一九四二年三月二三日午前一一時二三分。
 アメリカ合衆国領オアフ島真珠湾。
 帝国海軍の機動部隊によって空母四隻を含む多数の艦艇が大破着底にされ、さらには軍港施設や燃料タンクも破壊されるという憂き目にさらされた真珠湾であったが、アメリカ合衆国は屈辱の記録を急速に記憶の奥にしか存在しないものにしようとしていた。
 空母のような大型艦の撤去にはまだ時間を必要とするものの、駆逐艦や巡洋艦の撤去は概ね完了としつつあった。
 帝国海軍の爆弾を根元に受けて横倒しになったガントリークレーンはそのままになっているが、燃料タンクは新たに新設され、艦艇の修理はまだできないが、艦隊の補給なら行えるようになっていた。
 その証拠といわんばかりに巨大な艨艟たちが所々に焼け跡を残す真珠湾に錨を降ろしていた。
 合衆国海軍太平洋艦隊に属する戦艦九隻が真珠湾に停泊する姿は、打ちのめされたオアフ島の住民に安心と合衆国の威信を確認させるのに充分であった。
 その中で特に威容を放っていたのが合衆国海軍太平洋艦隊旗艦ノースカロライナであった。
 他の八隻とは外観からして独自のラインを誇っておるノースカロライナだが、それも当然である。艦齢が二〇年を超えようかという他八隻とは異なり、ノースカロライナはつい先日に竣工したばかりだった。外観の差はそのまま二〇年の間の技術の進歩を意味していた。
 本来ならば四月に竣工する予定だったノースカロライナだが、第二次世界大戦に合衆国が参戦することになったのと、太平洋方面での戦況が芳しくないという事情から最優先での建造が命令され、晴れて合衆国海軍太平洋艦隊の旗艦として参じることになったのだった。
 まだ抜けきらぬペンキの臭気が漂うノースカロライナの艦橋で腕を組みながら静かに立つ男の姿。彼こそが合衆国海軍太平洋艦隊を率いる立場、つまりは合衆国海軍太平洋艦隊司令長官の職にある男、ハズバンド・キンメル大将であった。
(ノースカロライナ、メリーランド、ウェストバージニア、カリフォルニア、テネシー、アリゾナ、オクラホマ、ペンシルベニア、ネヴァダ………九隻の戦艦の内、三隻が一六インチ砲を搭載する戦艦だ)
 キンメルは腕を組んだまま考えを巡らせる。
(対する帝国海軍の戦艦はどうだろう? 長門、陸奥の二隻が一六インチ砲戦艦で、後の日向、伊勢、扶桑、山城、金剛、比叡、霧島、榛名はすべて一四インチ砲戦艦となる………。数は一〇隻と我が方より多いことになるが、しかし金剛級の四隻は元々巡洋戦艦にカテゴライズされていただけに防御力に不安を抱えているのも事実)
 キンメルは組んでいた腕を外し、ノースカロライナの鉄壁をそっと撫ぜる。
(我が合衆国海軍の戦艦は伝統的に速力を犠牲にして防御力を取ってきた。砲戦となれば堅牢な装甲を穿つことは容易ではあるまい………)
 そう、キンメルは戦艦同士の砲撃戦、艦隊決戦で帝国海軍に負けることはないと考えていた。それだけの自信を抱かせるだけの戦力と、錬度を合衆国海軍太平洋艦隊は持っているという自負がキンメルにはあった。
 しかしキンメルは浮かない顔のまま頭を左右に振った。そしてノースカロライナの右舷の向こうに停泊する艦艇を見やる。
