軍神の御剣
第二五章「Someone loves you」


 リベル人民共和国首都リベリオン。
 一九八三年七月一七日の夜が明け、本格的に一九八三年七月一八日の太陽が東の空から昇ろうとしていた。
 リベリオンの中心部には政府関係者が住まう、いわば豪邸街がある。
 具体的にはリベル人民共和国首相のアルバート・クリフォード、そして政府軍の中心派閥の一人であるミロヴィッツ少将といった面々などが住んでいる。
 その一角に、赤地の布に鎌とハンマーが描かれた、ソビエト連邦国旗を高らかに掲げている家があった。
 その家の主が今回の話の主人公であった。



 屋敷の主であるヨシフ・キヤ・マモトはソビエト連邦がリベルに義勇兵名目で送り込んだ『ソビエト人民義勇隊』の司令官である。
 彼は徹底した攻勢タイプの指揮官であり、その用兵は常に積極果敢で、性格も豪放磊落であると一般的には言われていた。
 しかしベッドで眠るマモトの寝相は物凄くよかった。彼が常にさらけ出す無骨さなど微塵も感じさせない。寝返りも、身体の体勢を少しずらす程度で、しかも時折思い出したかのようにしか打たない。そのために彼の纏う布団は「皺一つ無い」は誇張であるが、虚構ではなかった。
「………ん」
 気持ちよく夢の世界に旅立っていたマモトであるが、誰かに肩を揺さぶられて目を覚ました。
 寝ぼけて霞む視界。しかしマモトは霞む視界の中に一人の少女を見つけた。年の頃は一三歳程度。今年で三四歳になるマモトなどからすれば親子ほど離れていた。
「まだ六時一二分じゃないか………頼むからもう少しだけ寝かせてくれないか?」
 ベッドの傍に置いてある時計を見たマモトはそう言うと再び布団の中に潜り込もうとした。しかし少女はマモトの布団を奪うことで拒絶の意思を示した。
 少女は物言いたげな眼でマモトを見た。
 少女にジッと見つめられていたマモトは、昨晩に少女と交わした言葉を思い出した。
「あぁ、そうか………今日は朝からスチョーパが来るんだっけな………どうも寝起きでは頭が働かん」
 マモトは弁解がましく呟きながら頭を掻いた。そしてベッドからようやく起き上がる。
「ん。もう大丈夫だ。あぁ、アンナ。すまんがクワスをいれてくれないか?」
 クワスとはライ麦とホップを発酵させて作ったロシアの代表的な清涼飲料水である。マモトは朝起きるとコップ一杯のクワスをグイッと呷り、自分の眠気を吹き飛ばすことが多い。
 この日もマモトは眠気をクワスで吹き飛ばすことを選択したようであった。
 少女――名前をアンナという――はトテトテと部屋の奥へと消えたかと思うとすぐさまコップ一杯のクワスを持ってきた。
「おう、ありがとよ」
 マモトはそう言うとアンナの頭を強く撫でた。アンナの長い髪がクシャクシャになる。
 その時、マモト邸の呼び鈴が鳴った。
「やれやれ………もう来たか」
 マモトは頭を掻きながらそう呟くと玄関の方へ小走りで向かった。
 アンナもマモトに付き従った。



 その日のマモトの朝食はチーズを載せて焼いた食パン二枚だけであった。彼は朝食はさほど食べたりしない。昼食も少量しか取らず、夕食にまとめて食べるのが普通であった。故に食パン二枚で事足りるのであった。
「朝早くから申し訳ありません、大佐」
 ソビエト人民義勇隊参謀長であるスチョーパ中佐はそう言った。
「何、スチョーパは徹夜で報告書をあげたんだ。気にするな。あぁ、この報告書に対する説明を終えたら今日は休んでいいぞ」
「そうですか。では早く済ませましょう」
「あいよ」
 そして二人はリベルでの今後の戦略方針について語り合った。今、このリベルの戦場の最前線に立っているのはほとんどがソビエト人民義勇隊の者たちであった。政府軍の正規兵力は再編成との名目で後方で待機している状態であった。そのためにソビエト人民義勇隊の消耗は徐々にではあるが、かさみつつあるのが現状であった。
 そして二〇分ほど話した頃だったろうか。
 報告すべきことをすべて報告し終えたスチョーパはマモトに対し敬礼し、そのまま自分の宿舎へと帰ることにした。
 そしてスチョーパはマモト邸の窓ガラスに雑巾がけを行なっているアンナを見つけた。アンナの方もスチョーパに気付いたらしく、ペコリと一礼した。アンナの表情を見たスチョーパはニコリと笑った。
 そんなスチョーパにマモトが尋ねた。
「ん? どうした、スチョーパ?」
「いえ、アンナちゃんも昔に比べたら、随分と明るくなったと思いましてね」
「あぁ、あいつを引き取った時、あいつは子供とは思えないほどに、厭世的な眼をしていたからな」
 しかしマモトは素直に喜ぶ気になれなかった。
「しかしあいつはまだ喋れない」
 アンナは後天的失語症であった。そして彼女が言葉を失った理由は病ではなかった。彼女は大人たちによってつけられた心の傷によって言葉を失っていたのだった。
「心の傷が深い故です。ですが、氷のハートもいつかは融けますよ」
「………だといいんだが」
 マモトは腕を組み、考える眼を見せた………



