『共和国』は大陸の東部の多くを占める大国であった。それは面積的にも、経済的にも大きな国であった。
 一方で『帝国』は大陸の中部から西部にかけた広い領土を持ち、『共和国』西部の国境と接した国家であった。『帝国』は元々は大陸中部の領土しか持っていなかったが、大陸暦一九一〇年代の戦争で大陸西部に存在した『諸国連合』に勝利し、その領土を併合したのであった。
 この戦争の勝利で『帝国』の威信と国力は大いに増した。
 そして大陸暦一九三九年六月二一日。『帝国』は『共和国』に対して戦線を布告し、国境を越えて東進を開始した。
『共和国』軍は東進する『帝国』軍に対して効果的な反撃が行えず、『共和国』西部最大の都市であるザパドグラードが八月に陥落。『帝国』軍は開戦からわずか半年ほどで『共和国』首都であるカピタルまであと一〇〇キロメートルの地点まで迫ろうとしていた。
 この風前の灯となった『共和国』首都カピタル防衛のために『共和国』軍は全力を挙げて防衛にあたろうとしていた。
 その全力の防衛作戦の一環として、第九一四戦闘機連隊にも前線配置が命令されたのであった。

魔女と呼ばないで!?
第四章「第九一四戦闘機連隊、出撃す」

 大陸暦一九四〇年一月二日。
 年が明けて早々、しかし第九一四戦闘機連隊は新年を祝う余裕もなく、オゼロ第五飛行場からカピタル第八飛行場に移動を行っている最中だった。
 整備班は先発隊として一部を先行させつつ、オゼロ第五飛行場から整備用の部品や工具を集めて梱包して鉄道経由で移動することになった。
 一方で、訓練工程の終了と共に少尉候補生から正式に少尉として任官された四七名のパイロットたちは八機のファルコン戦闘機と三機のバスケット輸送機にそれぞれ分かれてカピタル第八飛行場に飛んでいくこととなった。
 第九一四戦闘機連隊のパイロットの中でファルコンに乗る側になった者の一人にナジェスタ・アナニエヴァ少尉がいた。アナニエヴァ少尉は二八歳と第九一四戦闘機連隊の中でも年長側に分類され、隊員からも「ナジー姉」と呼ばれて慕われていた。それだけに飛行倶楽部時代での飛行時間だけでも六〇〇時間を越えていたベテランパイロットであり、その豊富な経験はファルコンの操縦桿を握るようになっても遺憾なく発揮され、隊の中でも屈指の操縦技術の持ち主と自他共に認められていた。
 プロスパーエンジンの爆音と振動が支配するファルコンの狭いコクピットの中でアナニエヴァは左右に視線を配らせていた。今向かっているカピタル第八飛行場は前線に近く、『帝国』の爆撃機や戦闘機が襲来することもあるという。もしも『帝国』の戦闘機がバスケット輸送機を狙い、撃墜すれば第九一四戦闘機連隊は致命的な打撃を受けてしまう。まだ一度も出撃していないのに致命的な打撃を受けるなど、あってはならないことだ。
 だからこそファルコンに乗る私たちは護衛を成し遂げることを期待されているのだ。ナジェスタ・アナニエヴァはアレクセイ・ナジェイン飛行隊長が選んだファルコン搭乗メンバーをそういうことだと考えていた。
 アナニエヴァはスロットルレバーから放した左手で飛行服の胸ポケットを撫でた。胸ポケットに入っているペンダントの硬さを左手の触覚で感じる。そのペンダントこそアナニエヴァが戦う理由であった。
 結局、八機のファルコン戦闘機と三機のバスケット輸送機は『帝国』の機体と遭遇することなくカピタル第八飛行場に無事着陸することができた。しかしその飛行中、アナニエヴァはことあるごとに胸ポケットの中のペンダントを触り続けていたのだった。



 オゼロ第五飛行場はキャンプ場を飛行場にしていた。故に司令室や宿舎はキャンプ場の宿泊施設を流用していた。
 それに対してカピタル第八飛行場は接収した牧場を飛行場に整地した飛行場だった。
「うっわ、なにこれ!?」