 威風堂々、鋼鉄の浮かべる城と表現される戦艦とは異なり、キンメルの視野に新しく入ってきた艦艇は偏平足の巨人に踏み潰されたかのように平べったい。それは艦砲による砲撃を駆使するのではなく、艦内に格納する航空機を飛ばすことで敵に攻撃を加えるための艦艇である。
 キンメルの視野に映っていたのは真珠湾で受けた甲板の損傷を完治させた、空母エンタープライズであった。
(しかし航空機による戦艦の撃沈が可能であることはマレー沖で証明された………)
 真珠湾攻撃からわずか三日後に生起したマレー沖海戦の結果、王室海軍の最新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズは撃沈されてしまった。合衆国海軍の最新鋭戦艦であったとしても、航空機の猛攻に晒されればプリンス・オブ・ウェールズと同じ運命と辿るだろう。
 キンメルは戦艦こそが海軍の主力艦であると信じる、いわゆる大艦巨砲主義者であるが、しかし航空機の威力を軽んじる妄信の徒ではなかった。
 航空機の発達は、戦艦のそれよりはるかに大きな加速で遂げられていることは世界中の常識だ。ほんの二〇年前は時速二〇〇キロにも届かなかった航空機は、今では時速五〇〇キロ台の後半が出せるまでになっている。もちろん、速力だけでなく、爆弾や魚雷の搭載量や照準機器、戦術の整備も今と昔では大違いである。
 その事実を知っていながら、戦艦の最強を信じられるような男では合衆国海軍太平洋艦隊の司令長官は務まらない。そしてキンメルは合衆国海軍太平洋艦隊司令長官として一ミリの不足点も存在しなかった。
(我々が使用できる空母は三隻しかない。しかも一隻は搭載機数はともかく、速力や防御力の面で不安を抱えるレンジャーだ。対する帝国海軍は真珠湾を襲った大型空母だけで六隻存在することが判明している………)
 空母の数で劣るということは、運用できる航空機に差が発生するということだ。もちろんそれはキンメルら合衆国海軍太平洋艦隊の苦戦を意味する。
(しかしそれでも我らは往く。帝国海軍がてぐすねを引いて待ち構え、そして四面楚歌の中で絶望的な抵抗を続ける合衆国陸軍極東軍が助けを待っている島、フィリピンへ………)
 キンメルは下唇を噛んで、ノースカロライナ艦長ハストベット大佐に視線を送った。ハストベット大佐はキンメルにそっと頷き、簡潔かつ明瞭に命令した。
「ノースカロライナ、発進」
 そしてノースカロライナに続いて八隻の戦艦たちも動き始める。エンタープライズを始めとする空母も、巡洋艦、駆逐艦も等しく動き始める。
 この日、フィリピンで孤軍奮闘を続ける合衆国陸軍極東軍の救援を行うべく、合衆国海軍太平洋艦隊が全戦力を賭けて真珠湾を出撃した。
 戦艦八隻、空母三隻、巡洋艦、駆逐艦を集めると四〇隻を上回る大艦隊の出撃を隠すことは、もちろん不可能であり、ハワイ諸島近海で通商破壊任務を帯びていた帝国海軍の潜水艦によって発見された。
 大日本帝国とアメリカ合衆国が太平洋の覇権を争った大戦争。その最初の艦隊決戦はこうして開幕のベルを鳴らし始めた………。

