大陸暦一九四〇年一月五日午前一一時五三分。
 雲よりもはるか高い空、高度一万メートルを飛行する一機の航空機があった。全長は一六.五メートルと『共和国』空軍のハンマー爆撃機とほぼ変わりないサイズだったが、しかし主翼はハンマー爆撃機よりも一〇メートル近く長く、全幅は三二メートルにも達していた。この長大な翼は高高度を飛行するための揚力を稼ぐためのものだった。『帝国』空軍の高高度戦略偵察機アオゲン・ゴッテス参号機。それがこの機体の名前であった。
 アオゲン・ゴッテス。『帝国』公用語で「神の目」を意味する偵察機は『帝国』空軍でも全八機しか生産されていない機体だった。それはこの機体に最新鋭の航空機用レーダーや高高度飛行用の与圧室などの高価な装備が搭載されており、費用面で多数の調達が困難だとされたからだった。
 しかし開戦以来、『帝国』空軍はこの偵察機を高度一万メートルの高空に飛ばし、『共和国』軍の動きをつぶさに観測して『帝国』陸軍を適切に動かし、勝利を重ねてきた。高コストの機体であったが、コストに見合うだけの戦果はあげてきた。
 そんなアオゲン・ゴッテスの機内は機首方向から見て、まず操縦席と副操縦席が隣合わせに並んでいて、その後方にレーダーの観測員や偵察カメラの操作員が控えるレイアウトになっていた。
「曹長、レーダーに感はないか?」
 アオゲン・ゴッテス参号機の機長であり、アオゲン・ゴッテス参号機の操縦桿を握るルーカス・フォン・ヴェンデル少佐がアオゲン・ゴッテス参号機のレーダー観測員シュテガー曹長に尋ねた。曹長からの返事は「感なし」というそっけない一言だけだった。しかしヴェンデル少佐は満足げに頷いた。『共和国』軍に動きはなし、である。
「少佐、コーヒーはいかがですか?」
 ヴェンデル少佐の隣に座る副操縦士のライスト中尉が水筒を掲げて見せた。ヴェンデル少佐がコクリと頷いたのを見てからライスト中尉は水筒を開き、紙コップに漆黒のコーヒーを注いだ。水筒は保温機能に優れた魔法瓶だ。コーヒーはまだ湯気がたつほどに温かかった。
「いやぁ、アオゲン・ゴッテスで飲むコーヒーはもう少し冷ましておいた方がよかったですかね?」
 ライスト中尉が緊張感のない声で言った。アオゲン・ゴッテスの機内は与圧室でさらに暖房も装備されている。それゆえに高度一万メートルの高空でも酸素ボンベや電熱服が不要で、地上にいるのと変わりないようにしていられるのだった。
 ライスト中尉はこの与圧室が装備されたアオゲン・ゴッテスに配備される前は『帝国』空軍の爆撃機乗りだった。だが当時に乗っていた爆撃機は高度を上げれば寒く、酸素も薄くてボンベのゴム臭い酸素がなければ酸欠になってしまった。それに比べればアオゲン・ゴッテスは天国のように快適だった。
 技術立国である『帝国』が、その持てる技術を注いで作り上げた高高度戦略偵察機アオゲン・ゴッテス。『共和国』の戦闘機ではアオゲン・ゴッテスは撃墜できなかったし、これからもそうである。ライスト中尉はそう信じていた。
 しかしアオゲン・ゴッテス参号機機長のルーカス・フォン・ヴェンデル少佐の意見は違っていた。開戦からすでに半年が経過したのだ。『共和国』側もアオゲン・ゴッテスのカラクリに気が付きはじめたはずだ。ならば彼らは必ずこのアオゲン・ゴッテスを封じるための作戦を実施するだろう。『共和国』が研ぎ澄ましてきた牙がこのアオゲン・ゴッテスを襲う時、それは必ずくるのだ。
 そうなった時、俺は必ず『共和国』の牙から逃れてみせる。
 それが機長であるヴェンデルの為すべきことであった。

魔女と呼ばないで!?
第五章「空からの解放」

 大陸暦一九四〇年一月五日午前六時三三分。冒頭から少し時計の針が戻った時刻、第九一四戦闘機連隊が基地としているカピタル第八飛行場では一機の戦闘機の最終調整が行われていた。単発、単座、単葉。『共和国』空軍の主力戦闘機であるファルコンの特徴を持った戦闘機だったが、しかしファルコンと並べて見ると少しだけ違っている部分があることに気が付けるだろう。
 まず目を引くのは機首が従来のファルコンに比べて大型化していることだ。胴体部分は従来のファルコンと同様に機尾に向かうにつれ細く絞られていたが、機種が大型化したため頭でっかちのように見えるかというと、そうでもなかった。なぜならこのファルコンは主翼と尾翼も延長されていたので機体が全体的に大きくなっていたため機首の大型化の印象を薄れさせていたからだった。
 試製ファルコン高高度迎撃戦闘タイプ先行量産型。この機体を設計したトリロンブ社から送られてきた取扱説明書にはそう書かれていたが、第九一四戦闘機連隊飛行隊長のアレクセイ・ナジェイン少佐は「長い」の一言で試製ファルコン高高度迎撃戦闘タイプ先行量産型をぶった切り、以降は「ハイ・ファルコン」と呼称されていた。
「燃料補給、終わりましたー!」
 そのハイ・ファルコンに繋がっていたホースを外し、巻き取りながら第九一四戦闘機連隊の整備班の一員のバレンシア・チェルシー二等兵が声をあげた。それを聞いた整備班長のイエヴァ・クレシェバ大尉が手を挙げる。
「よーし、エンジンの試運転を行うわよー!」
 整備班が女の細腕でも問題ないように複数人で使用できるようにと延長したエナーシャハンドルをハイ・ファルコンに差し込んでプロスパーU型エンジンを回転させる。
 それを遠くで眺めながら第一整備中隊のレジーナ・マスロワ中尉と飛行隊長のアレクセイ・ナジェイン少佐が話をしていた。第一整備中隊はこの日、整備のローテーションから外れていた日だったのでハイ・ファルコンの整備が進められていくのを眺めているばかりだった。ナジェインはハイ・ファルコンの整備を羨ましそうに眺めていたマスロワに世間話のつもりで声をかけた。
「ハイ・ファルコンはどうだ、問題なく使えそうなのか?」
 ナジェインの問いかけにマスロワは首を縦に振った。
「はい。ハイ・ファルコンのプロスパーU型エンジンなら高高度でも馬力を発揮できることでしょう」
「通常型のファルコンのプロスパーエンジンとはそんなに違うものなのか?」
