………『帝国』陸軍の中央軍集団による『共和国』首都カピタル攻略作戦「ツァイト」は『共和国』陸軍首都正面軍の反攻作戦「ハルパー」によって阻まれ、さらに新たに『帝国』に対して戦線を布告した『王国』による『帝国』帝都パレス空襲が行われた。
 世界最大の大艦隊を有する『王国』の参戦に『帝国』は戦略の大幅な修正を行う必要に迫られた。
 その戦略方針の転換に伴って「ツァイト」作戦は中止が決定され、『帝国』陸軍中央軍集団は部隊を後退させて戦線の再構築を図ることとなった。結論から言えば『帝国』陸軍中央軍集団は最前線をカピタルから一二〇キロメートルの地点にまで下げることとなった。
 開戦以来半年以上に渡って『帝国』軍を相手に敗走を続けていた『共和国』であったが、首都を目前にした防衛作戦で初めて勝利したのであった。
 この首都防衛作戦での勝利の意味は大きく、『共和国』陸軍には徴兵を待たずに兵役を志願する者が長蛇の列を成したし、『共和国』空軍には飛行倶楽部からの志願者が倍増していた。
 一種の狂乱に浮かれて軍の門を叩いた「お調子者」たちは英雄として帰ってくるか、それとも戦死者として帰ってくるか。それは命の数だけ存在する話、運命の分岐点であった。

魔女と呼ばないで!?
第八章「新しい血」

 大陸暦一九四〇年二月一三日午前八時五二分。
 カピタル第八飛行場を基地とする第九一四戦闘機連隊は一連の首都防衛作戦において大きな戦果を挙げていた。
『帝国』が誇る高高度戦略偵察機アオゲン・ゴッテスを撃墜して『帝国』の眼を奪ったことはすでに知られていたが、「ツァイト」作戦が開始された一月九日からの三週間で第九一四戦闘機連隊は一日あたり平均四三ソーティ、合計一一一八ソーティを記録していた。
 なお、これは余談だがソーティとは一つの作戦に使用された航空機の数を意味する。たとえば午前中の作戦で六機が出撃すればそれだけで六ソーティになるし、その後の午後に五機出撃すれば五ソーティでこの日の合計は一一ソーティとなる。
 第九一四戦闘機連隊の定数は四八機であるが、定数で見ても毎日定数とほぼ同数の機体が出撃していたことになるが、日が経過すればするほど第九一四戦闘機連隊も消耗していった。首都防衛の終盤、『共和国』陸軍首都正面軍の反攻作戦「ハルパー」の最後の方になると日に同じ機体で四回出撃することもザラというくらいであった。
 その結果として第九一四戦闘機連隊は『帝国』の戦闘機一七機、爆撃機二六機の合計四三機の撃墜が記録されていた。
 ただしその代償も大きく、第九一四戦闘機連隊は一七名が戦死、四名が戦傷し、装備するファルコン戦闘機も稼動機が一四機まで減少していた。
「………この部屋の広くなったわね」
 牧場の厩舎を利用して作られた第九一四戦闘機連隊のパイロット用の宿舎の広間でユリヤ・クロチキナ少尉がひとりごちた。
 オゼロ第五飛行場からこのカピタル第八飛行場に移動してきた時、牧場の厩舎を改築した宿舎に不満の声をあげたのはユリヤ・クロチキナ少尉だった。そしてそんな彼女の声に対して「この牧場を経営してた人がどんな人か知らないけど、『帝国』軍を追い返して早く帰ってこれるようにしてあげないとね」と語ったのはアデリナ・リーシャ少尉だった。
 しかしアデリナ・リーシャはもうこの世にはいない。『帝国』空軍がこのカピタル第八飛行場を空襲しようとした際の迎撃戦で帰らぬ人となった。
 先述の通り、第九一四戦闘機連隊の定数は四八機でパイロットも四八人だ。訓練時に事故死したラリッサ・クリーナも含めて、およそ半数が今回の首都防衛作戦で未帰還ないし負傷したことになる。
 たった一ヶ月前にはここにうら若き乙女たちが、空を飛ぶことを愛し、祖国を護る使命に燃えた仲間たちがいたのだ。クロチキナは静かに眼を閉じ、在りし日に黙祷を捧げる。