海神の戦記
第三章「空に舞う」


「さて、諸君。太平洋艦隊が出撃してきたぞ」
 帝国海軍連合艦隊旗艦軽巡龍田。開口一番、居並ぶ参謀たちに言ったのは帝国海軍連合艦隊司令長官山本 五十六大将であった。山本の声色は陽気に弾んでいるように聞こえるが、もっとも山本をよく知る者ならば、この明るい声には自棄の色が濃いことを感じただろう。
「この手狭な軽巡生活もあと少しの辛抱だな」
 山本の物言いに露骨に顔をしかめて見せたのは軽巡龍田艦長の馬場大佐だったが、龍田を「間借り」している連合艦隊司令部の幕僚たちは皆が山本に賛成だという表情をしていた。
「まったく、連合艦隊GFの司令部が軍艦にしか置けないなんて伝統、誰が最初に言い出したのやら」
 綺麗に頭髪をそりあげた頭をツルンと撫でながら山本がぼやく。馬場大佐の冷ややかな視線を横目で気にしながらフォローを入れたのは連合艦隊参謀長の宇垣 纏少将だった。
「日本海海戦での東郷元帥は海戦後、旗艦である三笠に足跡が残ったという逸話が残っています。それに指揮官先頭というのも聞こえがいいですからね」
「そりゃ明治時代のGF長官ならそれでよかろうさ。気にするのは主力艦だけでいいんだからな」
 山本はふんと鼻を鳴らす。日本海海戦で左手の中指と人差し指を失った山本は、日本海海戦の指揮官である東郷 平八郎元帥をあまり評価していない向きがあった。
「今のGF長官は主力艦だけでなくて、補給部隊や基地航空隊、鎮守府まで指揮下に入ってるんだぞ。第一艦隊の戦艦率いてホイホイ最前線に出られる暇などあるもんか」
 もしも最前線で戦うGF長官がおわします戦艦が被弾して司令部全員皆殺しの目にあったら帝国海軍の指揮系統は機能不全を起こしてしまうだろう。だから山本は本来連合艦隊の主軸となるはずの戦艦中心とした第一艦隊を近藤 信竹中将に任せ、連合艦隊旗艦の名目だけを旧式軽巡であったがために本土に停泊していた龍田に移したのだった。
「今度の海戦に勝利したなら、その功名でGF司令部を東京の市内にでも移させるよう提案なさるとよいでしょう」
 トイレに行くために龍田艦橋を後にしていた男が一人、ハンカチで手を拭きながら戻ってくる。
 山本は声の方へ振り返り、そして砕けた口調で尋ねた。
「そうは言うがな………おい、本当に勝てるんだろうな?」
 男は口元に薄っすらと笑みを浮かべて頷いた。その表情を見た宇垣は背筋に冷たい感覚が走るのを感じた。
 ………彼の表情、あれではまるで悪魔のようじゃないか。
 宇垣の感想は正解であり、間違いでもあった。なぜなら男は悪魔ではなく、鬼の末裔だったからだ。



 一九四二年四月一日午前九時四一分。
「キンメル長官、結局ここまで来てしまいましたね」
 空母エンタープライズの露天艦橋で手持ち無沙汰に水平線を眺めていたユーキ・テフラ中佐がぽつりと呟いた。「だいたい」という区切りになるが、テフラの視界のはるか先に戦艦ノースカロライナが西を目指して航行を続けているはずだった。そのノースカロライナに座乗する太平洋艦隊司令長官のことをテフラは考えていた。
「まだ納得できかねているようだね」
 テフラに応えたのは第五艦隊を指揮するレイモンド・スプルーアンス中将だった。南海の強烈な日差しから眼を護るためのサングラスの縁がキラリと陽光を反射する。
「陸上に司令部を置いて統括的な指揮を執る。その考えは基本的に有効で、適切だと私も思っているよ」
 スプルーアンスはそう言ってサングラスを外し、つるを軍服の胸ポケットへ引っ掛けた。サングラスの下に隠されていた瞳は優しく、理知的であった。
「だが、キンメル長官は効率よりも、指揮官先頭による士気向上を取った」
「………今回の任務はそれだけ無謀な性質だから、ですね?」
 スプルーアンスはコクリと頷いた。
「………できる限りの手は打った。勝機は最大限にまで拡大できた………私はそう考えている」
 スプルーアンスはテフラから目線を外し、甲板の上に待機するF4F ワイルドキャットを見やった。
 できる限りの手は打った、か。我ながら嘘をつくのが下手だな。スプルーアンスは自嘲気味に眼を閉じる。本当の最善手、それはフィリピンの合衆国陸軍極東軍を見捨てることだろう。
 しかしそれだけはできなかった。
 今回の海戦は、大日本帝国がアメリカ合衆国に突きつけた挑戦状でもあるのだから………。