「細かい部分ははしょりますが、基本的に高高度を飛行する際にネックになるのが高高度での空気の薄さです。空気が薄いとエンジンの燃焼がうまくいかず、結果的に出力が低下してしまいます。これを防ぐためにタービンで空気を圧縮し、同じ容積でより多くの空気をエンジンに送り込む装置があります。それが過給機です」
 マスロワは澱みない口調でスラスラと技術の解説を続けていく。つまりそれだけ技術について熟知しているということだ。
「過給機そのものなら従来のプロスパーエンジンにもついていました。低高度用と高高度用、二種類のギア調整で切り替わるタイプです。ですが、プロスパーエンジンの場合は空気を圧縮するタービンが一基しかない、一段二速型過給機だったので高高度用のギアになったとしても高度六〇〇〇メートルを超えたあたりから効率が落ちてしまいます」
 確かにファルコンは高度八〇〇〇メートルくらいで上昇の限界を感じたな………。ナジェインは自身の経験でマスロワの言葉を理解した。
「それに対してプロスパーU型エンジンは過給機のタービンをもう一基増やした二段二速型の過給機になっています。タービンが増えたことで空気の圧縮率がより向上し、高度一万メートルでも充分な馬力が発揮できるようになりました」
「つまり、過給機のタービンを増やせば高高度でも問題なく飛べるのか?」
 ナジェインはその疑問を口にして………そしてナジェインはギョッとした。マスロワが眼をらんらんと輝かせていたことに気が付いたからだ。マスロワが早口でまくし立てる。
「エンジン技術としては過給機のタービンを増やすことはさほど難しいことではないでしょう。ですが二段二速の過給機が完成したとしても、次に問題になるのは燃料の質、オクタン価になります。二枚のタービンで高圧縮した空気をエンジンに送り込んでもオクタン価の低い燃料ではノッキングが発生し、最悪エンジンそのものを破壊してしまいます。我が『共和国』では一昨年から航空燃料は一〇〇オクタンに切り替え済みですので二段二速過給機でも問題ありませんが、『帝国』の燃料は八七オクタンと聞いています。八七オクタンでは二段二速過給機を使用すればノッキングに悩むことになるでしょうね」
 マスロワはそこまで一気に言いきった。マスロワ中尉は無口な求道者タイプだと思っていたが、航空機や発動機の技術的な話になると饒舌になるようだった。そしてマスロワはついに呆気に取られているナジェインの表情に気付いて赤面しつつ頭をかいた。ナジェインはクスリと微笑んで応えた。
「いや、いい説明だった。ハイ・ファルコン、期待できそうだな」



 一方で元農場の厩舎を改造したパイロット用の宿舎の一室の窓辺でリリヤ・パブロワ少尉はハイ・ファルコンの整備が進んでいくのを眺めていた。部屋は二つの椅子と、椅子と対になる机、小さなタンスと二段ベッドしかない簡素で質素で手狭な間取りであった。パブロワと同室のユリヤ・クロチキナ少尉は別の任務で別室に待機しているため部屋にいたのはパブロワ一人だった。
 リリヤ・パブロワは現在一八歳。第九一四戦闘機連隊でも年少側に数えられる、少女と大人の女性の狭間の年頃だった。見た目としては背が小さく、体つきも細くて華奢で、雪のような白い肌と銀色に近い髪から人形のような印象を受ける。しかしオゼロ第五飛行場での訓練では第九一四戦闘機連隊のパイロットの中でも屈指の好成績を記録していた優秀なパイロットであった。
 そんなパブロワは自分で自分が落ち着かず、そわそわとしているという自覚があった。自分の心の臓がバクバクと鳴っているのが自分の耳で聞き取れるほどに緊張している。
 パブロワが緊張しているのにはもちろん理由があった。それは昨晩のことだった。
 大陸暦一九四〇年一月四日午後二一時四一分。リリヤ・パブロワは司令室に呼び出されていた。牧場の事務所を使用した司令室は壁に黒板が設置され、磁石で地図が黒板に貼り付けられていた。その地図には赤いペンで線が引かれているのをパブロワは見た。
「リリヤ・パブロワ、参りました!」
 そう言って敬礼するパブロワに第九一四戦闘機連隊連隊長のルキヤン・ポポフ大佐と飛行隊長のアレクセイ・ナジェイン少佐が答礼を返した。
「早速だがリリヤ・パブロワ少尉、君は夕方に届いた新型機を見たかい?」
 ナジェイン少佐の質問にパブロワは少し困惑しつつ「はい」と答えた。
「整備班の娘からファルコンの改修機だと………」
「正確には高高度戦闘用の改修機だ。我々、第九一四戦闘機連隊はこのファルコンの改修機、ハイ・ファルコンを使用して『帝国』の高高度偵察機を撃墜する任務を受けた」
「はぁ………」
 パブロワも話は聞いている。『帝国』の高高度偵察機のせいで先日の第三五二爆撃機連隊護衛任務が失敗してしまったことを。そしてその高高度偵察機をこれ以上野放しにしておくわけにはいなかいのだという話を。
 だがパブロワはその話をどこか遠い話だと思っていた。仮にその高高度偵察機を撃墜する任務にあたる者がいたとしても、自分ではなくてもっと操縦技術の上手い者、それこそ撃墜王と呼ばれる者だと思っていたからだ。
「リリヤ・パブロワ少尉、君がハイ・ファルコンに乗り、『帝国』の高高度偵察機、アオゲン・ゴッテスを撃墜するんだ」
 ナジェインの言葉を受け、パブロワは………目を丸くしたまま首を斜めに傾けた。ナジェインの言葉の意味をじっくりと噛み締めるように聞き取り、そして素っ頓狂な声をあげた。
「え、ええええ!? わ、私がですか!?」
「おいおい………」
 パブロワの反応を見てポポフが呆れた声をあげる。
「司令室に一人呼ばれて高高度偵察機撃墜任務の話を始めたんだから、だいたい想像はついただろうに」
 ポポフの声にパブロワはおたついた口調で応えた。
「ぜ、全然想像もしていませんでした………」
 うろたえるパブロワを見てポポフは思わず「ははは」と笑い声が漏れた。
「とにかく!」
 ナジェインがゴホンと咳払いしてから話を戻す。
「ハイ・ファルコンは明日の朝に整備が完了する。少尉は整備が終わり次第、ハイ・ファルコンに搭乗してアオゲン・ゴッテス撃墜任務に当たってもらう」
「あ、あの、なぜ………私なのですか?
