大日本帝国最大の軍港都市、呉。
 その港に停泊する古びた軽巡洋艦龍田。
 しかしそのマストに掲げられた旗は龍田の小さな船体にそぐわないほど威風堂々たるものだった。その旗は連合艦隊の旗艦であることを意味していた。
 龍田の艦橋では連合艦隊司令長官である山本 五十六海軍大将を始めとする面々が落ち着かない様子で時間がすぎていくのを待っていた。山本は一人で灰皿が満杯になるほどタバコを吸いまくっていたし、参謀長の宇垣 纏海軍少将は艦橋の縁をグルグルと何周も歩き回っていた。
 龍田の艦長である馬場大佐は連合艦隊司令部の落ち着かない様を、彼らに気取られない程度に楽しんでいた。しかしそんな馬場大佐が不気味に思うほど泰然としている人物が一人だけいた。
 彼は連合艦隊司令部付の参謀であるのだが、まったく浮ついた様子がない。馬場大佐が聞いた話では、この男が今回のフィリピン沖海戦での作戦の骨子を組み立てたのだという。ならば作戦が上手くいくか否かで心の波が高くなるものではないのだろうか? しかし彼は能面のように表情を変えることなく、慣れた手つきで艦橋に持参したティーポットからカップに紅茶を注いで香る湯気を楽しんでいた。
 太い神経をしている。馬場大佐は目の前の三〇代半ばの男に向けていた視線をそらした。まるで錨のように太く強固な神経線維を誇る参謀。彼の名は………
「長官、来ました! 『トラ・トラ・トラ』です!!」
 通信参謀が通信室から息を切らせて駆け込んでくる。通信参謀の上ずった声が龍田艦橋の空気を変える。山本は「そうか!」と喜色を顔面から溢れさせて飛び上がる。無愛想さから「黄金仮面」だと揶揄される宇垣ですら喜んでいるのが傍目でわかる。
 しかし件の参謀はそれでも余裕を崩さなかった。自らの計算通りに事が動いている。そこに驚きや喜色が入る要素は彼にとって存在しなかった。
「やったな、結城中佐! 貴様の作戦、見事に当たっているぞ!!」
 山本がそう言って参謀を褒める。今回の舞台の脚本を作りこんだ参謀は照れ隠しなのか、軍帽を脱いで団扇代わりにしながら頷いた。
(今の所、事態はすべて我が手の内。最後までこれが動かなければいいのだが………)
 参謀、結城 海神わだつみ中佐は器用に軍服の中だけに冷や汗を滲ませていた。無愛想なまでの能面はすべてポーズ、自らの臆病を隠し通すための演技に過ぎない。
 何せ自分が立てた作戦計画で万単位の人間が死地に向かい、多くの人間がそのまま帰ってこないことになるのだ。元寇の時代より知略で日本を陰から支えてきた結城一族の末裔は、人命の重さを知る男であった。
(人事は尽くしているんだ。後は天命が帝国を見放さないことを祈るばかり、か………)
「海の神」を名に持つ海軍中佐は心労で重くなる胃に、懸念ごと紅茶を流し込んだ。

