宇垣 纏。
 明治二三年二月一五日生まれ。出身地は岡山県。
 明治四五年に海軍兵学校を四〇期生として卒業。卒業成績は一四四人中九番であった。海兵卒業後は砲術学校高等科で学び、砲術の知識を深める道を選ぶ。そして海軍大学校に二二期生として入学。卒業後はドイツに派遣されたり、海軍大学校の教官に任命されたり、連合艦隊の主席参謀に任命されたりとエリートコースを歩み続けてきた。
 性格は真面目一徹であり、勤務中常に無表情であることから「黄金仮面」と揶揄されるほどであった。



 山木 竜馬。
 明治三八年五月一〇日生まれ。出身地は大阪府。
 幼少の頃から背は高かったが、押しが弱く、ちょっとしたことでよく泣く子供であったといわれている。しかし小学校尋常科を卒業する頃には泣き虫の影は潜め、陽気で奔放な性格が形成されていた。その人格形成には尋常科で教鞭を振るった教師の影響が強いと本人は言っている。
 ともあれ小学校高等科まで進んだ山木はその後の進路として海軍兵学校を選択する。この選択は彼の祖父が日本海海戦に参加し、祖父がまだ幼い山木を膝に抱きながらその時のことを何度も話していたことに起因していた。
 五二期生として海軍兵学校に入学した山木であるが、決して優秀な生徒とはいえなかった。出世欲に乏しい彼は「卒業して海軍士官にさえなれたらいい」と公言し、授業中に平然と居眠りをしていた。そのくせ試験成績はそれほど悪くないのだから兵学校の教官連中は困った顔をしていたという。
 海兵卒業後はずっと艦に乗り続ける、いわゆる「海の男」として活躍。士官でありながらも偉ぶることはなく、上官よりも部下、とりわけ兵に対する人気が高かった。



 この性格も経歴も正反対である二人が出会ったのは帝国海軍第三艦隊という枠組みの中であった。
 帝国海軍の保有する戦艦の大半が集まった最強の砲戦能力を誇る艦隊。
 宇垣は第三艦隊の長官として。山木は第三艦隊旗艦大和の艦長として。
 この二人が帝国海軍最強コンビとして勇名をはせるきっかけとなったのが中部太平洋海戦であった。

戦争War時代Age
七章「信頼への秒読みカウントダウン



 一九四一年四月五日午前一一時一〇分。
 対馬海峡を一隻の貨物船が航行していた。朝鮮半島に生活必需品を運ぶ任務を帯びた貨物船万景峰はプサン港を目指して北上を続けていた。
 万景峰の船長を務めるのは今年で五七歳になる片桐 直という男であった。一八歳の頃から船に乗って四〇年。世界中のあちこちを船で回ってきた海の男であった。
「船長、あれを見てください」
 片桐は船員が指差す方に眼を向けた。片桐の老眼が進んだ視界に映ったのは艨艟と呼ばれる軍艦たちであった。二隻の戦艦を先頭に、巡洋艦や駆逐艦が十数隻ほど続いていた。
「おお、ありゃ連合艦隊じゃな。日本海で訓練を行うのかな」
「にしても大きいですねぇ。この船なんか一発で沈められそうだ」
 連合艦隊の戦艦部隊は万景峰の傍を通って日本海への航路を進む。その際に艦隊は手空きの甲板要員全員で万景峰に敬礼してみせ、そして発光信号で『ヨイ航海ヲ』と送ってみせた。これに万景峰の乗員たちは喜び、そしてあのような艦隊があるならば日本の海は安全であると確信したのだった。
「………ん?」
 しかし片桐船長は何か違和感を感じたらしい。しきりに首を捻っている。
「どうかしましたか?」
「いや、な。実は儂の息子があの艦隊にいるはずなんだ」
「へぇ、そうなんですか? で、どの艦に乗っているんです?」
「うむ、陸奥に乗っているんだ。だが、陸奥はあの艦隊と一緒じゃないようじゃな」
「え?」
「息子が言うには金剛級を除く連合艦隊の戦艦はすべて第三艦隊とかいう艦隊にまとめてあるらしいんじゃが………何かあったのかな?」
「出撃………ですかね?」
「まぁ、儂らが詮索していい話でもあるまい。儂らはプサンへの航路を無事に終わらせる事だけを考えるんだ」
 片桐はそう言うと連合艦隊に対する会話を打ち切った。日向と伊勢に率いられた第三艦隊はそのまま日本海で訓練を開始した。その際の無電は『第三艦隊全艦は日本海に到着。これより訓練を開始する』であったという。



