一九四一年五月四日。
 それは一目見ただけで、感動に体を震わせてしまいそうな光景だった。
 フランス最大の軍港都市ブレストに百近い数の艦船が集結していた。大は戦艦や大型のタンカー、小は駆逐艦や海防艦までありとあらゆる艦種がブレストに集まっていた。そして、この大船団はただ集められたわけではない。いわゆる輸送船と呼ばれる船には武器弾薬からそれを使う兵士、さらには食料、医薬品までありとあらゆる物資や人材が積み込まれていたし、軍艦はその輸送船を護衛するべく殺気立っていた。
 これが第二次カナダ方面輸送船団を外観であった。軍艦の水兵から輸送船に身を預ける陸軍の兵隊まで、職種を越え、上下関係も越えて、誰もが近い将来確実に訪れる激戦に緊張していた。その張り詰めた雰囲気は、無関係の見物者を震えさせても不思議ではあるまい。
 第二次カナダ方面輸送船団総合旗艦、要するに船団を指揮するフネは戦艦リシュリューであった。四連装三八センチ砲塔を前部に二基、集中配置するという独特の形状をしたフランス海軍最新鋭の戦艦であった。
 リシュリュー艦橋に佇むのは船団を指揮するピエール・ボアソン総督であった。しかし誰もが緊張で体を強張らせる中、ボアソンだけは独り緊張感を持続できないでいた。
 無論、それには理由がある。この世の中、理由のないことなんてそうそうはない。何だって理由があるのが普通だ。
 では、ボアソンが緊張感を持続できない理由とは何であろうか? その答えを一言で表現するならば、こうなるだろう。
「バカバカしい………」
 ボアソンはそう呟きながら、第二次カナダ方面輸送計画に従って出港準備を進めている部下たちを見守っていた。



 アメリカ合衆国が、オルレアン同盟の内情をどの段階まで把握していたのか。
 それは後世の戦史研究家たちにとって、格好の稼ぎになっている。ある者は「アメリカは多民族国家である利点を活かし、各国の中枢にスパイを送り込んでいた」と主張し、その主張に則った本を売りさばいた(この本、実は戦史研究の書としては破格のベストセラー書なのだが、漫画は言うに及ばず、近年日本の狭い範囲で流行している、ライトノベルと呼ばれるマニア向けの小説などと比較するのもバカらしいほどお寒い数字しか売れていなかったりする)。またある者は感情的に、「当時のアメリカに確たる戦略はない」と主張していたりする。
 ここまで意見がバッサリ分かれているのは、要するに真実が未だに公表されていないということなのだが、少なくとも一九四一年春に行われる予定だった第二次カナダ方面輸送船団に関して言うならばアメリカはかなり正確な情報を仕入れていたといっていいと思う。アメリカの、俗に言うスパイたちは自分の功を誇りながら上層部に報告していたと思われる。事実、当時のスパイの書き残したメモなどからは、彼らの上機嫌さが窺えるフレーズを多く見つけることが出来る。
 もっとも、第二次カナダ方面輸送船団に関する情報の入手が容易だったのは当然だった。
 何故ならば百隻を越える大船団が注目されないはずがない。軍港と言う(地球規模で見れば)大して広くない空間に、万単位の人間が集まるとなればどうやったって目立つのが道理だからだ。まぁ、後世の立場から見た場合、その見解は若干異なる事になるが………それは今回のエピソードの根幹を為すので省略させていただく。
 とにかく、ここで把握してもらいたいのは、ヨーロッパで大輸送船団が組織されつつあったということ。それと、大輸送船団警戒のために合衆国海軍と基地航空兵力の多くが大西洋側に集結していた事………。以上の二点である。
 この二点を強調しながら、物語は本題へと入っていくのだ。