海神の戦記
第四章「閉じる罠」


「クッ、報告は受けていた、受けていたが………」
 合衆国海軍第五艦隊旗艦空母エンタープライズ艦橋。第五艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス中将が空を見上げる。その視界に映るのは出撃時と比べて明確に少なくなった戦闘機隊であった。これは後で集計したことで判明したのだが、一〇〇機の戦闘機を発艦させて、帰艦できたのは五七機だけであった。
「………波は高くない。着艦の難易度が比較的緩いのが唯一の幸い、か」
 第五艦隊付航空参謀のユーキ・テフラ中佐がエンタープライズの舷側に目を向けて呟いた。………テフラは着艦体勢に入ろうとする航空隊を直視できなかった。
 第五艦隊の三隻しかいない空母に戦闘機だけを搭載し、フィリピン近海の制空権を確保して艦隊決戦を挑む。
 その作戦を提案し、骨子を組み立てたのはユーキ・テフラ中佐であった。しかし結果はどうだ。六隻の大型空母を保有する帝国海軍は第一次攻撃隊として戦闘機だけを送り込む戦闘機掃討戦ファイタースイープを仕掛け、まんまとテフラの企みを打ち砕いた。
 恐らく帝国海軍は真珠湾で合衆国海軍の空母の大半を大破着底させた時点で今回の作戦を決定していたのだろう。
 空母の数で決定的に劣る合衆国海軍が唯一取り得る勝利の方程式。それこそがテフラの作戦だと帝国海軍は完全に看破していたのだ。
「テフラ中佐」
 まっすぐ空を見上げたままスプルーアンスが口を開く。
「………できる限りの手は打った。勝機は最大限にまで拡大できた………私は今でもそう考えている」
「しかし、私は………」
「まだすべて終わったわけじゃない」
 スプルーアンスの言葉にテフラはようやく我に返る。そしてそらしていた視線を空に向ける。機体のあちこちに破孔が空き、フラップがちぎれ飛ぶ寸前となったF4Fが着艦体勢に入ろうとしている。傍目にはどう見てもスクラップ同然で、飛んでいること自体が不思議なほどだ。しかしパイロットはまだ着艦を諦めていなかった。
 初めて着艦をしたあの時の感覚を思い出しながら、その身に刻みつけた技術を反芻するようにゆっくりと高度を下げていくF4F。そして機尾のフックがエンタープライズ艦尾に張られたワイヤーを掴む。それは着艦に成功した証である………だが、次の瞬間にはF4Fの脚が折れ、バランスを失ったF4Fがエンタープライズの艦尾を転がる。
 逆立ちしたF4Fのコクピットから這い出てきたパイロットがエンタープライズの水兵の肩を借りて医務室へ運ばれていく。あれだけの目にあったにも関わらず、そのパイロットは次の出撃を訴えていた。
「そうですね、まだ終わっちゃいない、終わらせてなるものか………ッ!」
 テフラの眼に活力が戻り、拳を握り締めるだけの力もわいてくる。そしてテフラの脳内から知謀が再び溢れてくる!
「………次の作戦、思いついたかい?」
 スプルーアンスの質問に、テフラは力強く頷いた。その眼差しに秘められた意思の強さと明確な闘争心はテフラの本来の上官、ウィリアム・ハルゼー中将のそれと同質であった。



 一方で、帝国海軍が送り込んだ第一次攻撃隊、八〇機の零戦隊の内、激戦を生き残った幸運者が意気揚々とそれぞれの母艦へと着艦していく。
 その数が出撃前よりも少なくなっているのは当然だが、しかし帰艦できた数は七〇機を下ることはなかった。着艦に失敗した二機を除いてちょうど七〇機、実に九割近い零戦が帰艦できた計算となる。
 自機を赤城の格納庫へ下げるエレベーター。その上で風祭 貴士一飛兵は心地よい疲労を感じていた。
 風祭は和木 駿介中尉の列機として敵艦隊上空で大立ち回りを演じ、和木が三機撃墜するのをアシストした。しかも風祭自身も一機撃墜していた。第一次攻撃隊は敵戦闘機の撃退を主目的とした戦闘機掃討戦のために出撃していたが、その任は十二分に果たせたと胸を張ってよかろう。
「ふぅ、やったぜ………」
 ガクンと大きく揺れてエレベーターが降りきる。風祭が姿勢を正して格納庫を見渡すが、そこは寂しいまでにがらんとしていた。零戦よりも大きな九九艦爆や九七艦攻はどこにも見えない。
「そうか、二次攻撃隊、三次攻撃隊はもう出て行ってたのか」
 風祭はそう呟きながら零戦のコクピットから飛び降りる。空戦の疲労は風祭の予想より大きく風祭の体の自由を奪っていた。着地の際に風祭は足元をふらつかせて倒れかける。
 だが風祭の腕をつかんで転倒を防いだ者がいた。その者とは風祭が二番機としてアシストしていた和木であった。
「おい、大丈夫か?」
「面目な………いや、出撃前に注意に肘受けたのが今になって痛んだんですよ」
 風祭が揶揄する口調で応える。「冗談が言えるなら大丈夫だな」と和木も苦笑いを返した。
「これで艦爆や艦攻隊の被害、少しは抑えられたでしょうか?」
「そうだな。為すべきことは為したっていう所だが…………」
 和木は格納庫に視線を向ける。
「しかし、今の我が艦隊に残っているのは第一次攻撃隊だった俺たちくらいか」
「そりゃそうですよ。残りの零戦隊は二次、三次攻撃隊の援護についてますし」
「………よく考えれば、思い切った作戦だよな。敵の空母に戦闘機しか載っていないという前提ですべての作戦が組み立てられているなんて」
「まぁ、確かに………どうかしたんですか、中尉?」
「いや、俺の心配しすぎ………なんだろう、きっと」
 和木の言葉に頷いた風祭だが、しかし士官搭乗員である和木と、予科練出身の風祭では根本的な観点が異なっている。和木の観点は風祭には絶対にわからなかったし、和木が感じた懸念のことを風祭が一緒に考えることもなかった。