 カピタル第八飛行場に到着し、「パイロット用の宿舎」に案内されたユリヤ・クロチキナ少尉がその「宿舎」を見て眉をひそめてげんなりした声で言った。なぜなら宿舎とは名ばかりで、どう見てもその建物は牧場の厩舎を改築したものだったからだ。そして中に入ってみると相応に掃除されてはいたが、それでも消しきれない獣の臭いが鼻についた。
「ちょっと、こんな所で寝泊りすんのー!?」
 クロチキナが発した不満の声に賛同する者も多くいたが、しかし整備班が寝泊りするのは急造したために建てつけが悪くて隙間風もひどいあばら屋だということが判明し、さらに前線の陸軍部隊は土を掘った塹壕で寝泊りしていることを聞かされてからは不満の声は急速に収まっていった。そう、彼女たちはここに物見遊山にきたわけではない。彼女たちはここに戦争をしにきたのだから。
「この臭い、乳牛がいたのかな?」
 宿舎の中に入るなり鼻をひくつかせて臭いをかいでいたアデリナ・リーシャ少尉が呟いた。くすんだオレンジ色した髪を三つ編に結んだ垢抜けない少女の面影を色濃く残したリーシャの声を聞いたソフィア・アヴェリーナが驚いた声をあげる。
「リーシャさん、臭いでわかるんですか!?」
 アヴェリーナの感心した様子にリーシャが気恥ずかしそうに頬をかいた。
「いやぁ、うちの実家も牧場やってたからねぇ。こういう臭いはむしろ懐かしいっていうかさ………」
 リーシャは視線を厩舎改造の宿舎の天井に向けて続けた。
「………この牧場を経営してた人がどんな人か知らないけど、『帝国』軍を追い返して早く帰ってこれるようにしてあげないとね」
 リーシャの言葉に誰もがはっとした表情を見せた。今、この牧場に人がいないのは『帝国』軍が接近してきていたから疎開したためだ。『帝国』軍の理不尽な侵略によって牧場から離れなくてはならなくなったのだ。その際に、この厩舎で育てていた乳牛はどうなったのだろうか? また、元のように牧場を始めることができるのだろうか?
 第九一四戦闘機連隊の戦いは、その答えにつながっている。それを彼女たちは改めて自覚したのであった。



 ………一方でカピタル第八飛行場の司令室兼男性用宿舎は牧場のオフィスとして使われていた建物だった。牧場に勤務する人間が働くための建物であったこともあり、整備班の宿舎となるあばら屋よりはるかに真っ当な建物であった。
「整備班の宿舎をここにした方がよかったのでは?」
 それを踏まえて第九一四戦闘機連隊飛行隊長アレクセイ・ナジェイン少佐はそう言ったが、整備班の代表としてカピタル第八飛行場に先行していたレジーナ・マスロワ中尉はナジェインの言葉に首を横に振った。
「飛行隊長のお気持ちは嬉しいですが、整備班は合わせて二五〇名おります。その全員を寝泊りさせるのにこの建物では小さすぎ、結果的に整備班の中で待遇の差が出てしまいます」
 レジーナ・マスロワ中尉のハスキーな声。彼女は身長一七三センチメートルと女性としては非常に長身であり、髪も短く切りそろえていることから男性のような印象を受ける。本人も女性としての自覚が欠けている節があり、自他共に厳しく求道的な性格をしていた。
「それに私たちにはアレがありますから」
 マスロワが窓の外に視線を向けて言った。その視線の先にあったのは航空機整備用の格納庫だった。確かに連日の出撃が重なれば機体の整備に追われ、宿舎で寝るくらいしかできなくなるだろう。それを考えれば整備班の宿舎はボロでも構わないということか。
「………あまり無理はしないでくれよ。人間、一時的な忙しさなら耐えられるが、それが日常的になると溜まった疲労で使い物にならなくなるぞ」
 第九一四戦闘機連隊連隊長のルキヤン・ポポフがタバコを吹かしながら口を挟んだ。マスロワは「もちろんです」と応えて続けた。
「整備班も移動中の本隊が到着次第、班を五つに分け、ローテーションで整備にあたる予定です」
