一九八三年春。
この時期、大日本帝国が世界に誇る海軍実戦部隊、いわゆる連合艦隊は次々と各々の母港を出港する。
食料、医薬品を始めとし、さらには弾薬も満タン状態で出港するために、たとえばいつもの演習の時の出向とは違い、連合艦隊の艨艟たちの喫水は自然と深くなり、背が低くなったかのように見える。
そして連合艦隊の艨艟たちは、沖ノ鳥島沖にて集結。
全連合艦隊所属艦の何と七割もの艦船が舳先を並べて東を目指して堂々と進撃を開始する。
連合艦隊の先頭を往くのはかなり古い艦船であった。
何せ竣工があの日米戦争中のことなのだから。そしてこの艦船は分類上でも「旧かった」。
今ではアメリカのアイオワ級と彼女のみしか地球上に存在しない分類。かつては大海獣とまで呼ばれ、海の覇権を欲しいままにしていた艦種。
それの名は戦艦。
戦艦 和泉。
戦艦 和泉に率いられ、連合艦隊は堂々と東を目指していた。
戦艦 和泉。
その生い立ちは中々に起伏が激しいものであった。
一九四一年一二月二四日から唐突に始まった日米戦争。
その開戦と同時に帝国海軍は艦艇の戦時補充計画「マル急(本当は○の中に急の字があるのだが、表記不可能)」を発動。
超大和級である紀伊型戦艦の建造を開始すると同時に、量産型戦艦である和泉型の建造も開始したのだった。
だが一九四二年七月末のマリアナの攻防が全てを変えた。
当時世界最大最強の戦艦であった大和が、航空攻撃によってたやすく行方不明(と日本では頑なに表現されているが、実際は撃沈)となったのだ。
これによって戦艦は航空攻撃で容易に沈むことが証明されたのであった。そして遠田 邦彦&大枝 忠一郎の両名が海軍を掌握。今後の海軍は航空主兵、つまりは空母を量産することになった。
だが和泉はすでに建造工程が九割を超えており、もはや戦艦として就役させるより他になかった。
そこで艦政本部は和泉を実情に見合った戦艦に改造することを決意した。
その結果、長一〇センチ砲四八門、ボフォース四〇ミリ機関砲一二〇門、二五ミリ機銃一二〇門という破格の対空戦艦が誕生していた。
そして和泉は期待通りの活躍を見せ、押し寄せる米軍機を次々と撃墜してみせた。
さらには日米戦争最後の海戦であるミッドウェー砲撃戦にも参加し、日本戦艦としては唯一生存した殊勲艦でもある。
そんな和泉を、戦後の海軍は一種の象徴として捉えていた。
「和泉、哮龍(紀伊型戦艦二番艦尾張を空母に改造した艦。世界初のアングルドデッキ装備艦にして搭載機数一六〇機を越える超空母)は日本の誇り」という歌までできていた。
その後も大小様々の改装工事を受け、その艦容は竣工当時からは一変していた。
戦艦の魂ともいえる主砲は、竣工当時は四〇センチ五五口径連装砲塔四基であったが、一九七六年に行われた一大改装の末に新型の四〇六ミリガトリング砲に変わっている。尚、この主砲は和泉前部に一基だけ備え付けられている。和泉の後部甲板はヘリ用の甲板となっているのだ。
そして四〇六ミリガトリング砲と艦橋の間の隙間にはミサイルVLS(垂直発射管)が大量に敷き詰められていた。このVLSは状況に応じて対艦ミサイルから対地、対空まで撃ち分けることが可能であった。
長一〇センチ砲や二五ミリ、四〇ミリ機関砲も全部取り払われ、代わりに一二七ミリ速射砲と二〇ミリCIWSが申し訳程度に装備されていた。だが数は申し訳程度でも発射速度は比べ物にならず、その防空力はかえって向上していた。
さらに艦橋も一新されており、NATO諸国が開発した新防空システムであるイージスシステムに対応したものとなっている。
そして機関もガスタービンに換装され、速力はさらに向上。竣工当時ですら三六ノットもあった速力は、今や三八ノット(公証。実際はそれ以上ではないかという説がある)にまで上がっていた。
戦艦 和泉。
確かに竣工こそ古いが、幾度もの改装の末に和泉は現代海戦においても圧倒的な性能を見せていた。
連合艦隊東進から四日後。
ハワイ南東二〇〇キロの海域にて。
巨大な艦船が、小さな艦船に周囲を囲まれながら、悠然と佇んでいた。
巨艦の様相はあっさりしていた。艦上には申し訳程度の人工物しかなく、基本的に平らな甲板がほとんどを占めていた。