 帝国海軍が送り込んだ第二次攻撃隊は艦爆を中心にすえた部隊編成となっていた。その数は零戦一二機、九九式艦爆六〇機、九七艦攻一六機となっていた。
 第二次攻撃隊は合衆国海軍太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメル大将が自ら率いる戦艦を中核とした主力部隊に迷うことなく向かい、そして今攻撃を加えようとしていた。
 スプルーアンス中将がキンメル艦隊の護衛に向かわせた直援隊はそれでも二八機を数えていたが、しかし直援隊の半数が最新鋭のF4Fワイルドキャットではない、旧式のF2Aバッファローであった。
 故にスプルーアンスが送り込んだ直援隊は、零戦隊にとっては無力に等しかった。
「おーおー、さすがは『荒鷲』を自称するだけのことはあるな、零戦隊は」
 九九艦爆の後部座席で青い塗装の飛行機を追い立てる零戦の活躍を眺めながら暢気な声を発したのは帝国海軍の鏡 一平一飛曹であった。
 事実、合衆国海軍の直援隊は零戦隊の前に為すすべなく追い払われていた。キンメル艦隊へ向かう九九艦爆と九七艦攻の編隊にとってもはや最大の脅威は各艦が放つ対空砲火となっていた。
 真っ青な海と空に黒いシミができては消える。その「シミ」にもしも捉われたら最期、航空機は揚力を奪われて海へ叩きつけられることになるだろう………。
 そして合衆国海軍の陣形は円を描くようになっており、円の外周部を駆逐艦と巡洋艦が、円の中心部に戦艦が配置されている。
 もしも戦艦を狙おうとした場合、円の外周部が熾烈な砲火を浴びせてくるだろう。後に輪形陣と呼ばれ、合衆国海軍のみならず帝国海軍でも採用されることになる対空戦闘向けの艦隊陣形であった。
「ありゃ、江草少佐は重巡に狙いを定めたみたいですよ」
 操縦桿から手を離し、指を挿した先で数機の九九艦爆が編隊を離れていこうとしていた。その先頭の九九艦爆の尾翼に施された赤とオレンジの縞模様、それこそ第二次攻撃隊を率いる江草 隆繁少佐の機体の証であった。
 江草機を先頭にした一団の向かう先には精悍な姿を誇る巡洋艦の戦隊がいた。
「我々もついていきますか?」
 挿していた指を操縦桿に戻し、鏡に尋ねるのは明石 晃一飛曹だった。しかし鏡は頭を縦には振らなかった。
「重巡相手になると対空砲火がキツそうじゃないか。別の、もっと倒しやすい奴にしようよ」
 身も蓋もない言い方だ。しかし鏡の言うことは正しい。明石はそう考える人間だった。
 大学を出ながら海軍航空隊の道を志したという点で明石と鏡は同一であった。そして大学では優秀な成績を残していたのも事実だった。
 そんな二人にとって、今回の戦争はあっさりと片がつくようなシロモノには、とてもではないが思えなかった。先の鏡の「倒しやすい奴」を相手にしたいという発言の下敷きにはその考えがあるのだ。
「さて、そうなると我々の獲物は、と………」
「あれなんてどうだ、明石?」
 鏡が指差す先、そこには一隻の駆逐艦が砲と機銃で必死の弾幕を形成していた。しかしその砲火は一方に集中しすぎていた。もしも別方向から攻撃を受ければ無防備な背後に浴びせる一太刀となるであろう。そして明石たちの九九艦爆は「別方向」から突撃する形となる………。
「最高じゃないですか。さすがカガミン、いいチョイスですよ」
 明石の口元が思わず緩む。
「だろう?」
 カガミンこと鏡も露悪的な笑顔を浮かべる。
「じゃ、降下行きますよ」
 明石が操縦桿を倒して機体を降下させ始める。そしてその降下角度は七〇度に達していた。一般的に帝国海軍では五〇度から六〇度の降下角で急降下爆撃を行う。それを踏まえれば明石の操縦は角度が大きく、それに伴って速度もグンと速くなっていた。
 降下を開始してようやく明石機に気付いたらしい合衆国海軍の駆逐艦が慌てて砲塔を回転させ始める。しかし………
「遅いですよ」
 砲塔が回転し終えて照準が定まるまでの時間と、急降下爆撃を成功させるまでの時間の場合、後者の方が明らかに早かった。
 九九艦爆の胴体から放り出された二五番、二五〇キロ爆弾が駆逐艦の艦中央部に命中する。
「ムン!」
 引き起こしによって正反対になるG。体の血が逆流していく錯覚を覚えるが、それでも明石と鏡の意識はハッキリとしていた。そして二人が視線を駆逐艦に向けた時、件の駆逐艦は煙突を倒され、機関から激しい炎を噴出していた。並大抵の応急処置では沈没は免れないだろうし、奇跡的に沈没を免れたとしても戦闘が行えるようには見えなかった。
 つまり明石たちは駆逐艦一隻分、キンメル艦隊の防空能力を削ることに成功したのだった。
「さて、あとは第三次攻撃隊と、真打の打撃部隊にお任せしますか」
 明石はそう宣言すると母艦の方角へまっしぐらである。
 ………こんな戦争で死んでたまるか。たとえ臆病と罵られようと、俺たちは生き延びてやる。明石の呟きは小さすぎて九九艦爆の爆音にかき消されていた。