 ファルコンを整備するための部品や工具と共に二〇〇名余りの整備班本隊は鉄道で移動中だった。カピタル第八飛行場に到着するのは明日になる予定であった。
「うむ」
 ポポフは吸い終えたタバコを灰皿に押し付けて火を消した。
「今、現在この基地にはファルコンが五〇機あるのだな?」
 ポポフの質問にマスロワは首肯した。
「はい。我々がオゼロから移動する前から配備されていたファルコン四二機に、オゼロから持ってきた八機を合わせた五〇機です。もちろん全機稼動状態にあります」
 マスロワの返答にポポフは満足げに頷いた。そしてマスロワを下がらせてから、ポポフはナジェインの方に向いて言った。
「少佐、我々は明日から作戦行動に入る。あの娘たちの中にも死傷者が多く出るだろう。『帝国』とは強大な相手だ」
 強大な『帝国』が相手であったが故に彼女たちまで戦場に出さなければならなくなった、とも言うが。
「だけど、我々も全力を尽くそう。あの娘たちを最大限、家に帰してやれるように………」
 ポポフの言葉にナジェインも力強く頷いた。



 大陸暦一九四〇年一月三日午前五時五五分。
 カピタル第八飛行場に朝日が昇り始めた頃、外の気温は吐く息が白くなる程度の寒さで、温度計は二℃を示していた。もしも『共和国』がもっと寒い気候の国であったなら、雪や氷点下を大きく下回る気温が『帝国』の侵攻を妨げてくれたことだろうが、カピタル付近の冬は雪は降っても積もることはなく、気温も氷点下にまで達することはほとんどなかった。
 寒くはあるが、耐えられない訳ではない冬の寒空の下で第九一四戦闘機連隊の初出撃の準備が進められていた。この日、最初の出撃に選ばれたのは二個小隊八機のファルコンであった。
 ナジェスタ・アナニエヴァ少尉を隊長機とし、ソフィア・アヴェリーナ少尉、マリア・メヒコヴァ少尉、エカテリーナ・コルトバ少尉が続く第一小隊。
 イウァンナ・ジラノバ少尉を隊長機とし、ナイーダ・ストロエヴァ少尉、ノンナ・チェリャトナ少尉、タチトナ・レヴァショヴァ少尉が続く第二小隊。
 合計八名の女性パイロットがファルコンに向かう。男性からすれば小柄な者向けの飛行服でも彼女たちにはいささか丈を余し気味になっているのが見て取れた。それを滑走路の端で眺めていたのはリリヤ・パブロワ少尉とユリヤ・クロチキナ少尉だった。二人はこの日、『帝国』の爆撃機が襲ってきた時の邀撃任務を与えられた部隊に入っていたためいつでも出撃できるように待機していた。
「いよいよ、始まるんですね………」
 梯子に手をかけてファルコンのコクピットへと登っていくソフィア・アヴェリーナ少尉の姿を目に焼き付けるように眺めながらリリヤ・パブロワが呟いた。その声は小さなもので、ファルコンに乗り込んだアヴェリーナに聞こえるはずはなかったが、アヴェリーナはパブロワの視線に気が付いて右手をそっと掲げて敬礼してみせた。パブロワもクロチキナも直立不動で敬礼を返した。
 そしてファルコンのプロスパーエンジンに火が灯り、一機、また一機と滑走路を駆け、大空へ翔け出していく。
 ………みんな、無事で帰ってきますように。
 後にリリヤ・パブロワはこの日のことをこう振り返った。当時、一八年生きてきた人生の中で神に祈った経験はほとんどなかったけど、この日からしばらくの間は真摯に祈りを捧げていました。だけどしばらくしてから神に祈っても無意味なのだと気付かされました。私たちはそれだけの死線で戦っていたのです。でも、この日は………。



 大陸暦一九四〇年一月三日午前六時一三分。
 ナジェスタ・アナニエヴァ少尉が飛行服のポケットに入れていた懐中時計を確認した時、時計の針はその時刻を指し示していた。
 カピタル第八飛行場を発ち、北へ飛ぶこと一〇分余り。出撃前に飛行隊長から聞いた作戦内容ではそろそろ友軍機と合流するはず………。そう思った時、編隊を組んでいたソフィア・アヴェリーナ少尉のファルコンが機体を大きく左右に振った。見るとコクピットでアヴェリーナが右方向を指差していた。右方向に視線を移せば小さな黒い影が多数見えた。その影はアナニエヴァたちの方に向かって飛んできているようだった。