 後世の立場で、そして穿った目線を向けるとする。
 一九四二年四月の段階でフィリピンの防衛を担当する合衆国陸軍極東軍の苦戦、その原因は世界恐慌にあった。
 一九二九年一〇月二四日に起こったニューヨーク証券取引所での株価の大暴落。それを発端とする全世界レベルの恐慌の結果、ボーイング社の経営が悪化、一九三六年に倒産してしまったのだった。
 ボーイング社が倒産の瀬戸際に追い詰められた時、同社は合衆国陸軍向けに開発していた試作四発爆撃機モデル299があった。もしもこの機体の大量発注があればボーイング社の経営を救うことができるし、モデル299はそれが可能なだけの高性能機であった。
 しかし優秀性を証明することで発注の確保をと焦っていたボーイング社の経営陣は開発陣に対して無茶を要求してしまった。
 モデル299を使用したアメリカ合衆国無補給横断飛行、サンフランシスコからニューヨークまで無補給で一気に飛ぶという一大パフォーマンスをボーイング社の経営陣は企画したのだった。サンフランシスコとニューヨークの距離は直線距離でおよそ四八〇〇キロメートルで、五八〇〇キロメートルもの航続距離を誇るモデル299からすれば十分可能なパフォーマンスだった。
 少なくともボーイング社の経営陣はそう考えていた。
 しかし開発陣は経営陣の楽観に難色を示す。
「確かに設計では五八〇〇キロの航続距離を実現可能にしている。しかしモデル299はまだテストの途中で、そんな無茶な飛行をやるのは危険すぎる!」
 開発陣の一人はそう言ったが、モデル299の大量発注を受けたい経営陣は半ば脅迫に近い形でモデル299の超長距離飛行を強行させた。
 ………そして結果は最悪の形になった。
 モデル299はニューヨークにたどり着けず、ネバダ州の郊外に墜落。合衆国陸軍はモデル299どころか長距離爆撃機そのものに対してネガティブなイメージを抱くようになり、ボーイング社の株価は奈落の底へ落ちていき………そして二度と上がってくることはなかった。
 ボーイング社は倒産の憂き目となり、合衆国政府もボーイング社の再建に公的資金を投入しようとしなかった。
 当時の航空機業界はそれほど大きな規模ではなかったためにボーイング社の倒産によって発生した失業者は問題となる数ではなかったし、政府は公的資金をニューディール政策に優先していたためだった。
 かくして合衆国陸軍航空隊は長距離爆撃機の調達を行わないまま一九四二年を迎えていた。
 そのためフィリピンの合衆国陸軍極東軍は台湾から飛来する帝国海軍航空隊の迎撃は行えても、台湾に爆撃を行うことができず、上陸した帝国陸軍を叩こうにも制海権と制空権の両方を喪失した状態で防御戦闘を繰り返すことしかできず、じわりじわりと戦線を縮小していく合衆国陸軍極東軍はついにバターン半島に篭城を始めることになっていた。
 そしてバターン半島で篭城を開始して二ヶ月。彼らはギリギリの所でギリギリの戦いを続けてギリギリの戦力を確保していた。
 しかしそれは合衆国陸軍極東軍の奮闘だけを意味するわけではなかった。なぜならば帝国陸軍はバターン半島に篭城を続ける合衆国陸軍極東軍に対する攻撃をほとんど行っていなかったからだ。合衆国陸軍極東軍は帝国陸軍に生かされている状態だった。
 スプルーアンスが「大日本帝国がアメリカ合衆国に突きつけた挑戦状」といったのはこのことである。
 合衆国陸軍極東軍の食料、弾薬、医薬品は日々消耗することはあっても補充されることはない。フィリピン近海の制海権が完全に日本のものとなっているためだ。合衆国陸軍極東軍は必死に崩壊の日を延ばそうとしているが、それはあくまで延命の策に過ぎず、根本的な解決としてフィリピン近海の制海権奪取を望んでいた。
 その考えは合衆国陸軍極東軍から送られてくる報告の電文にも現れているし、さらにいうなら大日本帝国自らアメリカ合衆国に報せてくるほどだった。
 後世にいうところの「東京ローズ」、ラジオ・トウキョウ放送は合衆国陸軍極東軍の奮闘を褒め称えると同時に彼らを見捨てようとするホワイトハウスの冷たさを声高に非難していた。あからさまなプロパガンダであるが、しかしアメリカ合衆国のマスコミは東京ローズの論調に歩調を合わせてホワイトハウスの対応を、真珠湾攻撃を許しただけでなくフィリピンの陸軍を見捨てることをやむなしとする合衆国海軍を非難した。
 結局の所、キンメルらは確かな戦略で出撃したのではなかった。彼らは己が属する組織の名誉のために出撃し、虎口へ挑まんとするのだ。
 果たしてキンメルらの出撃は勇者の成功となるか、それとも野蛮な愚行となるか。神のみが知る結末へ向けて、物語を紡ぎ続けよう。



