さて、まずは状況を整理しよう。
 一九四二年四月一日現在、大日本帝国の陸海軍がフィリピンを包囲し、合衆国陸軍極東軍はその包囲下の中で必死の抵抗を続けていた。
 合衆国海軍は陸軍の救援を大統領、フランクリン・ルーズベルトに命ぜられ、不十分な戦力でフィリピンへ向かうことを強制させられた。
 空母の数で帝国海軍に劣る合衆国海軍は、残存空母の搭載機を戦闘機ばかりにすることで制空権だけを確保し、制空権下での艦隊決戦を帝国海軍に挑まんとしていた。
 しかし帝国海軍は合衆国海軍の作戦をあざ笑うかのように、第一次攻撃隊を戦闘機のみで編成し、戦闘機掃討戦を仕掛けることで合衆国海軍の目論見を打ち砕いた。帝国海軍は続いて送り出した第二次、第三次攻撃隊に合衆国海軍の巡洋艦や駆逐艦を多数撃沈し、さらに戦艦にも少なからぬダメージを与えていた。
 一方で合衆国海軍は帝国海軍が艦隊直援用の戦闘機を第一次攻撃隊に回していることを看破し、偵察用に載せていたSBD ドーントレスで帝国海軍の空母を攻撃。帝国海軍の空母四隻の飛行甲板を使い物にならないようにすることに成功していた。
 フィリピン沖海戦における航空戦パートは以上で終了となる。
 しかし帝国海軍が「真打の打撃部隊」に想定していたのは航空機ではなかった。航空戦の最中、合衆国海軍に向かってまっすぐ突き進んでいた戦艦部隊、帝国海軍第三艦隊が合衆国海軍太平洋艦隊主力部隊、ハズバンド・キンメル大将が直々に指揮を執る戦艦部隊に接近していたのだった。
 帝国海軍第三艦隊と合衆国海軍太平洋艦隊主力部隊との距離が四〇〇〇〇メートルを切り、砲撃戦が始まろうとする瞬間。
 この瞬間が今回の物語の起点となるのであった。
 では、フィリピン沖海戦・最終幕の始まりである………。

海神の戦記
第五章「吼える巨砲」


「弾着観測機、発進しました」
 帝国海軍第三艦隊附航空参謀が弾着観測機の発進を報告する。参謀の報告と示し合わせたかのように、発進したばかりの零式水上観測機、略して零観が艦橋の近くをフライパス。
「雲量は二………いや、一か」
 第三艦隊を率いる近藤 信竹中将が窓から覗く空に視線を送りながら呟いた。
「天気は晴朗、波も静か………」
 絶好の艦隊決戦日和じゃないか。草食動物を前に舌なめずりする肉食獣の表情を浮かべる近藤。その表情は彼の内心をよく表していた。
 つまり近藤を始めとする第三艦隊の誰もが、これから始まる艦隊決戦の勝利を信じて疑っていなかったのだ。三度に渡る航空攻撃で合衆国海軍太平洋艦隊の主力艦隊は十数ノット程度の速力しか発揮できないほどに傷ついている。手負いの敵を相手にして、自分たち帝国海軍第三艦隊が後れを取ることがあろうか? 否、後れを取るはずがない。第三艦隊にとって合衆国海軍など鎧袖一触。かの日本海海戦を指揮した東郷 平八郎元帥に匹敵する大戦果をこれから挙げるのだ。
 こんな楽な戦いで東郷元帥に肩を並べることができるとは………。近藤は己の幸運に黒い笑みを浮かべる。
 近藤の内心を知ってか知らずか、事務的な口調で砲術参謀が報せる。
「長官、砲撃の開始は事前の規定通り、距離二四〇〇〇からでよろしいでしょうか?」
 自身の内面の黒い部分に思考をゆだねていた近藤だが、砲術参謀の声に気を引き締めなおす。
「ああ、決戦距離は二〇〇〇〇でいく」