戦争War時代Age
八章「眞鐵の随人」



 大日本帝国にとって、単冠湾ヒトカップわんとは日本最北端の軍港だった。
 人が手を加えたわけでもないのに、かくも艦隊が集結するのに相応しい場所というのはそうそう見つからないだろう。信仰心の厚い者ならば、神という名の三人称のおかげだと連想するかもしれない。
 だが、彼は神の存在など信じていなかった。単冠湾に停泊する巡洋艦吉野の艦橋で、冬の名残が色濃い海風を頬に受ける結城 仁海軍大佐は徹底したリアリストであった。もっとも彼ののほほんとした顔つきと表情からそれを察する事は不可能に近いのだが。
 結城は軍服のポケットからタバコを取り出すと咥えて火を点けた。彼の父親、結城 繁治海軍中将は高級葉巻を好んでいるが、息子の結城 仁は父親のような高級葉巻を吸えるほど給料が高くはなかった。生まれたばかりの息子の将来のために給料のほとんどを貯金している彼が吸うのは大衆的な銘柄のタバコだった。
 結城 仁は紫煙を吐き出しながら、単冠湾を見回す。多数の輸送船と巡洋艦や駆逐艦がこの単冠湾には集められていた。
 弟、結城 光洋陸軍少佐が乗っているのはどの輸送船なんだろうか。結城 仁はそんなことを考えながらタバコを吹かし続ける。そして吸い終えたタバコをポイと放り投げる。投げ捨てられたタバコは海風に乗って単冠湾に飛び込んでいく。………あ、この光景、どこか風流だな。そんなことを考えている仁の背中で怒声が響く。
「艦長!」
 声の主は巡洋艦吉野砲術長を勤めている網城 雄介海軍少佐であった。細い眉毛を吊り上げながら、のしのしと仁に歩み寄る。
「艦長、何度言ったらわかるんですか。タバコを艦橋から投げ捨てないで下さい!」
 仁の耳元まで近寄った網城は最大限の声量で仁をしかりつけた。仁は、網城の大声でぐわんぐわんしている頭を叩きながら言った。
「そ、そこまで怒る事ないじゃないか、砲術長」
「いいえ、怒ります、怒りますとも! いいですか、私がタバコの兼で艦長を叱るのは何度目だと思っているんですか!」
「………五回目だったかな?」
「五回ぃ? つまり艦長は三回分、私の話を聞き逃しているのですね!」
 網城の声はますますトーンが高くなる。結城は鼓膜を激しく揺さぶられながら、この砲術長のことについて考えた。
 一言で彼を表現するのなら、網城 雄介は「夢に破れた男」だった。
 彼が海軍兵学校とその後の海軍大学で学んだのは砲術だった。彼の砲術理論は優れており、かつて戦艦扶桑の副砲を指揮した時は一割近い命中率を誇っていたと言う。つまり、彼は戦艦にとって必要な人材なのだった。しかし、時代は彼の登場を待たずに動いた。
 一九四〇年一二月八日のニューファンドランド沖海戦で、戦艦プリンスオブウェールズが航空機によって撃沈された。この戦艦の時代が終わり、航空機の時代の幕開けを告げたニュースは瞬く間に全世界を駆け巡り、帝国海軍では航空機偏重ともいうべき風潮が生まれ、網城 雄介にとって冬の時代が訪れたのであった。
 今後、戦艦の新造はゼロではないものの、その目的は艦隊決戦、敵戦艦との砲撃戦を交わすための物から、味方空母を護るための対空砲火の海上要塞や上陸作戦の支援砲撃などが主になることが決定されている。網城の技術は時代に取り残された形となっていた。
 網城は、自身のそんな境遇に苛立ちを覚えている。その苛立ちから思いにそぐわぬ部下を怒鳴り散らす事が多く、吉野の中でも孤立を深めつつあった。
 この傾向はよろしくない。吉野にとっても、網城自身にとっても………。
「艦長、今、関係ない事を考えていましたね!?」
 関係ない、か………。君のことを考えていたのだから、関係ないと言い切ってはいけないと思うが………。
 結城 仁の呟きは十倍以上の怒声の反撃を受けて沈黙を余儀なくされた。



