カナダのブリティッシュコロンビア州南西部に位置するバンクーバー市。
 人口四〇万を抱えるカナダ有数の大都市であるバンクーバー市に墓地は何箇所もあるが、その中で異彩を放っているのが市内中央部に設けられたカナダ国立墓地だ。
 この墓地は一九四二年の春先にバンクーバー市内を舞台にした市街戦で傷つき、倒れた者たちを埋葬し、慰霊するために設立されている。
 市街戦。
 バンクーバー市内の七割を廃墟とした一連の戦いの評価は、戦後三〇年を経過した今でも定まってはいない。
 一九七二年三月三日。
 カナダ国立墓地の端に設けられた墓石を三人のカナダ人が尋ねた。三〇代半ばを越えた夫婦とまだ幼い少女。つまりは親子が揃ってとある墓石の前で祈りを捧げる。
 墓石に刻まれているのは日本語だ。カナダ人一家には日本語が読めない。だからその内容は知らないが、しかしこの墓石の意味は知っている。
 厳粛に祈りを捧げる両親とは対照的に、幼い少女は退屈そうだった。無理もない。彼女の年では「死ぬ」ということがまず理解できないだろうし、彼女はその墓石の下に埋められている者のことを何一つ知らないのだから。
「………あ」
 不意に娘が声をあげたので母親が祈りをやめ、視線を動かす。娘の指差す先には空があり、空を舞う一羽の小鳥の姿があった。
 赤い毛色の鳥が青い空を飛ぶ。
 赤。
 娘にとっては「綺麗な色」でしかないが、母親にとって赤とは特別な色であった。
 三〇年………三〇年経った今でも決して忘れられない。
 あの日、見た赤の鮮烈さだけは。
 娘は母親が涙を流していることに気付いたが、それを指摘するつもりはなかった。母が赤を見るといつも悲しそうな顔をすることを知っていたから。



 一方で、バンクーバー市内の会館ではバンクーバー戦三〇周年を記念した合同慰霊祭が開催されていた。
 あの日、バンクーバーを守る側だった日英連合軍と攻める側だった合衆国軍。両軍の代表者が招かれ、互いに殺した敵の魂を慰めるのだ。
 帝国陸軍中将の結城 光洋もこの会に招かれた一人だった。とはいえバンクーバーの戦いはあまりいい思い出がない結城にとって、この会に参加するのは少し苦痛であった。
「よぅ、ユウキじゃないか!」
 あまり浮かない表情の結城と対照的に明るく声をかけてきたのは合衆国陸軍を代表して招待されたクレイトン・エイブラムス大将だった。
 戦車中隊を率いる大尉としてバンクーバー戦に参加したエイブラムスは、終戦間際には「軍神を継ぐ者」とまで称されるほどの成長と出世を遂げ、一九六四年には陸軍大将へ昇進。今では陸軍参謀総長を務めている。
 結城とエイブラムスは三〇年前なら互いに命を賭けて戦った仇敵だったが、今では友人と呼んでいい仲であった。
「参謀総長殿も招待されていたのですね」
「まぁな。何せ俺が所属していた第一機甲師団はバンクーバー一番乗りだったからな」
「ああ、そうか。そうでしたね」
 エイブラムスは友人の返事が暗い物なことに気がついた。そして率直に尋ねる。
「………元気がないな、ユウキ? 前に会ったデトロイトの合同慰霊祭の時はもう少し歯切れがよかったぜ」
「ん………まぁ、このバンクーバー戦は色々ありましたから」
「ああ、お前のオヤジさんの一件か」
「それもありますが、何より………紳司は私の友人ですから」
 結城の表情に影が差す。エイブラムスはその表情を見て、かけるべき言葉を見失った。ただ何も言わず、結城の肩を軽くポンと叩くと他の参加者に声をかけるべくその場を離れていった。
 滝沢 紳司。
 バンクーバーでの市街戦は彼が望んだ戦いであり、その顛末は後に巨大な影響を及ぼした。
 今よりこの顛末を語ろうではないか。