「あら、クロチキナさん。起きてらっしゃったのですね」
 クロチキナはそっと眼を開けて声の方に振り返る。そこにいたのはソフィア・アヴェリーナ少尉だった。地上ではおっとりとした性格の彼女は空の上では常に冷静で戦況の推移を見極める能力とそれを周囲に端的に伝える能力に長けていた。簡潔に言うなら、空中戦の指揮官として非常に優れた能力を発揮しつつあった。クロチキナもアヴェリーナと共に出撃し、彼女の言葉に助けられたことが直接的にも間接的にも何度かあった。
「今日はお休みですのに、もう起きているのですね」
「ソフィー、それはお互い様でしょう?」
 クロチキナの言葉にソフィーことソフィア・アヴェリーナは苦く笑った。
「ふふ………『帝国』の空襲がまたくるかもしれないと思うと、休みの日でも朝になれば自然と目が覚めるようになっちゃいました」
 アヴェリーナはそう言いながら戸棚を開け、ティーポットを取り出した。磁器製のティーポットはアヴェリーナが持ち込んだ私物のもので、アヴェリーナはそれで紅茶をよく淹れていた。
「ユリーも紅茶、飲みますか?」
 ソフィア・アヴェリーナは皆から「ソフィー」というあだ名で呼ばれていた。アヴェリーナ自身もその呼ばれ方を気に入っており、「じゃあ私もみなさんのことをそんな感じで呼びます!」と宣言し、実行に移していた。ユリヤ・クロチキナの場合は「ユリー」となるわけだ。
「いただきます。いやぁ、アタシ、紅茶ってこっちに来てから初めて飲んだけど、こんなに美味しいとは知らなかったわ」
「ふふ、そう言って頂けると淹れがいがありますね」
 紅茶を淹れるアヴェリーナを横目にしながらクロチキナはテーブルを片付け始めた。
 ローテーションの結果、今日は緊急出撃に備えた待機任務に入っているノンナ・チェリャトナ少尉が趣味で行っている編み物のセットが入ったバスケット。もし紅茶をこぼしたら大変なことになるだろう。部屋の隅によけておこう。
 三日前に補給部隊が物資と共に届けてくれた新聞紙。一面に踊る文言は『帝国』に対して宣戦布告を行った『王国』による帝都パレスへの空襲が多大な効果をあげたこと、『共和国』の首都防衛作戦が成功に終わりつつあること、『共和国』と『王国』は共に戦って最終的に『帝国』を打ち倒すのだと読者を煽る文章であった。クロチキナは新聞の景気のいい文言に苦笑しながら小さく折りたたんでテーブルの端に置いた。
「お待たせしました」
 左手にポットを、右手にカップを二つ持ってアヴェリーナが戻ってきた。そして二人で紅茶を飲みながら会話を続ける。
「………そういえば『王国』は紅茶で有名だったよね」
「そうですね。私の茶葉は南部で取れた葉ですが、『王国』の『植民地』で取れるダージリンという茶葉も美味しいですよ」
「紅茶と一口に言っても色々と種類があるものなのね………」
 クロチキナが感心しながら紅茶のカップを口に運んだ時、宿舎の扉が開く音が聞こえてきた。開かれた扉と共に多数の人数の話し声も聞こえてくる。宿舎の玄関から入る最初の空間がこの広間である。クロチキナは背筋を伸ばして玄関の方に視線を向け………そして宿舎に入ってきた一団の一人の女性と目があった。
 ややクセが強くて波がかかったような亜麻色の髪が目を引く美少女から美女になろうとしている年頃の女性だった。ただ、クロチキナはこの娘の顔に見覚えがなかった。整備班の娘かしら? いや、訓練から数えて数ヶ月一緒に暮らしてきた今となっては整備班でもさすがに見覚えのない顔はない。
 だからクロチキナは首をかしげながら尋ねた。
「えぇと、どちら様?」
 クロチキナの疑問に娘はビシッと敬礼した。硬い動作だ。そして緊張が張り付いた声で疑問に答えた。