 ここ、カナダ最大の都市であるモントリオールの高級ホテルの廊下に設置された喫煙コーナーは常に誰かが紫煙を吹かしていた。
「タバコくらいどこでも吸わせて欲しいものだな」
 そう言いながらパイプに葉を詰めているのは英国陸軍からカナダに派遣されたバーナード・モントゴメリー大将であった。
「まぁ、仕方ないでしょう。コロッサス様は虚弱ですから」
 参謀の言葉にモントゴメリーは頷きながらパイプに火をつけた。
 そう、オルレアン同盟カナダ方面軍の最高司令部があるこの高級ホテルには最新鋭の電子計算機コロッサスが持ち込まれていた。このロードス島の巨象の名前をもつ機械は天才と呼ばれる人種をはるかに上回る計算能力を誇り、おかげでカナダ方面軍の情報処理能力は格段に早くなり、カナダ方面軍は常に迅速な対応が可能となっていた。三倍近い合衆国陸軍を相手にしながら、戦線をほとんど下げることなく戦い続ける事ができているのはこのコロッサスのおかげだともいえる。
 だが、コロッサスは精密機器であり、ちょっとした出来事で簡単に壊れてしまうほどデリケートだ。タバコの煙がコロッサスに悪影響を及ぼす「かもしれない」という理由で、最高司令部での喫煙は規定の喫煙コーナーに限られていた。
「おや、モントゴメリー大将。休憩ですかな?」
 小脇に新聞紙を抱えた日本人がモントゴメリーの姿を見つけて頭を下げた。彼の名は結城 繁治。日本海軍の中将であり、日本からカナダ方面軍に派遣された男である。何ゆえに陸戦主体のカナダに海軍中将が派遣されたのだろうか。それはカナダの最前線が五大湖近辺である事に関係していた。五大湖は名目こそ湖だが、水深は一〇〇メートルを超えるほどだし、面積だって日本海並にある。この湖で海軍ならぬ湖軍が、制海権ならぬ制湖権を巡って争いを繰り広げるのだ。結城 繁治は五大湖の同盟湖軍の最高司令官を務めていた。また、結城 繁治には陰謀家としての側面もあり、彼の謀略によって同盟軍は計り知れないほどの戦果を挙げていた。
「………ユウキ中将、何を持っているのかね?」
 結城はモントゴメリーの視線が、自分の抱える新聞にあると気付くと新聞を喫煙コーナーのテーブルに置いた。モントゴメリーは置かれた新聞を覗き見るが、モントゴメリーには読めない字で書かれていた。結城は喫煙コーナーのソファーに深く腰かける。
「日本から取り寄せた新聞ですよ。気分転換にはちょうどいいと思いましてね」
 結城の英語は非のうち用がない。イギリス本土でもこれほど見事なキングスイングリッシュは聞けないだろう。モントゴメリーは肩をすくめながら尋ねた。
「失礼だが、この新聞は随分と程度が低そうだな?」
 モントゴメリーの言葉を聞いて結城は苦笑をこぼした。一面で踊る写真がプロパガンダ丸見えなのが目に付いたからだろう。先日の中部太平洋海戦で米戦艦部隊に大打撃を与えた戦艦大和の写真だが、×印がつけられた合衆国の戦艦の写真と並べて掲載されている。合衆国の戦艦など大和があれば恐れるに足らずといったところか。そしてモントゴメリーの予想は概ね的中していた。まったく、何という程度の低いプロパガンダだろう。
「だから気分転換にはちょうどいいんですよ。過酷な現実と戦う我々には、この小新聞のような低俗なプロパガンダが逆に心地よい」
 結城の言葉を聞いたモントゴメリーは天井を見ながら肩をすくめた。シゲハル・ユウキ。英国人でもここまでひねくれた男はそうそうおるまい。
「………ん?」
 声を詰まらせて新聞を見やる結城。モントゴメリーは何かあったのかと尋ねる。
「どうかしたのかね?」
「いえ、なかなか面白い標語を見つけましてね。『足らぬ足らぬは工夫が足らぬ』だそうですよ」
「ふむ。ある意味、真理に近い標語だな。無責任な他人の立場からは絶対に言われたくない言葉でもあるが………」
「確かに。ですが、我々は『工夫』しました。足らぬ兵力で合衆国軍の侵攻を抑えるため、必死の『工夫』を」
「ああ、そうだな」
 パイプを燻らせるモントゴメリーは目を細める。開戦以来、休まず行ってきた自分たちの工夫について思いを馳せているらしい。しかしモントゴメリーはすぐに表情を引き締めて言った。
「だが、『工夫しました』と過去形で語るのはまだ早いぞ。あの輸送船団が到着するその時まで我々に安息はないと思った方がいい」
「ええ、まったくその通りです」
 結城はそう頷くと新聞に視線を戻し、モントゴメリーはパイプの味を堪能する事に集中し始めた。