 パブロワの疑問に対してナジェインとポポフが目を見合わせ、そして答えた。
「もちろん少尉の技量がこの部隊の中でもトップクラスだからだ」
「え………?」
「ハイ・ファルコンが一機しかない以上、隊で一番の技量を持つ者を乗せる。それに不思議があるかい?」
 そう言われては否もない。パブロワは覚悟を決めなければならないのだと悟った。それをパブロワの表情で見て取ったナジェインが黒板に貼り付けられた地図を指差して続ける。
「現在、この戦線にはアオゲン・ゴッテスが四機が投入されている。そのうちの一機、この地図に赤線で書いたコースを飛ぶ機体をハイ・ファルコンで迎撃、撃墜する………」



 パブロワが昨晩のことを思い返していると、整備班のバレンシア・チェルシー二等兵がパブロワを呼びにきた。
 パブロワは飛行服に着替え、緊張で硬くなっていく身体をなんとか動かしながら滑走路に駐機されたハイ・ファルコンに向かって歩いていく。通常、『共和国』空軍の航空機は草色の迷彩塗装が施されているが、ハイ・ファルコンは軽量化のために迷彩塗装すら行わず、銀色のジュラルミンが剥きだしになっていた。
 文字通りの銀翼に向かうパブロワに第九一四戦闘機連隊のパイロットも整備班も、皆の視線が集まる。
「頑張れよ、パブロワ!」
 基地防空のために飛行服に着替えて待機中だったユリヤ・クロチキナがそう言って手を振った。パブロワはニコリと笑って手を振り返したつもりだが、それを見たクロチキナの表情から察するに、全然ニコリと笑えていなかったようだ。
「通常のファルコンは二門の八ミリ機銃の銃弾を五〇〇発ずつ装填していますが、このハイ・ファルコンは軽量化のために一五〇発ずつの装填になります。射撃のチャンスは基本的に一回だけと思ってください」
 整備班の報告にパブロワが「は、はい」と答える。一五〇発………オゼロ第五飛行場での標的曳航射撃訓練では一二〇発だった。あの時よりは多いけど、機銃の発射速度にとって三〇発程度の増加は誤差のようなもの、全弾を数秒で撃ちつくすことに変わりはなかった。
「あと、月並みですが………御武運を!」
 ハイ・ファルコンの操縦席につながる梯子をかけながら整備班の者が敬礼してくる。そしてパブロワが梯子に手をかけようとした時、飛行隊長のナジェインが声をかけた。
「リリヤ・パブロワ少尉」
「は、はい、なんでそう、隊長」
 緊張で噛んでしまったパブロワにナジェインは優しく微笑んでから真剣な表情で続けた。
「………俺はこの隊の飛行隊長だ。君たちに戦えと命じる立場にある。それは君たちを死地に送ることにもなるだろう」
 そこまで言って、ナジェインは一瞬だけためらった表情を見せたが、しかしはっきりと言い切った。
「………だが、俺は君たちに『死んで来い』と命じることはしない。仮にアオゲン・ゴッテス撃墜に失敗したとしても、気に病む必要はない。だから生きて、無事に帰って来い。生きていれば、怪我もなければ、次のチャンスを狙うことだってできる」
 ナジェインは静かに目を閉じ、惜しむように自分のまぶたを撫でた。開戦早々、自身の無茶によって失われた視力を懐かしむように。そして訓練中の事故で死んでしまったラリッサ・クリーナに教えてやれなかったことでもあった。
「引き止めて悪かった。くれぐれも、無茶はしないでくれよ。では、武運を!」
 ナジェインはそういうとパブロワに敬礼してハイ・ファルコンから離れていく。リリヤ・パブロワは肩の荷が軽くなったのを感じ、ナジェインの背中に見事な敬礼を返した。そして梯子を昇り、ハイ・ファルコンの操縦席に乗り込む。ハイ・ファルコンはファルコンに比べてエンジンの強化と主翼の延長が施された高高度戦闘用の機体で、操縦席のレイアウトそのものは従来のファルコンと変わっていなかった。アオゲン・ゴッテス撃墜任務は急に命令された作戦だったのでパブロワはハイ・ファルコンに乗るのが初めてだったが、一目見て今までどおりやればいいのだと悟った。
「エナーシャ、回せーッ!」
 機外で整備班がハイ・ファルコンの機首にエナーシャハンドルが挿し込まれ、エナーシャが回転を始める。
「コンタクトーッ!!」
 整備班によってクラッチハンドルが引かれ、ハイ・ファルコンの三枚のプロペラに回転が伝播する。そしてパブロワはプロスパーU型エンジンの点火スイッチを押す。プロスパーU型エンジンが爆音をあげ、振動と騒音がハイ・ファルコンの操縦席に満ちていく。
 パブロワはスロットルレバーでエンジンの回転数を調節しながら滑走路の端にハイ・ファルコンを滑走させていく。そしてスロットルレバーを押し開く。プロスパーU型エンジンはパブロワの操作に応え、爆音が激しく高まっていく。それに伴って三枚のプロペラが目では追えないほどの高速で回転し、プロペラがかき出す空気が風となり、翼は風を捉えて揚力を生み出す。
