源三は咄嗟に少女に向けて手を伸ばす。見られたからには………見られたからには、どうする? どうすればいい? それも少女を取り押さえてから決める!
 だが、源三の腕に少女は捕まることはなく、逆に源三の腕をとって源三を投げ飛ばしたのだった。華奢な少女の体からは想像できないほど豪快な投げに源三の天地が逆転する。
「バッ」
 豪奢な絨毯に源三の中肉中背が叩きつけられる。
「バカな………」
 少女を取り押さえるつもりが、少女に取り押さえられた源三。その顔からは完全に血の気が引いていた。儂の泥棒人生が、こんなカタチで終わるとは………完全に想定外だった。
「おじさん、この家の人………じゃ、ないよね? 泥棒さん?」
「お、お前はこの家の娘か?」
「ブッブー、ざぁんねん。『鈴谷』、この家の娘じゃなくて艦の娘なの」
「なっ!?」
 鈴谷と名乗った少女は自分のことを艦の娘だという。あの、遠い海からやってきた異形の侵略者、深海棲艦と唯一対抗しうる戦力である軍艦の記憶と力を持つ少女、艦娘だというのか………。だったら生身の自分が敵うはずもない………。
「ま、今の『鈴谷』は艤装外してるから、ただの女の子なんだけどね」
 艦娘相手なら勝てなくても仕方ないと諦めた源三に、鈴谷が容赦なく付け加えた。つまり源三は単なる少女に取り押さえられたということになる………。



「し、しかし艦娘さんがこんな内地にいるなんてな………」
 観念して逃げる気すら失せた源三が絨毯の上であぐらをかいて口を開く。
「ま、船乗りだって別にいつも海にいるわけじゃないじゃん。たまには上陸するのよ」
「な、なるほど………」
「しっかしおじさん、すごいね。スイスイスイーって感じでこの家に入って、金庫まで開けちゃうんだもん」
 鈴谷は源三を咎めるわけではなく、純粋に源三の動きの洗練さを褒めた。
「この子がたまたまおじさん見つけたから、尾行してみたんだけど、面白いもの見せてもらっちゃったね」
 鈴谷が左手の人差し指をピンと立てる。その立てた指先を周るように一機の下駄履き航空機が飛んでくる。源三は知らなかったが、それは瑞雲と呼ばれる水上偵察機だった。急降下爆撃も可能な水偵として航空巡洋艦の切札として期待されている機体だった。
「飛行機に見張られていたのか、俺………」
「にひひ。ワルいことはできませんなぁ、泥棒さん」
 鈴谷は何気なく言ったのだろうが、泥棒という行為に自己嫌悪を感じていた源三にとっては何よりも痛烈な皮肉であった。
「………そう、だな。早く警察を呼んでくれよ」
「………といっても、『鈴谷』、ケーサツ呼ぶつもりなんかないけどね」
「!?」
「『鈴谷』、艦娘だから深海棲艦の相手ならいくらでもするけど、泥棒さんは専門外だし、ケーサツ呼ぶのも面倒じゃん? おじさん、今回は何も盗めなかったんだし、反省もしてそうだし、もう泥棒なんかしないっしょ?」
「し、しかし………それでいいのか?」
 鈴谷の予想外の言葉に源三は逆に言葉をなくす。それを見た鈴谷はイタズラ好きの猫のような表情で、驚きの発言を続けた。
「へっへ〜。じゃ、泥棒さんは罰として今日一日、『鈴谷』と遊ぶこと!」
「は?」
「おじさんが『鈴谷』とデートしてくれたら許してあげるって言ってるの!」
 ………この娘は何を言っているのだろう? 源三の混乱が最高潮に達した時、鈴谷がしれっと話を変えた。
「ところで、おじさん、そろそろこの家に誰かくるんじゃないの? 瑞雲ちゃんが警報出してんだけど?」
 鈴谷の言葉に源三は慌てて痕跡を消して豪邸を後にしたのだった。



 豪邸を後にした源三は鈴谷を伴って手近な喫茶店に入った。喫茶店で鈴谷は贖罪の一環だと言わんばかりに特大パフェを注文し、源三もしぶしぶそれを是とせざるをえなかった。
「おお〜、あま〜い! 美味しい〜! 間宮さんのアイスもいいけど、内地のパフェも最高だねぇ〜」
「儂はお前さんが本当に艦娘なのか信じられなくなってきたよ………」
 目の前で特大パフェの攻略作戦に夢中になる少女が、本当に異形の怪物である深海棲艦と戦いうる人類の切札であるというのがどうしても信じられなかった。
 どうみても目の前の少女はこんなくたびれたオヤジと釣り合うものではないが………。
「なに照れてんのよ〜」
「わ、悪いかよ」
「ちゃんとつきあってくれなきゃ、ケーサツ呼んじゃうかんね」
「脅迫する気かよ!?」
 源三の反応に鈴谷が満足げに笑う。死線をいくつもくぐり抜ける艦娘にとって、内地のオヤジをからかうのは新鮮な喜びなのだろうか?
