一九四一年四月一日黎明。
 日本最大の軍港街である呉市に住む市民はみな、港の方を注視していた。
「お、おい、アレ………」
 呉市の商社に勤務するサラリーマンは港を指差して言った。
「連合艦隊が、連合艦隊が動くぞ!」
 何万トンもの排水量を誇る戦艦が、群れを成して動き始めたのだった。アレは訓練のためにで動くのではない。あの艨艟たちは戦をしにいくのだ。一目見ただけでそれはわかった。張り詰める空気が違いすぎるのだった。
「ば、万歳………」
 誰が言い始めたのかはわからない。だが「万歳」の声は急速に広まり、そして大きくなった。
「万歳! 万歳! 万歳!!」
 呉市は出撃を開始した連合艦隊の必勝を信じる「万歳」の声で揺れた。
 これも中部太平洋海戦の一幕であった。



戦争War時代Age
六章「万華鏡」



 後に中部太平洋海戦と称される戦いのために、連合艦隊が出撃を開始したのは一九四一年四月一日である。
 そして米艦隊と衝突したのが四月一二日であった。
 だが戦いはもっと前から始まっていた。
 戦いが始まったのは統合作戦本部が連合艦隊の立案した作戦を認可した日、すなわち二月一三日だと言ってよかった。作戦のための準備で帝国海軍に活発な動きが確認されたからだ。
 その兆候を合衆国海軍太平洋艦隊司令長官であるハズバンド・キンメルに報告したのはハワイ軍管区戦闘情報班長ジョセフ・ロシュフォート中佐であった。
 ロシュフォートは日本軍、とくに海軍の通信量が二月一三日を境にして倍以上に増大したことに着目。二月二一日には日本軍が大規模攻勢の準備中にあるとキンメルに報告した。
「なるほど。君はインペリアル・ネイビーが攻勢を仕掛けてくると判断した訳だ」
「はい。通信量の増大もさることながら、貨物船や貨物列車の動きも活発になりました。これは艦隊に積む物資の搬入だと判断するに充分です」
「そして何のための搬入かというと攻勢のための搬入………。うん、極めて常識的な判断だ。だが………」
 キンメルはそう前置いてロシュフォートに尋ねた。
「君はどうしてインペリアル・ネイビーの狙いがハワイではないと断言できるのかね?」
 ロシュフォートがキンメルに提出した書類には「帝国海軍の狙いはハワイに非ず」と明記されていた。その理由をキンメルは問うた。
「はい。ではまず、我々が日本軍の暗号をほぼ解読できたことからお話しましょう」
「何!? 日本の暗号を解読できただと!」
 ロシュフォートの言葉に目を見開くキンメル。そのようなことは初耳である。
「はい。先々週、ハワイ近辺を遊弋していた潜水艦を撃沈した際に偶然にも日本海軍の暗号表を入手することができたのです」
「おお、そういえばそういう報告を受けていたな。だがわずか二週間で解読に成功するとは………」
「たとえ暗号表の断片であろうとも、入手できたのならば芋の蔓のように暗号は解読できるようになるでしょう」
「ほう、そんなものなのか………」
「だからこそ暗号に関する情報の管理をしっかりと行わねばならず………っとと、話が逸れてしまいましたので戻します」
 ロシュフォートはコホンと一つ咳払いして再び話し始めた。しかし自らの功績に興奮して上気する頬と饒舌になる舌は止められそうにない。
「とにかく我がハワイ軍管区戦闘情報班は日本軍の暗号解読に成功いたしました」
「ふむふむ。で、どうして日本軍の狙いがハワイではないと言えるのだ?」
「はい。ですがその前に、暗号にも二種類存在します。たとえば………」
 ロシュフォートは紙と万年筆を取り出し、紙に「LJNNFM」と書いた。
「ん………? これは?」
「我々が解読できたのは暗号の法則性です。この『LJNNFM』は『KIMMEL』………すなわち長官の名前を一つ前に進めたモノです。我々が解読できたのはここなのです」
「ふむ………なるほど………」
 戻すって言って、結局話逸れてるじゃん。キンメルはそう思ったが口には出さなかった。自分にとって専門外のことを聞くのは目新しく、興味が次々とわいてくるからだ。
「しかしこの単語自体を暗号とする場合もあります。キンメルという単語から太平洋艦隊司令長官を導き出すには知識が必要ですよね?」
「うんうん」
「我々は暗号解読の末に、日本軍が『AF』と呼ばれる場所を狙っていることに気がつきました」
「しかし『AF』ではわからんじゃないか」
「そこで我々は一つ罠を張ってみました。日本軍の狙いがハワイ、またはその周辺であると仮定し、ハワイとその周辺地域の情報をわざと流してみたのです。たとえばハワイだと来週から雨が続きそうだという情報。ミッドウェーでは真水のろ過施設が故障したといった風に」
「ほぉほぉ」
「そして今日、日本軍は暗号文で『AFで水が不足している模様』という文章を送信しておりました。これはミッドウェーの水道施設故障の情報を受けての送信です」
「おお! では『AF』とは………」
「その通り。『AF』とはミッドウェーを指す単語なのです!!」
「よくやった、ロシュフォート中佐! 君は天才だよ!!」
 キンメルはロシュフォートの手を握って彼の英才を褒め称えた。ロシュフォートは胸をそらし、キンメルの称賛を心地よさそうに受け止めた。
「よし、後は我々の出番だな。インペリアル・ネイビーに痛恨のダメージを与えてやるぞ!!」
 キンメルは拳をグッと握り締めてロシュフォートたちハワイ軍管区戦闘情報班の健闘に応えることを誓ったのだった。