戦争War時代Age
第一四章「市街戦」



 ………とはいったものの、何の前準備もなしにバンクーバー戦を語るわけにはいかないだろう。
 バンクーバーを巡る戦いの決着、バンクーバー市街戦は言うなれば盆と正月とクリスマスとゴールデンウィークとコミケと冠婚葬祭と客先からのクレームと意中のあの娘からの呼び出しが一度にやってきたかのような、特殊事例がアップルパイのように重なりまくった戦いだったのだ。
 バンクーバー市街戦の顛末を語る前に、後世の視点による種明かしをしておきたい。
 まずオルレアン同盟軍の状況である。
 同盟軍は軍首脳部が乗っていた輸送機を撃墜され、指揮系統が混乱の極みにあった。実は輸送機撃墜を手引きしたのはフランス陸軍のシャルル・ド・ゴール大佐なのだが、そのシャルル・ド・ゴール大佐は帝国陸軍の滝沢 紳司中佐の言いなりになっているのが現状であり、バンクーバー市街戦開始時の同盟軍意思決定者は滝沢 紳司であった。
 そう、この時期の同盟軍は一介の中佐が意のままに動かしていたのだ。これが如何に特異な事態であるかを詳細に説明する必要はないと思うので割愛する。そして滝沢 紳司の決定は、バンクーバーでの徹底抗戦で合衆国陸軍の戦力を削ぐことであった。
 一方で攻める側、合衆国陸軍の状況はというと、ジョージ・パットン少将率いる第一機甲師団がバンクーバー市内まで十数キロの所まで迫っていた。
 第一機甲師団を隷下におさめるのはドワイト・アイゼンハワー中将率いるバンクーバー方面軍で、合計二〇個師団を抱える大部隊である。
 同盟軍の三倍近い兵力を誇る合衆国陸軍は数の力を頼みにバンクーバーを目指している。
 数で劣る同盟軍を率いる滝沢に如何なる妙案があるのか? 合衆国陸軍の猛者たちは恐るべき謀略家である滝沢の作戦を如何にして乗り越えるのか?
 期待を煽るだけ煽り、今度こそ本当にバンクーバー市街戦の顛末を語ろう。



 一九四二年二月二七日午前一一時三六分。
 バンクーバーに駐留する帝国陸軍第二五軍を率いる山下 奉文中将はモントリオールのオルレアン同盟カナダ方面軍司令部からの指令が記された紙を握りつぶした。
 そして紙を握った手を机にぶつける。衝撃で机の上で冷め切ったコーヒーに黒い波が揺れる。
「これは一体、どういうことだ!」
 山下は手が赤くしびれるのを無視した。山下の逆鱗に触れないよう、恐る恐るといった体で参謀長の鈴木 宗作中将が発言する。
「上には上の思惑が、戦略があるのでしょう」
「参謀長、それは『そうあって欲しい』という願望にすぎない。事実をこそ見るべきだ」
 山下はバンクーバーを含むブリティッシュコロンビア州が描かれた地図に指揮棒を指し示す。
「今、このブリティッシュコロンビア州を守るのは我が第二五軍と英軍の第三軍団、特にバンクーバーを守るのは第二五軍だけとなっている」
 英第三軍団は一九四二年初頭から兵力を五大湖戦線へ移し始めている。現在の英第三軍団は実質、二個師団程度の戦力しか保有していない。
 要は第二五軍隷下の第五師団、近衛師団、第一八師団、第三戦車団、独立工兵三個連隊、砲兵三個連隊と英軍二個師団だけで広大なブリティッシュコロンビア州防衛の任にあたっていたのだ。
 山下は凡愚ではない。たったこれだけの兵力でブリティッシュコロンビア州の防衛が可能だなどとは考えたことすらない。山下は増援の要請をモントリオールの司令部に何度も提出し、モントリオールの司令部は様々な事情を考慮した結果、ブリティッシュコロンビア州の放棄を決定していた。
 故に山下は英第三軍団の転戦を黙って見ていたのだ。
 だが、先ほど届けられた指令は、山下の認識とは正反対のものだった。
「第二五軍はバンクーバーにて市街戦を展開。増援投入までの時間を稼ぐべし」
 モントリオールからの指令は以上のように、徹底抗戦を叫んでいた。この指令を受け取った山下は即座に事情の説明を求めた。しかしモントリオールの司令部は「機密漏洩の恐れあり」と山下への説明を拒否した。
 急な変節に対する怒りで沸騰しそうな頭を懸命に抑えながら、山下は鈴木に確認する。
「バンクーバー市内の様子はどうだ? 想定状況四はうまくいきそうか?」
「質問に質問で返すのは失礼にあたるのは百も承知ですが、司令は想定状況四がうまくいく要素が一つでもあるとお考えですか?」
「……………」
 鈴木の質問に山下は沈黙しか返せなかった。
 当たり前だ。合衆国陸軍が刻一刻と迫っている中で市民の避難がうまくいくはずがない………。山下は冷め切ったコーヒーをぐいと飲み干すと、感情のおもむくまま、コーヒーカップを床に叩きつけた。磁器のカップが粉々に砕け、床の上でキラキラと電光を反射する。
 鈴木はそれを見て綺麗だな、と場違いな感想を抱くことで目の前の困難から眼をそむけたかった。