「わ、私は! 本日付でこの第九一四戦闘機連隊に配属されたレナータ・コチェグラ少尉です! よろしくお願いします!!」
「配属? そういえば連隊長が近いうちに補充がくるって言ってたわね………」
「は、はい! 先ほどここに着いたばかりで、まずは荷物を宿舎に置いてこいと飛行隊長に言われました!!」
 コチェグラが口を開くたびに大ボリュームの声が轟く。クロチキナは苦く笑いながら応えた。
「そ、そうなの………それにしても大きな声ね」
「いや、この子もいつもはこんな大声出さないんですよ。今日は第九一四戦闘機連隊の皆様と会えて興奮してるんだよねー?」
 コチェグラの後背からひょっこりと出てきた少女がコチェグラのわき腹を人差し指でつつく。彼女の指がわき腹をつつく度にコチェグラが直立した体をガクッガクッと震わせるのがシュールなユーモアを見せていた。
「貴方も補充のパイロットなの?」
「はい。オーシナ・オブラーカっていいます。よろしくお願いしまーす」
 オブラーカはそう言ってニコリと笑う。
「それにしても私たちに会えたから興奮してるって、変なことを言うねぇ」
 クロチキナもコチェグラのわき腹をつつきながら苦笑いした。しかしその言葉を聞いたコチェグラやオブラーカのみならず、補充でやってきたパイロットたち全員が信じられないという表情を見せたことにアヴェリーナは気がついた。
「お、お言葉ですが、それはあまりに謙遜がすぎると思います!!」
「そうですよ。第九一四戦闘機連隊といえば首都防衛作戦で多大な戦果をあげて、今や飛行倶楽部女子会員の憧れですよ!」
 コチェグラとオブラーカが畳み掛けるようにクロチキナを諌めた。クロチキナとアヴェリーナは思わず顔を見合わせ、声を揃えて言った。
「「マジで!?」すか!?」



 カピタル第八飛行場の司令部兼男性用宿舎。
 第九一四戦闘機連隊の飛行隊長を務めるアレクセイ・ナジェイン少佐とルキヤン・ポポフ大佐は椅子に腰を下ろしながらコーヒーを飲んで休憩に入っていた。
「補充のパイロット二二名が到着して、隊の定数四八機にようやく回復できたというところか」
 第九一四戦闘機連隊はオゼロでの訓練中にラリッサ・クリーナを事故で失くし、以降は四七名のパイロットで首都防衛作戦に参加していた。つまり定数四八機を今まで一度も満たせていなかったということになる。
「今回補充されたパイロットも飛行倶楽部出身なのですか?」
 ナジェインの質問にポポフは「そうだ」と頷いてから続けた。
「正確にはガリーナ・ヤーシナ現大佐が呼びかけた飛行倶楽部の志願兵募集、それの第二期募集に応募してきた面々だ。第一期募集に応募してきたのが今までの第九一四戦闘機連隊のメンバーになっている」
「なるほど」
 ポポフが椅子の背もたれに身を預けて天井を見上げる。
「しかし前線に出てきて早々にこんな大規模作戦に巻き込まれるとは思わなかった。まぁ、『帝国』がいつ攻勢をしかけてくるかなんて俺たちにわかるわけがないが………」
「隊員たちにも一ヵ月ほど短期間でパイロットの半数が死傷したことで動揺があるかもしれません」
「………軍に志願する以上、それは覚悟の上だろう?」
 ポポフが苦い顔をして建前を口にした。ナジェインはおずおずと応えた。
「言葉では理解していたとしても………」
「………実感は異なる、か。確かにそれもまたよくある話ではあるか」
 ポポフは視線を天井からナジェインに向けて降ろし、体をテーブルの上に乗り出しながら続けた。
「統合作戦本部の衛生部経由で手配しておこう」
『共和国』陸海空軍の三軍を束ねるのが統合作戦本部であり、いわゆる軍医をまとめる部門はこの統合作戦本部の一部署として設けられていた。『帝国』との戦争が始まって以降、基本的に大忙しの部署であろうが、女性軍人のメンタル管理というのは『共和国』統合作戦本部でもノウハウのないことだ。どんな細かいことでもチェックしてノウハウとして蓄積できるに越したことはない。ポポフはそう考えた。