「………そういや、艦娘さんにこんなこと聞くのもなんだが、戦争ってのは怖くないのか?」
 カップになみなみと注がれたホットコーヒーのたてる湯気を見ながら尋ねる源三。源三の質問に、鈴谷はパフェに添えられていた果物を咀嚼しながら天井に視線をやって少し考える。
「ん〜。『鈴谷』はそんなこと考えたことないし」
 しかし鈴谷はどこか諦めたような眼で質問には答えなかった。
「考えたこともないって、随分冷めてるな………そういやお前さん、今いくつなんだ?」
「『鈴谷』? 一六だよ」
 一六………儂の娘と同じ歳だな。
「なんで艦娘になったんだ?」
「だって『鈴谷』、施設にいたからさ。艦娘の適正があるってわかったら、お国に言われて艦娘となるしかなかったの」
「施設………」
 コーヒーを音をたててすする源三。
「そ。たんぽぽ学園っていう施設」
 たんぽぽ学園。儂の娘のいる施設じゃ………。
「『鈴谷』、本当の名前はエミっての。ま、今は航空巡洋艦の鈴谷だけどね」
 エミ。儂の娘と同じ名前………。
「あ、一応、天涯孤独ってわけじゃないからね。お父さんはいるんだ。瀬良 源三って名前くらいしかもう覚えてないけどさ」
 瀬良 源三。儂の名前………。
 ブーッ!! 源三が思わずコーヒーを激しく噴出してしまう。源三の噴出したコーヒーが黒い霧になって鈴谷にかかる。
「もー! 何すんのさ!!」
 鈴谷がぶっかけられたコーヒーをハンカチで拭いながら口を尖らせる。しかし、もちろん鈴谷の文句は何一つ源三の耳には届かなかった。
「ま、ましゃか………」
「ど、どーしたの? 顔、真っ青だよ?」
「あわわわ………」
 恵美? 目の前にいる、艦娘が儂の娘の恵美!?
 儂の記憶の中の恵美は一三年前の、とっても小さな女の子だったが………恵美、こんなに大きくなって、こんなに立派になって………
「ヘンなの?」
 顔色を青く、目を白黒させる源三を不思議に思いながらも鈴谷がパフェを完食する。源三はその一挙手一投足を見るばかりだった。
「はー、美味しかった!」
「……………」
「ちょっと、おじさん? もしかして『鈴谷』のこと哀れんでるの?」
「………え? いや、その………」
「だったら心配無用よ。『鈴谷』、結構楽しく艦娘やってるしねぇ。熊野ってダチもいるしさ!」
「ああ………その、お父さんについては、どう、思ってるんだ?」
「どうって言われてもわかんないよ。顔も覚えてないし。でも、月に一回手紙がくるんだ。もっとも『鈴谷』が艦娘になってること知らないから、施設経由だけどさ。海外で真面目に仕事やってるみたい。葉書に住所書いてないから、どこに住んでるのかもわかんないけど」
 鈴谷の言葉から感じられるのは無関心だった。彼女にとって父親とは、どこか遠い世界に住んでいる、まったく無関係の人間なのだろう。
 だが、それについて源三は鈴谷を責められなかった。当たり前だ。娘を施設に預けたのも自分だし、娘に嘘の手紙を送っていたのも自分なのだから。
 もし、もしも自分が彼女の父親だと告げたらどうなるだろう? 真面目に仕事をしている父親が、本当は薄汚い泥棒だったと知った時、鈴谷は、恵美は、どんな顔をするだろうか。
 娘のがっかりした顔なんか見たくねぇよ………。源三が胸のうちでひとりごちる。
「ね、ね、そろそろ次の場所行こーよー。『鈴谷』、見たい映画があるんだ〜」
「う、うむ………そう、だな」
 可能な限り明るい顔で源三は微笑んでみせた。



 喫茶店を出て、映画を見て、街をぶらついて、目に留まった商品があったらそれを見る。
 鈴谷は若い艦娘だっけあって体力も、行動力も源三のそれを大きく上回っていた。
 陽が地平線の向こうに沈み、夜の時間になった時、彼はくたくたになっていた。
「ふー。儂ぁ、もう疲れたわい………」
 夜の公園のベンチに腰かけ、ジャケットを脱いで背もたれにかける源三。
「なにそれ。おじさんみたーい!」
「儂ぁ、見たとおりにおっさんだからな」
「アハハ」
 屈託のない笑顔を見せる鈴谷だったが、不意にその顔から笑顔が消える。
「………明日にはまた鎮守府生活か」
 鎮守府生活。艦娘として人類のために深海棲艦として戦う日々。それは死と隣り合わせになる異常なる日常を意味している。武運がつたなければ水漬く屍となるだけだ。
 そんな娘に対して、源三は父親としてどうしたらいいのかわからなかった。
 本当のことをいう? 気が楽になる?