 無線を使って交信すればよいと思われるかもしれないが、敵地上空に達するまでは無線の使用は禁止されていたために旧態依然としたジェスチャーで部隊は意思疎通を図らなければならなかった。
 だがアヴェリーナの行動は二個小隊八機のファルコンに正確に伝わり、彼女たちは編隊を保ったまま近づいてくる影に接近していく。ある程度接近したところで黒い影の形がしっかりと視認できた。葉巻を思わせる太い胴体と左右両方の翼に一基ずつ搭載された空冷エンジン。『共和国』空軍の主力爆撃機ハンマー一六機の編隊であった。
 一六機のハンマーは尾翼に金槌を持った子鬼のイラストが描かれていた。それは第三航空団隷下の第三五二爆撃機連隊に所属する機体であることを示すマークだった。
 第三五二爆撃機連隊のハンマーは『帝国』軍の物資集積所を爆撃する予定だ。当然、それを妨害しに『帝国』空軍の戦闘機が出てくることは想定されている。第九一四戦闘機連隊に与えられた最初の任務は第三五二爆撃機連隊のハンマー一六機を護衛することであった。
 第一小隊隊長機のナジェスタ・アナニエヴァ少尉は操縦桿とフットバーを操作して自身のファルコンをハンマー隊の先頭をいく機体に近づいていく。そして第九一四戦闘機連隊を代表し、ハンマーの操縦席に向かって敬礼した。ハンマーの操縦席から覗く操縦士と副操縦士はアナニエヴァにどう反応するか悩んでいるように見えた。第九一四戦闘機連隊は『共和国』空軍にとっても初めての女性戦闘機連隊だ。猛訓練を重ねて、それについてこれたというのは事実であったが、実戦に出るのはこれが初めてであり、戦闘機連隊としての実力がまだ未知数なのも事実だった。
 ………大丈夫よ、そんなに心配そうな顔でこちらを見ないでちょうだい。私はここに遊びにきたつもりはないわ。
 アナニエヴァはファルコンをハンマーから離し、ファルコンの編隊に戻しながら飛行服の胸ポケットをまさぐってペンダントを取り出した。銀のフレームの中心にエメラルドの天然石がはめられたペンダント。そのペンダントにアナニエヴァは静かにキスして心の中で呟いた。
 ………あなた、私の戦争を見守っていて。
 ハンマー隊と合流したファルコン八機は高度二五〇〇メートル、時速三五〇キロメートルで西へと進路を変えた。その先に『帝国』軍の物資集積所があるはずだった。
 が、神ならぬ身のアナニエヴァたちは知る由もなかったが、アナニエヴァたちを見下ろす「眼」があった。高度一万メートルという超高空から、電波を発してその反射を捉える「眼」。神の如き「眼」の主は『帝国』空軍の航空基地に向けて警報を発する。
『敵戦爆連合接近中』、と。



 大陸暦一九四〇年一月三日午前六時四七分。
 ハンマー隊と合流して半時間ほど経過していた。ソフィア・アヴェリーナ少尉は喉の渇きを覚え、操縦桿を股に挟んで固定した状態で水筒の蓋を開こうとしていた。そして蓋が開かれた水筒に直接口を付けて水を飲む。
 ………お父様やお母様の前でこのような水筒の飲み方をしたら、きっと「はしたない」と注意されるでしょうね。
 そんなことを思いながらも周囲に眼を向けて敵機が接近していないかを確認する。そしてアヴェリーナは東の空を昇っていく朝日の前になにかの影があることに気付いたのだった。
 ………あれは、まさか?
 アヴェリーナは一瞬であるが、情報の取捨選択に戸惑った。そして空戦において、その逡巡は命取りであった。
 太陽を背に、三機の機体が逆落としに突っ込んでくる! 鉛筆を連想させる機首が尖った細い胴体に短く小さな羽根を持った機体。アヴェリーナはその機体の特徴に見覚えがあった。あれは『帝国』の主力戦闘機、ブリッツ・リッターだ!