 ソビエト人民義勇隊の第一陣は一九八三年の四月初頭のうちにリベルに入っていた。
 ソビエト人民義勇隊の司令官であるヨシフ・キヤ・マモトがリベル入りしたのはそれから一週間強ほど経過した四月九日のことであった。
 リベル到着の夕刻に、リベル人民共和国首相であるアルバート・クリフォードに対する着任の挨拶を済ませたマモトは、スチョーパを伴って首都リベリオンの街の観光と洒落込んでいた。二人とも軍服では目立つから、と私服を着ていた。
「リベルは小さな国と聞いていましたが、さすがに首都ともなればなかなかに立派な街並みですね」
 スチョーパはそう言いながら街並みに視線を走らせていた。
 リベリオンには二〇階クラスの高層建築物もちらほらと見受けられ、さらにそれら高層建築物の周囲にも一〇階建てクラスの建造物が多々見えた。
 東欧の小国に過ぎないリベルを、わずか数年でここまで発展させたクリフォードの手腕は確かに本物であるといえた。
「だが照明が明るくても、人々の顔に明るさが見ることができんな」
 マモトはあえてそう評した。
 リベリオンの街を歩く人々の顔は、長く果て無く続く内戦に疲弊していた。街で笑い声をあげているのは何も知らぬ子供のみで、年を経れば減るほどその憂慮の色は濃くなっていた。
「確かに街に精神的明るさというものがありませんね」
「街に笑いの無い社会がマトモなものか。俺の爺さんの時代のようにな」
「大佐………」
 スチョーパは心配げにマモトに声をかけた。しかしマモトはスチョーパに自分の表情を見せたくないのだろう。スチョーパを放って、早足でリベリオンの道を歩み始めた。
「大佐!」
 スチョーパは慌ててマモトに追いつこうと歩調を速めた。マモトがリベリオンの裏地に入ろうとしているのを見たからだ。
 マモトたちはリベリオンの右も左も知らないのだ。裏地なんかに入れば迷子になる可能性すらあった。
 だからスチョーパは慌てて追いかけたのであった。