 帝国海軍第三艦隊旗艦を務める戦艦は、本来ならば帝国海軍の実戦部隊である連合艦隊の旗艦であった。つまりそれは帝国海軍最新最強の戦艦であった。
 しかし今の連合艦隊旗艦は呉に停泊する軽巡龍田になっている。連合艦隊旗艦をあえて軽巡にすることで、その最強の戦艦を最前線に送り込んだのであった。
 そんな戦艦の乗員に選ばれた者たちはエリートの中のエリートと呼んで差し支えはない。
 ところが旗艦の主砲第三砲塔の分隊長を務める大峰 あたる大尉は市井の者が想像するエリート軍人の姿とは対極の男であった。
 身長一八一センチ、体重九五キロという当時の日本人からすれば堂々たる肥満体はともかく、艦隊決戦を前にして椅子にふんぞり返って雑誌を眺めているというのは常識を逸していた。
「あの、分隊長………?」
 恐る恐る童顔の少年水兵が大峰に声をかける。大峰は視線を雑誌から外すことなく、やる気のない声で水兵に応えた。
「あの、もう少しで戦闘が始まりますが………」
「あー、そうだな」
 大峰はそっと上を指差した。
「まぁ、最近の砲撃戦は上、射撃指揮所からの命令でやるから、俺の出番は射撃指揮所が壊滅するまでないさ」
 パラリと大峰が雑誌のページをめくる音。確かに砲塔単体で照準を行い、射撃をする機会というのは射撃指揮所が壊滅しなければ発生しないだろう。
「それに俺はお前らをみっちり鍛えてきたつもりだ。俺が横からギャイギャイ口出ししなくてもいいくらいにはな。それともお前ら、俺が監視してなきゃ全力出せんとでも?」
 大峰の挑発するどや顔を見た古参の兵曹長が降参だとばかりに肩をすくめて水兵の肩を叩く。水兵も困った表情を浮かべたまま配置へ戻ろうとする。しかし何となく心に浮かんだ疑問を口にした。
「ところで分隊長、先ほどからどんな本をお読みになっているんですか?」
 大峰は初めて「よくぞ聞いてくれました」と嬉しそうな表情を浮かべ、水兵の疑問に答えた。
「んー? ああ、これか。これは、『ネイチャー』さ」



「敵艦隊、撃ってきませんね………」
 不安八割、安堵二割の表情で合衆国海軍太平洋艦隊旗艦ノースカロライナ艦長のハストベット大佐が言った。
 ハストベットが双眼鏡を向ける先の帝国海軍第三艦隊はまっすぐに突き進み、合衆国海軍太平洋艦隊との距離を詰めようとしている。その距離は今や三四〇〇〇ヤード(およそ三一〇〇〇メートル)に縮まっていた。
「どうやら『切り札』を持っているのは我々だけのようですね、提督」
 ハストベットの言葉に静かに頷いたのは合衆国海軍太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメル大将だった。
「古い時代を生きる日本人め、未来の砲撃戦というものを教えてやる!」
 キンメルがあえて強気を口にする。
「敵艦隊との距離三三〇〇〇ヤード(およそ三〇一七五メートル)!」
「よし、撃ち方始めOpen Fire!」
 その号令を受け、すでに帝国海軍第三艦隊の先頭艦に照準を定めていたノースカロライナの三基の主砲塔が爆炎を吐き出した。