「さて、そろそろ補充組の荷物も置き終わっただろう。挨拶でもしにいくか」
 ポポフはカップに残っていたコーヒーをぐいとあおるとそう言って立ち上がった。すでに飲み終えていたナジェインも立ってポポフについて司令部を出た。



「………今頃、パイロット組は新しく来た補充のメンバーとの顔合わせをしているのかしらね」
 第九一四戦闘機連隊の整備班は隊員を五つに分けてのローテーションで活動していた。首都防衛作戦が佳境に入っていた時は五つの班すべてが稼動していたが、今は第一班が残存機体の整備、第二、三班が待機、第四、第五班は休息というシフトにまで落ち着いていた。
 整備班第一班の班長を務めるレジーナ・マスロワ中尉はファルコンのプロスパーエンジンのネジを締めながらそう呟いた。
「パイロットの補充は来ましたけど、肝心のファルコンの補充はいつ来るんですかね? 今、うちにあるファルコン、修理中のをあわせても二〇機ないですよ」
 マスロワが班長を務める整備一班に所属するセーニャ・スタルギナ一等兵が格納庫の右端から左端まで見回しながら言った。そしてスタルギナ一等兵の言葉は正しかった。首都防衛作戦の戦いで消耗したのはパイロットだけではない。第九一四戦闘機連隊が装備するファルコン戦闘機も数多く墜落し、何とか基地に戻ることができた機体でも損傷が激しく、廃棄扱いになった機体も多かった。
 パイロットに比べれば容易に増産ができるファルコン戦闘機は首都防衛作戦の最中に何度か補充されていたが、それでも第九一四戦闘機連隊の現在の稼動機は一四機で、そして今マスロワたちが修理を行っているのが三機だけであった。
「三日前に補給部隊が届けてくれたのは弾や燃料、そして細かい部品ばかり………。これじゃあせっかくパイロットが補充されても出撃できずにあぶれるばかりになっちゃいますよね」
 スタルギナの声にマスロワが応えようとした時、マスロワの背中から声がした。
「確かにね。確かにファルコンが足りないのは問題よね」
 マスロワとスタルギナの視線が声の方に向けられる。声の主は第九一四戦闘機連隊整備班長イエヴァ・クレシェバ大尉だった。癖毛の髪を後ろ手に紐でラフに束ねた三十路半ばの女性が指で眼鏡をクイと上げながら言った。
「どうもファルコンの補充は第三航空団の部隊が優先的に行われているみたい、というより第九航空団は全般的に機材の優先順位が低いみたいね」
 第九一四戦闘機連隊は第九航空団に属している。
「え? 班長、どこでそんな情報を仕入れたんですか?」
「三日前に来た補給部隊の隊長さんから聞いたの」
 クレシェバの言葉に頷く二人。補給部隊の責任者ならばそういう事情に詳しいことにも納得である。
「でもどうして第三航空団に補充の機材が優先されてるんでしょうか?」
 スタルギナがあごに手を置いて首をかしげ、考えるポーズをみせた。しかしスタルギナにはその答えがわからなかった。
 それとは対照的にマスロワは何かに気付いた表情をみせた。クレシェバはマスロワに眼をやり、彼女がたどり着いた答えを促した。
「思い出してみなよ、スタルギナ。私たちがオゼロからここに移ってきた時、大半の機材はここにあったでしょ?」
「あー、そういえばそんなことも………と、いうことは?」
「私たち、近いうちにまたどこかに移動するかもしれないわね………まぁ、まだ正式な移動命令は来てないから、この話は与太話として聞いておきなさい」
 クレシェバはそう言って二人に手を振ってその場を後にした。