「ダメです、戦車長殿! この道も通れそうにありません!!」
 バンクーバー市内を走る大通り。戦車であっても通行が可能なほど丈夫に舗装された広い道路は人であふれそうになっていた。
 第五師団に属する戦車第七大隊を率いる溝口 元気少佐はカナダ・合衆国国境での戦いに敗北した後、バンクーバーまで撤退して補給と戦車の整備を行った。溝口の戦車大隊は定数から見て二割の損害を出していたが、士気は未だに旺盛で「次は合衆国に一泡吹かせてやる」と意気込んでいた。しかしその溝口たちも今のバンクーバー市内の混乱には閉口せざるをえなかった。
 バンクーバー市からバンクーバー島へ市民を避難させるという決定が下されたのは三時間ほど前のこと。合衆国軍がすぐ近くまで迫っているということもあって、バンクーバーの市民は我先にとバンクーバー島を目指して移動を開始している。
 さて、ここでバンクーバー市とバンクーバー島の違いを説明しなければなるまい。
 バンクーバー市はカナダ第三の都市で、太平洋側では最大規模を誇る都市だ。
 そしてバンクーバー島はバンクーバー市から海を隔てた場所にある、アメリカ大陸太平洋側最大の島である。ジョンストン海峡とジョージア海峡によって隔たれたバンクーバー島に市民を避難させ、バンクーバー市をそのまま防衛陣地として戦う。
 これがオルレアン同盟カナダ方面軍の、引いては滝沢 紳司の決定であった。この決定に滝沢の意思が絡んでいることを知らない溝口ら第二五軍の将兵はバンクーバー島へ脱出しようとする市民が邪魔になり、移動すらままならなくなっていた。
 後方から砲弾を輸送し、再び後方へ戻ろうとするトラックが市民の列に行く手を遮られる。トラックはクラクションを鳴らすが市民は道を開けようとしない。むしろトラックに便乗を申し出てきたくらいだ。市民を便乗させた場合、補給の効率が落ちることをよく知っていたトラックの運転手はそれを拒否したが、しかしトラックの運転手は悪意に満ちた罵倒を浴びせられて泣き出しそうな顔をしていた。
「戦車長殿、モントリオールのお偉方は何を考えているのでしょうか? 今の今まで市民を避難させなかったくせに、今になって避難命令を出すなんて………」
 溝口の戦車の砲手を務める佐倉軍曹が首を捻りながら尋ねる。溝口は「俺だって聞きたいよ………」と言いたいところを我慢して、努めて平静に返した。
「考えるのは上の仕事だ。今は補給と修理を急ぐ。指定された工場までの別路を探すんだ」