 一九四一年四月一三日午後二一時二四分。
 真珠湾攻撃を計画通りに成功させた第一航空艦隊であったが、その帰路は計画通りにはいかなかった。第一航空艦隊の帰路を予測し、見事に当ててみせたマーク・ミッチャー率いる第五八任務部隊の執拗な攻撃を受けた第一航空艦隊は空母加賀と蒼龍を失い、赤城、飛龍、翔鶴を中破させられていた。機関部にダメージを受けた赤城、飛龍、翔鶴の三隻を抱える第一航空艦隊の速力は低下の一途であった。
 しかし第一航空艦隊を率いる南雲 忠一中将はこの夜の闇を利用し、一気にトラック諸島まで引き返すつもりであった。燃料を気にせず、最大速力でトラックを目指す第一航空艦隊。
 だが、アメリカ海軍の追撃は第五八任務部隊によるものだけではなかったのだった………。
「ふっふっふっ。ようやく出番が回ってきたぜ!」
 三三ノットの快速を誇る高速戦艦アイオワ、ミズーリを中核とする第六七任務部隊が第一航空艦隊と第五八任務部隊の激突の間に先回りし、第一航空艦隊の進路上に立ち塞がったのだった。夜の闇に紛れて第一航空艦隊を視認できる所まで接近していた第六七任務部隊が四〇センチ砲の発砲炎を煌かせながら迫ってくる。
「戦艦部隊………ッ! あれが米軍の切り札だったか………」
 本来ならば戦艦部隊は切り札とはならなかっただろう。いくら高速戦艦といえども射程距離が航空機よりはるかに短い戦艦では空母の敵ではないからだ。しかし夜の闇と、そして何より機動部隊である第五八任務部隊が総力を挙げて第一航空艦隊の目をくらまし、第六七任務部隊を最後の切り札としたのだった。護衛として連れてきていた戦艦金剛と霧島に重巡部隊と水雷戦隊を預け、第六七任務部隊の接近を止めるように命令する南雲。しかし分の悪い戦いであることは否定できなかった。
 金剛と霧島の主砲は三六センチ。アイオワのそれは四〇センチ。主砲の大きさで致命的な差があり、さらに最新鋭戦艦であるアイオワ級と連合艦隊最古参の金剛級では艦齢も異なる。特に元々は巡洋戦艦である金剛級の防御力は低く、アイオワの砲撃を受けたら一撃で轟沈もありえるだろう。金剛級二隻に勝ち目は見出せそうになかった。
 だが、虎の子である空母を護るために南雲は金剛級を死地に向かわせるのであった。
 ………すまぬ。いつか私もこの世を去る時が来る。その時に謝らせてもらう………。南雲は胸中でそう呟きながらアイオワ級へ立ち向かう金剛たちを見送った。
 そして砲撃戦が開始される。
 連合艦隊最古参の戦艦である金剛だが、それだけに乗員の錬度も高い。最初に命中弾を出すのは我々だ。金剛艦長の小柳 富次大佐はそう考えていた。そしてこちらが命中弾を出し、相手が命中弾を出すまでの合間に相手の艦橋にでも直撃してくれれば………。小柳は拳を硬く握り、そして神に祈る。だが神は、現実は残酷であった。
 先に命中弾を出したのはアイオワだったからだ。
 金剛に降り注ぎ、そしてその装甲に牙を立てた四〇センチ砲弾は一発。それは金剛の艦尾に大きな穴を開け、開いた傷口からは海水が浸入する。浸水で速度をガクリと落とした金剛。その金剛に今後も容赦なく四〇センチ砲弾が放たれるだろう。すでにアイオワの照準は金剛を正確に捉えているのだから。