「風祭たち、ちゃんと仕事を果たしたんだな………」
 第三次攻撃隊として九七艦攻の後部座席に座る甲斐田 昇平一飛兵が首を横に回し、視界を左から右に大きく動かしながら言った。
 戦闘機だけで編成された第一次攻撃隊と第二次攻撃隊の直援隊の零戦はスプルーアンス艦隊の戦闘機を完全に食い尽くしたのだろう。第三次攻撃隊の迎撃に現れた合衆国海軍の戦闘機はもはや一人の指の数で数えられるほどでしかなかった。
 無論、第三次攻撃隊にも第二次攻撃隊と同数の零戦が随伴しているため、合衆国海軍の戦闘機の迎撃は初手から失敗していた。第三次攻撃隊は一機の脱落も出すことなくキンメル艦隊へ接近しつつあった。
「第一次攻撃隊だけじゃない」
 甲斐田の言葉に応えたのは坂上 五郎飛曹長だった。坂上は眼下に広がる輪形陣を指差して続ける。
「第二次攻撃隊のおかげで敵の陣形は穴だらけだ。『タツマキ』、穴から一気に攻めるぞ」
 坂上の命令に右手を挙げて応えたのは先頭の操縦席に座る狭間 達樹三飛曹だった。「タツマキ」のあだ名で呼ばれる男は静かに操縦桿を押し込み、九七艦攻の高度をジワリと下げ始める。挟間たちの九七艦攻の高度は逡巡することなく三〇メートルまで下がる。もしも操縦に失敗が伴うか、被弾でもして揚力のバランスを失えば瞬く間に海面へ激突できる高度と速度に狭間たちは足を踏み入れる。
 狭間たちにとっては真珠湾以来、二度目となる実戦での航空雷撃だ。しかし今回の緊張の度合いは真珠湾でのそれを大きく上回るものであった。
「うおお………ッ! こいつは!!」
「だ、大丈夫なんですか、コレ!?」
 まばらになったはずの輪形陣。しかし放たれる砲火、炸裂する黒煙、衝撃波………合衆国海軍の対空砲火には実際以上の鬼気がこめられていた。その根源は帝国海軍の攻撃を跳ね除け、生き残りたいという執念か。
 思えば狭間たちが攻撃した真珠湾は奇襲攻撃で、しかも港に停泊した空母を狙い撃ったものだった。当然、対空砲火はまばらであったし、何より狼狽の色が明白であった。
 そう、このフィリピン沖海戦こそが狭間たちにとって最初の「戦争」になるのだ。その意味は計り知れないほど大きく、そして重い………。
 坂上と甲斐田は目の前で開いた地獄の釜に対する恐怖で体が引きつるのを感じた。
「甲斐田、女みたいにピーピーわめくなッ!!」
 ………だが、「タツマキ」の怒声が文字通り暴風となって坂上と甲斐田から恐怖の感情を吹き飛ばした。
「坂上飛曹長、距離を!!」
「お? お、おお、距離一二〇〇〇! いつも通り、距離一〇〇〇でやるぞ!!」
「そうこなくっちゃあ!!」