「敵機! 敵機ですわ!!」
 アヴェリーナが無線のスイッチを入れて叫んだ。事前の作戦計画ではまだ無線は使用を禁止されている空域であったが、気にしていられるか。ここでアヴェリーナが声をあげなければ、より多大な損害が出ていたことだろう。
 アヴェリーナの声を合図にハンマーの機銃座が三機のブリッツ・リッターに射撃を開始する。だが、機銃の火線は逆落としに突っ込んでくるブリッツ・リッターを捉えられない。重力をも加速に使ったブリッツ・リッターの速力は時速六〇〇キロメートルを越えていた。
 ギュオン!
 ブリッツ・リッターがカール・ゴットリープ社製のKG六〇一エンジンの爆音を残して編隊の末尾に位置していたハンマーを狙う射点に移動する。
 ドババドババドババ!
 ブリッツ・リッターの機首に搭載された二丁の七.七ミリ機銃と左右両翼のそれぞれに搭載された二〇ミリ機関砲が発砲を開始し、きらめく曳光弾がハンマーに吸い込まれていく。当然、曳光弾と曳光弾の間には徹甲弾や焼夷弾が含有されており………。
 グォウッ!
 被弾したハンマーの左翼が中ほどから真っ二つに折れて吹き飛んでいく。左翼を半分失ったハンマーは揚力のバランスを崩して機首を地面に向けて降下していく。
 ………いえ、あれは降下じゃない、あれは墜落、ハンマーは撃墜されたのよ。
 青ざめた表情でハンマーが墜ちていくのを見ているしかできなかったアヴェリーナ。だが、このまま黙って見ているだけで終わるつもりはなかった。
 墜ちたハンマーの仇を討つために八機のファルコンがハンマーを撃墜したブリッツ・リッターに追いすがろうとする。だが、ブリッツ・リッターは三機だけではなかった。
『う、後ろ!』
 無線から聞こえてきた声。隊の誰の声だったのか、アヴェリーナは咄嗟に判断できなかったし、誰の声だったか考えている暇などなかった。後方からブリッツ・リッター六機が迫ってきていたのだった。
 先行していた三機のブリッツ・リッターはハンマーを狙い撃ちつつ、ファルコン隊を引きつけるための囮だったというの………!?
 第九一四戦闘機連隊の女性パイロットたちの操縦技術はオゼロでの訓練で充分に磨かれていた。しかし、この出撃が初陣であった彼女たちは戦場での駆け引きを含んだ立ち回りという意味ではまだまだ未熟であった。
 ソフィア・アヴェリーナは考える。この状況で打つ手はどれか………? もちろん長考している時間はない。巧遅、拙速、そのどちらでもない、「巧」で「速」の判断が求められている。そしてその判断に賭けられるのは自らの命である。
 アヴェリーナが出した判断は、ファルコンを降下させることだった。巡航速度、時速三五〇キロメートルで飛行していた中を襲撃されたファルコンは速力がない。たとえプロスパーエンジンを全力にしても速力はすぐには増えない。まずは速力を稼ぐため、高度を速力に変換することに思い至った。
 そしてどうやらそれはナジェスタ・アナニエヴァ少尉も同様だった。
『みんな、ついてきて!』
 アナニエヴァの声に導かれて八機のファルコンは降下を開始する。高度計が左回転に、速度計が右回転に回っていく。速度は瞬く間に時速六〇〇キロメートルに達した。六機のブリッツ・リッターは………まだついてきている!
『各機、二機のペアを作って散開するわよ!』
 高度を引き換えに速力を稼いだファルコン隊はアナニエヴァの指示通りに二機のペアを作る。小隊の奇数番機と偶数番機のペアだ。事前にそうするように決めていたペアである。アヴェリーナは二番機であったので、一番機であるアナニエヴァについていくことになる。
 そしてアナニエヴァのファルコンは翼を翻して旋回を開始する。時速六〇〇キロメートルでの旋回。そのGによってアナニエヴァの肢体が操縦席に押し付けられる。頭から脚に向けてかかるGによって脳への血液供給が困難になる。これに負けると視界が失われ、最悪失神のおそれがある。パイロットたちはその症状をブラックアウトと呼んでいた。
 だがアヴェリーナはそれに耐えた。ブリッツ・リッターは鉛筆のように細く尖った胴体に小さな主翼を持った戦闘機で、速力はファルコンに優るが旋回性能ではファルコンに劣るという情報が正しかったことも確認できた。ブリッツ・リッターは旋回に入ったファルコンについてこれていなかった。アナニエヴァとアヴェリーナのファルコンはブリッツ・リッターのそれより小さな円で旋回し、逆にブリッツ・リッターの背後を取っていた。
『反撃するわよ!』
 アナニエヴァの声。アヴェリーナもその声に続く。
 バババババ!