 裏地に入った頃には太陽は地平の彼方へと沈み、周囲に闇の緞帳が降り始めていた。
 リベリオンの裏地は想像以上に薄暗く、汚かった。なまじ表通りが小奇麗であったために、その汚さは実態以上にすら思えた。
「ふんっ………腐ってるな。嫌な臭いだ」
 マモトは鼻を鳴らし、呟いた。
「確かに………ゴミが多いですね」
「スチョーパ、この臭いはゴミが原因じゃない」
「え?」
「クリフォードの腐敗の臭いだ」
「……………」
 スチョーパは唐突なマモトの言葉に何も返せなかった。マモトは自分の言葉が思ったより受けなかったことに眉をひそめたが、口に出しては何も言わなかった。
「ん?」
 不意にマモトは自分の服のすそが引っ張られていることに気付いた。
 見ると薄暗い街灯の下、すそを引っ張っていたのは少女であった。空の色をした長い髪を一本の三つ網にまとめた、あどけない少女。少女はマモトの顔をジッと見つめていた。少女の瞳はどこか虚ろであったが、その中には確かに誘惑じみた色も窺えた。マモトにはその瞳が少女のものとは思えなかった。
 そしてマモトは少女の瞳の色に慄いていた。マモトがあるべきと信じる少女の瞳は、絶望という言葉の存在すら知らぬ、希望の光に満ちているからだった。少女の瞳に希望の光など無かった。
 だからマモトは少しどもりながら言った。
「ど、どうしたのかな、君?」
 少女はマモトの言葉を聞いた時、わずかに表情を動かしたように見えた。しかしマモトにはその表情の変化の意味がわからなかった。
 少女はマモトの眼を見据えたまま、その小さな手をスカートのすそにやり、スカートをたくし上げた。少女は下着をつけていなかった。
「お、何してるんだ、君!?」
 スチョーパが慌てて少女のスカートを下げさせる。
「あ〜、もう! 鈍い男たちだねぇ!!」
 少女の為す事の意味が計れずにまごまごと慌てふためく二人の大人。そんな二人を見かねたのだろう。少女とは対照的に、大人の女性特有の性的魅力にあふれた女がマモトたちを叱責するように言った。
「どういう意味だ?」
 マモトが本当にわかっていない表情で尋ねた。女は呆れた表情を見せた。
「じゃあ、アンタ何しにここに来たんだい?」
「何しにって………俺たちはただこの街をぶらぶらと歩いてただけなんだが………」
 女はマモトたちの服装をジロジロ見る。そして結論を導き出してから言った。
「………アンタ、ジャーナリストか何かかい?」
「え?」
 俺たちは純正ソ連軍人なんだが………そう思ってからマモトは自分たちが私服でいることを思い出した。
「それもまだこの国に来たばかりだね。じゃあ教えてあげるけど、ここはリベリオンでも有名な娼婦街道って奴さ。ここを歩くってことはアタイたちを買いたいって言ってるのと同じなの。だからこの娘も寄ってきたんじゃないか」
 女はそう言い終えるとタバコを吸い始めた。スチョーパはそのタバコがラッキーストライクというアメリカのタバコだと見抜いた。
「ちょ、ちょっと待て。この子はまだ子供じゃないのか?」
 マモトは少女を指差して言った。
「ああ、そうだねぇ」
 女の想像以上にあっさりとした返答にマモトは言葉に詰まった。
「この国は一部の奴らには住み辛くなっててね。アタイたちみたいな落ちこぼれは身体でも売らないと食ってけやしないのさ」
 女は紫煙を吐いた。タバコを吸わないマモトはその煙に顔をしかめた。いや、リベルの現実に顔をしかめたのかもしれなかったが。
「どうもアンタたちは少女趣味は無いみたいね。アタイはどうだい?」
 女は吸い終えたタバコを投げ捨てて言った。そして少女にウィンクする。どうも「アンタの客はアタイが貰っちゃうよ」という意思表示らしかった。
「君、この国の子供はみんな彼女のように身体を売るしかないのか?」
「あぁ? ………答えはNOだね」
 マモトの問いかけに対し、当初は煩わしそうな表情を見せた女であるが、マモトの表情は真摯そのものであったために彼女も真摯に答えざるをえなかった。口調は相変わらずであったが。
「いくらこの国が大変な状況っても真面目にしてりゃ食えるさ。もっともそれはこのリベリオンだけなのかもしれないけどね」
「そうか………では彼女は何故?」
「アタイに聞かれてもねぇ………この子について知っているのは、この娼婦街道でも最年少ってことだけさね」
「顔なじみとかそういうことにはならないのかい?」
 女はマモトを奇異の眼で見た。変なことを気にする奴だとでも思ったのだろう。
「まぁ、確かに顔なじみとかはいるけど………この子は言葉が喋れないのさ。だから顔なじみにはならなかったね」
 マモトは少女に視線を移そうとした。しかし彼女はすでにどこかに立ち去っていた。どうやらマモトたちを女に取られたと判断して、他の客を探しに行ったらしかった。
「大佐、彼女は失語症って奴のようですね」
 スチョーパがマモトに耳打ちした。
「それよりアンタたち、結局どうするのさ?」
「え?」
「………本当にじれったい男たちだね。アタイを買うのか、買わないのかハッキリして欲しいんだけど」
「いや、別にいい」
「そうかい………邪魔したね」
 女は一度ため息をつくとマモトたちから離れて行った。
 残されたマモトとスチョーパ。スチョーパはマモトを促した。
「大佐、ここから離れた方がよさそうですね。私たちは場違いのようです」
「………なぁ、スチョーパ。俺は何しにここに来たんだ?」
「何って………ここに来たのは偶然でしょう?」
「いや、このリベルに、何をしに来たのかってことだ」
「それは………」
「少なくとも俺はこの国の内戦をさっさと終わらせて、この国に笑顔を取り戻させるためだと思っている。スチョーパ、それは違うだろうか?」
「それは………はい、確かにそうです。大佐の仰る事は正しいと思います」
「………俺はどうしたいかわかるか、スチョーパ?」
「はい。また厄介事を抱え込みたいんでしょう? まぁ、今回に関しては指示しますよ」
「すまねぇな、スチョーパ」
 マモトはスチョーパの肩を叩くと裏地の奥へと少女を探すために歩き始めた。
 スチョーパは一度肩をすくめると、裏地から離れて行った。マモトの行動を支援するために、スチョーパは様々な手続きを取る必要があった。