アメリカ合衆国海軍太平洋艦隊臨時旗艦空母 ハズバンド・E・キンメル(作者註:この世界ではニミッツではなく、ずっとキンメルが太平洋艦隊司令長官として戦っているので史実のニミッツ級はキンメル級となっている)。
アメリカ合衆国海軍が史上二隻目として建造した原子力空母であり、その排水量は一〇万トンをも容易く超える。ちなみにあの大和ですら排水量は六四〇〇〇トン。和泉は竣工当時で五一〇〇〇トン、改装後で五九〇〇〇トンである。
その超巨大原子力空母の艦橋で、一人の壮年の男が双眼鏡片手に西方の海を眺めていた。
若い頃は亜麻色の髪しかなかったのだが、今では徐々に白いものが目立つようになっていた。
男の年齢は四八歳。しかし年齢よりは五歳は若く見えるのも事実であった。
「長官、レーダー室より報告。日本艦隊がすぐ傍にまで来ているそうです」
壮年の男はコクリと頷いたが、しみじみとこう呟いた。
「レーダーというのは凄いね。僕の目では点にも見えないよ」
壮年の声は穏やかであった。内面の優しさだけでなく、知性も滲み出ている声である。
「それが人類の進歩というものでしょう、違いますか、長官?」
「うん、そうだね。さて………じゃ、出迎えの準備をしようか」
「すでに手空きの者を甲板にあげるように言ってあります」
「そうか。では行こう」
「はい」
壮年の男も何人かの男を連れて甲板の方へ向った。
男の名はユリアン・ミンツ。アメリカ合衆国海軍太平洋艦隊司令長官に史上最年少で就任した若き俊英であった。
一機のヘリコプターがハズバンド・E・キンメルの甲板に降り立った。そのヘリは大日本帝国海軍の対潜哨戒ヘリ 七六式対潜哨戒回転翼機 天啓であった。
そして天啓から一人の男が降り立った。恰幅の良い、初老の男であった。
初老の男が降り立ったことを確認したユリアンはすっと一歩歩み出た。
「お久しぶりです、チュウジョウ長官」
天啓から降り立った男もまたユリアンと同世代の男であった。こちらは髪は基本的に黒いものの、側部だけ白くなっている。
サングラスをかけているが、これはハワイ沖の強い日差しを防ぐためではない。彼のトレードマークなのだ、このサングラスは。
男の名は中条 静夫。大日本帝国連合艦隊司令長官である。
「私もまた会えて嬉しいですよ、ミンツ長官」
中条は右手を差し出し、ユリアンの手を握り合った。
「今年のリムパックは我がGFの勝ちにさせてもらいましょう」
「いやいや、こちらも負けはしませんよ」
二人はそう言い合うと穏やかに笑いあった。
そう、連合艦隊はリムパック――環太平洋合同演習に参加するために日本を発ったのだった。
日米戦争後に締結された日米同盟の一環として、太平洋の両端である二大大洋国家が、合同演習を年に一度行っているのだ。
そして今年で第一九回目を数える。一応の勝敗らしきものも定めることになっており、今までの通算成績は互いに九勝九敗。五分五分のイーブンであった。そういう事情があるために互いに意識せざるを得ない状況でもあった。
演習の開始は三日後に定められた。
その日まで連合艦隊は米太平洋艦隊と共にハワイの真珠湾に一旦は入港し、ハワイまでの長旅の疲れを癒し、万端の態勢で演習に挑むのだった。
中条は用意されたホテルには向わず、真珠湾の傍に建てられている合衆国海軍の官舎に向った。太平洋艦隊司令長官であるユリアン・ミンツ大将の官舎がそこにあるのだ。
「お帰りなさい、ユリアン・ミンツ」
ユリアンを先頭に官舎に入ると、実年齢より下にしか見えない美しい女性が声をかけた。彼女はユリアンの妻であるカーテローゼ・ミンツ、通称カリンであった。若い頃から勝気な娘であり、今もユリアンのことをフルネームで呼ぶ傾向がある。どうも普通の夫婦のように呼ぶことに気恥ずかしさを覚えているらしかった。そこが中条などには微笑ましい。
「お久しぶりです、ミンツ夫人」
中条は恭しく頭を下げた。
「相変わらずバカ丁寧な人ね」
ミンツ夫人も相変わらず直球しか投げてこない人であった。
「カリン、悪いんだけどチュウジョウ長官と少し話があるんだ」
「わかったわよ。せいぜい男同士で楽しく語らいあうのね」