「参ったな………」
 第一航空艦隊が米戦艦部隊の攻撃を受けているとの報告を入手した統合作戦本部では天地がひっくり返ったかのような慌しさにあった。遠田 邦彦統合作戦本部長は内心の焦りを必死に隠しながら煙草を吹かしていた。
 アメリカの太平洋艦隊に高速戦艦が二隻配備されたと言う情報は早期に入手していた。だがその速力はせいぜい三〇ノット程度で、機動部隊の快速ならば追いつかれる事はない。遠田はそのように考え、アイオワ級二隻を問題視していなかった。故に敵機動部隊に対する手しか南雲に授けていなかった。
 だが、高速戦艦アイオワ級の速力はこちらの想像を超えていた。詳細は後で知ることになるが、アイオワ級の速力が三三ノットもあると思っていなかった。この情報をもう少し早く入手できていたならばもう一手打つ事もできただろうが………。
「クソッ、後悔、後悔だなんて………」
 遠田は吸い終えたタバコを灰皿に押し付ける。もはや打つ手はない。
 こんなことなら海軍の混乱を招いてでも連合艦隊の暴走を止めるべきであった!
 遠田にできることは自らの認識の甘さを後悔する事だけであった。



「凄いな………。夜戦でいきなり命中弾を出すなんて………」
 アイオワに座乗するダニエル・キャラハン中将は四〇センチ砲弾の直撃を受けて炎上する金剛を見ながらしみじみと呟いた。今までの常識ならば、夜の帳の中での砲撃戦は命中率がどうしても低下してしまっていた。真っ暗な中では敵の正確な位置が掴みづらいからだ。しかしアイオワには射撃用のレーダー設備があり、電子の目で敵艦の距離と方位を割り出していたのだった。故にアイオワにとって砲撃とは、昼夜問わず正確に行えるものだった。
「まぁ、いい。あの旧式戦艦は一〇分で仕留める。そしてその後はお待ちかねの空母食いだ! 全艦、突撃ィ!!」
 キャラハンは上機嫌で指で第一航空艦隊の空母群を指し示す。キャラハンのみならず、第六七任務部隊の誰もが自らの勝利を疑っていなかった。
 そんな瞬間、アイオワのすぐ近くに砲弾が落下する。その照準はまだまだ命中には遠い。しかし着水によって巻き上げられた海水が滝のように落ちてアイオワの甲板を叩く。そしてアイオワはその激流によって波間の木の葉のように揺さぶられる。
「………おい、被弾でもしたか?」
 揺れが収まってから艦長に確認するキャラハン。しかしアイオワは被弾などしていない。水柱が崩れ落ちる際に甲板が洗われ、見張り員の何名かがさらわれたという報告はあるが、まだ被弾はしていない。艦長は自信を持ってそう答えた。艦長の自信満々の返事を聞き、顔を蒼ざめさせるキャラハン。
「提督? いかがなさいましたか?」
 急に表情を変えたキャラハンを気遣う参謀の声。キャラハンは参謀の呑気に怒鳴った。
「馬鹿者! お前たちは、まだ気がついていないのか!?」
「は?」
「今、我々が戦っているのは三六センチ砲のコンゴウクラスだ。そのはずだった………」
 金剛の放った三六センチ砲弾がアイオワを夾叉する。その揺れは先ほど、キャラハンが不審に思った物とは比べ物にならぬほど穏やかだった。キャラハンは艦内通話が可能な受話器を手に取り、レーダー員を呼び出す。
「私だ。レーダーに何か映っていないか? ………前方のジャップ以外に、何かいないかと聞いているんだ!?」
 数十秒の沈黙。そしてレーダー員はキャラハンに報告する。「四時方向に敵艦隊の反応あり」、と。
 そしてついにアイオワに突き刺さる三六センチ砲弾以上の破壊力を誇る巨大砲弾。たった一発でアイオワは左舷側の両用砲を根こそぎ破壊される。まるで雷神トールが自慢のミョルニルを振り下ろしたかのような破壊力であった。