「………参ったな。すぐに見つかると思ったんだが………」
 マモトは苦く笑いながら頭を掻いた。頭を掻くのは彼の四十八癖の一つであった。
 自分たちのすぐ近くにあの少女がいるものと思っていたマモトであるが、その見通しが甘かったとわかるのは一〇分とかからなかった。
 それでも三〇分ほど少女を探し続けてみたものの、やはり見つからなかった。
 他の街娼に尋ねても、個人の家まではわからないようであった。それに元々あの少女は内気な方で、街娼たちとの交流も薄かったそうだった。
「………しかたねぇ。スチョーパには大見得切っちまったが、今日は退散するか」
 マモトはそう呟くと踵を返そうとした。
 しかしその時、ガラスが割れる音がマモトの聴覚に飛び込んできた。マモトは音の方に振り返る。どうやらそちらの方には尋常で無い光景が繰り広げられているらしい。男の怒声と思しき声も聞こえた。
 ケンカの仲裁をするためにここに残ったわけではないが………それでも何もせずに手ぶらで戻るのも癪だと思ったマモトは音の方へと向かった。
 ケンカと思われる音の発生源はリベリオン裏地の寂れた共同住宅から聞こえていた。
「さて………どの部屋からやら………」
 マモトがそう呟いた時、ある部屋のドアが乱暴に開け放たれ、一人の子供が追い出された。その子供はマモトが捜していた子であった。
「お、おい、大丈夫か!?」
 マモトは家から叩き出された少女に走り寄る。薄暗い照明の下でも少女の体のあちこちに殴られたあざがあるのがわかった。
「何だ、オメェは?」
 高濃度のアルコールのもやを窺わせる中年男の声。その声質はマモトが毛嫌いするタイプのそれであった。
「お前こそなんだ?」
「あぁ? そいつは俺の娘だよ」
「お前がこの子の親だと………?」
「悪いのか、あぁ?」
「ならば尋ねるが、何故こんな子供なんかに売春させているんだ? アレは子供がやるべき商売ではないぞ。この国では真面目に働けば、食うことには困らないと聞いているのだが………」
「うっせぇ野郎だな………偉そうに説教垂れやがって………」
 少女の父親が手の骨を鳴らしてマモトを威嚇する。しかしマモトはまったくひるまなかった。
「見た所、貴様はロクに働きもしてないようだが………父が娘に養ってもらってるとは恥を知れ!」
 マモトはシレッと少女の父を罵倒して見せた。少女が心配げにマモトの袖を引っ張った。その少女の怯えようからもこの男がいかに暴君であるかが窺えた。もはやマモトは手加減する必要を認めなかった。
「ブッ殺してやる!!」
 少女の父はマモトに殴りかかる。しかしマモトは易々とその鉄拳をかわしてみせた。マモトはソ連軍仕官学校時代に最強格闘技の一つとされる軍隊格闘術を習っているのだ。何の手ほどきも受けていない素人相手に引けを取るはずが無かった。
 そしてマモトは少女の父のわき腹に一発だけ拳を叩き込んだ。
 決着はそれだけでついた。常日頃、酒に溺れて、自分より弱い者にしか暴力を振るえないような輩に、世界を開放するためのソ連軍が誇る軍隊格闘術を身に着けたマモトが負けるはずがなかった。
「グ………ゲェッ」
「安心しろ。軽いフックだ。すぐに痛みも消えるだろう………」
 マモトはうずくまる少女の父の目線にまで自分の顔を持っていった。
「さて、ここからが相談だ」
「ヒ、ヒィ………」
「お前さんの許では彼女に悪い影響しか与えないだろう。彼女は俺が引き取る。いいか?」
 マモトの言葉に少女は目を見開いた。この世のすべてに見切りをつけていた彼女を驚かせることにマモトは成功したのであった。
「だ、だが………」
 しかし少女の父は何か言いたそうに口をモグモグとさせた。マモトには彼が何を言いたいのかがわかった。この男は自分の娘が第三者に取り上げられることよりも、今まで少女が稼いできた金が消えることを恐れていたのだった。マモトは唾を吐き捨てたい衝動を必死に抑えながら、声を絞り出した。
「………わかった。ならこれでどうだ?」
 マモトは懐から懐中時計を取り出し、少女の父にくれてやった。それは純金でできていた。その時計の外側には口ひげをはやした男の絵が凛々しく彫られていた。少女の父にはその男が誰だかわからなかったが、その価値だけはわかった。
「………俺の爺さんの形見だが、俺にとっては必要の無い代物だ」
 少女の父は一瞬だけ考える表情を見せたが、どう考えても少女の稼ぐ額よりも金の懐中時計の方が高額であったので、迷うことを止めた。
「い、いいだろう………商談成立だな」
「商談」という単語を聞いたマモトは、その言葉を口にした相手を鬼のような形相でにらみつけた。しかし他にするべきことが彼にはあった。
「さぁ、行くぞ」
 マモトはそう言うと歩き出した。少女は困惑した表情を見せていた。
「………おっと、自己紹介がまだだったな」
 マモトはピントがずれたことを呟き、改めて言った。
「俺はヨシフ・キヤ・マモト。今度このリベルに派遣されたソビエト人民義勇隊の司令官だ。よろしくな」
 そう言ってマモトは少女に手を差し伸べた。少女はまだ戸惑いの表情であったが、恐る恐るにその手を握った。マモトの手は野戦指揮官故の泥臭さがあったが、温かかったのもまた事実であった。
 少女は久方ぶりに触れた温もりに涙した。