 大陸暦一九四〇年一月五日午前一一時四六分。
 こうしてハイ・ファルコンは飛び立った。『共和国』が持てる技術の粋を集めてとして作り上げた最新鋭の高高度戦闘機が機首を持ち上げ、高みの空へと挑戦するのだ。



 ここで時系列は冒頭に戻る。
 大陸暦一九四〇年一月五日午前一一時五九分。
『帝国』空軍の高高度戦略偵察機アオゲン・ゴッテス参号機は高度一万メートルで緩やかな旋回を行っていた。アオゲン・ゴッテスの機首には機銃ではなく、レーダー用のアンテナが伸びており、旋回を行うことでレーダーの捜索範囲を全周囲としていた。
 レーダーの仕組みの詳細は割愛するが、簡潔に説明するとアンテナから電波を発し、電波が対象に反射して返ってくるのをアンテナで拾うというのが基本的な仕組みだ。その電波の反射を受信した結果を表示する画面の縦軸に受信信号の強度を、横軸に距離を表示していた。
「これは………?」
 アオゲン・ゴッテス参号機のレーダー観測員シュテガー曹長はレーダーの反応を見るためのスコープに変化があったことに気が付いた。距離はまだ遠いが、しかし反応も弱い。この表示が何を意味するかといえば………。
「機長、レーダーに感ありです。反応が弱く、小型で少数機だと思われます」
 アオゲン・ゴッテスの機長、ルーカス・フォン・ヴェンデル少佐は紙コップ内に残っていたコーヒーを飲み干してから応えた。
「わかった。旋回を続けるから反応があったら教えてくれ。機首をそちらに向ける」
「了解」
 そして旋回を続けるアオゲン・ゴッテス。シュテガー曹長の「感あり」の声が再び発せられ、アオゲン・ゴッテスの飛行コースがレーダーの反応があった方向に向けられる。
「距離はどうだ?」
「先ほどより近づいてきています。ただ、反応は小さいままですね」
「反応が小さいってことは単機ってことですかね………?」
 副操縦士のライスト中尉が不思議そうな声で呟いた。
「単機、しかも恐らく戦闘機サイズだと思われます」
 それに対してシュテガーが私見を述べた。レーダー観測員としてシュテガーは非常に優秀な男だとライストもヴェンデルも知っていた。彼がそう判断したのならきっとそうなのだろう。
「戦闘機が単機で出撃………? どこか別の基地へ移動しているんでしょうか?」
「しかし距離を詰めてきています。まっすぐこちらに向かってくるようで………」
 そこまで言って、シュテガーもライストも言葉を止め、ヴェンデルの顔を見やった。ヴェンデルは静かに頷きながら彼らの言葉を引き取った。
「間違いない。こちらに向かってきているのは『共和国』空軍の戦闘機、それも高高度戦闘用のカスタム機だろう」
 ヴェンデルの言葉にライストが青ざめて不安そうな表情を浮かべた。『共和国』の戦闘機ではアオゲン・ゴッテスは撃墜できなかったし、これからもそうである。そんなライストの楽観が通じなくなった可能性に彼が久しく忘れていた恐怖心が蘇ってきたのだろう。だからヴェンデルは努めて平静に言った。
「ならば『共和国』の高高度用エンジンと我らの高高度用エンジン、どちらが優れているか勝負してやろう。高度を上げるぞ」
 ヴェンデルはそう言うとアオゲン・ゴッテスのスロットルレバーを開いた。アオゲン・ゴッテスが二つ装備しているフーゴ社製ヒューモ二〇七型エンジンが爆音を高め、アオゲン・ゴッテスをさらなる高高度へと導いていくのであった。



 リリヤ・パブロワはハイ・ファルコンの操縦席でゴムの臭いがする冷たい酸素を吸っていた。
 現在の高度は八〇〇〇メートル。従来のファルコンならエンジンが息をつき、これ以上の上昇が難しくなってくる高度だった。しかしハイ・ファルコンのプロスパーU型エンジンは離陸時と変わらず快調のままだった。これが二段二速過給機の力だった。
 そしてパブロワ自身にも酸素を送り込むために酸素ボンベに繋がったホースが伸びたマスクをつけていた。高高度の薄い空気で不調になるのはエンジンだけではない。人間だって高高度の薄い空気では酸欠で失神することがある。それを防ぐため、従来型のファルコンにも酸素ボンベと中の酸素をパイロットに届けるマスクは装備されており、ハイ・ファルコンにもそれは引き続き装備されていた。
 ゴム製のホースから漂うゴムの臭い、そして冷えた酸素がパブロワの意識はより一層明瞭にさせていた。そんな中、パブロワは目を凝らして周囲に視線を送る。しかし敵機、アオゲン・ゴッテスは見えない。
 ………もしかして、事前に聞いていたコースが間違えていたのだろうか? それとも私が見落としているのだろうか?