 当時、日本には大型空母が六隻存在していた。
 それは赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴の六隻である。
 そしてその六空母を一まとめにした第一航空艦隊が中部太平洋海戦における日本海軍の主力部隊であった。
 第一航空艦隊旗艦である空母赤城の艦橋に座するのは南雲 忠一中将であった。彼は海軍入隊以降、ずっと駆逐艦や巡洋艦などの水雷関係を専門として研鑽を重ねてきていた。そんな自分が空母機動部隊を指揮しても上手くいくはずがない。そう考えた南雲は艦隊の運営を幕僚に任せることにしていた。つまり第一航空艦隊の参謀長である草鹿 龍之介少将や航空参謀の源田 実中佐が第一航空艦隊を切り盛りしていたのだった。
 そして運命の四月一二日。黎明と同時に第一航空艦隊は作戦を開始した。
 六隻の空母から零戦や九九艦爆、九七艦攻が飛び立った。それぞれ腹に何かを抱えての出撃であった。何かを腹に抱えている点は同じだが、抱えているものはそれぞれ異なっていた。零戦が抱えるのは補助燃料タンク、いわゆる増槽だったし、九九艦爆のは二五〇キロ爆弾で、九七艦攻のは九九艦爆のそれより一回り大きな八〇〇キロ爆弾であった。そして第一航空艦隊を発艦した攻撃隊一八三機は一路南に向かって進み始めた。
「さて、連合艦隊GFの作戦………。上手く行ってると思うかね?」
 攻撃隊が南を目指して飛び去るのを見送った南雲は源田にそう尋ねた。
「成功してもらわないと困ります」
 攻撃隊の編成から目標の指示、さらには攻撃隊の訓練スケジュールまで組み立てた源田はそう言って鼻息を荒くした。
「今回の作戦は山本長官が直々に考案された作戦。山本長官は現代の諸葛亮孔明とも評されるお方。その作戦が成功しないはずがない」
 航空戦の素人である南雲は口を出すなとばかりに傲然と言い放つ源田。しかし南雲は胸のつかえがどうしても取れなかった。
 南雲 忠一は統合作戦本部の意向でカナダに派遣された鬼畜王こと結城 繁治を知っている。結城 繁治はどんな策謀を用いてでも最善の道を選択する男であった。そんな結城 繁治が懇意にしているのが遠田 邦彦統合作戦本部長である。結城ほどの男が懇意にするのであるならば、その性質も似ていると考えるのが普通だ。そんな遠田が、彼が率いる統合作戦本部が、このような海軍航空派の増長を許すだろうか?
 南雲にはとてもそうは思えなかった。この作戦、絶対に何かウラがある。南雲はそう考えていた。
 その解答は、コレなのだろう。南雲は懐に忍ばせてある書類を軍服の上からなぞった。統合作戦本部から渡された命令書だ。作戦開始から二時間後に開封し、南雲のみが中身を見るようにとされた命令書………。
「……………」
 南雲の頬を一筋の汗が流れた。南雲は、恐怖していたのだった。