(絶対に公言はしないが)愛する夫にそう言われたカリンはあからさまに膨れてみせた。ユリアンより少し年下なだけなのだが精神的には未だに少女的な部分を多分に残しており、そしてそれが逆に魅力に繋がっている。少なくともユリアンにはそう思えている。「あばたもえくぼ」なのかも知れないが、そう思えるだけユリアンの愛情が深いという証にもなろう。
「怒らせてしまいましたな」
中条は愛用するパイプを取り出し、中に葉を詰めながら言った。
「あはは………」
ユリアンは苦笑して見せたがどこか覇気の無い苦笑であった。この埋め合わせをどのようにするかで悩むことになるのだろう。
中条はミンツ家の部屋を見回す。
ユリアンは基本的に読書家であり、本棚には数多くの本がある。
そしてその本棚の一角に、わずかではあるが確かに領土を主張している作者の名前がある。
「ヤン・ウェンリー」
その本棚の一角に覇を唱える作者の名前であった。
そしてこれは一般には知られていないことであるが、この名前はユリアン・ミンツの養父のペンネームであった。
ユリアン・ミンツ。
彼の父親は日米戦争末期のミッドウェー砲撃戦の際に、大尉として戦艦 サウスダコタに乗り込んでいたが、熾烈な砲撃戦の末に戦死。
ミンツ大尉は妻と死別していた。そして今度は大尉が死ぬ番となった。
そして独り残されることとなったミンツ大尉の一人息子であるユリアンは養子としてもらわれることが決まった。
ユリアンを引き取ったのは結婚して長い時が経ているにも関わらず、子宝に恵まれなかったある海軍高官であった。
その名をレイモンド・エイムズ・スプルーアンス。人は彼を「不敗の魔術師」と呼んだ。
スプルーアンスはマリアナ攻防戦の際に始めて歴史の表舞台に出てきた。
マリアナの制海権奪取を目的として勇躍出撃したウィリアム・ハルゼー艦隊の中に彼の名前が見受けられた。そして日本軍の攻撃で戦死したハルゼーに代わり、奇策を用いて日本軍に痛撃を与え、山口 多聞を戦死に追い込んだのであった。
そして彼の名前を不動のものにしたのはマリアナ攻防戦の最終局面であった。
山本 光が座乗する戦艦 大和を的確極まりない航空攻撃で撃沈確実の打撃を与えたのだ。(トラックでの奇襲を除けば)世界で始めて正面から挑んで航空機で戦艦を沈めた男の名誉はスプルーアンスに与えられた。
そのスプルーアンスの名声を知っていたユリアンは、スプルーアンス家の養子になると孤児院の先生から聞かされた時、胸の高鳴りを感じずにはいられなかった。
歴史に名を残す名将。果たしてどのような人物なのだろうか。
厳格な人なのだろうか? それとも粗野な武人肌? もしくは冷徹な参謀タイプ?
だが事実はユリアンの想像の埒外にあった。
スプルーアンスという男は非常に怠け者であり、私人としては非常にだらしのない男であった。
しかしそれはあくまで上辺のこと。内面のスプルーアンスは世界中の誰もが到達し得ないほどの高みを登り切っていた。ユリアン少年はたちまちスプルーアンス提督を尊敬するようになり、そしてスプルーアンスの役に立ちたいと願うようになった。
スプルーアンスは軍人であったが軍人を志望したことは一度たりともなかった。タダで歴史を学びたくてアナポリスに行ったというのだから、ちゃんとした軍人になれる道理も無かった。
そんな彼が軍を退役してからは「ヤン・ウェンリー」のペンネームで何冊かの歴史書を出版していた。
何故彼が自分の本名を使わなかったのか。一度ユリアン少年は尋ねたことがあった。
スプルーアンスは頭を掻きながらこう言ったものだ。
「そりゃ私の名前で出版すれば売れるだろうさ。でも私はそういうのが好きじゃない。内容がよければ自然と売れるさ、私の本名を出さなくてもね」
結局はヤン・ウェンリーの歴史書はわずか数千部しか売れなかったのだが。
「では本題に入りましょうか」
パイプに日を灯しながら中条は言った。
ユリアンもコクリと頷いた。
「私の方はそろそろ行動を開始しようかと思います」
中条の眼はサングラスの下に隠れており、彼がどのような目の色を見せているのかわからない。だがその声色だけでユリアンには充分であった。
「チュウジョウ長官が以前に話していたあの二人を使うのですか?」