 パブロワの脳裏に様々な不安が浮かんでくる。だがパブロワはその不安を意識してかき消しながら、ハイ・ファルコンをなおも上昇させていく。高度計はついに一万メートルを指し示した。
 高度一万メートル。
 高度一万メートルともなると世界最高峰の山よりもさらに高い高度だ。当然ながら外の気温は氷点下を大きく下回っている。パブロワが着用している電熱服は正常に機能し、熱を発してくれているがそれでも体の芯が冷えるような寒さが操縦席を満たしていた。しかしそれでもパブロワはなお周囲を見回していた。
「あ!」
 そしてパブロワの視力がついに何かの影を捉えた。それは高度一万メートルのさらに「上」にいた。左右の翼にそれぞれエンジンを抱えた双発機のシルエット。それは事前に聞いていたアオゲン・ゴッテスのものだった。そしてアオゲン・ゴッテスは機首をわずかに上向けて上昇を続けていた。
「まだ上昇するというの………?」
 パブロワの目が驚きで剥かれる。だが自分にはハイ・ファルコンがある。高高度性能の勝負なら負けるつもりはなかった。パブロワは無線のスイッチを入れてから告げた。
「こちらシーイング・スター、二階で星を見つけた。追いかけます」
 パブロワは目指すべき、撃つべき標的を見据えて操縦桿を手前へと引いた。ハイ・ファルコンはその操縦に応えてさらに上昇を続ける………。



『こちらシーイング・スター、二階で星を見つけた。追いかけます』
 カピタル第八飛行場の司令室の無線機がパブロワの声を届ける。
 星をみるひと、シーイング・スターとはパブロワの乗るハイ・ファルコンを示す符号で、星がアオゲン・ゴッテスを意味していた。二階というのは高度一万メートルよりさらに上空にアオゲン・ゴッテスがいたことを示していた。
「アオゲン・ゴッテス………高度一万メートル以上も飛べるのか」
 第九一四戦闘機連隊連隊長のルキヤン・ポポフ大佐が唸るように呟いた。『帝国』の技術力、恐るべしと言いたげな表情と口調だった。もっとも敵を褒める趣味はないので口にはしなかったが。
「ハイ・ファルコンの上昇限度はまだ大丈夫なのか?」
「ハイ・ファルコンでしたら高度一万二〇〇〇メートルまでならメーカー側でも保障しています」
 ポポフの質問に答えたのは整備班長のイエヴァ・クレシェバ大尉だった。ポポフは「ふむ………」とあご先を撫でる。
 二人のやり取りを見ながら飛行隊長のアレクセイ・ナジェイン少佐がふと思ったことを口にした。
「そういえばアオゲン・ゴッテスはどうやって高高度性能を確保したのでしょうか?」
「む? どういう意味だ、少佐?」
「ハイ・ファルコンの整備中にマスロワ中尉から聞いたのですが、ハイ・ファルコンのプロスパーU型エンジンは二段二速過給機を搭載することで高高度性能を確保しています。ですが、二段二速過給機があってもオクタン価の高い燃料がなければエンジンがノッキングを起こしてしまうとも。そして『帝国』の航空機用ガソリンのオクタン価は高いものではないと聞きました」
「なるほど、確かにそれは不思議だな………」
 ナジェインの疑問にポポフも頷いた。そして二人の元パイロットの視線がクレシェバに向けられる。整備班長なら何か知っているかもしれないという期待感が視線に込められているのをクレシェバは感じ、クレシェバは少し考えてから口を開いた。
「マスロワ中尉の説明は基本的に間違っていません。その通りです。ですが、その説明には一つ条件が付くんです」
「条件?」
「はい。つまり、『航空機用ガソリンエンジンならば』という条件です」
「………? 航空機のエンジンはガソリンエンジンだけではないのか?」
「はい。他にはディーゼルエンジンがあります」
 ディーゼルエンジン。ガソリンではなく、軽油によって動くエンジンだ。過給機によって高圧縮された空気が送り込まれても軽油ならガソリンのようにノッキングは発生しない。そういう意味で、ディーゼルエンジンは高高度での運転に向いたエンジンであることをクレシェバは簡潔に説明した。
「ちょっと待った、しかしディーゼルエンジンは………」
「そう、ディーゼルエンジンはガソリンエンジンに比べれば馬力が出ません。アオゲン・ゴッテスのような高高度飛行を武器にした偵察機ならともかく、速度が必要な戦闘機や爆弾という重量物を積む爆撃機のエンジンとしては馬力の面で不適格でしょう」
「なるほど………」
 クレシェバの言葉に頷く二人。そして無線機からパブロワの声が響いた。
『こちらシーイング・スター、星に追いついた………攻撃します!』



 リリヤ・パブロワ少尉が乗るハイ・ファルコンがアオゲン・ゴッテスに追いついた時、ハイ・ファルコンの高度計は一万三二〇〇メートルを指し示していた。アオゲン・ゴッテスより少し高い高度で、そしてアオゲン・ゴッテスの機尾を睨む位置にハイ・ファルコンが飛ぶ。
 二段二速過給機を搭載したプロスパーU型エンジンでもこの高度になるとさすがに息をつき始め、エンジン出力が思うように出せず、上昇力にかげりが見え始めていた。それでも登山家のように、確実に上昇を続けてパブロワはここまで到達したのだ。整備班が塗装を落としてまで徹底化したハイ・ファルコンの軽量化と、パブロワの優秀な操縦技術が為しえた快挙だった。
「やっと追いついた………」
 パブロワの声に興奮の色が強まる。この高空を飛ぶ偵察機に視られてきたことで『共和国』軍の行動は『帝国』に筒抜けであった。その積み重ねとして『共和国』首都カピタル近くの牧場の牧場主は疎開せざるをえなくなり、牧場は第九一四戦闘機連隊が基地としているカピタル第八飛行場となった。第九一四戦闘機連隊にも故郷が『帝国』軍に占領された者が多くいる。
「高度一万三〇〇〇メートル………オゼロでバタフライ練習機に乗ってた時には考えることも出来なかった高度。こんな空を前から飛んでいたなんて、凄い技術だわ」