「敵艦発砲ッ!?」
 帝国海軍第三艦隊の見張り員の報告は艦隊全体を困惑させた。
「キンメルめ、焦ったか? 三〇〇〇〇メートルの距離で撃った所で命中などするはずなかろうに………」
 第三艦隊司令長官近藤 信竹が憐れみすらこめた眼差しを合衆国艦隊の方へ向ける。
 近藤の認識を理解するためには戦艦の砲撃の照準のメカニズムを説明しなければならない。
 この時代の戦艦は照準を定めるために光学式の測距儀を使用していた。光学式の測距儀を乱暴に説明するならば、双眼鏡ということになる。ただし化け物のように巨大だが。
 その化け物サイズの双眼鏡ではるか向こうの敵艦を覗き、距離と位置を把握して砲の向きを動かす。そして撃ち出した砲弾の水柱を印にして照準を修正する。これが戦艦の照準の基本である。
 しかし如何に巨大双眼鏡を用いたとしても、遠くのモノは小さく見え、近くのモノは大きく見えるのが世の道理。
 戦艦の照準であってもその運命から逃れることはできず、たとえば距離三〇〇〇〇メートルで一〇メートル測距儀を覗き込んでも敵艦は「うーん、かろうじて針路は読み取れる………かな?」レベルの大きさでしか見えないものである。全長二〇〇メートル近い戦艦ですら豆粒のようにしか見えないということは、こちらが撃ち出した砲弾が着弾して巻き上げる水柱など糸屑程度にしか見えないということは容易に想像できるだろう。
 だから遠距離砲撃は夢物語に等しい。それが近藤の認識であり、引いては帝国海軍の共通見解でもあった。
 故に距離三〇〇〇〇メートルで砲撃を開始した合衆国海軍の行動は帝国海軍にとって常識の範囲外であった。
 しかし帝国海軍第三艦隊の中で唯一大峰だけは額に冷たい汗を浮かべていた。
 そしてノースカロライナが放った三発の砲弾が着弾する………。
「なにィ!?」
 第三艦隊旗艦の右舷向こうに着水した砲弾が三つの水柱を撃ち立てる。しかし何より驚くべきは、方角こそずれていたが、ノースカロライナが放った砲弾の距離はほぼ的確であった点であった。つまり敵は三〇〇〇〇メートルの距離で照準を定めることが「できている」ということだ。何度か射撃を繰り返して照準の補正を行えば命中弾が出ることだろう………。
「敵艦、発砲を継続ッ!!」
 これは確率の神様に祈りながら適当にぶっぱなす類の砲撃ではない。合衆国海軍はこの遠距離で「砲戦」を行えるほどの「錬度」を誇っている………ッ!
 世界最強を自負する帝国海軍の砲術屋、近藤にとってこれほど屈辱的な話はない。
「えぇい、こちらも砲撃を開始する!」
「!? 長官、しかしこの距離では………」
「それはわかっている。だが、こちらは弾着観測機も出しているのだ。照準の補正を行うのはこちらの方が有利のはずだ!」
 わかったらとっとと撃て! 近藤は司令長官の権威を振りかざして議論を封じ、自分が正しいと思う命令を発した。その命令に応じて第三艦隊の各艦が砲塔を回転させ、砲身を上下に動かす。
「撃ち方始め!」
 近藤の怒号をかき消すほどの轟音。帝国海軍第三艦隊が砲撃を開始する。