 バンクーバー国際空港は一九三一年に開設された、フレーザー川河口の中洲を利用した空港である。
 一九四二年二月二七日現在、日本陸軍と海軍の航空隊が使用しており、戦闘機から爆撃機、偵察機等合計三〇〇機を擁する一大拠点だ。
 このバンクーバー国際空港を拠点としているのが第二五一海軍航空隊、旧名「台南海軍航空隊」である。台南海軍航空隊と呼ばれていたことからわかるように、元々は台湾を本拠地として戦っていた航空隊であるが、カナダはバンクーバーへ派遣されるにあたって第二五一海軍航空隊と名称を改めている。
 斉藤 正久大佐を司令とする同部隊に坂井 三郎一飛曹は所属している。
「ふぅ………」
 汗が滴る飛行帽を脱ぎながら坂井がため息を吐く。そんな坂井を見つけて手を振ったのは同じ部隊に所属する西沢 広義一飛曹だった。
「よぅ、坂井。無事だったか」
「当たり前だ。カツオブシやメザシなんかに撃墜されてたまるものか」
「で、何機食ったんだ?」
 西沢の質問に坂井は右手の指を三本立ててみせた。
「えー、三機もかー。こりゃ俺もうかうかしてらんないな」
「何言ってんだ、貴様は昨日の迎撃戦で四機落としたんだろ? あと一機で撃墜王一回分だったのに惜しかったって整備班が興奮気味に噂してたぞ」
「へへへ、まぁな」
 坂井と西沢は並んでバンクーバー国際空港に設置されたプレハブ小屋に入る。そこは第二五一海軍航空隊用の休憩所であった。坂井は休憩所につくなりポケットからタバコを取り出して咥える。西沢が坂井の撃墜を祝うかのようにライターの火を貸してくれる。坂井はタバコの煙を肺の奥にまで流し込み、全身に紫煙がしみていく快感を楽しむ。
「坂井、いるか?」
 休憩所の引き戸がガラリを動き、一人の青年が入ってくる。坂井は休憩所に入ってきた青年の姿を確認して頬を緩めた。青年の名は笹井 醇一。坂井らと同じ第二五一海軍航空隊に所属する中尉だった。笹井は海兵出身にも関わらず階級を傘にすることなく、坂井や西沢といったベテラン搭乗員の「弟子」として腕を磨いている。坂井たちは笹井の真摯な態度が好きだったし、何より笹井の秘めたる才能に惚れ込んでいた。そんな敬愛する上官が自分を探している。坂井は大きな声で返事した。
「はい、中尉、何でしょうか?」
「出撃から戻ったばかりでスマンが、俺と一緒にまた飛んでくれんか?」
「え? 中尉は今日のローテーションから外れていたのでは?」
「ああ、そのはずだったんだが、バンクーバーの危機に対処するためにモントリオールからお偉いさんが輸送機で来ることになったのさ」
 笹井の言葉に坂井は合点がいった面持ちで続きを口にした。
「なるほど、その護衛ですね」
「ああ、そういうことだ。スマンが今から準備してくれ」
「了解」
 坂井は吸いかけのタバコを灰皿に捨てると笹井に敬礼。笹井の後に続いて休憩所を出る。
「坂井、俺はお前を信頼している」
 不意に笹井が口にした言葉に坂井は目を丸くする。笹井の言葉の真意がつかめなかったからだ。笹井の方は坂井の困惑を余所に口を動かし続ける。
「だから、お前にだけは教える。お前は返事しなくていいぞ」
「………?」
「モントリオールから来るお偉いさんってのは帝国陸軍の滝沢大佐らしい。これはあくまで噂だが、滝沢大佐がモントリオールの首脳部を謀殺してカナダ方面軍の実権を掌握しているらしい………バンクーバー放棄が死守命令に変わったのも、滝沢大佐がバンクーバーで戦功をあげたいためだって話だ」
「な………ッ!?」
 笹井は驚きに開かれる坂井の口に手をかざして、それ以上の発現を中止させた。笹井は囁くような声で言った。
「坂井、このバンクーバーの戦いはどうもキナ臭い。………こんなこというのは間違っているが、死ぬなよ。こんなくだらん戦いなんかでお前が死んだら夢見が悪すぎる」
 笹井はそれだけ言うと、以降は何も言わずに坂井を伴って格納庫まで歩く。そして愛機である零式艦上戦闘機に乗り込んで任務のために空へと飛び立つ。笹井の後に続く坂井は信じられない思いだ。先の出撃の疲労が残っているのか、それとも笹井の話の衝撃がそうさせるのか。鉛のように重くなった体で零戦のスロットルを押し込む坂井。
 整備班の努力のおかげで坂井の零戦の栄エンジンは今日も快調で、零戦はすぐさま空へ飛びたてるだけの揚力を蓄える。しかし坂井の心は一向に浮かばなかった。空を飛び始めて幾年月。坂井 三郎は初めて空を飛ぶことの高揚感を失っていた。



