戦闘機であるファルコンのエンジン、プロスパーの出力は一〇〇〇馬力に達する。それはバタフライ練習機の三〇〇馬力のウェザーエンジンの三倍以上の出力を発揮する大馬力エンジンであった。
 ゆえにファルコンの最大速度は時速五二〇キロメートル、巡航速度でも時速三五五キロメートルであった。バタフライ練習機の場合、最大速度でも時速二一〇キロメートルであり、ファルコンの巡航速度にも劣っていた。
 また、ファルコンには無線機も搭載されていた。バタフライ練習機でのように身振り手振りで意思疎通を図る必要がないのは革命的ですらあった。
 そしてファルコンの機首に二丁装備された八ミリ機銃。非武装であったバタフライ練習機とは違い、戦うための航空機であることの証明である。
 この、何もかもが今まで訓練で使用していた練習機のバタフライとは異なったファルコンを操縦し始めた時、第九一四戦闘機連隊の女たちは誰もがその性能に振り回されかけた。
 だが、ナジェインがアヴェリーナに語ったように、バタフライ練習機で培った操縦技術の基本がファルコン戦闘機においても通用することに気付くのに第九一四戦闘機連隊はさほどの時間がかからなかった。
 ファルコン戦闘機に乗り始めてから一週間も経つころには第九一四戦闘機連隊の誰もがバタフライ練習機でできたことがすべてファルコン戦闘機でもできるようになっていた。時速五〇〇キロメートル以上の高速で編隊を組むこともできたし、インメルマンやスプリットSといった空戦機動もこなすことができた。
 そしてナジェインは訓練が最終段階に入ったものとし、オゼロ第二飛行場で同じく訓練中だった第九六三爆撃機連隊から打診されていた合同訓練の提案を受けることとしたのだった。

魔女と呼ばないで!?
第三章「訓練の終わりに」

 大陸暦一九三九年一二月一二日。
 その日の訓練に使われるファルコンは三号機と七号機だった。操縦するのはアデリナ・リーシャ少尉候補生とラリッサ・クリーナ少尉候補生だった。
「昨日にも伝えたが、今日の訓練は第九六三爆撃機連隊にも協力してもらう。第九六三爆撃機連隊はその名の通り、ハンマー爆撃機を装備する部隊だ。今回はこのハンマーに標的を曳航してもらう。リーシャ少尉候補生とクリーナ少尉候補生はファルコンに乗ってこの標的に射撃を行う」
 訓練の内容を説明するナジェインとその熱心に聞く二人。ナジェインはポケットから銃弾を数発取り出して二人に見せた。それはファルコンに搭載されている八ミリ機銃用の銃弾で、弾頭部分が青く塗装されていた。
「今回、ファルコンにはこの演習用の機銃弾を一二〇発ずつ装填している。演習用ということで弾頭は実戦用に比べて柔らかいものを使用しているが、それでも人体に命中すれば簡単に人が死ぬ。くれぐれも撃つのは標的にして、ハンマー本体を狙わないように気をつけてくれよ」
 ナジェインは機銃弾を二人に一発ずつ手渡した。八ミリ機銃弾の重量はわずか一〇グラム程度しかないが、それで人が殺せると聞かされてしまうとズシリと重さが感じられたような気がした。
「さ、訓練開始だ。搭乗!」
 ナジェインの命令を受けてリーシャとクリーナが格納庫の前に駐機されているファルコンに向かって駆け出した。整備班のバレンシア・チェルシー二等兵がファルコン七号機にセットしてくれたはしごを昇り、ラリッサ・クリーナはファルコンの操縦席に乗り込んだ。
「オッケー、回して!」
 クリーナの声を聞いたチェルシーがファルコンの三枚あるプロペラの地面に近い方を手で回す。ゆっくりとだが回転するプロペラ。これによってキャブレーターにガスが向かう。
 プロペラが回転し始めたのを見てからチェルシーはパタパタと走り、金属製の棒を持って戻ってくる。それはエンジン始動用のエナーシャハンドルだったが、整備班も女性しかいない第九一四戦闘機連隊では通常多くても二名で使用するエナーシャハンドルを三名以上でも使用できるように他の金属棒と溶接して伸ばされていた。
 チェルシーは他の整備班三名でエナーシャハンドルを持ち、ファルコンのエナーシャに挿し込んだ。そして「よいしょ!」と掛け声をあげながらエナーシャハンドルを回してエナーシャを回転させる。
「コンタクトーッ!!」