「お帰りなさい、大佐」
 スチョーパがそう言って出迎えた時、少女はマモトの背中に隠れていた。
 マモトに手を引かれ、たどり着いたマモトの官舎。少女は想像もしなかった豪邸にいささか気圧されて、マモトの背中に隠れてしまったのだった。
「おう、スチョーパ。手続きは終わったか?」
「はい」
 スチョーパは書類をマモトに手渡した。それを確認するマモト。少女には何が何やらわからなかった。
「あぁ、君をこの家の使用人にすることにしたのさ。本当なら従卒ってのが俺には付くんだが、野郎に世話されるのは好かないんでな」
 マモトは露悪的に笑った。
「そういえばこの子の名前、わかります? 書類にこの子の名前を書く必要があるんですが」
「ん………おい、書けるか?」
 失語症である以上は自分で書いてもらうしかない。そう思ったマモトが少女に言った。少女はスチョーパから紙とペンを貰うとスラスラとペン先を走らせた。そして小さいが、綺麗な文字で「Anna Felchnerowski」と書いた。
「アンナ・フェルフネロフスキ………なるほど」
「アンナちゃんか。まぁ、よろしくな」
 マモトはそう言うと再びアンナの手を握った。屈託なく笑うマモトの表情を見ているとアンナの心は晴れ渡った。
 しかし結局の所、彼女は大人の勝手な都合で売春をさせられ、別の大人の勝手な行動の結果、マモトの家に来ることになったとも言える。現にこの時のマモトの行動をそう批判する歴史家もあるにはあった。彼らは口汚くマモトを罵った。「やはり彼は『あの男』の孫である。ベクトルこそ違えども独善的で、身勝手な男に過ぎない」。
 この批判に対してマモトは生涯を通して何の反論もなさなかった。彼は自分の正義が絶対であると信じていなかったから。彼の祖父は彼とは違い、自らの正義を信じて疑わず、他者にも強要したが。
 ヨシフ・キヤ・マモト。
 彼の父親は日本から亡命してきた共産主義者。そして母の名前はスヴェトラーナ。
 スヴェトラーナの父の名前はヨシフ・ビサリオノヴィッチ・ジュガシビリ。歴史的には彼のペンネームの方が有名であろう。ヨシフ・ビサリオノヴィッチ・ジュガシビリのペンネームは日本語で「鉄の人」を意味する。
 ヨシフ・スターリン。それがマモトの祖父の名前であった………


第二四章「T−REX・HIGH!」

第二六章「The flame of purification」

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