 パブロワがハイ・ファルコンのスロットルを全開にする。プロスパーU型エンジンの鼓動が最高に高まり、ハイ・ファルコンの速度がさらに増していく。速度計を見れば時速六〇〇キロメートル近くを指し示していた。従来のファルコンなら高度を犠牲に、機体を降下させなければ出せなかった速度だ。しかしハイ・ファルコンはその高速をほぼ水平飛行で成し遂げていた。
 高度一万三〇〇〇メートル近くは空気が薄い。それゆえにプロスパーU型エンジンは二段二速過給機を搭載したわけだが、薄い空気は空気抵抗も小さくし、機体の速度が出やすい環境となる。ハイ・ファルコンの速度はその空気の薄さの賜物だった。
 アオゲン・ゴッテスも尾翼のラダーを動かして右に左に機位をずらしてハイ・ファルコンの照準が定まらないようにしようとする。しかしパブロワはキッと敵機を見据えてスロットルレバーについている機銃発射ボタンに親指を添える。この程度の動きならオゼロで第九六三爆撃機連隊との実弾訓練で何度も食らいついてきた。今更、こんなもので惑わされるものか。
「出て行け。私たちの空から………!」
 グッと親指に力を込め、機銃発射のボタンを押す。触感と同時に聴覚が機銃の発射音で埋まる。曳光弾がアオゲン・ゴッテスに伸びていくのを視ているのは視覚。だが、アオゲン・ゴッテスが一瞬にして視野から消える。命中するはずだった八ミリ機銃弾は文字通り空を切るだけだった。
「え!?」
 急に視界から消えたアオゲン・ゴッテス。パブロワの予想を超えたその動きにパブロワの頭が真っ白になる。
 だが白くなった意識に闘志を上書き、すぐさまパブロワは周囲を見回す。
 ………右、いない。
 ………左、いない。
 ………上、いない。ならば………!
 パブロワは操縦桿を右に傾け、ハイ・ファルコンを旋回させる。その際に斜めになった機体から眼下の空に眼をむける。
 いた! アオゲン・ゴッテスは高度を落として飛行していた。
「待ちなさい!」
 パブロワもすぐにアオゲン・ゴッテスの追撃に向かう。ハイ・ファルコンの速力ならそれは容易なことだった。



「や、やった………やりましたね!!」
 アオゲン・ゴッテス参号機の機内ではライスト中尉の歓喜の声が爆発していた。『共和国』空軍の新型高高度戦闘機が銃撃をかける瞬間、機長のルーカス・フォン・ヴェンデル少佐はアオゲン・ゴッテス参号機のフラップを開き、自発的にアオゲン・ゴッテス参号機を失速させたのだった。そのため高度と速力は大きく失われ、高度は一万一〇〇〇メートル付近まで、速力は時速三二〇キロメートルまで落ちていた。
 しかしこの操作によって、敵戦闘機からすれば急にアオゲン・ゴッテス参号機が消えたように見えたはずだ。ヴェンデルは狙い通りに事が運んだことに安堵の息を吐いた。
「ですが、敵機はまだ………」
 シュテガー曹長が不安げな声をあげる。クルストが咄嗟に思いついた提案を発する。
「雲! 雲にでも隠れてやりすごしましょう!!」
「クルスト中尉、本機が通常の爆撃機で、ここが高度三〇〇〇メートルならそれもアリだったろうな。だが、ここは高度一万メートル。雲など足元のはるか下にしかないさ」
「そんな………!」
「今の手はもう通じないだろうな………だまし討ちは最初の一回だけだ」
 ヴェンデルはアオゲン・ゴッテス参号機のスロットルを開き、なんとか速度を出そうとする。しかしフーゴ社製ヒューモ二〇七型エンジンは(イエヴァ・クレシェバ大尉の予想通り)ディーゼルエンジン。ガソリンエンジンに比べて馬力が劣るため、パワーが足りずに速度はなかなか増えない。
「敵機、こちらに再接近してきます!」
 アオゲン・ゴッテスは高高度を飛行する、その一点に特化した偵察機だ。同じ高度に敵戦闘機が現れるという事態を基本的に想定していない。だから自衛用の機銃の一つも搭載されていなかった。機銃など単なる重荷でしかない。そんなものを積むくらいならレーダーや偵察用のカメラを搭載するように設計されている。
 その設計が今、仇となっていた。
 しかしそれでもヴェンデルは平静であった。彼にはまだ勝算があった。勝算、というよりは先の失速による回避行動の効果はまだあるはずだと考えていた。
「敵機、撃ってきた!」
 見張り員の悲鳴のような声。ヴェンデルは必死に操縦桿とラダーペダルを操作し、銃撃を回避しようとする。だが敵戦闘機の銃弾が着弾し、アオゲン・ゴッテスに不快な音と衝撃を巻き起こし………そしてそれはすぐさま止んだ。
 それを確認してからヴェンデルは初めて大きな声をあげた。
「フ………勝ったぞ!」



「何………何が起きたの!?」
 自らを失速させ、高度を下げたアオゲン・ゴッテスを追撃していたパブロワのハイ・ファルコン。アオゲン・ゴッテスの飛行を警戒しつつ、二度目の銃撃を行い、そして何発かの命中弾が確認できていた。
 この調子なら撃墜できる。パブロワがそう感じていた時、不意に銃撃の音が止まったのだった。
 混乱しつつ、ハイ・ファルコンの計器盤に目線を向ける。計器盤の一つ、機銃の残弾数を示す残弾計がゼロを示していた。つまり、弾切れであった。
「しまった………ッ!」
 ハイ・ファルコンは軽量化のために機銃の弾数を一五〇発にする。地上で整備班からそう説明されていたではないか。パブロワはそのことを完全に失念していた自分を恥じた。敵、アオゲン・ゴッテスのパイロットはこちらのハイ・ファルコンは軽量化のために機銃弾の搭載数を絞っていると踏んだのだ。だから多少強引ではあったが、失速という手段で初撃を完全に回避する方法を選んだのだ。
 アオゲン・ゴッテスはハイ・ファルコンが弾切れを起こしていることを見抜き、ハイ・ファルコンはもはや脅威ではないと無視して西に飛び去ろうとしていた。
 アオゲン・ゴッテスが本来行うはずだった偵察任務はハイ・ファルコンによって妨害され、今アオゲン・ゴッテスは逃げ帰ろうとしている。それは戦略的には『共和国』の勝利だと言ってもよいだろう。
 だがリリヤ・パブロワは? ひいては第九一四戦闘機連隊は勝ったと言えるだろうか?