 一九四一年四月一二日。
 アメリカ合衆国海軍太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメルは爆発の轟音とそれにともなう揺れで目を覚ました。
「な、何だ? 何の騒ぎだ………」
 まだ眠気を引きずってぼんやりとする頭をもたげて窓の外に視線をやるキンメル。窓の外から見えたのは紅蓮の炎に包まれる真珠湾と上空を乱舞する日本軍機であった。それを見た瞬間、キンメルの眠気は欠片も残さず消滅した。大慌てでキンメルは受話器を取ろうと電話に向かう。キンメルが受話器を取ろうとした瞬間に電話はけたたましくこだましたのだった。
「もしもし私だ、キンメルだ!」
『キンメル長官でありますか? ………よかった。無事でしたか』
「一体、何が起きたのだ」
『日本軍の空襲です』
「そんなことはわかっとる! 私は何で日本軍がここ、ハワイを狙っているのか・・・・・・・・・・・と聞いているのだ!」
『それは………』
「我々はジャップがミッドウェーを狙っているという情報に基づいて、戦力のほとんどをミッドウェーに送っているのだぞ!」
 合衆国海軍太平洋艦隊は合衆国海軍艦隊司令長官兼海軍作戦部長であるアーネスト・キング元帥が太平洋艦隊から空母を引き抜く代わりに寄越した陸軍の航空隊をミッドウェー防衛にまわすように決定していた。それゆえにハワイを護る航空隊は致命的に不足していた。その手薄になったハワイを日本軍に空爆されたのである。
 キンメルはミッドウェー防衛のために部隊の大半を移動させる裏付けとなった情報を思い出した。そうだ、あの男の情報を元にして今の戦力配置にしたのだった。
「………おい、ロシュフォートはどうした? ハワイには絶対に日本軍は来ないと断言したペテン師を出せ!」
『ロシュフォート中佐ですが、戦死なさいました。ハワイ軍管区戦闘情報班のオフィスがジャップの爆撃を受けて………』
「クソッ! ロシュフォートめ、偽電を自信満々に解析し、私に報告していたのか………」
 ロシュフォート、何と言うマヌケ! 日本軍のトリックが見抜けなかったという点でキンメルも同罪であったが、キンメルは自分ではなく他人が全面的に悪いと信じ込むことで精神の平静を保っていた。
 そしてキンメルの怒りの矛先はロシュフォートからこの惨事を引き起こした元凶へと変わった。
「ミッチャーとキャラハンに今すぐ連絡しろ! ジャップを………ジャップを生かして帰すなぁッ!!」



「やれやれ………慌しいことじゃな」
 合衆国海軍第五八任務部隊を率いるマーク・ミッチャー中将はしわだらけの相貌を崩して苦笑した。歯はとうの昔に欠け落ち、総入れ歯になっているミッチャーは何事か喋るたびにモゴモゴと口を動かすために彼の言葉は聞き取りづらい。だがそれ故にミッチャーは狡猾で油断ならない印象を与える。そしてその印象通りに侮りがたい優秀な指揮官であった。
「我が方の空母は六隻、ジャップの空母も六隻。数の上では互角です。我が艦隊はどのように行動しましょうか?」
 参謀はそう言ってミッチャーに今後の方針を尋ねた。
 ミッチャーは海図を見ながら顎をさする。
 ミッチャー率いる第五八任務部隊はミッドウェー諸島東南東八〇浬の海域にいた。第五八任務部隊から見て西南二〇浬にダニエル・キャラハン中将率いる第六七任務部隊がいた。第六七任務部隊は二隻の高速戦艦を中心とする艦隊であった。そして肝心の日本艦隊であるが、ハワイの北にいるということしかわかっていない。米軍の哨戒線がミッドウェー諸島中心となっていたためだ。
「ジャップが今後、どのように動くかが焦点となるな」
 日本海軍の機動部隊による爆撃で真珠湾の港湾施設及び燃料貯蔵庫は破壊され、太平洋最大の軍港であった真珠湾は一年以上に渡って使用不可能となるだろう。日本海軍はその戦果に満足して帰るだろうか。それともさらなる戦果を求めるだろうか。何にしても決断するには材料が少なすぎる………。
「ここは一つ賭けてみようか。我々はキャラハン提督の第六七任務部隊と共にジョンストン島へ向かう!」
「ジョンストン………でありますか?」
 ミッチャーの言葉に参謀が語尾を上げる。
「そうだ。根拠はないが、元々情報がゼロに等しいのだ。空振りになっても文句はあるまいて」
 ………本来、ハワイが襲われたからとて焦る必要はないのだ。ジャップの補給能力から考えて、ジャップがこのままハワイを占拠すると言うことはありえない。ハワイ占領は日本の国力では行えないことなのだから。だから今回は勝ちを譲ってやり、将来の真珠湾復興を待ってから報復すべきなのだ。その頃には新世代空母も続々完成しているはずなのだから。しかしジャップにまんまと騙されたキンメル長官は怒りから冷静な判断力を失い、我々にジャップ追撃を命ぜられた。我々は軍人であるのだからその命令には従うが………。
「無能な上官を持つと『おお! 人事………』と嘆きたくなるな」
 ミッチャーの呟きは小さかったので誰にも聞こえなかったが、別に聞こえていたとしてもミッチャーはその言葉を訂正しなかっただろう。それは偽りない真実なのだから。