 狭間は瞬きすることすら忘れ、操縦桿を握ることだけに集中する。合衆国艦隊の対空砲火がまとう鬼気に呑まれたか、狭間の九七艦攻の右後方に位置していた九七艦攻がバランスを崩して機首から海に突っ込んで水柱に変わる。しかし坂上も甲斐田もその水柱に気を払うことはなかった。狭間を含め三人とも、帰艦してから他人にいわれて初めてその九七艦攻が撃墜されたことを知ったほどだ。
 極限まで研ぎ澄まされた三人の感覚は、わずか一〇秒程度の事象を永遠のように感じさせる。死地に飛び込んで一〇秒、しかし永遠のように感じられる一〇秒ということだ。
「距離五〇〇〇、四〇〇〇、三〇〇〇、ヨーイ………」
 真珠湾の時のように、距離を読み上げる坂上の声は落ち着いている。もう怯懦の影はどこにも見出せなかった。
「テッ!!」
 坂上の声を合図に九七艦攻が魚雷を投下する。「タツマキ」の九七艦攻だけでなく、他三機が魚雷投下に成功していた。
「タツマキ」は重石になっていた魚雷がなくなったことによる自機の浮上を必死に抑え、眼前の敵戦艦の艦橋のすぐ傍を飛び越えさせた。
 一方で蒼いキャンパスに叩きつけられた魚雷は真っ白い筆跡を残し、合衆国海軍の戦艦テネシーに一本が命中する。
「やった、命中だ!」
 甲斐田の弾んだ声。しかし「タツマキ」はその声に同調する気はなかった。テネシーを飛び越えたとはいえ、テネシーのみならず合衆国海軍の巡洋艦や駆逐艦が対空砲火を向けてくる。一寸でも油断に伴う隙を見せれば百回は死ねる。低空飛行を維持し続ける「タツマキ」たちの九七艦攻。しかし彼らの九七艦攻に覆いかぶさるように一発の一二.七センチ砲弾が炸裂し、衝撃波と鋼鉄の弾片を浴びせてくる!
「ぬぅッ!?」
 破裂した砲弾が浴びせてきた破片が九七艦攻の風防を叩き割る。甲斐田は背中に熱いモノが突き刺さる。割れた風防の破片か、それとも砲弾の破片か。どちらにせよこの激痛は自分が負傷した証であった。
「た、『タツマキ』さん、坂上飛曹長………」
「甲斐田、無事か………?」
 坂上がすかさず甲斐田に尋ねる。
「す、すげぇ痛いッス………」
 甲斐田が背中の痛みに歯を食いしばりながら報告する。しかし坂上の返事はそっけなかった。
「我慢しろ、甲斐田。それから、甲斐田、すまんが俺の分の見張りと航法を頼む」
「坂上飛曹長?」
「俺はまぶたのあたりを切られた。眼を開けてられん………」
「そ、そうだ、『タツマキ』さんは無事ですか?」
「俺も、肩の辺りに破片が入ったらしいな………左肩が痛くてかなわん」
「だ、大丈夫なんですか?」
「まぁ、右手は動くから大丈夫だろ」
 狭間はそういって強気に笑う。虚勢ではあるが、後席の二人を安堵させることができた、よい虚勢であった。
 そして狭間たちは自分たちの家である母艦、第一航空艦隊が待つ方角に針路を向ける。
「行きは揚々、帰りは痛いってか」