「な、何だ………これは、一体………!?」
 驚いたのはキャラハンだけではない。むしろこの近海に味方がいるはずがない。そう思っている第一航空艦隊の方が驚きが大きかった。どこから現れたかわからない謎の艦隊が第六七任務部隊に砲撃を浴びせている。どうやら味方のようであるが、一体どういうことであろうか………? 唖然とする第一航空艦隊将兵に一通の電文が舞い込む。
『我は帝国海軍第三艦隊旗艦大和。これより貴艦隊脱出支援を行わん』
「第三艦隊、だと………?」
 第三艦隊がこの作戦に参加するとは聞いていない。確か第三艦隊は日本海で訓練中であったはずでは………?



「まさかこれほどまでに最高のタイミングで登場できるとは思わなかったぜ」
 大和の夜戦艦橋で笑みを浮かべているのは山木 竜馬であった。
「直樹、両舷全速! 一気に距離を詰めて、四六センチ砲をぶち込んでやる!」
『宜候でございます』
 大和の一五万馬力にも達する機関が全力を振り絞る。一気に加速を始める大和。その速力は二七ノットを超え、三〇ノット近くまで達していた。大和の後ろに続いていた長門と陸奥が追いつけず、大和との距離を離される。
「長門と陸奥に打電しろ。『本艦は先行し、敵一番艦を叩く。長門と陸奥は二番艦を叩け』とな」
 第三艦隊司令長官宇垣 纏の指示が飛ぶ。
「一気に行くぜ!!」