 エナーシャの回転に勢いがついたことを確認してからチェルシーがクラッチハンドルを引く。エナーシャとプロペラの軸が直結され、プロペラがエナーシャの回転の勢いで早く回り始める。
 それを見てからラリッサ・クリーナはエンジン始動のスイッチを押した。ファルコンの心臓部、プロスパーエンジンに火が灯り、爆音と振動がコクピットを包む。見ればリーシャのファルコン三号機はまだエナーシャハンドルを回していた。それなら先に飛び立ってしまおう。そう考えたクリーナは発動機の出力を上げ、プロペラの回転数を上げる。プロペラが空気を後方へ運んでいき、それがファルコンを前へと推す推力に変わる。クリーナは自身の搭乗するファルコンが滑走路の一番端に差し掛かるまでスロットルレバーを開閉させながらファルコンをそろりそろりと地上を走らせた。
 滑走路の一番端に差し掛かり、機首を滑走路と平行に向けたタイミングでスロットルレバーを思いっきり押し込んだ。プロスパーエンジンの爆音が高まり、一〇〇〇馬力の出力がフルに発揮される。今やファルコンの三枚のプロペラの回転は速すぎて目では追いきれないほどになっていた。当然、押し出される空気量も増え、ファルコンはぐいぐいと速度を増していく。
 そして速度を増し続けていたファルコンの翼がついに風を捉えた。三枚のプロペラによって推し流された気流が揚力を生み、ファルコンの車輪がついに滑走路を離れる。ラリッサ・クリーナはこの離陸する瞬間の浮遊感が大好きだった。自分が人間から鳥になったかのような感覚が大好きだった。そしてその思いはバタフライ練習機からファルコン戦闘機に乗り換えてから強くなる一方だった。たとえその翼が戦場を翔けるための戦いの翼であったとしても………。



 オゼロの街の近くにある湖はその大きさとまん丸い形から「満月湖」と呼ばれていた。この湖の上空で演習用の弾を使った射撃訓練を行うのだ。湖の上空であるため、ファルコンが撃った機銃弾の薬莢はすべて湖に落ちるので地上の人や建物に危害を加えることはなかった。
 オゼロ第五飛行場を飛び立ったラリッサ・クリーナとアデリナ・リーシャの両名はオゼロの街のすぐそばにある湖の上空に飛翔する影を見つけた。
 葉巻を思わせる太い胴体と左右両方の翼に一基ずつ搭載された空冷エンジンという双発の航空機として平均的なレイアウトを持ったそれは『共和国』空軍のハンマー爆撃機であった。
 二機のファルコンが連なってハンマーのすぐ隣を並行して飛行する。ファルコンの姿は向こうも確認していたようで、無線機から声が聞こえてくる。
『こちら第九六三爆撃機連隊のイラリオン・チェーエフ中尉だ。君たちが第九一四戦闘機連隊の………?』
 無線からの声にラリッサ・クリーナは聞き覚えがあった。先日の休暇の際に会った誠実な中尉の声だった。そういえば今回の訓練は第九六三爆撃機連隊側から提案されたと聞いている。あの時にオゼロの町で会ったのが縁になったのだろうか? クリーナはそんなことを考えながらも返事を返す。
「私は七号機のラリッサ・クリーナ少尉候補生です」
『私は三号機、アデリナ・リーシャ少尉候補生です』
『………キレイな声だな』
 二人の声を聞いたチェーエフ中尉が思わずポツリとこぼした声も無線越しに聞こえてきた。
『あ、いや、オーケー、確認した』
 慌てて事務的な声色を作るチェーエフ中尉だったが、時すでに遅しという奴だ。クリーナは思わずクスリと笑ってしまった。チェーエフ中尉はバツが悪そうな声で続ける。
『………ゴホン。これから本機は爆弾槽を開いて標的を曳航する。番号の若い方から一機、その標的に射撃を行ってくれ。どこから撃ってくれても構わんが、満月湖を離れた所で撃ったり、本機を撃つのはやめてくれよ』
 ………番号の若い方だからリーシャが先にやるのね。クリーナはチラリと視線をリーシャのファルコンに向けた。
 そしてチェーエフは説明を続ける。
『なお、本機は機銃座から射撃を行う君たちを狙わせてもらう。実際に射撃はしないが、君たちはどういう角度で爆撃機を攻撃するか、我々は戦闘機の攻撃から自分を守るかの訓練になるわけだ。よし、爆弾槽を開け!』
 チェーエフの命令を受けてハンマー爆撃機がブルリと震えた。爆弾槽が開き、気流が乱れたのだろうか。そして数十秒後、ハンマーから一本の糸に繋がれた標的が飛び出した。標的は三メートルほどの大きさの布製吹流しだった。