 いや、このままがいい。真実を明かしてもショックを与えるだけで、彼女のためにはならないはずだ。なるはずがない。
 だが、本当の父親と会えたら、それは幸せなのだろうか………? 泥棒の父親と会うことが?
 心の中で繰り返される自問自答。しかし答えはいつまでたっても出ない、出るはずがなかった。
「おや、君」
 源三の内心の葛藤が不意にかけられた声で中断を余儀なくされる。
「なんじゃ? ………!」
 鈴谷が警官に声をかけられていた。一瞬、自分を捕まえに来た警察なのかと身構える源三だったが、すぐにそれは誤解だとわかった。警官は夜遅くに出歩いている少女、つまりは鈴谷に注意しているだけだったからだ。
「君、学生かい? 子供がこんな夜遅く………」
 鈴谷は自分が艦娘であると告げてもよかったが、それはそれで説明が面倒だと思ったので源三の許まで走ってきて、源三の手を引いた。警官はそれを見て、源三に尋ねる。
「あ、お父さんでしたか?」
「あ、あの………」
 警官の質問にどう答えるべきか、とっさに判断できなかった源三は口ごもるばかり………。そんな源三の肩に手をやって、鈴谷が高らかに宣言した。
「そうよ。わたしのお父さん!」
「そうでしたか。失礼しました。夜も遅いので、気をつけてお帰りください」
 鈴谷の言葉に警官は警戒を解き、微笑んで敬礼して鈴谷たちから遠ざかっていく。鈴谷はニッコリと笑い、休日最後のイタズラの成功を喜んだ。
「アハハハ! 本当のお父さんだと思ってるー」
「ハ、ハハ………」
「『鈴谷』たち、親子に見えるのかな? おじさんがホントのお父さんだったらいいのにねェ」
「……………」
「ど、どうしたの、なに泣いてんの?」
「アハハハ、おじさん、どうしたっていうの? おかしいわね、泣くなんて………」
 だけど鈴谷の目からも零れるもの。それは一筋の涙だった。
「………ヘンなの。『鈴谷』も泣けてきちゃった」
 二人、父と娘がひとしきり涙を流す。すべてを知っている父と、知らないはずの娘。しかし理由はともかく涙は等しく美しかった。
「………おじさん、今日はありがと。もう、別れましょう」
 鈴谷が涙を拭いながら言った。
「深海棲艦のことなら『鈴谷』たちに任せといてよ。必ず、おじさんたちだって護りきってみせるからさ!」
 鈴谷は名残惜しそうに、だが、次の言葉を続ける。
「さよなら」
 その言葉を受けた源三は、返事を返せず、ただ、娘の前から走り去ることしかできなかった。
 何も、何もしてやれなかった。父親として何も………父親と名乗ることさえもできなかった! 自身の情けなさに源三は男泣きしながら駆け出していく。しかし涙はとめどなく溢れてくる………。
 鈴谷は源三の背中を寂しそうに見つめていたが、ふと源三が座っていたベンチにジャケットが背もたれにかけられたままなのに気がついた。
「おじさん、忘れ物だよ!」
 鈴谷は走り去っていく源三の背中を追いかけつつ呼びかける。
「おじさーん!!」
 鈴谷は源三のジャケットを持って公園を出て、そして道路に飛び出す。
 その時だった。鈴谷に浴びせられる強烈なヘッドライト。真っ白い乗用車が、道路に飛び出した鈴谷に向けて走ってくる。乗用車の運転手が強張った顔でブレーキを踏む。しかし、間に合わない!