 一方で、ようやく第一航空艦隊に戻ることができた第二次攻撃隊の鏡と明石たちであったが、しかし眼下に広がる光景はトンでもないものであった。
「おやま、赤城が燃えてますね」
「赤城だけじゃなくて加賀と蒼龍、翔鶴もやられてますよ」
 彼らの眼下で第一航空艦隊の空母四隻が爆撃を受けて炎上していた。格納庫が空に近い状態だったため火災はすでに鎮火寸前であったが、しかし被弾した空母四隻の甲板には大穴が開いている。
「こりゃ着艦が不可能なのは確定的に明らかって奴ですね………」
「とりあえず飛龍か瑞鶴に降りろと発光信号が出てます」
「よし、んじゃ瑞鶴に着艦するぞ」
 鏡にそう告げた明石は瑞鶴に着艦するべく機首を翻した。



 帝国海軍が送り込んだ第三次攻撃隊。怒涛のように押し寄せた攻撃隊はキンメル自らが率いる合衆国海軍太平洋艦隊主力部隊に多大な損害を与えていた。
「巡洋艦はペンサコラを始め三隻が沈没、駆逐艦は七隻が沈没か………」
 キンメルは幕僚が簡潔にまとめた艦隊の被害報告を眺め、眉間を静かに揉んだ。
「輪形陣にさらに穴が開いています。第四次、第五次といった攻撃を受ければ戦艦の沈没もありえるかと………」
 参謀の言葉にキンメルは頭を振った。
 キンメル艦隊に所属する戦艦は全部で九隻。そのどれもが帝国海軍の雷撃機による攻撃で被雷し、全速力を発揮することができなくなっていた。
「………もし一番遅い戦艦に足並みを合わせた場合、どれくらいの速度になる?」
 キンメルの言葉に応えたのは航海参謀であった。
「一番遅い、であれば魚雷三本を受けたアリゾナの一三ノットになります」
「一三ノットか………」
 アリゾナの全速力は二一ノットであったことを思えば速度の低下が著しい。もしも第三次攻撃隊によって被害を受けたのがアリゾナだけだったならば、アリゾナを廃棄して全速力でこの海域を離脱する決断をキンメルは下していただろう。しかしキンメルが旗艦としているノースカロライナも二本の魚雷を受けて最大速力が一七ノットしか発揮できなくなっている上に、残り七隻の戦艦も似たような水準の速力しか出せなくなっている。
 キンメルがアリゾナを切り捨てたとしても艦隊全体の鈍足は変わらない………。
(いっそ戦艦すべてを放棄するか………)
 しかしキンメルは合衆国海軍で三五年以上の軍歴を誇る大ベテランである。その武人としてのキャリアが全戦艦の廃棄を拒否させた。
「………わかった。アリゾナの速力にあわせて艦隊編成を組みなおそう。それからスプルーアンスの第五艦隊にも撤退命令を伝えておくれ」
「キンメル長官………」
 参謀長がキンメルに何か言いかけた。しかし敗軍の将になりつつある男に、一体どのような言葉がかけられようか。それ以上は何も言えず、キンメルの命令を実行に移す。
 その時であった。通信兵が一枚の紙片を握り締めながらノースカロライナの艦橋に駆け込んでくる。