 二機のファルコンが合計四門の八ミリ機銃でブリッツ・リッターを狙い撃つ。だがブリッツ・リッターは曳航された標的ではない。クルリと機体を横転させてブリッツ・リッターは八ミリ機銃の火線から逃れてみせた。そしてブリッツ・リッターはファルコンとの速度差をもって逃げ去っていく。
『逃げるな!』
 鬼気迫る怒気をはらんだアナニエヴァの声。アナニエヴァはなおもブリッツ・リッターを追おうとする。
「待ってください、ナジーさん! ハンマー隊の護衛に戻るべきですわ!」
『………ッ!』
 アヴェリーナの声にアナニエヴァは一瞬、アヴェリーナにも殺気を向けた。無線越しでもわかるほど、冷たい殺意の呼吸だった。だがそれはほんの一瞬。アナニエヴァはすぐにアヴェリーナの言葉の正しさを認めてハンマー隊の護衛に戻ることを了承してくれた。アヴェリーナはナジー姉ことナジェスタ・アナニエヴァの抱える闇の一端に触れてしまったことを自覚した。



 大陸暦一九四〇年一月四日午後一四時八分。
 第九一四戦闘機連隊連隊長のルキヤン・ポポフ大佐はカピタル防衛にあたる第九航空団と第三航空団が共有している司令部を訪れていた。
 戦争が近づいてくるまで小学校として使われていた施設を接収し、司令部として使用しているのだった。壁に子供たちの落書きが残されたままになったかつての教室で、しかめ面の大人たちが戦争をしているのは皮肉な光景であった。
 そんな元・学校の一室でルキヤン・ポポフを含む第九航空団と第三航空団の司令部や航空団隷下の連隊長クラスが長机を向かい合わせて座っていた。
「では会議を始めましょうか」
 進行役の第九航空団作戦参謀のトロフィム・イエリザ中佐がそう言った。それを待っていたかのように、第三航空団のトロフェイ・ロマシュキン中将が発言した。
「昨日の第九一四戦闘機連隊の『失態』についてだが」
 昨日、つまり大陸暦一九四〇年一月三日に第三五二爆撃機連隊と第九一四戦闘機連隊が行った『帝国』軍の物資集積所への空爆作戦は失敗に終わっていた。
 第三五二爆撃機連隊はその失敗の原因が第九一四戦闘機連隊の護衛がおろそかであったためであると主張していた。事実、昨日の出撃でハンマーは一二機中三機が撃墜され、さらに二機が損傷、負傷者も多数発生していた。
 それに対して第九一四戦闘機連隊に被害はなかった。一機だけ被弾していたものの、被弾したのが七.七ミリ機銃弾だったためにファルコンの防弾装甲に阻まれてパイロットには怪我一つなく、修理もすぐに終わる見通しだった。
 この被害の差が第三五二爆撃機連隊に言わせれば「第九一四戦闘機連隊は『帝国』の戦闘機から逃げるばかりで護衛の責を果たせていなかった」という主張に結びついて第三航空団の司令部から抗議が寄せられた。そのためにこの日の会議という形で抗議をどうするかを考える場が開かれた。
 第三航空団司令、ロマシュキン中将があげた議題にポポフ大佐は苦い表情をみせていた。
 第九一四戦闘機連隊としても出撃していたナジェスタ・アナニエヴァ少尉を始めとする面々から戦闘の推移は把握している。そしてポポフ大佐としては『帝国』の戦闘機二〇機余りの奇襲を受け、あれだけの被害に「抑えることができた」のは第九一四戦闘機連隊あればこそだと考えていた。なにせ最初の奇襲でもしもファルコン隊が壊滅していたのなら、あとに残されたハンマー隊がなぶり殺されていたのは容易に想像ができたからだ。
 しかしロマシュキン中将の言葉の続きはポポフ大佐の想像とは異なっていた。ロマシュキンが問題視していた部分はもっと大きな話だった。
「やはり飛行倶楽部の女性パイロットを戦闘機乗りとして前線に出すのは間違いだったのではないか? 女には戦闘機乗りに必要な勇気が欠けているのではないか?」