『よぅし、こちらの準備は整った、訓練開始だ!』
 チェーエフの言葉を聞いてリーシャの乗るファルコンがゆっくりと旋回を始め、ハンマーが曳航する標的めがけて距離を詰めていく。
 だが、リーシャ機の動きはあまりに直線的で、かつハンマーの速力にあわせるような速さでしかなかった。射撃地点につけば命中弾が期待できるだろうが………。
『三号機、その動きじゃこちらの機銃のいい的になっているぞ!』
 それはハンマーの機銃座から見ても同様だった。チェーコフの注意にリーシャのファルコンは翼を翻して距離を離す。なるほど、ハンマーの後方の位置でハンマーと同速程度で飛行するというのは戦闘機であるファルコンの特性を殺す愚策であるようだ。リーシャの失敗を見てクリーナも学習する。
 ならばとリーシャはスロットルを開き、ファルコンを上昇させた。プロスパーエンジンは最大出力を発揮し、ファルコンは速度を保ったまま空を昇っていく。
 きっちり五〇〇メートル分上昇してからリーシャは操縦桿を前に倒した。機体が降下に移り、速度計の針がチリチリと回る。ファルコンの速度計は針が一周するとちょうど時速一〇〇キロ分になり、周回を記録するカウンターの数字が一つ上がるようにできている。今のリーシャ機のファルコンは針が五周目を超えていた。
 ハンマーの機銃座はリーシャ機を追いかけようとするが、機銃の動きよりリーシャのファルコンの方が速かった。今のファルコンはその名の通り、猛禽の如くハンマーが曳航する標的の吹流しに襲い掛かったのだ!
 ババババババババ!
 リーシャのファルコンの機首がキラキラと光るのがクリーナにも見え、リーシャのファルコンは標的の吹流しの手前を突き抜けていった。
『あれ、弾が出ない………?』
 リーシャの困惑した声が無線から聞こえてくる。リーシャのファルコンが射撃したのはわずか数秒だったが、その数秒で八ミリ機銃に装填されていた一二〇発の演習用機銃弾を撃ちつくしていたのだった。
『弾を撃ちつくしたか? じゃあ、標的を回収するぞ』
 チェーエフの命令でハンマーが曳航していた標的の吹流しがスルスルと巻き戻されていく。標的が完全に巻き戻されてから少ししてからチェーエフの声が聞こえてきた。
『いい一撃離脱だったと思ったが、標的に命中していた弾は二発だけだったな』
『もうちょっと当たってると思ったのに………』
 落胆の思いが隠せないリーシャの声。チェーエフは爆撃機乗りの観点からいくつかアドバイスを伝える。その間に新品の標的が再びハンマーの爆弾槽から伸びてきた。
『よし、次は七号機の番だぞ!』
 チェーエフの言葉を聞いてクリーナは上唇を舐めた。体の奥底から熱いものが湧き上がってくる。これが世に言う「闘志」というものだろうか?
 クリーナはリーシャに倣ってファルコンのスロットルを開き、まずは高度を取る。そして充分な高度を取ってから降下に移る。
 ………ここまではリーシャと同じ。だけどここからが違うの! クリーナは標的の吹流しをにらみすえる。いや、標的の吹流しは確かに視界に捉えてはいるが、視線の中心に置いたのは吹流しを曳航する糸だった。だからクリーナは糸が右方向に引かれていくのを見逃さなかった。
「ここ!」
 クリーナはスロットルを全開にしたまま、フットバーを蹴ってファルコンの尾翼の方向舵を動かして機体を横に滑らせる。そう、ラリッサ・クリーナはリーシャのファルコンが標的を銃撃する寸前、チェーエフがハンマーの方向舵を動かしてハンマーを右方向に滑らせていたのに気付いていたのだ。リーシャの射撃は「二発しか命中しなかった」のではない、「二発しか命中させてもらえなかった」のだ。
 クリーナは自分の番でもチェーエフがハンマーを動かして曳航する標的の吹流しを動かしてくることを予測していた。だから標的を曳航する紐の動きに注目していたのだ。
 クリーナの予測通りに紐が動いていても、クリーナはまだ射撃を行わなかった。彼女が駆るファルコンは限界ギリギリまで標的に接近し、操縦席の光像式照準器のガラス板からはみ出すほどに標的が大きく見える。クリーナはスロットルレバーの親指が当たる場所にあるボタンを強く押し込んだ。それはファルコンの機首に搭載された二丁の八ミリ機関銃の発射ボタンだった。
 ババババ!