 バンクーバーへ迫る合衆国陸軍は第一機甲師団を率いるジョージ・パットンにとって一番不要なモノは司令部であった。
 常勝の軍神として合衆国陸軍で名を馳せることになるパットンのモットーは積極果敢な攻勢だった。故にパットンは司令部を一つの場所に定めようとはせず、最前線の部隊の少し後を追いかけるように移動しながら軍団の指揮を執っていた。
「師団長殿、軍団長殿から停止命令が届いております」
 第一機甲師団の参謀を務めるポール・ハンキンス中佐がパットンに報告する。パットンは参謀が手渡した命令電文に目も通さず、破り捨てた。
「ハンキンス、これで何度目の停止命令だったかね?」
「四度目になります」
「軍団長の命令を四度も無視する師団長。軍団長アイクの胃はキリキリと痛んでいるかな?」
 パットンの口調は不遜であり、愉しげだ。ハンキンスは目の前の師団長が攻撃的な闘将であることをよく知っているので師団長の発言をとがめるような真似はしなかった。
「ご存知ですか、師団長殿。最近のアイゼンハワー軍団長の額がどんどん大きく広がっているそうですよ」
 参謀の言葉にパットンは心の底から楽しそうに笑う。
「ワハハハ! まぁ、かけた迷惑以上の働きはしてやりゃ大丈夫だろ」
 ハンキンスが「やれやれ」と肩をすくめる。パットンは参謀のため息を無視して威勢よくまくし立てた。
「オラ、進め進め! パットン様の戦車部隊が止まるのは燃料が切れた時だけだ! 様子見の待機なんざクソ食らえってんだ!!」
 まるで血気に流行る猪のように、第一機甲師団がバンクーバーを目指して進撃を続ける。他部隊との歩調を考慮しない歩みは第一機甲師団の突出を発生させていた………。