 ところで、合衆国海軍のノースカロライナの砲撃は三基の砲塔から一門ずつ発射する、交互撃ち方と呼ばれる方式だった。これは一度に発射される砲弾の数こそ少ないが、しかし発射間隔を狭めることができ、迅速な砲撃の修正が可能となっている。
 それに対して帝国海軍第三艦隊の砲撃は全砲門を一斉に発射する、所謂一斉砲撃だった。そのため帝国海軍第三艦隊の砲撃の方が合衆国海軍のそれよりもはるかに雄々しく、そしてけたたましいものとなっていた。
 しかし幾度か砲撃を繰り返す内、日米両国の主力戦艦が放つ砲撃に明確な差が出始めていた。
「今頃、上の連中は大騒ぎだろうな」
 第三砲塔の分隊長を務める大峰が黒い笑顔を浮かべる。彼の言う「上の連中」とは物理的に、階級的に大峰より「上」にいる者たち、つまり司令部の者たちと、艦橋の頂部の主砲射撃指揮所の者たちを指し示していた。
「だんちゃ〜く、今!」
 すでに六度に渡る斉射を放ちながら、帝国海軍第三艦隊の旗艦は命中弾はおろか夾叉弾すら出せないでいた。合衆国艦隊に近づいて弾着観測を行っている零観が送ってくる情報通りに修正射を放っているが、しかしそれでも砲撃の精度は情けないものばかりだった。
 だ〜から言ったのに。航空機による弾着観測なんか艦隊決戦じゃ役に立つわけないってさ。
 射撃を行う側、撃たれる側、そして観測を行う側、そのいずれもが動いている状態で照準の補正が可能なほど精確なデータが得られるだろうか? 結果だけを述べるなら、それは不可能であった。
 決して動くことのない対地砲撃か、もしくは演習用の標的のように、対象を真上から見下ろす位置に観測機がいれば照準の補正が可能なほどのデータを得ることもできた。しかし自力航行が可能でさらに対空砲火を撃ち上げてくる目標、即ち敵艦に対する砲撃の観測は非実用的であると言わざるを得なかった。事実、合衆国海軍は一九三〇年代ですでに艦隊決戦時に観測機は不要であると結論を出し、別方向からの照準の補正を行えないか模索していた。
 だが帝国海軍はその流れについていけなかった。ついていこうとすらしていなかった。
 大峰の内心でふつふつとわきあがっていく黒い感情。大峰は発砲の轟音の影で沸騰した感情を口笛に載せていた。すぼめた口が奏でるのは葬送行進曲であった。
 そして七度目の斉射が放たれた瞬間、砲撃による揺れとは別次元の、世界が崩れかねないほどの衝撃が大峰たちを襲った。
「おおっと」
 合衆国海軍のノースカロライナが放った砲弾がついに命中したのである。被害報告を求める声が伝声管から聞こえてくる。大峰は第三砲塔が健在であることを伝え、そして艦橋にいるであろう艦長の高柳 儀八大佐を呼び出した。
「大峰か………」
 高柳の不機嫌そうな声。
「や、どーもどーも。艦長、お元気そうで何より」
「………で、話は何だ? 手短に言え」
「いやぁ、敵弾が命中したのでそろそろ艦長の口から勝利のための秘策をお聞きしようかと思いまして」
「ぐ………」
 大峰の声色は人の感情を逆なでするいやらしい色をしていた。しかし高柳はその言葉に反論できなかった。敵が遠距離射撃を成功させ、自分たちが失敗している理由が皆目見当もつかないからだった。
 しかし大峰はその回答をあっさりと口にした。
「艦長、敵は間違いなく電探による照準を行っています。このまま遠距離でダラダラ砲撃を続けていても、我々にとっては不愉快な現実が続くばかりです」
 高柳の沈黙。大峰はそれを「話を続けろ」と解釈した。そして口を再び動かす。
「しかし敵艦隊の内、電探を装備しているのは敵の最新鋭戦艦のみの様子。さらに敵艦隊は第一航空艦隊の攻撃で魚雷を受けて速力が満足に出ない。そして本艦は最新鋭の戦艦で速力には自信があります。
 ここはまっすぐに敵艦隊に接近し、敵の最新鋭戦艦を真っ先に狙って沈めてしまいましょう」
「何? しかしそれでは敵に丁字を描かせてしまうではないか!」
 戦艦は船体の前後に主砲の砲塔を載せている。その関係上、敵を右が左の舷側に向けた時に全砲門を敵に向けることが出来る。帝国海軍第三艦隊は三〇〇〇〇メートルの遠距離で全砲門を合衆国艦隊に向けようとしているため、速力の差がありながら思うように距離を詰めることができないでいた………。そんな第三艦隊に対し、大峰はまっすぐ敵の方角へ突っ込めと進言していた。
「大事なことなので二回言いますが、敵艦隊で電探による照準ができるのは一隻だけで、それは今までの弾着を見れば一目瞭然。一隻だけなら丁字描かれても問題ではないでしょう、本艦ならばね・・・・・・
「………むぅ」
「じゃあ、プランBでいきましょう。プランBは何ですか?」
「えぇい、ねぇよ、んなもん! わかった、お前の案を長官に話してみる」
 高柳の怒声に近い声が大峰との会話を一方的に打ち切る。大峰は一仕事を終えた顔でネイチャーの続きを読もうとする。しかし先ほどの被弾の際に大峰が床に落としていたネイチャーは戦闘のあわただしさの中で誰かに踏まれ、表紙がやぶれかけていた。ぼろぼろになった雑誌の表紙を手で払い、大峰はネイチャーの表紙に視線を向ける。その表紙には「Radar」の文字が書かれていた。