 鈴谷は艦娘であるが、今の鈴谷は艤装をはずしている。艤装がなくば、鈴谷はただの少女となんら変わらない。深海棲艦の砲弾にも耐えうる鈴谷も、車に轢かれれば死んでしまうのだ。
 死ぬ………? 鈴谷は急速に迫ってくる車の形をした「死」を前にしても冷めた気持ちを崩さなかった。………今日は楽しかったし、幕を引くにはいいタイミングだったかもね。だから、鈴谷は逃げ出さず、車の前でぼうっと立つばかりだった。
 そして鈴谷に襲いかかる衝撃。鈴谷の華奢な少女の体が衝撃に突き飛ばされ、地面に倒れこむ。そして車から聞こえてくる狼狽した声。
「や、やべェ………轢いちまった!」
「ど、どうする?」
「逃げろ!」
「ひえ〜」
 ………随分とハッキリ、明瞭に聞こえる声だ。鈴谷はそこまで思って、ようやく自分の体にたいした怪我がないことに気付く。手も、脚も、難なく動かせるし、少しひざをすりむいたくらいで………。
 上体を起こした鈴谷は、そこで自分の怪我がなかった理由に気がついた。車と鈴谷の間に割って入り、そして鈴谷を庇って倒れた人影があったのだ。鈴谷が青ざめた顔と裏返った声で人影に呼びかける。
「お、おじさん………おじさん!!」
 鈴谷を押しのけ、車に正面からぶつかったのは源三であった。道路に寝そべる源三は腹部から血を流しており、数多の戦場を駆けた鈴谷にはそれが致命傷であることが見て取れた。
「うそ………どうして『鈴谷』を助けたの!? 『鈴谷』、艦娘なんだよ! 明日、死んだっておかしくない、だから今日死んだって惜しくないの!!」
 鈴谷の泣き声に、源三は力のない声で応えた。
「若い娘が何を言ってやがる………子供が死ぬより、儂が死んだ方がいいに決まってるじゃろうが………」
 源三の声から急速に生気が失われていく。源三の命が、消えていくのを鈴谷は感じていた。
「バカ! 何言ってんのよ!!」
「これでいいんじゃ………」
 源三は残った力を振り絞り、右の手をそっと伸ばして鈴谷の、娘の髪を撫でる。あの頃の、一緒に父娘として暮らしていた三年間にそうしていたように。
「恵美………ありがとう……………」
 それが源三の最期の言葉となった。源三の体から力が抜け落ち、鈴谷の髪を撫でていた伸ばされた右手も地に落ちた。
「おじさん! うそよ! うそでしょう、おじさん!!」
 夜の帳の中、少女の慟哭が木霊する………。
「おじさん!!」



 あの後、鈴谷は救急車を呼んだけど………結局、おじさんは帰らない人になった。
 警察は轢き逃げの被害者としておじさんを扱っている。
 そんなこんなで鈴谷が鎮守府に帰ったのは半日ほど遅れることになって、提督に怒られるかと思ったけど、事故に巻き込まれたのでは仕方ないと提督は特に何も言わなかった。
 熊野は「災難でしたわね」と言ってローズヒップティーを淹れて、警察の聴取で疲れていた鈴谷を労ってくれた。
「なー、熊野」
 熊野が淹れてくれたローズヒップティーを飲みながら、ポツリと呟いた。
「『鈴谷』、今まで特に艦娘としてやりたいことあったわけじゃないんだけどさー………それでも、もし『鈴谷』が運よくこの戦争を生き残ったらさー」
 熊野は何も言わず、鈴谷の話をじっと聞いてくれている。鈴谷はそっと目を閉じて続けた。
「………もしも生きてこの戦争が終わったらさー、『鈴谷』、お父さん探そうと思うんだよね」
「………きっと鈴谷なら大丈夫ですわ。戦後にやりたいことがあるなら、死んだりしませんわ」
 なにより、私が死なせませんもの。言外にその含みを持たせ、熊野が応えてくれる。
 鈴谷はローズヒップティーをグイッと飲み干すと、熊野にごちそうさまとだけ言って自室に戻る。
 どちらかというと「殺風景」と評すべき部屋の中で、鈴谷はそっとポケットから小さな手帳を取り出した。おじさんのジャケットに入っていた手帳。それはどうやら日記のようだった。
 おじさんの日記。警察に渡すのもなんだし、悪いとは思ったけど持ってきちゃった。形見にもらうよ。
 さて、おじさんの泥棒の記録でも読ませてもらうよ………。
 源三の日記帳の第一ページ目。そこには「恵美に捧ぐ。瀬良 源三」と書いてあり………。



 ………部屋のの窓から優しい春の風が吹き込んでくる。
 カーテンをフワリと揺らし、父に命を繋いでもらった少女の涙を撫ぜる。
 長い無関心の冬が終わり、温かい春が訪れたのだった。


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