「真珠湾への空襲は大成功! 真珠湾は完全に破壊されたようです」
 真珠湾攻撃に参加した搭乗員たちから寄せられる報告はどれも歓喜の声に弾んでいた。
「ハワイの航空基地はどうだ?」
 司令長官である南雲を差し置いて尋ねたのは源田航空参謀であった。南雲は赤城の艦橋の端でボンヤリと海を眺めていた。搭乗員たちも南雲を無視して源田司令長官・・・・に報告する。
「は、第二次攻撃隊の報告によればそれも壊滅状態とのことです」
 即ち真珠湾は完全に無力化されたということだ。欺瞞情報を駆使した真珠湾奇襲作戦は大成功だということだ。後は艦隊を無事に呉まで連れていけるかの勝負となる。
「では当初の予定通り、ハワイを抜けてジョンストン島方面から帰還しよう」
 欺瞞情報で敵戦力をミッドウェーに張り付けさせ、その隙に敵の本陣を衝く。さらに山本長官は敢えてその後の艦隊進路をハワイ寄りとし、北太平洋に向かうであろう迎撃部隊をかわそうというのだ。山本 五十六連合艦隊司令長官の立案した作戦の何と大胆なことか。
「やはり山本長官は当代の名将だ。東郷元帥と並ぶ存在になるに違いない」
 ミッチャー率いる第五八任務部隊と第六七任務部隊がジョンストン島に向かっていることなど知るはずもない源田は呉に凱旋した後のことを想像して鼻を伸ばしていた。
「策士策に溺れる」という言葉がある。今の第一航空艦隊はまさにそれであった。戦後、どうしてヤマモトの作戦を見抜けたのかと記者に問われたミッチャーはこう答えたという。
「これは戦後になってから知ったのだが、ヤマモトはギャンブルが大好きだったそうじゃな。………それはまぁともかく、欺瞞情報で戦力をミッドウェーに張り付けて真珠湾を狙う。それは大胆な作戦であるが、しかし非常にリスクの大きい作戦でもあった。そんな作戦を実行させる神経をしているのだから、真珠湾を空襲して大人しく反転して帰るとは考えられなかった。この作戦をたてた彼、即ちヤマモトは最後の最後まで大胆に事を運ぶと思った。あの状況で最も大胆なことといえば、やはり敵中突破であろうて。私はそう考えてジョンストンに進路を取ったんじゃ。結果的に私の賭けは見事に的中し、私は一躍英雄扱いとなったが………やはりギャンブルなんてするモンじゃないわい。ジョンストンに向かう間、ずっと胃がキリキリ痛んで食事が喉を通らなかったわい」