「敵艦隊変針!」
 見張り員からの報告にキンメルは余裕すら感じさせる声で言った。
「もはや遅いよ。たとえT字を描かれようと、最初から距離をつめていればこちらが命中弾を出すか出さないかのタイミングで彼らの砲戦距離にまで接近できていただろう………。だが彼らは我らがしかけた遠距離砲戦に乗ってしまった。今や敵一番艦に対する照準は万全。彼らの砲戦距離まで距離をつめられるまでの間に、一体何発の命中弾が出ているか………」
 帝国海軍の大峰大尉の考えは的中していた。戦艦ノースカロライナの「切り札」とは射撃用レーダー、FC Mark3であった。
 光学照準儀で距離二七〇〇〇メートルの敵艦を狙い撃っても誤差が八〇〇メートルも発生してしまい、とても命中が期待できるものではなかった。しかしこのFC Mark3という電子の眼は二七〇〇〇メートル向こうにいる敵艦に対し、三七メートル以内の誤差で済ますことができた。単純計算だが、このFC Mark3を使えば光学照準儀で狙うより、二〇倍近い命中精度が期待できるのだ。
 合衆国海軍全体でもまだノースカロライナにしか搭載されていない機密兵器であるが、しかしその性能はキンメルが「切り札」と呼ぶに相応しいレベルであった。
「長官、今後は交互撃ち方ではなく、斉射に切り替えます」
 ノースカロライナ艦長のハストベットの言葉にキンメルは静かに頷き、自らが発していた言葉の続きを思案する。
 ………距離をつめきるまでの時間を考えれば敵一番艦だけでなく、二番艦や三番艦まで沈められる可能性すらある。何せこのノースカロライナの命中率は並の戦艦の二〇倍なのだから、一発の重みが異次元である。
 敵の一番艦は見覚えのない新型艦だが、二番艦と三番艦は艦齢二〇年以上の長門クラスであることが判明している。長門クラスの装甲と防御方式は新型艦のそれに比べれば数段劣るはずだからだ。
 キンメルは深く被っていた制帽を脇にかかえる。若かりし頃に比べて寂しくなったキンメルの毛髪は、汗まみれになって情けなく頭皮にへばりついていた。キンメルはハンカチを取り出して毛髪が吸った汗を拭う。
 一時は大敗寸前であったが、キンメルたち合衆国海軍太平洋艦隊は虎口を脱し、さらに虎に痛撃を加えようとしていた。
 今やキンメルのみならず、合衆国海軍太平洋艦隊の将兵すべてがノースカロライナが搭載する九門の主砲が一斉に砲弾を発射し、そして帝国海軍第三艦隊の旗艦に命中弾が出る度にハリウッド映画に出てくるような超ド派手な大爆発シーンの発生、いわゆる爆沈の発生を期待していた。
 ………しかしすでに命中弾は両手の指の数よりも多く発生しているのにも関わらず、帝国海軍第三艦隊の旗艦は速力を落とすことなく、まっすぐに合衆国海軍太平洋艦隊へ接近していた。
「何………だと?」
 戦艦の多くは自らの主砲と同口径の砲で撃たれても耐えられる程度の装甲を持っている。故に戦艦は堅牢な海の浮かべる城と呼ばれているのだ。
 しかし今目の前にいる戦艦、帝国海軍第三艦隊の旗艦の防御力は異様であった。一六インチ砲弾を物ともせず、速力を一切落とすことなく前進を続けている。
 ………不愉快な想定だが、敵一番艦の防御力は対一六インチ砲以上、即ち一八インチ砲で撃たれることに備えているのではなかろうか? もしそうならば敵一番艦がゾンビのように撃たれづよいことにも納得がいく。
 だが、その想定は………
 キンメルの考えがそこまで至った時、空をつんざく魔龍の咆哮が轟いた。………そう、帝国海軍第三艦隊が彼らの決戦距離、二四〇〇〇メートルにまで接近し、真打の砲撃を開始したのであった。
 遠距離で撃っていた時とはうって変わり、ノースカロライナの至近に着弾する砲弾の雨。帝国海軍の照準はようやくにして合わせられるようになりつつあった。
「………!」
 帝国海軍の砲撃はまだ命中弾を出していない。しかし帝国海軍が決戦距離に近づくまでに最低一隻、あわよくば二隻、三隻の戦艦をしとめたがっていたキンメルの目論見はここに撃ち砕かれたのだった。
 しかしそれはキンメルの敗北に直結するわけではない。元々、射撃用レーダーによる照準補正が可能だったのはノースカロライナだけだったこともあり、メリーランドやウェストバージニア等の他の合衆国海軍太平洋艦隊の戦艦たちは指を加えてノースカロライナのレーダー照準射撃を見守っているだけだった。しかし今や砲戦距離は光学照準儀でも照準が合わさるほどに近づいている。ノースカロライナ以外の合衆国海軍戦艦部隊も砲撃を開始したのである!