 一九四一年五月六日午前一一時二八分。
 合衆国最大規模の軍港を持つのはバージニア州ノーフォークだ。
 合衆国独立の以前から西インド諸島やイギリスとの貿易拠点として栄えていたが、独立戦争の際にイギリス軍によって市街全域を焼き払われると言う大損害を被った。しかし住民のたゆまぬ努力の結果、タバコの輸出港として再出発を果たし、成功を収めた。
 軍港都市としての役割が強調され始めたのは先の欧州大戦(最近、第一次世界大戦と呼ばれつつある)の頃に行われた軍事施設拡張工事のおかげだ。高速道路や橋梁が建造され、都市はますます発展し、さらにイーニアス・ガーディナー大統領の軍備拡張路線によって世界最大の軍港都市となったのだった。
 その世界最大の軍港都市に停泊しているのは第一六任務部隊であった。四隻の空母を有するこの機動部隊は開戦劈頭のニューファンドランド沖海戦で航空機のみの攻撃で戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを撃沈してみせ、世界初の「航空機による戦艦撃沈」を行った栄光ある部隊だ。
 その栄えある第一六任務部隊の指揮を取るのはウィリアム・ハルゼー中将だ。猛牛ブル戦う水兵ファイティング・セイラーといった過剰な血気を象徴するあだ名をいくつも持った、自他共に認める猛将である。猛牛は空母エンタープライズの提督用シートに腰を降ろし、爪きりで爪を切っていた。
 パチン、パチンと爪きりが爪を切断する音がエンタープライズの艦橋に響く。
「おい、まだ報告はないのか?」
 爪を切りながらハルゼーはこの日、八度目となる質問を口にした。参謀長のジェームズ・ベイツ大佐が即座に答える。その答えは前七回と同じ言葉だった。
「報告はまだありません」
「チッ、同盟軍の輸送部隊め、来るならさっさと来いってんだ。この第一六任務部隊様がすべて大西洋の藻屑にしてくれるってのに………」
 爪を切り終えたハルゼーはすっくと立ち上がると艦橋の窓から見えるノーフォークの光景に眼をやった。ハルゼーの網膜に空母サラトガが映る。かつてハルゼーが艦長を務めたこともある空母で、今は太平洋から増援として大西洋に回された第一七任務部隊の旗艦を務めている。
「ああ、レディ・サラか………」
 サラトガのニックネームを呟きながらハルゼーはサラトガに座乗する第一七任務部隊司令官であるフランク・フレッチャー中将のことを考える。
 俺は待つ事は性に合わない短気な男だが、フレッチャーはどのように感じているのだろう? 俺と同じでいつまでもブレストで出港準備に手間取っている同盟軍の輸送部隊に苛立ちを覚えているのだろうか? それとも表面上は落ち着き払って、時が満ちるのを待っているのだろうか………。
「提督! お待たせしました!」
 ベイツが思わずそう切り出してしまった報告が届いたのはそれから一時間後。ハルゼーがエンタープライズの食堂でチキンブロスに舌鼓を打っている時だった。ハルゼーは同盟軍大輸送艦隊出港の報告を受けると昼食を中断し、すぐさま第一六任務部隊の全艦に出撃を命令した。
 出撃準備がすでに完了している状態で待機していた第一六任務部隊の対応は素早く、午後一時半には第一六任務部隊の全艦がノーフォークを離れ、大西洋を進撃してくる同盟軍の大輸送艦隊迎撃に向かったのだった。