 一九四二年二月二八日午前六時二七分。
 空は厚い雲に覆われ、日の出の光がさえぎられる曇天の朝、バンクーバー市内の帝国陸軍第二五軍司令部で滝沢 紳司大佐が決定を下そうとしていた。
 前日にモントリオールからバンクーバーへ移動した滝沢はモントリオールの同盟軍カナダ方面軍が発行した命令書によって帝国陸軍第二五軍を掌握。夜を徹して現状の把握と部隊の再編成に当たっていた。
 司令部で広げられている地図にはバンクーバー市の南と南東、東の三方向から迫る赤い駒が置かれている。これが今の戦況図であり、合衆国陸軍のバンクーバー攻撃は明日、明後日にも開始されると思われていた。
 だが、滝沢はバンクーバーに迫る合衆国陸軍の南側の部隊が突出していることに着目。この突出した部隊を帝国陸軍第二五軍の総力で攻撃をしかけて各個撃破する作戦を考案した。
 この作戦が成功すれば南方からバンクーバーに迫る戦力がいなくなり、バンクーバーへの攻撃の手が緩まるだろう。そうなれば現有戦力でバンクーバーの防衛は充分に可能である。
 だが、懸念がないわけではない。
 もしも突出した敵部隊(=パットンの第一機甲師団)に粘られ、各個撃破が完了する前に後続部隊が追いついてきたら? その時、第二五軍の戦力だけで立ち向かえるのか? 第二五軍は国境での戦いで消耗し、三個師団弱程度の戦力となっている。もしもこの想定が現実になった場合、第二五軍は、否、滝沢はどう立ち向かうのか。
 滝沢は孤独だった。
 自らの手で結城 繁治らを謀殺し、オルレアン同盟軍を掌握した滝沢にとって頼れるものは己自身のみだった。滝沢は渇きを覚えて水を口に含む。
 後で思えばこの渇きは喉からきていたのではなかったのかもしれない。己しか頼れない自分の生き様に対する心の渇きだったのではなかろうか?
 水を口にしても一向に晴れぬ渇きに苛立ちながら、滝沢は命令を下した。
「第二五軍の総力をもって敵突出部に対する攻撃を行う!」
 同盟軍首脳部謀殺という心のルビコン川を渡った滝沢に後退は許されない。最後まで揺れず、己の計画通りに突き進むことしか許されないのだ。



 歩兵第六八〇大隊は国境の戦いでの消耗が激しかったが、同様に国境の戦いで消耗しきっていた他の歩兵部隊の残存兵力をまとめることで戦力を回復させていた。
 その歩兵第六八〇大隊の南 燃大尉が大隊長である結城 光洋少佐に報告した。
「敵突出部に対する攻撃命令が下されたそうです。我々も攻撃部隊の一翼として参加します」
「そうか………」
 南の報告を聞いた結城の表情は暗い。それを見た南が気遣った声で言った。
「大隊長殿、攻撃の準備は自分が整えておきますので少し休まれますか?」
 南の言葉に結城は少し驚いた表情を浮かべ、続いて苦い笑顔を浮かべた。
「いや、疲れているんじゃない。ただ、気になることがあるんだ………」
「………モントリオールから全権を委託されたと言う滝沢大佐のことですか?」
「………いや、違う。違うが、南は紳司が気になるのか?」
 南は結城の返事を聞いて「しまった」と顔で発言した。しかし今更前言を撤回できるはずもない………。
「これはあくまで自分の主観でありますが、滝沢大佐の眼は野心でぎらついていました」
「………まぁ、アイツは昔から『一生懸命』だからな」
 滝沢のことを「一生懸命」と評した結城の言葉を聞いて南は内心で肩をすくめた。南は自分よりはるかに年下の結城を信頼しているし、尊敬もしている。しかし彼の人のよさだけは常々危惧していた。滝沢 紳司が「一生懸命」なのは、己の欲望に忠実なだけだ。滝沢は自分以外に価値観を見出していないと、兵からの叩き上げであるベテランの南大尉は見抜いている。
 そんな滝沢 紳司がこのバンクーバーへ来た。それもモントリオールの司令部から全権を委託されたと言う命令書付で………。
 間違いなく彼はこのバンクーバーの戦いで戦功を挙げるつもりだ。たとえ万骨が枯れることになったとしても、彼は骨に哀悼の意を表すことはないだろう………。
「………自分は、滝沢大佐には終わりが見えていないように思えます」
「終わり?」
「自分の野心に幕を引く、いわば目標が見えていない………。野心を抱くのも結構ですが、過ぎた野心は身を滅ぼすのではないかと心配しているのです」
 自分の内心の評価に何枚もオブラートを被せ、南はそう言った。結城はそれについて何も言わなかった。いや、言えなかったというべきか?
 とにかく結城は自分の「気になること」を披露して話題を変えた。
「それはともかく、俺が気にしているのは敵の突出部についてだ」
「ほう?」
「突出部に対する攻撃を加えて各個撃破する。これ自体は正しい判断だと思う。だが、どうもこの突出部は気にかかるんだ」
「ですが百式司偵の航空写真で突出部周辺に他の敵部隊は確認できていません。これは本当に突出していると見るべきですよ」
「それは俺も知っているんだが………」
 結城は頭をボリボリと掻くと懸念を追い払うかのように勢いよく立ち上がった。
「まぁ、気にしていても始まらないか。南、出撃するぞ!」
 結城 光洋の懸念。これが確たる形にならなかったのは無理ないことなのかもしれない。結城 光洋は一介の歩兵部隊指揮官でしかなく、彼が触れることができる情報は限られていたからだ。
 歴史にIFの話は禁物であるが、もしも結城 光洋の触れることが出来る情報が、たとえば彼の父親、結城 繁治ほどの量と質であったならこれから起こる悲劇は防ぐことができたかもしれない。
 とにかく、バンクーバーに攻め寄せる合衆国陸軍の中で突出していたパットン率いる第一機甲師団に対する攻撃は決定された。この攻撃のためにバンクーバーに駐留していた部隊のほとんどが出撃していった。バンクーバーに住む市民はこれを好機とばかりにバンクーバー島への脱出を行っていた。