 短い射撃。だが、これ以上射撃を続けたらクリーナのファルコンは吹流しにぶつかってしまう。クリーナは右腕に力を込め、操縦桿を前へ押し倒す。ファルコンはその操縦に応え、機首を地面に対して垂直に向けた。この操縦で吹流しにぶつかることはなくなり、クリーナのファルコンは稲妻のような勢いで突き抜けていった。
 チェーエフも、リーシャもクリーナの一撃の凄まじさに呑まれた様子で言葉もなかった。クリーナは操縦桿を引いてファルコンの機首を持ち上げ、スロットルレバーも戻して速力を落として機体をリーシャ機の後方、二番機の位置へと戻した。
 それから標的となった吹流しが回収されていったが、回収して吹流しを見るまでもなく、クリーナのファルコンが放った八ミリ機銃弾で吹流しはぼろきれのようになっているのが遠巻きからの肉眼でもわかるほどだった。
『………すごいな』
 チェーエフの溜息交じりの呟き声が無線から聞こえてくる。
『七号機、本機が横滑りを入れているのに気付いていたのか?』
「あ、はい。リーシャ、三号機の番の時にハンマーの方向舵が動くのを見ていましたから」
 いくらリーシャの射撃を後方で見ていられたとはいえ、まさかハンマーの方向舵の動きまで見ているとは思わなかった。チェーエフはその思いを言葉に変えた。
『七号機、ラリッサ・クリーナ少尉候補生だったな? 素晴らしい目と操縦技術だった。完敗だ。その腕なら『帝国』のパイロットを震え上がらせる、いい戦闘機乗りになるだろう』
「ありがとうございます!」
 チェーエフの言葉にクリーナは弾んだ声で応えた。
『三号機、アデリナ・リーシャ少尉候補生も空戦時には目の前の敵だけに気を取られるのではなく、周囲をよく見て観察し、敵機や味方機がどう動いているのかを把握することを忘れるな』
『はい! 覚えておきます!!』
 この言葉を〆として、クリーナとリーシャの射撃訓練は終了となった。二機のファルコンはオゼロ第五飛行場に向かって翼をひるがえすのだった。



 オゼロ第五飛行場に戻る中、ファルコンの操縦席でラリッサ・クリーナは興奮が収まらないのを自覚した。
 ラリッサ・クリーナは『帝国』の軍勢が故郷の街であるユージュナを飲み込んでしまうのではないかという不安から逃れるためにガリーナ・ヤーシナの呼びかけに応じて空軍に志願していた。その際に両親からは「女のお前が戦う必要なんてあるのか?」、「女の戦闘機乗りなんて聞いたこともない」と翻意を促された。
 クリーナはファルコンの座席の背もたれに身を預け、静かに目を閉じて想いを反芻する。
 でもそうじゃなかった。私は、チェーエフ中尉に褒められたんだ! 戦闘機乗りは、女の私でもなれるんだ!!