「長官、第五艦隊より入電です! 見てください!!」
 鼻息荒く、誇らしげに握り締めていた紙をキンメルに突き出す通信兵。興奮のあまりに礼を無くした行いであったが、しかしそれも仕方なしと言わざるを得ない内容がその紙には書かれていたのだ。
 スプルーアンス率いる第五艦隊は戦闘機ばかりを集中配備した編成となっていた。
 しかし偵察任務用に本来は艦爆であるSBD ドーントレスも艦隊全体で一六機搭載していた。第五艦隊の参謀、ユーキ・テフラはその偵察用のドーントレスを使って帝国海軍の第一航空艦隊に強襲をかけたのだ。
 合衆国海軍の空母は戦闘機しか搭載していないと考えていた帝国海軍第一航空艦隊はユーキ・テフラが咄嗟に考案した策に対応できず、強襲は結果的に奇襲となり、帝国海軍の空母四隻の甲板に穴を開けることに成功した。これで空母四隻分の航空機が無力化されたも同然となる。
「これは、これで生きて帰ることができる………かもしれない!」
 キンメルの顔色にいくらか生気が戻る。だが、その時だった。
「キンメル長官」
 戦艦ノースカロライナ艦長のハストベット大佐が静かに指先を一方向に向ける。
「向こうにジャップの艦隊が接近しつつあるそうです。おそらくは戦艦を中心とした主力部隊でしょう」
「なるほど………彼らの想定は最初から航空攻撃で足を奪い、艦隊決戦でトドメをさすだったのか」
 これが帝国海軍の仕掛けた罠の最終形であった。今、罠が静かに閉じきろうとしている訳だ。
 しかしキンメルは帽子を被りなおしながら呟いた。
「艦隊決戦で〆るつもりなら、我々だって負けはしないさ。元々、我らは艦隊決戦で勝ちに行こうとしていたのだからね………」
 当初の想定とは大きく異なったが、しかし日米戦艦部隊の砲撃戦が実現しようとしている!
 キンメルは己の心音が高まるのを感じつつ、ハストベット大佐に告げた。
「艦長、ノースカロライナの切り札はまだ無事だったな?」
「はい。ジャップの雷撃で我らが切り札は傷つくことはありませんからね」
「よし、全艦に第一種戦闘配置を命令だ!」
 キンメルが高らかに宣言する。閉じた罠の中、フィリピン沖海戦という舞台の最終幕が上がろうとしている。
 ………いいだろう、帝国海軍、東郷 平八郎の子孫たちよ。砲撃戦で我が合衆国海軍に確実に勝てると思っているならば、我らはそのふざけた幻想を撃ち砕く! このノースカロライナの一六インチ砲が!!


次回予告

帝国海軍の仕掛けた罠は、一部を除いて完璧に成功していた。
真っ青な空と海の間で滅び行く運命の大海獣が吼える。
決戦は今、最終段階を迎える………ッ!

次回、海神の戦記
第五章「吼える巨砲」
フィリピン沖海戦、決着


第三章「空に舞う」

第五章「吼える巨砲」

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