 ………首都防衛作戦が成功に終わり、しばらく戦線は安定すると見られている現状、第三航空団だけで戦線を維持することは可能と考えられるだろう。仮にそうなった場合、第九航空団はどこに向かうことになるだろうか? クレシェバは見えない未来に少しだけ眉をひそめたが、それもすぐにやめた。第九航空団が次にどこに向かうかという話は大尉の身が気にしても仕方のない話。自分が気にするべきは第九一四戦闘機連隊の機材を常に最善の状態に保ち続けることであろうから。



 第九航空団の未来がどうなるか。
 それを決定する立場にある者は『共和国』首都カピタル市内にいた。
 長く引き伸ばされた楕円型のテーブルに散逸する書類と灰皿からこぼれるほどに盛られた吸殻。加齢臭とタバコの臭いが満ちた空気。そして話題は人の生命を万単位で浪費するための計画………。
 統合作戦本部戦争計画主任補佐官ミトロファン・ケドロフ中佐がトイレ休憩から戻ってきた時、この部屋の有様を見て「ここが地獄か」と思っていた。もちろん口外にはしない。ただでさえ『帝国』にあらざる「敵」も多い戦争計画主任補佐官という立場では言いたいことを口にするという自由の行使は最大限に慎まなければならなかった。
「………中央戦線は一応の安定を得た。現状ではそう判断してよさそうだな」
 そう言ったのは『共和国』陸軍南部防衛軍司令官のヴコール・クジミン大将であった。「手足のはえた雪だるま」と揶揄されるほどに立派な太鼓腹のクジミン大将は南部防衛軍の司令官として三〇万の将兵を指揮して『帝国』の南方軍集団四六万を相手に戦っていた。
 正面戦力の不足から『共和国』陸軍南部防衛軍は苦戦が続いていたが、クジミンの粘り強い指揮のおかげで持ちこたえていた。
 そんなクジミンがある種の期待を込めた眼差しを首都正面軍司令官のミカエル・ブーロフ大将や戦争計画主任のルドルフ・カミンスキー大将に向けて続けた。
「中央戦線の戦力を我が南部防衛軍に分けて欲しい。それも一刻も早く、だ」
「ちょっと待って欲しい」
 クジミンの希望に異を唱えたのはブーロフでもカミンスキーでもなく、別の男だった。ヤコブ・ロマノフ大将。『共和国』陸軍北部防衛軍の司令官であった。
「我が北部防衛軍の戦力だって不足しているのだ。こちらにも戦力を回して欲しい。特に『王国』が参戦した今、『共和国』内最大の港を持つ北部戦線を優先し、『王国』との海路を安定させるべきだ」
 ロマノフの言葉に慌ててクジミンが口を挟んだ。
「そうはいうが北海は『帝国』海軍の艦隊がいるかぎり海路の安定など望めまい。それよりも我々が防衛を担当する南部は『共和国』の資源地帯だ。ここを守りきれなければ鉄も油も不足することになるんだぞ」
 ロマノフとクジミンが互いの防衛を担当する場所に戦力を優先して回して欲しいと主張する。だが首都正面軍司令官のミカエル・ブーロフ大将もそれを見過ごすわけにはいかなかった。
「おい、別にまだ『帝国』軍の中央軍集団が壊滅したわけじゃないんだぞ。中央戦線が安定したからといって、すぐさま他の戦線に戦力を振り分けられるわけじゃない」
 南部、北部、そして首都正面軍。『共和国』陸軍が編成している三個軍の司令官の主張が平行線をたどりそうなことに三人は即座に気付き、そして三人分の視線が一人に集中される。
 視線を向けられた側の統合作戦本部戦争計画主任ルドルフ・カミンスキー大将は苦く笑いながらタバコをくわえてマッチをすって火をつけた。
「五〇をとうに過ぎたジジイの熱い視線なんざ、向けられても欠片も嬉しくないな」
 ふはーっと紫煙を吐きながらカミンスキーは毒のある言葉も一緒に吐いた。それを聞いた三人の陸軍大将が目を丸くしたのを見てカミンスキーは初めて嬉しそうな声で笑った。ひとしきり笑ってから吸殻を灰皿に突き刺して続けた。
「戦力の再配置はこちらも行う。陸軍だけでなく、空軍も含めて、だ」