「ええ。非情なようですが、二人は真相を知らせずに、行動だけをさせることになるでしょう」
「それは………」
「なぁに、彼らは自分たちで正解を導いてくれるでしょう。だからこそ私は彼らに任せるのです」
パイプを吹かしながら中条は呟いた。
「今までの問題は、いかに『奴ら』に我らの真意を悟られずに行動を起こすかでした」
中条は再びパイプを加えながら続けた。
「我が国の遠田総長、そして結城大佐。貴方の国でいえばスプルーアンス元帥。皆、『奴ら』に真意を悟られたがためにこの世から消されてしまった」
スプルーアンス。その名を聞いた時、ユリアンの肩が震えるのを中条は見逃さなかった。
そう、レイモンド・エイムズ・スプルーアンスは天寿を全うすることなく死んだのだった。
嫌々軍人になりながら、地位の向上にしたがって辞めるに辞めれなくなっていたスプルーアンス。
彼は日米戦後、三年ほどは海軍大学校の校長などを歴任していたが、一九四八年についに退役することに成功した。
だがそれから六年後の一九五四年のこと。
その時の彼はフィリピンにいた。何故そんな場所にいたかというと、当時フィリピンの大統領となろうとしていたラモン・マグサイサイの支援のためであった。
本当は絶対に行きたくなかったのだが、退役に際する恩人であるサイモン・エドワーズきっての頼みとあれば断ることはできなかったのだった。
ラモン・マグサイサイはフィリピンに反共親米の政権を樹立しようと画策していた男であった。元々駐フィリピン米大使を務めていたのだから、親米政権を作るのは自明の理でもあった。
だがそれだけにフィリピンの赤化を目論んでいた共産主義者に目の敵にされていた。
そしてその不安は的中してしまった。
ヤン・ウェンリー………もといレイモンド・エイムズ・スプルーアンスはラモン・マグサイサイと一緒に共産主義者の凶弾に倒れたのだった。
その時、元海兵隊中佐のライナー・ブルームハルトや日米戦争時のスプルーアンスのスタッフの一人であったフォードル・パトリチェフ元少将(彼もスプルーアンスと共に退役していた)、そしてスーン・スール少佐らの献身的活躍で一時は暗殺者の兇刃から逃れれるのではないか、と思われたのだったが………
その報せを聞いて、大急ぎで駆けつけた当時一八歳のユリアン・ミンツが見たのは、左腿を撃ち抜かれ、周囲に血の溜まりを作りながら、壁にもたれかかりうずくまるスプルーアンスの姿であった。
それを見た時、ユリアンの内心に救いがたい無力感と絶望感が絶妙のカクテルを作ったものだった………
だがそれに類したことは大日本帝国でも起きていた。
伏見宮元帥の起こした第二次二・二六事件の終決からわずか四日後のこと。
大阪府は河内長野市のある一軒家で火事が生じた。
そして火事を鎮火した消防は、一軒家から一人の焼死体を発見した。
その焼死体は完全に消し炭になっており、遺体の損傷は激しく、身元の判別は非常に困難であった。
だが消防はその遺体がその家の主であることを常識的に悟っていた。
それ故にその遺体を遠田 邦彦軍令部総長であると発表した………
さらには遠田の右腕として日米戦争を引き分けにまで持ち込んだ男である結城 繁治もそれと前後して行方をくらましていた。
前者は陰謀の犠牲となった者たちの復讐。そして後者は人々の弾劾の声から逃げたのだとして一般に理解されることとなった。
「まぁ、とにかく………」
中条は再びパイプに火を灯す。
「いつまでも『奴ら』の思い通りにさせることはない。つまるところ、私はそう言いたい訳ですよ」
「それは僕だって同じ思いですよ」
ユリアンの目にも火が灯る。決意の火が。
「うむ………そのためにもあの社長の活躍に期待せざるを得なくなりますな」
「あの人ですか」
「ええ。あの方が『奴ら』の情報を一つでも多く持って帰ってくれるでしょう」
「では僕たちはその日のために………」
「ええ、あちこちに東奔西走することにしましょう。ただし、表ざたにはせずに」
ユリアンと中条は頷き合うと、三日後に始まる予定であるリムパック演習の話を始めた。
年に一度の会合。
限られた数での話し合いであるが、それでも確実に歩みは進められていた。その歩みの目指す先は一つ。
それは平和である………