「すげぇ、まさか本当に生きたまま決戦距離に辿り着けるなんて思ってなかったわ」
 再びけたたましい砲声を発し始めた帝国海軍第三艦隊旗艦。敵艦隊への遮二無二の接近を進言した張本人、大峰 当は周囲がドン引きするほど無責任な言葉を、空気が凍りつくほどの大声で発していた。
 しかしそれは大峰の本音ではない。彼の本音は周囲に聞き取れないほど小さな声で発せられていた。
「………本当、よく耐えてくれたな。さすがは四六センチ砲戦艦………」
 第三砲塔の装甲を撫でながら呟く大峰。その仕草と口調、そして眼差しには彼が搭乗する戦艦に対する愛おしさが芽生えつつあった。
 そう、この時代の海軍に関する知識を少しでも持っている者ならばとうにお見通しであろう、今まで名を明言することをあえて避けていた帝国海軍第三艦隊の旗艦。
 その名を今こそ明かそう。度重なる一六インチ砲弾の直撃に、一切怯むことがなかった勇者の戦艦。帝国海軍最新最強最精鋭の戦艦。
 その名は!
 その名は!!
 その名は!!!
 その名は!!!!
 その名は大和、超弩級戦艦 大和である!!!!!
 前代未聞、前人未到の四六センチ砲を三連装砲塔で三基搭載し、装甲も四六センチ砲弾の直撃に耐えうるように設計された超弩級戦艦 大和。その堅牢さはすでに証明されたと言っていい。
 では破壊力、四六センチ砲が撃ちだした巨弾が敵に命中した場合、どれほどの破壊をもたらすのか。その答えは再発砲から六射目に生起した。
 大和が放った九発の四六センチ砲弾の内、一発がノースカロライナの艦首に突き刺さったのだ。重量一.五トン近い四六センチ砲弾が命中した瞬間のことを思い返してノースカロライナで戦っていた水兵はこう証言している。
「世界が前のめりに倒れるかと思った」
 そしてその水兵の証言を戦後になって聞いた大和の見張り員はしたり顔で頷きはやしたてたのだった。
「だろ!? 俺はいつも言ってたんだ、フィリピン沖で大和の砲弾を受けた時、ノースカロライナの艦首部分が着弾の衝撃で一瞬水面下にまで沈んだんだって! この話をする度に航空隊の連中に『妄想乙』って嘲笑われたものだが………やっぱり真実だったんだ!!」
 彼らの感じたこと、見たことが真実だったか、それとも虚構であったか。それは各々の判断に委ねるとして、ノースカロライナ艦長のハストベットが被害の報告を受けたのはノースカロライナの艦首がごっそりと削がれてしまったということだった。失われた艦首からフィリピンの蒼い海水が浸入してくる。ハストベットは大慌てでノースカロライナ艦首部分の隔壁を閉鎖するように指示を出す。
「くっ、やはりジャップの戦艦の主砲は一八インチなのか………」
 被弾の際の衝撃で床に投げ出されていたキンメルが参謀の手を借りながら立ち上がる。
 先ほど「戦艦の多くは自らの主砲と同口径の砲で撃たれても耐えられる程度の装甲を持っている」と書いた。実はノースカロライナは先述の一般論からは例外の存在であった。
 ノースカロライナが建造計画の段階だった頃、ノースカロライナの主砲は一六インチではなく、さらに一サイズ小さな一四インチ砲であった。しかし帝国海軍が新鋭戦艦を建造しているとの情報を得たために一四インチ砲では火力不足なのではないかと指摘され、主砲を一六インチ砲に格上げした過去があった。こうしてノースカロライナは一六インチ砲を搭載することになった。しかし装甲は元々の対一四インチのままであった。装甲まで一六インチ砲準拠にすると重量の増加が許せなくなるレベルに達するというのが理由であった。
 よってノースカロライナの装甲は己が主砲で撃たれた際に耐えられない、戦艦としては例外のパターンに属することになったのであった。