 カミンスキーの言葉に会議に参加していた第九航空団司令のチモチェー・ゴロレフを始めとした空軍の将官が頷いた。



 大陸暦一九四〇年二月二一日。
 第九一四戦闘機連隊のパイロット班の内、首都防衛作戦に参加していた二六名はカピタル第八飛行場を離れ、カピタル中央駅の近くにあるカピタル中央大学病院の前に集まっていた。
 整備班のイエヴァ・クレシェバ班長のように、薄々気付いていた者もいたようだが第九一四戦闘機連隊も含めた第九航空団は首都正面軍の管区を離れ、南部防衛軍の管区で戦うこととなった。
 そのため第九一四戦闘機連隊の整備班はカピタル中央駅から鉄道を使って南部方面軍の管区までおよそ一〇〇〇キロメートルの旅路についた。パイロット班もその後を追うことになってはいるが、それより先に第九一四戦闘機連隊連隊長のルキヤン・ポポフ大佐が申請した心身双方を対象とした健康診断を受けることになった。
「事前に配布したプリントの通り、健康診断は三組に分かれて行う。すなわち、今日受診するA班、明日受診するB班、明後日受診するC班だ」
 アレクセイ・ナジェインがカピタル中央大学病院の前に二六名を整列させて言った。
「今日はB班とC班、明日はA班とC班、明後日はA班とB班は自由行動としてもいいが、くれぐれも自分たちが『共和国』空軍第九一四戦闘機連隊の一員であるということを忘れないで欲しい」
「………なんだか飛行隊長、女子校の教師みたいですね」
 ナイーダ・ストロエヴァ少尉がポツリと呟き、その右隣にいたノンナ・チェリャトナ少尉は同意だと言わんばかりに肩をすくめてみせた。
「ソフィーは私たちと一緒でC班でしょ? 私たちと一緒にどこか遊びにいく?」
 チェリャトナがもう片方の隣にいたソフィア・アヴェリーナ少尉に尋ねた。
「私、カピタル市内に家族が住んでいるんです。だから一度帰ろうと思いまして」
 そんな会話を横目にしながらA班に振り分けられたリリヤ・パブロワ少尉は病院の中に入っていった。
 リリヤ・パブロワが案内されたのは小さな診察室だった。小さな机と椅子が二基。机に医師が座り、もう一つの椅子に患者が座り、簡単な問診を行うのが精一杯の広さだった。机の上に親指サイズの小さなサボテンの鉢植えが置かれているのがこの狭い部屋でできる最大限の飾りっ気か。
「いらっしゃい。アタシはエリヴィラ・パノーヴァ。見ての通りの女医だ」
 診察室の狭さと殺風景さに困惑した表情のパブロワを他所に、白衣を着た眼鏡の女性が椅子に腰かけたまま気だるそうに話しかけた。エリヴィラ・パノーヴァと名乗った女医は長く伸びた髪を特に整えることはせず、ボサボサに伸びるに任せたままにしていた。眼鏡のレンズだけは綺麗になっていたが、眼鏡のツルは一度何らかの理由で折れたのを紐で強引に縛って直しただけだった。どうも自身の身だしなみには無頓着なようだ。いや、パブロワもそこまで詳しいわけではないが、あの机の上のサボテンは水をほとんどあげる必要のない品種だった気がする。だとすると自分を含めたありとあらゆる者に無頓着なのかもしれない。唯一つ、自分の研究を除いては………。
 パブロワの観察する目を死ってか知らずか、パノーヴァ医師はパブロワに椅子に座るように言った。パブロワはその言葉に従って椅子に腰を降ろす。
「さて、いくつか質問させてもらうわよ」
 パノーヴァがパブロワを見ながら言った。そしてそこからはとりとめのない質問が続いた。食欲はあるか? 睡眠は取れているか? 疲れてはないか? パブロワはそういった会話をパノーヴァと続けていく。パノーヴァはパブロワとの会話に頷き、時には冗談を交えながら続けていく。
「………で、戦争に参加してしばらく経つわけだけど、どうだった?」
 会話の果てにパノーヴァから投げられた質問。それにパブロワは一瞬、豆鉄砲を食らった鳩のような表情を見せた。しかし彼女はためらうことなくパノーヴァの質問に答えた。