「よーし、第一次攻撃隊整列!」
 大日本帝国海軍第一航空艦隊旗艦赤城格納庫。多くの画数を消費してしまう場所に場面は移る。
 真珠湾攻撃を成功させた第一航空艦隊の旗艦は引き続き赤城が務めており、赤城乗り込みの搭乗員は意図的に精鋭が集められるようになっていた。
 赤城で編隊長を務める者となると飛行時間が四桁を突破するほどであり、しかも支那戦線で実戦を経験していることが多い。その腕前は修羅の如しと称して語弊は欠片も存在しない。
 そんな猛者たちの中に自分が混じっているということに軽い違和感と、自身が認められているという大きな実感を感じているのは帝国海軍一飛兵、風祭 貴士であった。
 大成功に終わった真珠湾攻撃であったが、しかし犠牲はゼロではなかった。真珠湾攻撃で未帰還となった者の補充として風祭は赤城勤務を言い渡され、栄光の只中にいた第一航空艦隊の末席に加わった。そして今、風祭は第一次攻撃隊の一員として出撃を控えていた。
 風祭は自分の呼吸が興奮で乱れつつあるのを自覚した。真珠湾攻撃はあくまで奇襲攻撃であったのに対し、今回の海戦、きっと後に「フィリピン沖海戦」とでも称されるようになる戦いは大艦隊と大艦隊がぶつかり合う一大決戦だ。男子の本懐、これに優るはなし。風祭は興奮するあまりに作戦の説明を行っている板谷 茂少佐の話が全然耳に入っていなかった。
 そんな風祭の腹に肘を突きたてたのは隣で話を聞いていた和木 駿介中尉だった。和木中尉の肘を受けて咳き込む風祭。
「ん? どうした?」
 板谷が怪訝な顔で尋ねてくる。慌てて呼吸を整える風祭に対して、しれっと和木が応える。
「きっと誰かが噂でもしているんでしょう」
 噂された時に出るのは咳ではなくてくしゃみだろ………と板谷は思ったが、別にその話を掘り下げる必要はどこにもない。今は自分の話を進めるばかりだ。
 ………そして一〇分後。板谷からの説明が終わって一旦解散となる。和木は真っ先に風祭の肩を叩いた。
「風祭、興奮が抑えられないのはわかるが、作戦の説明はちゃんと聞いておかなきゃいかんぞ」
「いや、面目ないです………」
 武者震いで大事な作戦の話を聞いていなかった風祭はばつが悪く平謝り。
「風祭、お前はまだ飛行時間が六〇〇時間を越えた程度で引け目を感じているんだろう?」
 和木の言葉に風祭は思わず首をすくめる。
「だが、それこそ場違いな考えだ。お前は立派な帝国海軍の搭乗員なんだ。支那で実戦だって経験しただろ?」
 それは風祭にとっては忘れたくても忘れられない瞬間である。
 中国大陸の見渡す限りに広がる草原で、敵戦闘機の編隊と戦い、その内の一機に銃撃を浴びせ、そして翼が千切れた敵機は螺旋階段を下るように地面へ激突した………。
「帝国海軍の搭乗員は誰でもなれるわけじゃない。ごく一握りの才能がある者の中で、よほどの大輪の花になる芽だけを育てている。お前はその一人として選ばれてるんだから、もっと自信を持てよ」
 和木はそういうと「今日は俺の列機がお前だ。お互い、頑張ろうな」と言い残して風祭から離れていく。
「お、風祭、いよいよ出撃か?」
 風祭に気楽そうな明るい声が届けられる。その声の主は風祭と予科練で同期だった甲斐田 昇平一飛兵だった。甲斐田は九七艦攻の電信員として真珠湾攻撃にも参加していた。
「甲斐田は三次攻撃隊か?」
「ああ、そうだな」
「そっか。ま、露払いは任せておけよ」
「あったり前だ。全部叩き落してこいよ」
 甲斐田はそういうと右掌を肩の上に上げてくる。
「ああ、勿論だ」
 風祭は甲斐田の掌に自分の掌を打ち付ける。パチンという気持ちのいい音が赤城の格納庫に木魂する。
 そして風祭は自分の愛機である零式艦上戦闘機二一型の操縦席に腰を下ろす。
 帝国海軍がフィリピン沖を西進する合衆国海軍の艦隊を発見してからわずか二二分後、第一次攻撃隊八〇機が飛び立っていった。