 第一航空艦隊の危機の中、絶好のタイミングで現れた第三艦隊。その戦力は大和と長門、陸奥の三戦艦と駆逐艦六隻だけであったが、しかしそれだけで第六七任務部隊の優位を覆すのに充分であった。
 四六センチ砲を搭載し、当時としては世界最強の戦艦であった大和は言うまでもなく、長門陸奥の両艦も四〇センチ砲を搭載しており、その砲力はまだまだ第一戦で通用していた。この増援のおかげで第一航空艦隊は危機を脱することになる。
 戦後、統合作戦本部が公表した情報では、この時の大和は統合作戦本部からの密命を帯びて出撃したのだとされている。しかし遠田 邦彦はアイオワ級の戦力を低く見積もっており、故にこの状況を招いてしまっていた。つまり軍令部がこの三戦艦の出撃を許すはずがなかった。
 そう、この第三艦隊出撃は第三艦隊の独断で行われたのだった。日本海で行われるはずの訓練が実弾を用いた物であったのは幸いだった。燃料も満載状態で出航していたので、中部太平洋に進出することも簡単だった。
 これは明確な反逆であった。上層部の命令を聞かず、独断で艦隊を動かすのだ。当然、大問題である。
 しかし今回の一件を発案した男、山木 竜馬に悔いはなかった。現に第一航空艦隊最大の危機を救いつつある。それにもしもこの反逆が何の意味もなさなかったとしても、あのまま航空主兵派に冷や飯を食わされ続けるよりははるかにマシだと思っていた。
 だが、この反逆で最大の障壁となったのは第三艦隊の司令長官であった。すなわち宇垣 纏である。実直な宇垣が山木の反逆を許すはずがない。それは山木自身もそう思っていたし、山木はある意味宇垣の存在を最終安全装置だと思っていた。宇垣がいる限り、反逆は意志だけで終わるだろう。反逆の準備を進めながらも山木はそう考えていた。
 そして一九四一年三月二八日。出撃に迫られ大童な第一航空艦隊を尻目に、山木は宇垣の私室を訪れた。
「艦長、本気で言っているのかね?」
 宇垣は山木をジロリと睨む。表情からは感情を読み取ることが出来ない、相変わらずの黄金仮面っぷりであるが、その視線には明確な意思が窺えた。しかし山木は微塵も動じる事はなく、胸をそらして言ってのけた。
「本気です。私は、この大和を床の間の飾りにしておくつもりはありません」
「その考え自体には賛成だ。しかし………」
 宇垣は大和の壁面に拳を打ち付ける。
「こういうことは正規の手順を踏まなければならない。組織とは大きければ大きいほどに個人の感情を犠牲にしなければならないんだぞ」
「そのこともわかっています。ですが、それが有効なのは組織が正常である場合ではないでしょうか」
「何ぃ!?」
 貴様、我が海軍が正常ではないというのか! 宇垣にとっては珍しく、口から荒い怒声が発せられた。発した本人自身が自分の怒声に驚きを感じていた。このように感情を表に出すのはどれくらいぶりだろうか。
「航空派が平家のように肩で風を切る。航空派以外は海軍ではないというような今の海軍が、正常だとはとても言えません。戦争とは一つの兵器で行う物じゃない、すべての兵種が手を取り合って戦うものです!」
「………確かに、そうかもしれん。だが、それとこの計画、第一航空艦隊の帰路を護衛すると言う計画に何の関係がある?」
 宇垣は山木の自論を直接非難する事はしなかった。それが正論であり、宇垣もそう感じているのだろう。だから宇垣は話の方向を逸らした。
「これは一種の賭けなんです。作戦としてはハワイ攻撃後にジョンストン島を通過、攻撃を行いながらトラックへ帰還することになっている。でも、私はこの前提が簡単に崩れ去ると思っています。敵機動部隊にもしも捕捉されたら? 第一航空艦隊に損傷艦が出て、艦隊速力が落ち込んだら? そしてそこをアメリカの高速戦艦に襲われたら………?」
 山木は独自の書き込みが加えられた海図を宇垣に見せる。それにはアメリカの高速戦艦の速力が三〇ノットだとし、第一航空艦隊の速力が一〇ノットとして計算して互いの航路を書き記していた。その航路は第一航空艦隊がトラックに入港するまでに重なり合っていた。つまり第一航空艦隊が損傷した場合、アメリカの高速戦艦に捕捉される可能性がある事を示していた。
「………ではそのことを統合作戦本部に上申すればいいじゃないか」
「今の風船みたいに自意識が膨らんだGF首脳部が握りつぶしますよ、こんな話。古今東西、味方が負けると予想する者は意見を取り上げてもらえないのが常ですから」
「だが………」
「長官」
 山木はずいと上半身を前に出し、宇垣の目をじっと見据える。そして一つだけ質問する。
「長官にとって、海軍とは何ですか?」
 宇垣はこの質問に即答できなかった。海軍奉職以来何十年、宇垣はそんなことを考えたこともなかった。だから宇垣は腕を組み、少し考えた後で答えた。
「私にとって海軍とは………かけがえのないものだ」
 そのかけがえのないものに邪険にされ、冷遇されている現状。宇垣は自分の言葉を信じ込む事すらできなかった。
「それは自分を犠牲にするほどのものでしょうか?」
「え?」
「私はそうは思いません。私にとって、海軍とは手段です。自分の能力と個性を表現するための手段です。海軍が私にとって重荷となるならば、私は海軍を遠慮なく捨てますとも」
「お前………」
「ですが、私はできる限りのことはしたい。私は、私の海軍を取り戻すために今回の事を行うのです!」
 私の海軍を取り戻す。その言葉は宇垣の胸に大きな波紋をたてた。
 自分は何を思って海軍に入ったのだろうか。日本海海戦で歴史的勝利をあげた東郷 平八郎元帥に憧れて? 鋼鉄の艨艟たちの雄姿に魅せられて? 海の向こうにある浪漫に心を躍らせて?
 理由はもう思い出せないが、しかしこれだけは思い出せる。自分は、海軍と言う手段を使って、山木の言う「自己表現」を行おうとしていたのだ。そうだ、自分は海軍に夢を託したのだ。それは世間知らずの淡い夢。だが、宝石よりも清く光り輝いていた願い。
 ああ………。宇垣は長らく忘れていた感覚を思い出し、それを懐かしんでいた。いつからだろうか、自分は海軍を手段とするのではなく、海軍の手段として生きていた。だから、だから私は表情を消し、黄金仮面と揶揄されるほど淡々と任務をこなしていたのだろうか。
「………長官?」
 山木は心ここにあらずといった風の宇垣に怪訝な声をかける。宇垣が山木の呼びかけに応えた時、宇垣の声色はハッキリと変わっていた。それは夢を追いかける少年のように活力に満ちた声だった。
「艦長!」
「は、はい」
 宇垣の声色の豹変に山木は驚きを隠せなかった。端的に言うならば、「おいおい………本当かよ」である。
 あの、海軍随一の真面目一徹の頑固者が、俺の言葉に揺れ動かされたっていうのか。
 宇垣は自分の心を覆い隠していた仮面を脱ぎ捨てていた。宇垣は快活な声で言った。
「行こうか、俺たちの海軍を取り返しに!」
 宇垣はぽかんと口を開けている山木にある表情を見せた。唇の端を緩やかにつりあげる、その表情、それは笑顔であった。宇垣 纏は数十年ぶりに笑顔を取り戻したのであった。