 アメリカ合衆国ワシントン州シアトルはボーイング社の工場があり、シアトル郊外に設けられた陸軍航空隊の飛行場には工場直送のB17が並んでいる。
 だが、一九四二年二月二八日午後一時四分現在、この飛行場に並んでいるのはボーイングの爆撃機ではなかった。
 戦争が始まったことによってDC−3からC47と改称されたダグラス製の輸送機が翼を連ねている。その輸送機に積み込まれているのは小銃、軽機関銃といった歩兵用の武器と、歩兵自身であった。
 合衆国陸軍第八二空挺師団。合衆国陸軍史上初の空挺専門部隊が今、まさに発進の時を迎えようとしていた。
 この空挺作戦を指揮するのはオマー・ブラッドレー准将。そう、開戦初頭に「雪原の狐スノー・フォックス」エルウィン・ロンメル率いる第七機甲師団に敗北したあのブラッドレーである。そして第八二空挺師団はあの時にブラッドレーが率いていた第八二歩兵師団の残存戦力を基にした部隊であった。
「あの時は不覚を取ったが、今度はそうはいかん」
 ブラッドレーは雪辱に燃える瞳でC47に乗り込む。師団長自ら輸送機に乗り込むと言うのだからその意気は推して知るべし。そして危険を顧みず、自分たちと同行するという師団長の姿は部隊の士気を向上させる。
「ブラッドレー准将、準備はよろしいですか?」
 C47の操縦桿を握るパイロットが胴体部まで足を運んでブラッドレーに尋ねる。ブラッドレーは何も言わず、グッと親指を立てることで応えた。それを見たパイロットは頼もしげに敬礼を返すと操縦席へ戻り、スロットルを勢いよく押し開いた。
 P&Wツインワスプエンジンに燃料が送り込まれ、ハチの名を持つC47の心臓がけたたましく猛る。
 第八二空挺師団を乗せたC47の群れは、シアトルを発って北へと向かう。
 その行き先に説明の必要はないし、何が行われるかも説明不要であろう。
 そう、結城 光洋の懸念は当たっていたのだ。航空機によって歩兵を運び降下させると言う新時代の戦い、空挺降下というカタチで………。
 すべての歯車が滝沢にとって悪い形で噛み合おうとしていた。
 滝沢 紳司は己の野心によって滅ぶ定めなのか?
 結城 光洋は友の最悪を食い止めることができるのか?
 果たしてバンクーバーを手にするのは日米両軍のどちらなのか?
 その答えはすぐにわかるだろう。
 ただし、当事者にとってはとても長い日々の始まりである………。


次回予告

 空とは憧れである。
 空とは恵みである。
 空とは皮肉である。
 地べたで必死にもがく野心家を余所に、空は今日も天にある。

次回、戦争War時代Age
第一四章「野望の果て」


変われぬモノなどこの世にあるものか


第一三章「炎の定め」


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