 第一航空艦隊と第五八任務部隊。先に相手を発見したのは第五八任務部隊であった。一九四一年四月一三日午前一一時一三分、第五八任務部隊のドーントレスが第一航空艦隊を発見したのであった。第一航空艦隊はジョンストン島北東一四〇浬の海域にいたという。
 だが第一航空艦隊はこの事実を軽視した。なぜならば第一航空艦隊はこの(実際には艦爆なのだが)偵察機はジョンストン島から飛び立った機体だと判断したからだ。第一航空艦隊は午前一〇時三五分にジョンストン島へ向けて攻撃隊を放っていた。今更見つかってももう遅い。それは第一航空艦隊を攻撃しようとする航空機ごとジョンストン島を空爆できるからだ。源田 実はそう判断し、第一航空艦隊に接近を試みようとするドーントレスを軽視し、対空砲火で追い払う程度に留めた。
 その時、第五八任務部隊はジョンストン島北一二〇浬の海域にいた。
「ジョンストン島の者には申し訳ないが、我々の存在を隠す覆いとなってもらおう」
 ジョンストン島に攻撃隊が送られているとの情報を聞いた第五八任務部隊の幕僚たちは援軍を出す事をミッチャーに進言した。だがミッチャーはそう言って援軍を送る事を拒絶した。代わりにミッチャーが下したのは攻撃隊発艦命令であった。
「ジョンストン島攻撃のために戦力が手薄になっているジャップを狙う。運がよければ攻撃隊着艦の混乱を襲えるかもしれん」
 ミッチャーの判断は冷酷であったが正しかった。大して重要でもなく、配備されている戦力もたかが知れているジョンストン島を護るために第五八任務部隊の存在を知らしめるわけにはいかない。第五八任務部隊は日本の機動部隊に気付かれないまま攻撃隊を送り、真珠湾を襲った機動部隊を叩いた方が有効であるからだ。
 ミッチャーの命令によって出撃の用意が進められ、午後一時三四分に一〇〇機以上の攻撃隊が第五八任務部隊の甲板から飛びたったのであった。