 ………だから俺たちはここにいる。
 大和の夜戦艦橋で、これまでの成り行きを反芻していた宇垣は心の中でそう呟いた。山木の言葉で、あの頃の純粋な気持ちを再び呼び起こす事ができた宇垣は全身から活力を発揮し、一〇歳以上若返ったように見える。
「敵一番艦、発砲!」
「気にするな、敵は速力を重視した高速戦艦。砲力はたいしたことないはずだ!」
 山木はそう言って乗員の士気に油を注ぎ続けている。山木は大和の主砲が咆哮をあげる度に精神が高揚していくのを感じていた。
 まさかあの宇垣長官が俺の言葉に乗ってくれるとは思わなかった。聖書にはこう書かれていると言う。「求めよ。されば与えられん」。キリスト教には縁がないが、いい言葉だと思う。俺は、この状況を望んだ。そして求めた。俺の求めに応じて、運命は俺に味方してくれた。運命とは何だ? 運命とは、すなわち………。
 バッ
 突如、山木は右手を高らかに掲げてみせた。艦橋にいるすべての将兵の視線が山木に集まる。山木は全身に集まる視線に対し、芝居がかった口調で言ってのけた。
「今、俺たちは天を味方につけている。何も恐れる事はない。俺たちは、勝つ!」
 それは山木の絶対勝利宣言だった。いや、宣言などではない。これは、決定事項なのだ。断言といっていい。
 山木の力強い断言に、大和の士気は沸点をさらに超えた。天を衝かんばかりの士気は大和乗員の力を、確実に高めていた。この夜間砲戦での大和の砲撃命中率は三割に達していた。この事実がすべてを現しているといっていい。
 大和は、確かに天を味方につけていた。



 たまったものではないのが大和と砲火を交わすアイオワに座乗するキャラハンであった。
「ひ、被害報告ーッ!」
 アイオワが被弾する度に艦長が悲鳴に近い叫びをあげ、被弾箇所から悲鳴が報告として届く。阿鼻叫喚の地獄絵図の中、キャラハンは握った拳を震わせていた。
 すべて、そう、すべてが上手くいっていたはずなのだ。ミッチャーの策は当り、俺はジャップの機動部隊を捕捉していたのだ。だのに、だのにこの有様。
「主よ! 貴方は私のことが嫌いなのですか!?」
 キャラハンが絶叫しながら天に問いかける。天の答えはすぐさま出た。アイオワの艦橋に大和の放った四六センチ砲弾が命中し、ダニエル・キャラハンを始めとする一同が揃って戦死したからだ。アイオワは、否、第六七任務部隊は徹底的に天に見放されていたのだった。