 リリヤ・パブロワは悔しげにアオゲン・ゴッテスを睨んだ。だがどれだけ目線を鋭くしたところで、それで敵機は撃墜できない。敵機を撃墜しうるのは物理的な衝撃が必要なのだ。たとえば機銃弾を命中させること………。
 そこでパブロワは一つ思いついた。まだ、まだアオゲン・ゴッテスを撃墜する方法が私には残されている!
「隊長、私は必ず帰ります」
 パブロワは無線機にそう呟いてからハイ・ファルコンを再び増速させる。ハイ・ファルコンとアオゲン・ゴッテスとの距離が再び縮められていく。だがハイ・ファルコンにもはや弾がないことを知っているアオゲン・ゴッテスは回避行動すら取らなかった。きっと哀れな敗北者の負け惜しみだと思っているに違いない。
 そしてそう見られていることこそパブロワの狙いだった。
 パブロワは操縦桿を横に倒し、機体に一八〇度のロールをかける。天と地がひっくり返り、頭が地に、足が天に向く。パブロワは右手に操縦桿を握ったまま、左手で操縦席と自分を固定していたベルトを外し、そして風防を開けた。高度一万メートルの寒気がハイ・ファルコンの操縦席に直接入り込んでくる。
「だけど貴方たちは、絶対に………」
 パブロワは操縦席を蹴り、ハイ・ファルコンの操縦席を飛び出した! そして操縦者がいなくなったハイ・ファルコンは時速五七〇キロメートルの速度でアオゲン・ゴッテスの胴体部に衝突する!
「帰さない! そう決めたんだから………!!」
 大空に飛び出したパブロワはハイ・ファルコンの機体が胴体に突き刺さったアオゲン・ゴッテスを見やる。アオゲン・ゴッテスはそれでも飛行を続けていたが、しかし機首と胴体部が真っ二つに折れて墜ちていく………。



「な、なにが起きた!?」
 アオゲン・ゴッテス参号機を突如襲った衝撃。それは機銃弾の命中とは次元が違う大きさだった。機長のルーカス・フォン・ヴェンデル少佐の声に胴体部のレーダー観測員シュテガー曹長は返事を返さなかった。アオゲン・ゴッテス参号機の胴体部に衝突したハイ・ファルコンの機首にシュテガー曹長は上半身を圧し潰されていたからだ。シュテガー曹長の生死は考えるだけ無駄だった。
「体当たり………体当たりしてきたんだ! 曹長が潰されちまった!!」
 胴体部に振り返ったクルスト中尉は突き刺さったハイ・ファルコンを見て恐慌をきたしていた。悲鳴のような声でわめきながら、しかしクルスト中尉はシュテガー曹長の元へ向かおうとした。それを見たヴェンデルはクルストに向かって怒鳴った。
「中尉、席から離れるな!!」
 だがヴェンデルの声はクルストには届かなかった。ハイ・ファルコンの体当たりによって開いた大きな穴。それはアオゲン・ゴッテスの与圧室の崩壊を意味している。与圧室と高度一万メートルの高空との気圧差によって空気が急激に流れ出していく。
「う、うわああああああ!?」
 与圧室から漏れでていく空気は奔流となり、人間一人くらい軽く吸い込むほどだった。そしてクルストは外へ流れ出ようとする空気によってアオゲン・ゴッテス参号機の機外へと排出されていった。それでもクルストは生きていた。『帝国』空軍で受けた訓練は彼の意識を繋ぎとめていた。
 だが、それはクルストにとって残酷な結末をもたらすだけだった。なぜなら彼はパラシュートも持たない状態で機外へ吐き出されたのだ。高度一万メートルからの生身のダイブだ。地表にぶつかればひき肉よりひどい有様になるのは簡単にわかる。
「い、いやだあああああああ!」
 クルストが絶望の悲鳴をあげる。だが、その声は誰にも届かなかったし、どれだけわめこうとも彼の運命は変わらなかった………。
「クルスト中尉………」
 ヴェンデルは外に吐き出されていった粗忽者の部下の名前を呟いた。だが、それだけしかできなかった。
 いや、それよりもこのアオゲン・ゴッテスをどうやって生還させるかだ、それを考えるんだ………!