『共和国』首都であるカピタルはカピタル中央駅を中心に企業の本社や官庁街が広がり、それを包むかのように住宅地が広がっていた。その住宅地に住んでいるのは企業に務めるサラリーマンや公務員が主であった。
 だがその住宅地の内縁部、カピタル中央駅から二駅ほど離れた場所にあるゴロヴィリー・ゴレイ駅はいわゆる高級住宅地として栄えていた。『共和国』がまだ前身の『公国』であった頃、このゴロヴィリー・ゴレイは地方貴族が首都カピタルに出向く際の別荘地として使われていた。後に押し寄せた民主化の波に貴族たちが洗われた後、この地は高級住宅地として企業の社長や幹部クラスの住まう街として機能し始めたのだった。
 そんなゴロヴィリー・ゴレイ駅にソフィア・アヴェリーナは降り立った。ガリーナ・ヤーシナの呼びかけに応え、『共和国』空軍に志願するためにこの駅を発ったのは半年ほど前だ。しかしゴロヴィリー・ゴレイ駅はアヴェリーナの記憶と違う姿になりつつあった。
 駅のきらびやかだった照明は灯火管制もあって薄暗くなり、さらに『帝国』の空襲によって爆弾を落とされて廃墟になった建物もあった。あの建物には美味しいケーキ屋があったのだが、『帝国』が投下した爆弾によって倒壊、瓦礫がまだ完全に片付け切れていなかった。
 ソフィア・アヴェリーナは第九一四戦闘機連隊の一員として『帝国』の空軍と戦ってきた。しかしそれでも守りきれなかったものはあったのだと思いながら足早に駅を出て家路を急いだ。
 そして二〇分ほど歩き、アヴェリーナは一軒の家にたどり着いた。白い石造りの壁の家で、庭と敷地との境界をバラの垣根で覆った家、そしてアヴェリーナにとって二二年の人生をここで暮らしてきた家である。
 アヴェリーナは正門の前で家に入らず、家を眺めていた。自分の記憶にある姿と寸分も違わない家を見て、アヴェリーナは安堵の息を漏らした。
「………お嬢様?」
 そんなアヴェリーナを見つけた初老の男が声をかける。白一色になった髪を整髪料で後ろに撫でつけ、よく糊がきいたスーツを纏った初老の男。男はバラの垣根の剪定をしていたが、アヴェリーナの姿を見て感極まり、ハサミを落としてしまった。
 血のつながりこそないが、彼はアヴェリーナにとってもっとも親しい男性の一人だ。アヴェリーナは反射的に男の名を呼んだ。
「サハロフ!」
 自分の名を呼んで手を振るアヴェリーナを見て男、イゴール・サハロフは涙を流しそうになった。しかしそれをぐっとこらえ、屋敷に向かって大きな声で叫んだ。
「だ、旦那様! 奥様! お嬢様が、ソフィアお嬢様がお戻りになりましたぞ!!」
 サハロフの声を聞いて家の中から慌しい足音が近づいてくるのが聞こえてきた。そして乱暴に扉が開け放たれ、アヴェリーナの父と母が姿を見せた。
「お、おお………」
 娘、ソフィアの元気そうな姿を見た母、ヴェロニーカは感激のあまりに両目に溢れる涙を抑えきれずに嗚咽を漏らし始めた。
「お母様は大げさですわ。私は、ソフィアはこの通り、ピンピンしていますから」
 冗談めかした声と仕草でソフィアはヴェロニーカの嗚咽をごまかそうとする。しかし父、キリル・アヴェリーナはそれに乗ろうとしなかった。
「ソフィア。母さんはずっとお前のことを心配していたんだぞ」
 もちろん、私もだ。キリル・アヴェリーナは眼でそう付け足した。ソフィアは父と母の元に歩み寄り、静かに目を閉じて二人に抱きしめられた。
「………おかえり、ソフィア」
「………ただいま。お父様、お母様」
 そして静かに目を開き、ソフィアは父に尋ねた。
「お兄様は? いらっしゃらないの?」
「ニコライか? アイツはボストグラドに新設した工場の責任者としてずっとあっちだ。いや、私と母さんもつい先日までボストグラドにいたのだよ」