「………戦艦アイオワ級二隻、巡洋艦三隻、駆逐艦一〇隻撃沈。第六七任務部隊は戦力の七割を撃沈されるという大敗を喫して後退」
 一九四一年四月二七日。
 山木 竜馬と宇垣 纏の両人は統合作戦本部の呼び出しに応じ、統合作戦本部長遠田 邦彦の許を訪れていた。
「今回の一件は、すべて私が計画したものであり、宇垣長官は無関係です。罰は、すべて私が受けます!」
 山木はそう言って、すべての処分は自分独りに下すように願った。遠田はそんな山木をジロリと睨む。調子に乗るな、と言いたげな目であった。
「たかが大佐如きの妄言に、よく乗ったな、宇垣中将」
 遠田は目で山木を黙らせると、質問の矛先を宇垣に向けた。宇垣は憑き物が落ちたと言わんばかりのすがすがしい表情で答えた。
「弁解はいたしません。すべてを統合作戦本部長にお任せします」
「ふん」
 宇垣のあまりに潔すぎる言葉に遠田は鼻を鳴らした。
 そりゃ、これだけのことをやれば現世に対する未練もなくなるだろうさ。
 第三艦隊の命令違反のおかげで第一航空艦隊は危険を脱する事に成功し、さらに合衆国の第六七任務部隊を文字通り壊滅させることができた。第一航空艦隊の行った真珠湾奇襲とあわせると半年以上、合衆国太平洋艦隊は大人しくせざるを得ないだろう。
「………知っているかね。今、我が国はヨーロッパ諸国と共に大戦争、総力戦を戦っている事を」
「……………」
 遠田の言葉に山木と宇垣が顔を見合わせる。
「総力戦とはすなわち、使えるものはすべて使うということだ。命令違反を犯して突っ走るような輩も含めてな」
 遠田はそう言うと一枚の書類を宇垣に手渡した。
「これは命令書だ。いいか、お前たち第三艦隊は統合作戦本部の密命によって出撃し、第一航空艦隊を救援した。これが公式の発表だ。お前たちは胸を張って、堂々としろ。そして次も合衆国の艦隊を水葬にしてやれ、いいな!」
「本部長………!」
「ただし、今後は統合作戦本部の命令は厳守だから! また今回みたいな暴走をやってみろ、今度は航空屋に命令して、お前らの艦隊全部沈めてやるからな!!」
「は、はい! 肝に銘じておきます!!」
「ああ、それからこれは戦勝祝いの辞令だ」
 遠田はそう言うと山木と宇垣にもう一枚の書類を手渡した。それは昇進の辞令ではなかった。一つの命令がそこには刻まれていた。それは………。



「………お前、何やってんだ?」
 一九四一年五月三日。
 統合作戦本部に用があって訪れた結城 光洋陸軍少佐は、統合作戦本部のトイレでトンでもないものを見た。
 それは宇垣 纏中将と二人でトイレ掃除を行っている山木 竜馬大佐の姿であった。
「何って、お前………トイレは綺麗にしねーとダメだろーが」
 ぶっきらぼうな口調ではあるが、山木の表情は嬉しそうに緩んでいる。よくよく見れば、あの宇垣長官もどこか嬉しそうにトイレ掃除をしている。
 戦艦大和の修理が完了するまでの間、宇垣 纏中将と山木 竜馬大佐の両人で統合作戦本部の全トイレ掃除を行う。
 これが第三艦隊に渡された戦勝祝いの辞令だったのだが、あまりに嬉しそうにトイレ掃除を行う宇垣と山木の姿は統合作戦本部で働く者たちには不気味に映り、この辞令は五月中頃には解除されるのであった。
 これが宇垣 纏と山木 竜馬の信頼が確立されたエピソードであった。


次回予告

 一番難しい戦いとは何であろうか?
 私ならばこう答えるだろう。それは、何かを護衛する戦いだ、と。
 そして、これは護衛するために造られた艦。
 さぁ、吉野。お前のデビュー戦だ。

次回、戦争War時代Age
第八章「眞鐵の随人」
鉄の随人、北へ。


第六章「万華鏡」

第八章「眞鐵の随人」

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