 そしてフィリピン沖海戦にてその例外は悪い方向へ作用しつつあった。
 一六インチ砲ですら耐えられないノースカロライナが、一八インチ砲で撃たれているのである。ミドル級のボクサーがヘビー級のボクサーと打ち合いをするようなもので、ミ ド ル 級ノースカロライナが打ち負けるのは自明の理であった。そしてこのミドル級のボクサーは試合開始前の航空攻撃で脚を負傷し、本来の半分程度の速力しか出せなかった………。
 逃げることも、撃ち勝つことも望めないノースカロライナにとって、もはや敗北は決定事項といってよかった。
「………どうやら、これまでのようだな」
 大和が放った二発目の命中弾がノースカロライナの舷側中央部に突き刺さり、その砲弾はノースカロライナのボイラー缶にまで達して炸裂。ボイラー缶を一基破壊されたノースカロライナの速力はさらに低下し、一〇ノット程度の速力まで落ち込んでしまった。
 そのような状況下、キンメルがハストベットに自身の敗北を宣言した。
「提督………」
「我々はすべての知恵を絞り、そして全力を出し切った。しかし帝国海軍が周到に進めていた準備を打ち破るには至らなかった………」
 キンメルがそこまで言った時、ノースカロライナの後方で一際大きな爆発が轟いた。帝国海軍第一航空艦隊の航空攻撃で消耗していた合衆国海軍の水雷戦隊の妨害を突破した帝国海軍の水雷戦隊が、戦艦アリゾナに対して雷撃を敢行し、アリゾナに七本の魚雷を命中させた轟音であった。
 艦齢二五年に達しようかというアリゾナにとって七本同時被雷は絶望的な被害をもたらした。アリゾナは自らの姿を黒煙で隠しながら、しかし隠し切れなかった籠マストの先端が急速に水平に向かって傾いていく。被雷からわずか六分でアリゾナは海中へ沈んでいった。
 アリゾナの最期を唖然としながら見送るキンメルたち。アリゾナの姿が海中に消えてから、キンメルは再び口を開いた。
「だが我々の戦い方が間違っていたわけではない。レーダーの有用性は十分に証明された。もしFC Mark3が全艦に行き渡っていれば、今頃海底に沈んでいたのは彼らの方だった」
 そしてキンメルは全戦艦へのFC Mark3配備を申し出ていた。しかしその要望はあの男の鶴の一声で停止とされ、フィリピンの陸軍を救出するという大義名分の下、キンメルたちは罠に飛び込まざるを得なくなった………。
 あの男、合衆国大統領フラクリン・ルーズベルトの一声で!
 キンメルは別に民主主義を貶めたいわけではない。彼は民主主義こそ自由と平等の証だと信じていた。しかしアメリカ合衆国の軍隊組織の最高決定者が合衆国大統領であるということには不満を抱いていた。今回の海戦は政治家の政治的判断で進められた。軍事的合理性は無視され、軍備が整わない状況での侵攻作戦が行われた。
 陸海軍をまとめ、軍人の意見を政治家に申し出ることができる、合衆国軍代表となる組織。これがあれば今回の敗戦は避けられたハズだ。
「………サラバだ、ハルゼー。もう一度お前と酒を飲みなかったが………」
 それがキンメルの最期の言葉となった。大和がノースカロライナに撃ち出した六発目の命中弾。それがノースカロライナの主砲第二砲塔の天蓋を突き破り、ノースカロライナの弾薬庫で炸裂したのだ。その砲弾が落下する音は最終戦争を告げる笛の音のようだった。
 弾薬庫誘爆。地獄の釜が容赦なく開き、ノースカロライナの船体が神話的エネルギーによって引き裂かれ、生者を奈落へと連れて行こうとする。ノースカロライナの乗組員は一八〇〇人余りだが、この地獄から生還できたのはわずか三名しかいなかった………。