 ボストグラド。カピタルからさらに五〇〇キロメートルほど東に向かった場所にある都市だ。
 そう、キリル・アヴェリーナは『共和国』の航空機メーカー、トリロンブ社の社長であった。長男のニコライ・アヴェリーナはボストグラドに新設した工場の責任者というのは表向きの立場で、秘匿名称「Z機」と呼ばれる超巨人機の開発計画の主任を務めていた。
 そしてアヴェリーナ家の長女、ソフィアは飛行倶楽部から『共和国』空軍に入り、トリロンブ社製のファルコン戦闘機に乗って『帝国』と戦っているのだった。
 トリロンブ社の親子はそれぞれの思惑を持ったまま、しかしこの日は娘と再会できたことを喜びあうのであった………。



 大陸暦一九四〇年二月二四日。
 第九一四戦闘機連隊連隊長のルキヤン・ポポフ大佐と飛行隊長のアレクセイ・ナジェイン少佐の両名はカピタル中央病院で女医、エリヴィラ・パノーヴァからの報告を受けることになっていた。
「………あの、大丈夫ですか?」
 ナジェインが開口一番に思わずそう尋ねてしまうほどにパノーヴァ女医は憔悴した顔で二人の前に姿を現した。目の下にはクマができており、見るからにしんどそうだった。
「ん? あー、気にしないで。ここ三日間の診断、貴重な貴重な女性兵士のメンタル面のサンプルだったからね。完徹で論文にまとめてただから」
「え? そこまでこの短時間でやったんですか?」
「まー、軍から言われてたのは診断して彼女らがまだ戦えるかどうかの判断を下すまでで、論文云々はアタシの個人的な作業なんだけどね」
 徹夜明け特有の常人を引かせるテンションで「うぇひひひ」と笑うパノーヴァにアレクセイは呆気に取られ、ポポフは「彼女に任せて大丈夫なのか?」と不安になっていた。
「とりあえずアタシも疲れてるんで、さっさと結論から言っていいですかね?」
 パノーヴァは有無を言わさない口調でそう尋ね、そして有無の返事が来る前に話を続けた。
「第九一四戦闘機連隊の方々のメンタルは通常、男性の航空隊と全然変わりないですね。つまりこの国を守るための使命と情熱に燃えているってわけです。戦争をするのに男女差っていうのはあまりないのかもしれませんね」
 パノーヴァは最初に診断したリリヤ・パブロワ少尉の答えを思い出していた。パノーヴァに「………で、戦争に参加してしばらく経つわけだけど、どうだった?」と聞かれたパブロワは澱むことなくこう言ったのだった。
「戦争に参加することはとても怖いです。特にこの一ヶ月、作戦の最中に多くの仲間たちを失いました。私もいつかは彼女たちを追うことになるのかもしれない。だけど、私は私にしかできないことでこの国に貢献できていると思います。こうやってカピタルでパノーヴァさんとお話ができるのも、その一端なのかなって思います」
 パノーヴァはパブロワのみならず、診断を行った全員に対して戦争に参加したことに対する感想を聞いていた。そして言葉遣いの差こそあれど、誰もがパブロワと同じような言葉を返してきたのだった。
「………彼女たちはいい指揮官に率いられているのでしょうね」
 パノーヴァの呟きは小さく、ナジェインもポポフも聞き取れなかった。二人が聞き返すより早く、パノーヴァは言葉を結んでこの場を切り上げることを選んだ。
「さ、細かい診断結果についてはこちらの資料に目を通しておいてください。アタシは今日はもう帰って寝るつもりなんで、お開きお開きということで〜」
 かくして第九一四戦闘機連隊は第九航空団の一翼として南部防衛軍の受け持つ南部戦線への転戦を開始するのであった。


第七章「外伝1:首都攻防」


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