 帝国海軍が送り込んだ第一次攻撃隊五二機の存在に、合衆国海軍太平洋艦隊の中で一番最初に気がついたのは戦艦ノースカロライナであった。
 ノースカロライナが一番最初に敵機の存在に気がついた理由は単純で、それは同艦が艦隊の旗艦で、かつ艦隊の中で一番新しい艦だったためだ。しかし「さすがは旗艦、新造されたばかりでも優秀な人材が集まるわけだ」と膝を叩いて納得するのは早計というもの。なぜならば攻撃隊の接近を知ることができたのは人間の力ではなくて、機械の力を使ったからだ。
「レーダーというのは実に便利だな」
 敵機接近を探知し、艦隊中が殺気立つ。しかし司令官であるキンメルは一度「総員戦闘配置」を命令してしまえば(言い方は悪いが)暇になってしまう。ノースカロライナ艦橋に備え付けられた司令長官用のシートに腰をかけながらキンメルはポツリとつぶやいた。
 戦艦ノースカロライナに搭載されているレーダー、CXAM−1が九〇キロ先の敵機を探知し、キンメルはその情報を元に艦隊の戦闘配置を下命した。
「スプルーアンス中将の第五艦隊に連絡は入れているな?」
 キンメルの質問に参謀の一人が応えた。
「はい。あと五分かそこいらで直援機が到着するでしょう」
「敵の数まではまだわからないんだよな?」
「はい………。現在のCXAM−1の性能では敵機の集団を探知することはできても、細かい数まで認識することは出来ません」
「スプルーアンスは直援機を何機向けると言っていたかな?」
「敵機発見直後からどんどん発進させていきますから、最終的には一〇〇機を超える戦闘機が敵攻撃隊に殺到することになります」
 キンメルは参謀の返答が即座であったことに満足げにうなずいた。
「グッド、ここまでは実にグッドだな………」
 空母三隻しかないはずの第五艦隊が一〇〇機もの直援を差し向ける。これこそ第五艦隊の司令部が知恵を絞った結果であった。真珠湾攻撃で空母四隻が大破着底したが、艦載機搭乗員の多くは一命を取り留めていた。真珠湾攻撃を受けた瞬間、艦隊の大半が半舷上陸であったことが不幸中の幸いとなり、大破着底する空母の中に搭乗員が閉じ込められるという事態を防いだのだ。
 スプルーアンスはその助かった搭乗員の中から戦闘機乗りだけを選抜し、合衆国海軍に残された三隻の空母、エンタープライズ、ワスプ、レンジャーに乗り込むことを命じた。
 すなわち第五艦隊は此度の決戦の備え、艦載機のほとんどを戦闘機にしたのだった。(「ほとんど」としたのは偵察用のSBDドーントレスが残ったため)
 そのためわずか三隻の空母しか擁さない第五艦隊が艦隊直援に一〇〇機という大多数を用意できたのだった。
 キンメルたちは知らない話だが、帝国海軍が送り込んだ第一次攻撃隊は総勢八〇機。一〇〇機という多数で迎え撃つスプルーアンスの作戦は、基本的に大当たりであると言ってよかった。