 それは突然の霹靂であった。第一航空艦隊は突如現れた第五八任務部隊の攻撃隊による猛攻にさらされる事となったのである。
 悪い事は重なる物で、第一航空艦隊は接近しつつある第五八任務部隊の攻撃隊をジョンストン島攻撃のために放った自分たちの攻撃隊であると勘違いしていたのだった。故に対空戦闘の初動が致命的に遅れてしまったのだった。
 直援として上がっていた零戦はわずか八機。接近しつつある大編隊が敵の物であると知らされた八機の零戦は大慌てで立ち向かう。零戦は同世代の戦闘機と比べて圧倒的なくらいの旋回性能を誇り、最高速度なども合衆国海軍の戦闘機F4F ワイルドキャットにひけを取らない。だが一〇〇機以上の大編隊を相手取るに八機という数はあまりに少なすぎた。太陽を背に大編隊に挑みかかる八機の零戦は戦闘開始から三分で一二機も墜としてみせたが、三倍以上の数のF4Fによって追い詰められ、逃げ回るのが精一杯という状況になる。
「バカな………あれは全部艦上機じゃないか………」
 艦上機が襲い掛かるということは、近くに空母機動部隊がいるということである。どうして、どうして空母機動部隊がこんな所にいるのだ? アメリカの空母は北太平洋でいるはずのない我々を探しているはずじゃなかったのか………!?
 源田は想像とはまったく異なる現実に思考停止を起こしていた。だがそんな中、独り動いた人物がいた。第一航空艦隊司令長官南雲 忠一である。南雲は格納庫に繋がっている伝声管に向かって尋ねる。
「今すぐ出せる零戦は何機ある?」
 少しの間を置いて格納庫から返事が返ってくる。今すぐなら五機が限界である、と。南雲は格納庫からの返答を聞くと間髪いれずに命令した。
「今すぐ艦首を風下に向けろ! 格納庫にある五機の零戦、発進させる!!」
「なっ!? 敵がすぐ近くにまで迫ってきているんですよ! 回避運動を優先させるべきです!!」
 南雲の命令に反対する源田。しかし南雲は源田を怒鳴りつけた。
「その敵が本艦の攻撃位置につくまでもう少し時間がある! それまでに一機でも多くの零戦を上に上げるんだ!!」
 南雲はさらに護衛の巡洋艦や水雷戦隊に対空砲火で空母を護るように命令した。突然の敵襲で浮き足立っていた第一航空艦隊は南雲の矢継ぎ早の命令で混乱から脱しつつあった。
 今度は源田が第一航空艦隊で孤立する番だった。危機に際して茫然自失としていた源田と、危機に直面してリーダーシップを発揮した南雲。どちらに部下がついていくかは一目瞭然だ。今、第一航空艦隊は初めて名実共に南雲艦隊となりつつあった。
 源田は南雲がずっと独りでポツンと立っていた艦橋の端に一冊の本が落ちている事に気付いた。それは統合作戦本部の印が表紙に印刷された本であった。その本には今回の作戦の欠点とその対処法が事細やかに記されている。その本を見た時、初めて源田はすべてが統合作戦本部長遠田 邦彦陸軍大将の予定通りなのだと悟った。
「あの老人………ッ!」
 遠田は山本たち海軍航空派の増長を食い止め、統合作戦本部の下で陸海軍が一つにまとまるように今回の件を仕組んだのだった。山本たち航空派が立案した作戦の失策を航空派ではない南雲が埋める。遠田は今回の作戦の欠点に気付いていながら何も言わず、我々航空派が失敗するのを楽しみにほくそえんでいた訳か………ッ! 源田も所属する海軍航空派の増長が今回の引き金になっているのだが、それを棚に上げて源田は遠田に対する怒りで震えるのであった。
 敵を目前にしながらも零戦を発艦させる赤城を見た残りの五空母も赤城に倣い、艦首を風下に向ける。結果六隻合計で四〇機近い零戦と九九式艦爆が発艦に成功したのだった。九九式艦爆は艦爆であって戦闘機ではないが、しか爆弾や魚雷を積んで身重になっているSBD ドーントレスやTBD デバステーターを迎撃する事くらいなら可能である。発艦したばかりで高度も速度も大して稼げていないという極めて劣勢の空戦となるが、しかし日本側搭乗員の士気と錬度は高かった。劣位であるとは信じられないほどに零戦はF4Fに対して有利に戦闘を進めていく。F4Fが次々と羽を折られ、キャノピーの破片を散らしながら墜ちていく。ドーントレスやデバステーターもF4Fの護衛をかわした零戦や九九式艦爆の攻撃、さらには第一航空艦隊必死の対空砲火で撃墜されなくても攻撃に失敗してしまう。第一航空艦隊はギリギリの水際で踏ん張っていたのだった。
 だがそれでもすべての攻撃を防ぎきる事はできなかった。加賀に五〇〇ポンド爆弾が二発命中し、蒼龍に爆弾一発と魚雷が二本、翔鶴に魚雷一本が命中してしまう。加賀は甲板に爆弾を受けてしまったために発着艦が不可能になってしまったが機関そのものは無事であり、一ノットたりとも速力に衰えはない。だが翔鶴は魚雷による浸水のために三四.二ノットの快速が二三ノットにまで落ち込んでしまった。蒼龍に至っては魚雷二本をほぼ同箇所に受けてしまったのが致命的であり、浸水が止まらないという有様であった。
「畜生、蒼龍が………」
 蒼龍の準姉妹艦である飛龍の見張り員はガクリと速力を落とし、さらに傾きつつある蒼龍を我が身のことのように唇を噛んだ。だがその時、蒼龍の向こう、水平線の彼方に何かが見えた。
「一〇時方向に敵増援!」
 飛龍の見張り員の声は悲鳴に近い物となっていた。だがしかし彼はすぐ隣にいた上官に頭を叩かれる事になる。上官は迂闊な見張り員の胸倉を掴んで怒鳴った。
「バカ! あれはジョンストン攻撃に向かっていた攻撃隊じゃないか!!」
 ジョンストン島攻撃に向かっていた攻撃隊が第一航空艦隊に戻ってきたのである。ジョンストン島攻撃で燃料弾薬を消費してはいるものの、しかしそれらはゼロになったわけではない。ジョンストン島攻撃隊は銃弾の最後の一発、燃料の最後の一滴まで絞りつくして戦い抜くこと決意。ミッチャーの放った攻撃隊に襲い掛かったのである。
 これで第一航空艦隊は助かったかと思われたが、しかし戦局はさらに混乱の方向へ向かう。ミッチャー率いる第五八任務部隊が第二次攻撃隊を編成して送り出していたのであった。その第二次攻撃隊の戦場到着はジョンストン島攻撃隊帰還の五分後であった。一時的に優勢となっていた第一航空艦隊であったが、しかし米軍の第二次攻撃隊到着によって戦局は完全に定まってしまった。米軍の第一次攻撃隊は偶然であったがジョンストン島攻撃隊の残存銃弾燃料を絞りつくす生贄として機能し、第二次攻撃隊の方はほぼ無傷で第一航空艦隊に向かってきたのである………。