 ロマシュキン中将は第九航空団の一部部隊に配属された女性パイロットという枠組みそのものを問題視していたのだった。ロマシュキン中将の言葉に第三航空団だけでなく、第九航空団側にも頷く者がいたのをポポフは見た。
 ………やはり女性を戦場に向かわせることに抵抗感を持つ者は多い、か。ポポフは心の中で嘆息した。
 ポポフは目線で第九航空団司令のチモチェー・ゴロレフ中将の反応を追った。だがゴロレフ中将より先に反応した者がいた。
 椅子がガタッと音を立てるほど勢いよく立ち上がったのは艶やかな肢体に空軍の藍色の軍服を纏った女性だった。
「その言葉、聞き捨てなりません!」
 かつて「赤い口紅」号で『共和国』横断単独飛行を成功させた女性冒険家にして、開戦以来飛行倶楽部の女性会員の志願を訴え、今は大佐待遇で第九航空団所属第九五七爆撃機連隊連隊長を務めているガリーナ・ヤーシナ大佐であった。彼女が指揮する第九五七爆撃機連隊は第九一四戦闘機連隊と同じく女性のみで編成された部隊で、その名の通り爆撃機の部隊であった。
「女性だから、というのは偏見にすぎません。現に我が第九五七爆撃機連隊は『帝国』軍の砲兵陣地に爆撃を成功させました! 第三五二爆撃機連隊こそ、この国家危急の時に敢闘精神が足りないのではありませんか!?」
「き、君は第三五二爆撃機連隊が臆病だというのか!?」
「少なくとも、被害の原因を他部隊に押しつけ、自分たちの訓練や行動の見直しを行っているという話は聞いておりません!」
 凛々しく、大きな声で第三五二爆撃機連隊が臆病であったと言ってのけるガリーナ・ヤーシナ。その女傑の迫力に第三航空団側の参加者は気圧される。
 そこで会議の流れが変わったと判断した進行役のイエリザ中佐がメタルフレームの眼鏡をくいと持ち上げながら口を挟んだ。
「現在の我々の苦戦について、これより配布する資料をご覧いただきたい」
 イエリザ中佐が合図すると二等兵の階級章をつけた兵があらわれて第九航空団、第三航空団の双方の長机に冊子を配布する。その冊子には一機の航空機が写真と共に各種スペックが書かれていた。
「『帝国』空軍の高高度戦略偵察機アオゲン・ゴッテス。現在、この機体がカピタル周辺を飛び回り、陸空問わず我が『共和国』軍の動向を探っています。昨日の第三五二爆撃機連隊と第九一四戦闘機連隊はこの偵察機に捉えられてしまい警報を発令され、迎撃機を展開、迎撃機が待ち受ける中に飛び込んでいくことになってしまったわけです」
 イエリザ中佐の言葉に第三航空団の幕僚が「ならばこの偵察機を撃墜してしまえばいいじゃないか!」と声をあげる。だがイエリザ中佐は微妙な表情を見せた。
「そう、それはその通り。ですが問題はこの偵察機が飛行する高度です。この機体は高度一万メートル以上を飛行しているのです」
 イエリザ中佐の言葉に会議の面々からうめき声があがる。『共和国』空軍の主力戦闘機であるファルコンのプロスパーエンジンは高度六〇〇〇メートルを超えたあたりから急激に馬力が低下する。高高度の薄い酸素ではエンジンの燃焼がうまく行えず、低空と同じだけの馬力を発揮できなくなるからだ。ファルコンでは高度八〇〇〇メートルから九〇〇〇メートルあたりが上昇の限界で、技量が優れているパイロットならかろうじて一万メートルに達することができるかという程度だった。
 それにも関わらず、この『帝国』空軍の戦略偵察機アオゲン・ゴッテスは高度一万メートルを悠々飛行し、それ以上の高度に昇ることも可能だという。少なくとも手元の資料にはそう書かれていた。
「この資料は? 信頼できるのか?」
「統合作戦本部の諜報部が入手した情報だ。それに何度かファルコンを出撃させたこともあるが、高度一万メートル以上の高空に逃げられてしまうばかりだ。おまけにこの高高度偵察機はレーダーも装備しており、奇襲も実質不可能ときている」