 空母エンタープライズに籍を置くVF−6の一員であるジェイムズ・ビートン少尉は戦争が始まる寸前の一九四一年一〇月にエンタープライズ乗り込みを命じられた男だった。
 そしてあの日、一九四一年一二月七日(ハワイ時間)の真珠湾攻撃の際にエンタープライズの艦内に残っていた運のない男であった。
 しかし彼が乗艦していたエンタープライズは駆逐艦タッカーとダウンズが身を挺して守り、ビートンは左腕に軽い火傷を負っただけですんでいた。ビートンは操縦桿から右手を離し、左腕の火傷痕をそっと撫でる。軽い火傷だったので何の障害も残らなかったが、しかし焼けた皮膚はザラリとしていた。
「……………」
 左腕はもう痛みも痒みも残っていない。だがこの不愉快な見た目と触り心地がビートンの心に暗い影を落とすのだ。この影は奴らに受けた屈辱の記憶。俺はその借りを返さなければならない。もちろん同じだけではすまさない。この屈辱より何倍も大きな屈辱を奴らに、忌々しい黄色い猿に返してやるのだ!
 ビートンにとって今回のフィリピン遠征は陸軍を救うためではなく、自分が受けた屈辱を晴らすための切欠となるのだ。ハルゼーの後を受けたスプルーアンスは冷静で知的だ。考えることは彼に任せられる。だから自分は奴らに復讐することだけに専念できるのだ。
 ビートンのF4F−3ワイルドキャットは太陽を背にして赤い円が描かれた帝国海軍の機体に襲い掛かる。
 さぁ、俺の受けた屈辱を返す最初の一撃だ。機銃発射ボタンにかけられたビートンの指に汗が滲む。ビートンはボタンと指とでその汗を圧し潰した。
 バババババッ!!
 ワイルドキャットの両翼に二丁ずつ、合計四丁装備された一二.七ミリ機銃の銃口が煌き、曳光弾の光が伸びていく。だが、ほんの一瞬前までビートンの照準に捉えられていたはずの帝国海軍の航空機は幽霊のように姿を消していた。
「なっ………!?」
 咄嗟に首を回して周囲を確認するビートン。しかしそれがビートンの意識して行った最期の行動となった。彼が狙っていたはずの航空機がビートン機のケツについていたのである。ビートンの瞳孔が驚きで開くよりも早く、帝国海軍の戦闘機が銃撃。ビートン機は浴びせられた銃撃の内から三発が命中。その内の一発がキャノピーを貫き、ビートンの左肩に突き刺さる。
 その瞬間、ビートンの左肩、いや、左半身が爆ぜた。ビートンは痛みを感じる暇すら許されず、己が死んだことも判断できないまま絶命する。搭乗員を失ったビートンのF4F−3はゆっくりと高度を失っていき、やがて海面に激突して派手な水柱を立てる。それがビートンの墓標となったのだが、それを見た者はどこにもいなかった。ビートンを撃墜した帝国海軍の戦闘機、零式艦上戦闘機すらビートン機に銃撃を浴びせた時点で撃墜を確信して興味を別の、生きている敵機に向けていたからだった。
 哀れなビートンはこうしてフィリピン沖海戦における戦死者第一号となった。



「まったく、恐ろしいったらありゃしない………」
 たった今、風祭の目の前で繰り広げられた神業――ビートン機の攻撃を誘発し、それをかわし、それどころかビートン機の背後を取って、わずか三〇発程度の銃撃で撃墜してみせる。風祭には真似をしたくてもやり方すら想像できない。それをしれっとやってのけたのは和木中尉であった。
 風祭は和木の列機として和木の援護を行うのが役目であったが、後ろに目がある所か全周囲を見渡し、さらに未来まで見えているとしか言いようのない和木の妙技の前ではついていくだけで精一杯だった。
 風祭は周囲を見渡して次の敵機を探す。しかしそれよりも早く和木の零戦が次の獲物を見つけて動き出す。
「マジかよ。あの人、もう次の獲物を見つけたのか………」
 これじゃ自分は丁稚か刺身のツマか。完全に和木のおまけもいい所だ。しかしまだまだ未熟であることを自覚している風祭は自分の立ち位置はそれでよいのだと肯定した。そして和木についていくべく操縦桿を倒そうとするが………咄嗟にフットバーを蹴って風祭は自身の零戦を横転させる!
 風祭が一瞬前までいた場所に一二.七ミリ口径の雨が降り注ぐ。横転しなければ勿論被弾し、運がよくて負傷、運が悪ければ戦死していただろう。
 そして風祭の視界を横切っていく青く塗装された敵機。ズングリとした卵を思わせるフォルムはお世辞にも強そうには見えない。しかしこの機体こそ合衆国海軍にとって最新鋭戦闘機であるワイルドキャットであった。
「クソッ、やりやがったな!」
 風祭の頭に血が上り、上気した熱い怒気が吐き出される。風祭はスロットルを全開にし、速度を上げて自分に襲い掛かろうとしたワイルドキャットに追いすがろうとする。
 しかし横転の際に速度を若干とはいえ失った風祭機はワイルドキャットに追いつけない。距離は徐々に狭まりつつあるが、必殺の距離に達するには遠い。
 そこで風祭は威嚇に意味を込めてスロットルレバーにある機銃発射柄を握る。零戦の両翼の二〇ミリ機関砲二門と機首の七.七ミリ機銃二門が一斉に砲弾、銃弾を放つ。これに恐怖し、恐怖から逃れようと旋回すれば零戦の機動性を武器に一気に距離を詰めようというのが風祭の狙いであった。
 しかしワイルドキャットはそ知らぬ顔で直進を続ける。七.七ミリ機銃弾が一発命中したのか翼の付け根あたりにキラッと光ったが、それでも直進をやめなかったワイルドキャット。風祭はそれを追いかけることは断念した。あの一機にこだわり続けて和木を見失うわけにもいかないし、あれは強敵だ。強敵を相手にして嬉しいのはスポーツの試合だけで、命のやりとりを行うならなるべく相手するのは遠慮するべきだろう。それが長く生き残る秘訣となる………。
 この間にも和木の機位を把握し続けていた風祭は操縦桿を倒し、今度こそ和木の後に続くのだった。