 一九四一年四月一三日午後一九時一〇分。第五八任務部隊。
「直援隊の収容は終わりました」
 ミッチャーは部下の報告に静かに頷いた。
「………何とも目まぐるしい戦闘であったな。こちらが奇襲に成功したかと思えばジャップは持ち直し、そして再びこちらが優勢になったかと思えばジャップが反撃に転じてくるとは………」
「それだけジャップも必死だったのです。ですが、ジャップの空母を二隻沈める事に成功し、三隻の足を鈍くしたのは大戦果だといえるでしょう」
「うむ………とりあえず我が艦隊の任務は終わりだな」
 ミッチャーはそう言うと第五八任務部隊に後退命令を下した。そしてミッチャーは水平線の彼方を見て呟いた。
「後は任せたぞ、キャラハン」



 一九四一年四月一三日午後二一時二四分。
 第一航空艦隊は第五八任務部隊の四度に渡る猛攻を受けて空母加賀と蒼龍を失い、さらに赤城、飛龍、翔鶴を中破させられていた。赤城、飛龍、翔鶴は甲板こそ無事であったが魚雷を受けたために機関が規定の出力を出せず、艦隊の速力は最高でも二二ノットが限界であった。
「燃料の心配は後でいい。とにかくこの夜の闇に紛れて敵から離れるんだ。明日も空襲を受けたら………」
 その言葉の続きを南雲は口に出来なかった。とにかくこの四空母を何としても日本に連れて帰るのだ。南雲はそのためにあらゆる手を打っていた。昼の二度に渡る空襲を何とか凌いだ南雲は逆に攻撃隊を編成し、ミッチャーの第五八任務部隊に逆襲をかけたのだった。艦爆を中心に編成した部隊で第五八任務部隊の六隻の空母のうち五隻の甲板を破壊。発着艦を不可能にし、それ以上の追撃を阻止したのである。だがその代償も大きかった。第一航空艦隊は搭載機の半分以上を再起不能または未帰還にするという壮絶な被害を被り、さらに搭乗員も多く失っていた。だが六空母が全滅するよりはるかにマシだろう。
「………海軍航空派と統合作戦本部の軋轢の狭間に翻弄され、このザマか」
 これがベストではないにせよベターな展開である事はわかっている。しかし南雲はそう呟かざるを得なかった。そんな時、見張り員の声が響いた。
「か、艦隊正面に敵艦隊! 戦艦二、他多数!!」
「何だと!?」



「ふっふっふっ。ようやく出番が回ってきたぜ!」
 第六七任務部隊旗艦アイオワの艦橋で腕を組んで笑う男。彼こそが第六七任務部隊を率いるダニエル・キャラハン中将であった。キャラハン中将率いる第六七任務部隊はミッチャー率いる第五八任務部隊とジョンストン島付近で別れ、第一航空艦隊の進路上で待ち伏せていたのだった。それを可能としたのは第六七任務部隊が高速戦艦アイオワ級二隻を中心とした艦隊であるからだ。三三ノットという破格の高速を誇るアイオワ級の足を最大限に使った作戦である。勿論、第一航空艦隊の足を奪う事に集中した第五八任務部隊あってこその作戦であった。
「さぁ、ミッチャー提督が倒し損ねた空母、全部喰らい尽くすぞ!!」
 キャラハンは豪快に右手を振りかざして艦隊に突撃を命令する。三三ノットの高速を誇る第六七任務部隊が傷だらけの第一航空艦隊へと襲い掛かった………!


次回予告

 誰だって若い時は牙を持っていた。
「彼」とてそれは例外ではない。
 しかし長い時の流れの末に彼は牙を失った。そう思っていた。
 そんな彼に声をかける。
「貴方の牙はまだ失われていない」と。

次回、戦争War時代Age
第七章「信頼への秒読みカウントダウン
牙。それは体制に抗う強い精神。


第五章「連合艦隊ついに起つ」

第七章「信頼への秒読み」

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