 だが神ならぬ身のヴェンデルはもはや打つ手はなかった。ハイ・ファルコンの衝突でアオゲン・ゴッテス参号機の胴体は二つに折れ、機首と機尾に分かれようとしていた。ヴェンデルのいる機首側のエンジンはまだ動いているが、さすがのアオゲン・ゴッテスも機首だけで飛行できるはずがなかった。
「………まさか体当たりとはな」
 ヴェンデルがそっと目を閉じて呟いた。敵機の攻撃は回避してみせたが、体当たりまでは考えていなかった。………まったく。まだ戦争が始まって半年だぞ。体当たりなんて行う段階じゃないだろうに。
 ヴェンデルの口元が苦く歪んだ。………いや、このアオゲン・ゴッテスを撃墜できたのなら、それくらいは安いものなのか。我々は『共和国』の覚悟を甘く見すぎていたのではないか? そんな疑念が頭をよぎる。
 アオゲン・ゴッテス参号機が再び激しく揺れる。それはアオゲン・ゴッテス参号機の胴体がちぎれ落ちた衝撃だった。
 ヴェンデルは自らがもはや助からないことを自覚した。静かに死を受け入れながら、ヴェンデルは目線を空へ向ける。彼は空を愛していたパイロットだった。そしてこの美しい成層圏の空で死ねるのなら、悪くないのかもしれない。
 そんな時、ヴェンデルは一つの影を見た。それはこのアオゲン・ゴッテス参号機に体当たりを行った戦闘機のパイロットの姿だった。重力に引かれて落ちていく姿をヴェンデルの優れた視力は確実に捉えていた。
「フ………勇者に乾杯、いや、完敗か」
 そしてヴェンデルは気が付いた。落ちていく人影が長く、そして美しい銀色の髪を持っていたことに。そう、自分たちを死に追いやった戦闘機のパイロットは女性だったのだ。ヴェンデルはそのことに気が付いて、タガが外れたように笑い出した。
「ハハ、アハハハ! そうか、そうだったのか、そりゃ俺たちでは勝てるはずがないわけだ!! ………天使が相手ではな」
 ヴェンデルがそういった瞬間、アオゲン・ゴッテス三号機の機首部分も崩壊した。



 ………リリヤ・パブロワは基地の宿舎にいるのを知覚した。
 だが、その宿舎には人の気配がなかった。それが違和感となってパブロワは右に左に視線をキョロキョロと動かすばかりだった。
 宿舎の入り口にも、食堂にも、出撃待機用の広間にも誰もいなかった。仕方なしに自分の部屋の扉を開けた時、そこに一人たたずんでいることに気が付いた。
「あら、貴方は………?」
 先に部屋にいた者がパブロワの顔を見て少し驚いた表情を見せる。だが驚いたのはパブロワの方もだった。部屋にいたのはラリッサ・クリーナだったからだ。
 パブロワが何か言おうとしたが、それより早くクリーナが立ち上がってパブロワの額を人差し指で小突いた。
「リリヤ、あわてんぼうさんね。貴方がここにくるのはまだ先のことよ」
「え………?」
 リリヤ・パブロワの驚いた顔を見てラリッサ・クリーナは寂しげに笑った。
「今の私にはすべてがわかる。だけど、それを貴方に伝えるわけにはいかないの」
「ラリッサさん………?」
「私の願い………いえ、想いを貴方に託すわ。だから、早く自分のするべきことをしなさい」
 その言葉を聞いた瞬間、リリヤ・パブロワは強烈な風に吹き飛ばされた。体が浮き上がり、そしてはるか高空へと巻き上げられていく。パブロワは必死にクリーナの名を呼んだが、しかしその声は彼女に届きはしなかった。
 この瞬間だった。
 リリヤ・パブロワの意識に火が灯り、感覚が全身へと広がっていく。そしてパブロワは自分がハイ・ファルコンの操縦席から脱出した後、重力に引かれて墜ちていく衝撃と高高度の薄い酸素から意識を失っていたのだと自覚した。
 ………気を失っていた!? 一体、どれくらい? いや、それは後! 今の高度はどれくらいなの………!?
 考えるよりも先にパブロワの手が動いていた。『共和国』の戦闘機乗りが操縦席の座布団代わりに敷いているモノ、それを作動させるためのヒモを引いたのだ。
 次の瞬間、重力に引かれるパブロワの小さな体が上方向の衝撃に見舞われた。体がちぎれるかと思うほどの衝撃。だがそのおかげで墜落の最中にあったパブロワの落下速度は大幅に減った。
 リリヤ・パブロワはパラシュートを開くことに成功したのだ。落下の勢いで傘が目一杯膨らみ、パブロワを墜落から救っていく。
 そしてパブロワはカピタル第八飛行場から一〇キロほど後方に離れた場所に着地し、近くを通っていた『共和国』陸軍の輸送部隊のトラックに便乗してカピタル第八飛行場へと帰還したのだった。
「無茶はしないでくれよって、言ったはずなのだがな………」
 パブロワの帰還を迎えたアレクセイ・ナジェインは開口一番にそう言った。しかし彼の表情はパブロワの挙げた大戦果を褒めているのは一目瞭然であった。
『帝国』軍は偵察任務から帰ってこないアオゲン・ゴッテスに対して安否を問う無電を何度も流しており、それでもなんの応答も返ってこないことからアオゲン・ゴッテスが撃墜されたことを認めざるを得なくなった。
 一方で『共和国』空軍はアオゲン・ゴッテスを撃墜したのは空軍の新型機、ハイ・ファルコンのおかげであると即座に発表した。『帝国』に対してハイ・ファルコンの存在をアピールすることでアオゲン・ゴッテスの出撃を不活発にするのが狙いだった。『帝国』空軍全軍でも八機しかないくらいに貴重で、そして厄介だった高硬度戦略偵察機アオゲン・ゴッテスは以降、ほぼ前線に出ることはなくなった。
 そしてアオゲン・ゴッテス撃墜に関連して『共和国』空軍初の女性戦闘機連隊である第九一四戦闘機連隊のことも大々的に宣伝されることとなった。この戦果によって女性パイロットを戦場に出すことに疑問を持つ者も表立ってはいなくなった。
 そう、第九一四戦闘機連隊はもう二度と引き返せなくなったのだ。これからいかなる形にせよ戦争が終わるまで彼女たちは戦いの空に出撃しなくてはならなくなったのだ。その真の意味があらわになるのはアオゲン・ゴッテス撃墜から四日が経過した大陸暦一九四〇年一月九日のことだった。
『帝国』軍がついに総力を挙げての攻勢に出たのである。


第四章「第九一四戦闘機連隊、出撃す」


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