 ノーフォークと日本の時差は一〇時間である。ハルゼー率いる第一六任務部隊がノーフォークを出向した頃、単冠湾は夜の一一時を回っていた。
「空には厚い雲。月さえも眠る夜に光はなし………」
 結城 仁が謳うように呟いた。その言葉通り、単冠湾に光はなく、一面に黒の緞帳が降りていた。
 光のない闇の中を巡洋艦吉野は動き出す。その動きはゆっくりとしたものだが、止まることはない。わずかに靴底から伝わる震えは、吉野の機関室から伝わる鼓動だ。一三五〇〇〇馬力を誇る機関が、吉野に動力を与えている。
 結城は双眼鏡を手に取ると覗き、単冠湾を見回す。あちこちで吉野のように機関に火を灯し、ゆっくりと動き始めている船の姿が見受けられた。巡洋艦や駆逐艦だけではない。いや、むしろ一切の武装を施していない輸送船が半数以上を占めていた。
「北太平洋は荒れそうかい?」
 結城の質問に答えたのは航海長の国立少佐だった。見事にたくわえられた口髭を震わせながら口を動かしているのだろうが、この暗さではそれが見えることはなかった。
「我々はベーリング海に近い航路を進みますからね。ベーリング海は荒々しい事で有名な海ですから」
「私たちのような海軍軍人は時化にはなれているが………輸送船に乗っている陸さんは悲惨かもしれないな」
「そうですね、陸さんにとっては地獄の航海になるでしょうな。もっとも、ついた先も地獄かもしれませんが」
 国立の言葉に結城は苦く微笑んだ。自分の発言のウケが思ったより悪かったことに国立は若干不満そうな息を吐いたが、それ以上は口に出して何も言わなかった。



 一九四一年五月八日。
 太陽が南から西に、その身を動かそうとしていた頃、ブレストを発った大輸送船団は大西洋をまっすぐ、カナダに向かって突き進んでいた。
 すでにその姿はアメリカ合衆国海軍に発見されている。百を超える大船団がまったく敵に気付かれずにカナダまで大西洋横断できたなら、それは奇跡と呼ばれるか、あるいはよっぽどマヌケな敵を相手にしているかだ。合衆国海軍はマヌケなどでは決してなく、そして奇跡は起こらないからこそ奇跡だ。
 それに、この輸送船団が敵に発見されたとしても、残念がる必要はまったくなかった。
「………そろそろ頃合かな?」
 航海図と時計を交互に見つめたボアソン提督は、この万を超える単位の人間が集まる大船団を唖然とさせる命令と飛ばした。
「よし、では面舵一八〇度。これより我が船団はブレストに帰る」
 まったくの前情報なしにそう命令された船団の面々はボアソンの正気を疑った。この船団が輸送する予定の陸上兵力がなければカナダの戦いはジリ貧で敗北してしまうのではなかったのか? だのに、どうして反転を命じるのだろうか!?
 旗艦リシュリュー艦橋ではリシュリュー艦長を筆頭に、ボアソンの反転命令に対する説明と撤回を求める動きが生じていた。ボアソンは周囲の参謀たちに目配せすると、懐から一冊の本を取り出して艦長たちに放り投げた。そしてボアソンは一度だけ頷いて、その放り投げた本を読むように勧めた。艦長たちはその本に目を通し、まるで信号機のように表情を目まぐるしく変化させた。
「こ、これは………」
 信じられないと言いたげなリシュリュー艦長の言葉を引き取って続けたのはボアソンだった。
「そう、我々は囮。合衆国海軍の目を引きつけ、真打ちの輸送船団に対する注意を逸らすための囮なのだ。この作戦は、陸戦で言うところの誘致を徹底的に極めた物なのだよ!」