 一九四二年四月三日午前一〇時三七分。
 アメリカ合衆国首都ワシントン。
 アメリカ合衆国大統領府の三二番目の主であるフランクリン・ルーズベルトは木製の机を右人差し指でリズミカルに叩きながら左手で書類をめくった。
 その書類にはフィリピン沖海戦で沈没した合衆国海軍の艦艇と戦死者の数がリスト化されて記されていた。
 戦艦ノースカロライナ、メリーランド、ウェストバージニア、カリフォルニア、テネシー、アリゾナ、オクラホマ、ペンシルベニア、ネヴァダ………フィリピンへ向かった全戦艦が二度と戻ってこなかった。
 合衆国海軍史上、類を見ない大敗である。
 対する帝国海軍側の被害は旧式戦艦の比叡が沈んだだけで、他は無事に母港へ帰還することができていた。
「新聞の論調はどうなっているかね?」
 ルーズベルトは手にしていた書類を机の上に放り投げ、革張りの椅子の背もたれに体重を預ける。
「おおむね悲観的な論調です。この戦争、連合国は敗北するとまで言っていますな」
 ルーズベルトの質問に応えたのはウィリアム・リーヒであった。元アメリカ合衆国海軍大将で、現在はフランス大使を務めているルーズベルトにとってよき相棒であった。
「連合国が負ける、か………」
 リーヒの言葉をルーズベルトは天井を仰いだまま鼻で笑ってみせた。
「ハッ、連合国、つまりは合衆国とイギリスとソ連の国力と、ナチとジャップの国力を比較してみればそんなこと起こりえないのはすぐわかるだろうに。それこそ『常識で考えて』という奴だ」
「しかし太平洋艦隊は壊滅した」
「壊滅『させた』、だ。あんな無茶な戦略で勝てるほどジャップも阿呆じゃない」
 ルーズベルトの断言にリーヒはかすかに眉をひそめる。そして恐る恐る尋ねた。
「………本当にアレをやるのか?」
 リーヒの質問に対するルーズベルトの回答は明確だった。
「リーヒ、今更戻れるものと思っているのか? すでに万単位の海軍将兵が水葬されている。ここで怖気づいたらそれこそ呪い殺される」
「戦争を遂行するための『究極のニューディール』か………」
「そうだ。空母や戦艦、各種航空機、戦車や重砲、小銃、はてには食料に至るまで………すべてを作って作って作りまくり、あの忌々しい恐慌を完全に克服する!」
「………そのためには戦争に勝つ必要がある、か」
「そうだ。しかし私は軍事には疎い。それに合衆国陸軍と海軍の長、ジョージ・マーシャルとアーネスト・キングを折衝させることもできない。だがリーヒ、君にはそれができる」
「大統領の軍事顧問としての統合作戦本部、か………私がその議長役とはね」
「引き受けてくれるな?」
「君に『究極のニューディール』の話を聞いた時から、悪魔と相乗りする覚悟はできているさ」
 リーヒは迷いを振り切るように首を縦に振り、そして右手を差し出した。ルーズベルトはその手をガッシとつかみ返した。
 キンメルが熱望した「陸海軍をまとめ、軍人の意見を政治家に申し出ることができる」組織、統合作戦本部はキンメルの死後わずか二日で発足が決定した。
 これでフィリピン沖海戦にまつわるすべてのエピソードが出揃った。
 艦隊戦力を大きく消耗した合衆国と、大勝に沸く大日本帝国。
 この両国にとっての「緒戦」はこうして終焉を迎えるのだった。だが、戦争そのものの終焉にはまだ遠く………そしてその結末が見えている者は誰一人としていなかった。………その結末を夢想する者なら数え切れないほどだったが。


次回予告

 フィリピン沖海戦に大勝し、南方の資源地帯を確保した大日本帝国。
 しかし大日本帝国はこれ以上の戦線拡大を図らず、太平洋戦線は不気味な平穏に包まれる。
 その理由を紐解くため、時系列は一度過去、戦前へと遡る!

次回、海神の戦記
第六章「戦略原論」
またの名を皮算用


第四章「閉じる罠」

第六章「戦略原論」

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