 一方で風祭に一撃を加えていたのはVF−3を率いるジョン・サッチ少佐であった。
 本来ならサラトガ乗り込みであったサッチ少佐だが、前述の理由によりエンタープライズ乗り込みとなってエンタープライズの戦闘機隊を率いる役目を与えられていた。
 しかし戦況は最悪という他なかった。
「こちらサッチ、JAPの戦闘機と交戦中!」
 サッチは風祭の零戦が自分を諦めてくれたのを確認してから無線に怒鳴る。
「JAPの戦闘機の性能はF4Fと互角か、それ以上だ! さらに錬度は我々を大きく上回る!!」
 サッチは先ほど七.七ミリ機銃が命中した自機の左翼を見やる。五〇〇メートル以上離れた距離で命中弾が出るとは思わなかった。旋回して銃撃から逃れたくなる自身を抑え、ワイルドキャットを直進させる意志の力を持つサッチは戦闘機隊を任されるだけのことはあった。
『了解した、サッチ少佐。当初の予定通りにワイルドキャット隊は敵戦闘機に立ち向かい、バッファロー隊は敵艦爆か艦攻を狙うようにさせる』
 空母三隻に戦闘機のみを搭載することを決定した第五艦隊であったが、しかしワイルドキャットの絶対数は空母三隻を満たすことができるほど揃っていなかった。故にワイルドキャットが採用される前の主力戦闘機、すなわち一世代前の旧式機であるF2A バッファローも少なからぬ数が直援隊に混じっていた。ワイルドキャットが敵戦闘機を、バッファローが敵艦爆や艦攻を狙うようにすれば十分に使い道はあると判断されていた。
 第五艦隊からの上記の返答はそのことを意味している。しかしサッチ少佐は慌てて否定した。
「いや、バッファロー隊はすぐに後退させろ! JAPの攻撃隊は、戦闘機だけで編成されている!!」
 サッチがそこまで怒鳴った瞬間、待っていたかのように帝国海軍の零戦がサッチ機に襲い掛かる。零戦の俊敏な旋回戦を、サッチは高度と速力を活かした機動で何とか回避する。
「いいか、JAPの第一次攻撃隊はファイター・スイープだ! バッファローは退げ、ワイルドキャットの追加を早くよこしてくれ!! このままじゃ、全滅しちまう!!!」
 サッチの悲鳴に近い救援要請。その声を第五艦隊旗艦エンタープライズの艦橋で聞いていたユーキ・テフラ中佐の顔はワイルドキャットよりも青かったという………。


次回予告

 それは初めから仕組まれていた罠だった。
 相手が罠を警戒して知恵をめぐらせてくるというのであれば、我らはそのめぐらせた知恵のさらに上を狙うのみ。
 本職はそのためにこそ存在する。
 そう純粋に信じる男の打った一手が敵艦隊を捉えきる。

次回、海神の戦記
第四章「閉じる罠」
敵の一手先を読んでこその参謀


第二章「急行」

第四章「閉じる罠」

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