 北太平洋を航行する大日本帝国の輸送船団に属する輸送船柏丸の船首は荒れる波間に激しく揺さぶられながらも波を確かに切り裂いていた。
「なるほど………。確かに陸戦で言うところの誘致ですね、この作戦は」
 柏丸のトイレで用を足しながら帝国陸軍大尉の南 もえるはそう言って頷いた。彼の背後では苦しそうにゲェゲェ吐き続ける上司の醜態があった。南の上司である帝国陸軍少佐結城 光洋は船酔いで青ざめた顔で言ったのだった。
「この輸送作戦は誘致の概念を突き詰めた作戦だ」、と。
 誘致とは、簡単に言うならば敵の目を一点にひきつけつつ、注意の及ばぬ別方向から奇襲をかけるという作戦上の概念だ。意識を逸らされ、丸出しになった柔らかい横腹を一気に刺すのが誘致の理想であるが、今回の作戦はその誘致を極めた作戦だといえた。
 同盟軍は大西洋を横断し、大兵力をカナダに上陸させるための輸送船団を大々的に準備することで合衆国海軍の目を引き付けた。その結果、合衆国海軍は太平洋艦隊の空母を大西洋に回航させ、大西洋における航空戦力を増強。輸送船団迎撃の準備を整えていた。
 しかし同盟軍の本命は太平洋の西端に位置する大日本帝国が企画した輸送船団だった。大西洋の裏側に位置する太平洋を征く輸送船団を迎撃する事は如何な猛牛ハルゼーといえども不可能だ。
 無論、合衆国海軍太平洋艦隊は空母数隻を大西洋に回航したといっても依然大艦隊を誇っている。太平洋方面で輸送船団が意図されても充分に迎撃できるほどに。だが、その太平洋艦隊は先日の中部太平洋海戦で痛手を受け、出撃不能に陥っていた。今や太平洋に障害はない。荒波を越えて、日本陸海軍はカナダを目指すのだ。
 二重、三重に張り巡らされた罠のすべてが意図された通りに機能していた。単冠湾を出港した日本の輸送船団は荒波を切り裂いてカナダへの上陸を果たすことになるだろう………。
 すでに胃の中の物すべてを吐き出しているにも関わらず、結城 光洋は吐き続けていた。北太平洋の荒波は陸軍少佐にとって辛すぎる環境だった。彼は胃液すら吐きながら今回の作戦を立案した男のことを思い浮かべる。結城 光洋はその男の顔をしわの一本まで正確に思い描く事が出来た。なぜなら、この作戦を立案した男と言うのは結城 光洋の父親だからだ。
 オヤジか………。神の如き計算と、悪鬼の如き謀を両立させる、一流の指揮官。人は結城 繁治オヤジをそう評する。しかし結城 繁治の次男である光洋は父を評価する事が出来なかった。
 その理由はあの時からだ。忘れもしない、一九三二年五月一五日のことだ………。
 結城 光洋が過去のことを思い出そうとした時、それをつんざく警報の音が柏丸に鳴り響いた。
「何だ、このサイレンは?」船酔いでハッキリしない頭で南に尋ねる。その質問の答えはスピーカーから流れてきた。
『総員戦闘配置! アメリカ軍の爆撃機が接近している!!』