 じゃあ、このような「眼」に見張られたまま我々は戦争をしていたというのか? それはつまり自らの手札が晒されたままカードゲームを行うに等しい。開戦以来続く『共和国』軍苦戦の理由の中でも、これこそが一番大きな理由だったのではないか。そう思わせるだけのインパクトがあった。
 イエリザ中佐は第九航空団と第三航空団に脅威の根源が共有されたであろうことを確認した上でヤーシナに目配せを送った。それを受けて第九航空団司令、チモチェー・ゴロレフ中将が口を開いた。
「ロマシュキン中将、この『帝国』の戦略偵察機を、男では撃墜できなかった偵察機を女性戦闘機連隊で撃墜してしまえば女性パイロットに疑問を持つ者も出ますまい」
 ゴロレフの言葉にギョッとした顔を浮かべたのはポポフだった。第九航空団で女性戦闘機連隊といえば第九一四戦闘機連隊しかいない。つまり高高度偵察機撃墜任務が課せられるのは第九一四戦闘機連隊ということになる。思わずゴロレフの顔とロマシュキンの顔を見比べる。ポポフは二人の顔色からある色と読み取った。それは共有された筋書きに沿って話を進めていく舞台俳優………というよりかはプロレスラーのそれに見えた。
 つまり、そういうことなのだ。第九航空団のゴロレフ中将はもちろん、第三航空団のロマシュキン中将も根本的には女性戦闘機連隊を否定するつもりはないのだ。ただ周囲の否定的な意見を打ち消すための「お膳立て」を積み上げていたのだ。この会議の意味はその「お膳立て」にあったのだ。
 ………さて、これでもしも偵察機の撃墜に失敗したら、俺は銃殺に処されるのかもしれないな。ポポフが誰にも聞こえないような声量で呟いた。



 大陸暦一九四〇年一月四日午後一九時四三分。
「高高度戦略偵察機アオゲン・ゴッテスですか………」
 会議を終えてカピタル第八飛行場に戻ってきたルキヤン・ポポフ大佐が持ち帰ってきた資料に目を通しながらアレクセイ・ナジェイン少佐が「ううむ」と唸った。
 高度一万メートルの高空から『共和国』軍を見張る偵察機。アオゲン・ゴッテスとは『帝国』公用語で「神の目」を意味するが、まさしくアオゲン・ゴッテスは神の目で『共和国』軍を見張ってきたわけだ。
「ゴロレフ中将はアオゲン・ゴッテス撃墜用の『切札』をこちらに渡してくれると言っていたが………?」
「それでしたらさきほど到着した整備班の本隊と一緒に届きました。今、整備班がメンテを行っています」
 ポポフの言葉にナジェインが合点のいった表情で応えた。整備班の本隊と共に届いた荷物に対して整備班もろくな説明は受けていなかった。とりあえず五一機目の戦力になるようにメンテナンスを行っていたが、それで正解だったようだ。
「では少佐、あの『切札』を任せるパイロットを一人選ばなければならん」
「はい」
「………余計なお世話だろうが、少佐、恐らくだが君が元いた第五一二戦闘機連隊が進出したばかりのエレド飛行場が爆撃されたのも、このアオゲン・ゴッテスが第五一二戦闘機連隊の動向を察知したからだと思う」
 アレクセイ・ナジェインは静かに目を閉じてポポフの言葉を聞いた。
 アレクセイ・ナジェインは元々は優秀なパイロットだった。しかし彼は開戦直後のエレド飛行場爆撃で負傷して視力を失い、パイロット生命を絶たれて第九一四戦闘機連隊の「飛べない飛行隊長」を務めていた。
 ポポフの推測通り、このアオゲン・ゴッテスが本当にエレド飛行場爆撃に関与していたとするなら、第九一四戦闘機連隊がアオゲン・ゴッテスを撃墜することはナジェイン自身の復讐にも繋がるはずだった。
「………私は、彼女に任せようと思っています」
 ナジェインは邪念を振り払うように首を横に振ってから、第九一四戦闘機連隊の搭乗員名簿から一人を選び、そのページをポポフに示した。「技能:優秀」と記された彼女の名は………。


第三章「訓練の終わりに」

第五章「空からの解放」

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