 日本の輸送船団を襲ったのは、アラスカから飛びたったB17爆撃機一七機、SBDドーントレス二三機だった。
「おっとり刀で駆けつけたっていう所かな」
 吉野の艦橋で結城 仁はポツリと呟いた。その評価はアメリカ軍の攻撃隊を正確に表現していた。戦闘機の護衛をつけず、爆撃機だけで出撃させているのが何よりの証拠である。
 しかし輸送船団に空母は随伴していない。航空攻撃には滅法弱いと言わざるをえない………。
「だけど、この吉野がいる限り………誰一人としてやらせはしないさ」
 結城 仁はのんびりとした口調に、背筋を凍らせるほどの決意が込められていた。仁は皆の視線を振り上げた右手に集める。そして静かに、しかし力強く手を振り下ろす。それは結城 仁が定めた合図だった。合図は命令に翻訳され、射撃指揮所に座する網城 雄介の元へ届けられる。
「………ふん!」
 網城 雄介は鼻を鳴らしながら、ぶっきらぼうに告げた。
「撃ち方、始め!」
 網城の命令からわずか数瞬後、吉野は艦のあちこちが爆ぜた。いや、決して被弾して爆発したのではない。吉野の全長一八六メートルの船体のあちこちに搭載されている対空砲火が射撃を開始したのだ。
 合計二四門の六五口径一〇センチ砲、通称「長一〇センチ砲」が赤と黒の花びらを裂かせる。
 赤い線を引くかのように絶え間なく火を吹き続けるのはスウェーデンからライセンスを購入した四〇ミリ機関砲。従来の対空機関砲とは比べ物にならぬ威力と射程が強みである。
 対空巡洋艦 吉野。来るべき航空主兵の時代に備え、日本海軍が作り上げた防空を専門とする巡洋艦である。一隻で一個戦隊にも匹敵すると言われる吉野の対空砲火は、その評判通りの活躍を見せていた。
 輸送船団の中央部に陣取り、どの位置から攻められても等しく火力を被せる事ができるようにした吉野の、正確無比な射撃は合衆国陸軍のB17と海兵隊のSBDの出鼻をくじくには充分であった。
 鼻先で一〇センチ砲弾が炸裂し、破片がドーントレスの翼を引き裂き、翼をもがれた「恐れ知らず」は海面に急降下………。
 合衆国陸軍が誇る重爆撃機B17といえども四〇ミリという破格の大口径機銃弾の直撃には一たまりもなかった。まるで魔獣が力任せに引き裂いたかのように命中した箇所が消えうせる。命中箇所が消える事によって生じた傷口はB17から飛ぶことを奪っていた。フライグフォートレス、「空飛ぶ要塞」の愛称を持つB17から飛ぶ事を奪えば、それは「落ちる要塞」であった。落ちる、即ち陥落していくB17。
 吉野はたった一隻で、未曾有の大戦果を示していた。アメリカ軍が送り出した攻撃隊のうち、七割が撃墜され、撃墜された機体の八割が吉野の戦果であったと日本軍の公式記録は残している。無論、これは吉野の性能を誇張するために捏造されたモノだという意見も確かに存在するが………しかし、当時、この記録を疑うものは誰一人としていなかった。
 後に、合衆国海軍機動部隊にとって死神の代名詞とまでいわれるようになる対空巡洋艦 吉野の戦争は、こうして幕を開けたのだった。



 一九四一年五月一七日。
 帝国海軍が護衛する輸送船団は一隻の喪失も出すことなくバンクーバーに入港した。
 そして即日、カナダに上陸して最前線へと向かうことになる帝国陸軍第二五軍。率いるは山下 奉文中将。
 結城家の次男、結城 光洋は第二五軍に属する一歩兵大隊を指揮する大隊長としてカナダの土を踏んだのであった。


次回予告

 雪が溶け、緩んだカナダの大地を踏みしめる二本の足。
 泥を彩るのは赤の色。
 情熱の色、炎の色、そして血の色………。

次回、戦争War時代Age
第九章「カナダの戦い<2>」
それは時代遅れの最新鋭。


第七章「信頼への秒読み」

第九章「カナダの戦い<2>」

書庫に戻る
 

inserted by FC2 system