 チェーエフ中尉のハンマー爆撃機との射撃訓練でチェーエフ中尉に「完敗だ」と認めさせたことはクリーナの中で大きな自信となった。自分はきっと、優秀な戦闘機乗りとなり、『帝国』の戦闘機や爆撃機と戦い、『共和国』の空を取り戻すのだ。そう、あの人の指揮の下で。
 あの人、アレクセイ・ナジェイン飛行隊長。飛行倶楽部で私に航空機の操縦を教えてくれた教官。
 私が空軍に志願した時は私の部隊の隊長をやることになるとは思いもしなかった。ただぼんやりと一緒に飛ぶことが出来たらいいなとは思っていたけど、飛行隊長は負傷が原因で視力を大きく落とし、もう飛ぶことは出来なくなっていたのは残念だったな………。 
 だけど私なら飛行隊長の剣として期待に応えられるはずだ。そうなれば飛行隊長と話をする機会だって増えるかもしれない。
 もしかしたら、ずっと秘めていた想いを打ち明けて………想いを叶えられる時だってくるかもしれない。
 ラリッサ・クリーナは夢見心地で操縦桿を握っていた。



 オゼロ第五飛行場に戻ってきた二機のファルコン。特にラリッサ・クリーナのファルコンが射撃訓練で非常に優秀な成績を残したということはチェーコフ中尉のハンマーから無線で伝えられていた。
 それもあって第九一四戦闘機連隊飛行隊長のアレクセイ・ナジェイン少佐は滑走路の脇でファルコンの着地を見守っていた。
 まず最初に着陸のアプローチを開始したのはアデリナ・リーシャの乗るファルコン三号機だった。バタフライ練習機から思えば倍近く速い着陸速度のファルコン戦闘機だが、リーシャは馴れた様子で左右の主翼から伸びた主脚と機尾の尾輪を同時に地面に付けた。こうすることで着陸時の衝撃を小さくし、機体と自分への負担を減らすのだ。
「リーシャ少尉候補生もだいぶ着陸になれたな………」
 プロスパーエンジンのスロットルを絞り、滑走路をゆっくり走らせながらハンガーに向かう三号機のファルコン。それを見たナジェインが安心した様子で呟いた。
 そして次に七号機、ラリッサ・クリーナのファルコンが着陸のアプローチを開始する。………さて、彼女を褒めるのに相応しい言葉はなんだろうな。ナジェインはファルコンのアプローチを横目に思案顔を浮かべる。
 故にナジェインは気付くのに遅れてしまった。
 第九一四戦闘機連隊で一番最初にそれに気付いたのはハンガーのすぐ近くにいたソフィア・アヴェリーナだった。アヴェリーナは着陸のために高度を下げるファルコンを見て呟いた。
「………あのファルコン、速くないですか?」
 アヴェリーナの声に振り向いたリリヤ・パブロワもアヴェリーナの呟きに同意した。
「確かに速い………あれ、二〇〇キロくらい出てるんじゃない?」
 二人の会話に異常を悟ったユリヤ・クロチキナがハンガーから滑走路に飛び出して叫ぶ。
「ラリッサ、速度落とせ! こんなスピードで着陸なんかできないぞ!!」
 だがその声はクリーナに届くはずもなく、時速二〇〇キロ近い速度のままでファルコンの主脚が地面に触れ………速すぎた速度に主脚は耐え切れず、へし折れたのだった。
 そこからは誰も言葉すら発することができなかった。いや、発せられていたのかもしれない。だが、主脚がへし折れて着陸に失敗したファルコンが時速二〇〇キロ近くの速度で地面に叩きつけられた轟音にすべてかき消されたのだった。
「………え?」
 アレクセイ・ナジェインは目の前でなにが起きたのか、見ていたにも関わらず理解できなかった。
 え? 着陸中に主脚が折れた?
 え? ファルコンが横転して地面に叩きつけられた?
 え? え?
「何をしとるかぁッ!!」
 ナジェインの背中に浴びせられる怒声。その声でナジェインの意識はようやく現実に引き戻された。慌てて怒声の方へ振り返るナジェイン。そこにいたのは第九一四戦闘機連隊連隊長のルキヤン・ポポフ大佐だった。ポポフはナジェインを睨んで怒声を続けた。
「早く、助けにいかんか!!」
 その言葉を聞いてナジェインは弾かれるように駆け出した。そうだ、俺はなにをしていたんだ。ラリッサ・クリーナの操縦するファルコンが着陸に失敗した! しかし不幸中の幸いか、ファルコンが炎上する様子はない。
 ならば、一刻も早く彼女を助けに行かなければならないだろ!
 全力で半壊したファルコン七号機に向かって走るナジェイン。整備班も万が一に備えて消火器を持ってファルコンに向かって駆けつける。
 着陸時に主脚が折れ、バランスを崩して横転したファルコンは天地が逆さまにひっくり返った状態で止まっていた。ナジェインは地面に打ち付けられたファルコンのアクリル製の風防が割れているのを見て心臓が凍るのを感じた。そして操縦席を覗き込む………。
「クリーナ少尉候補生………?」
 ラリッサ・クリーナ少尉候補生は傷一つなく、安らかな寝顔を浮かべていた。………ただ一つ、首が曲がってはいけない方向に曲がっていることを除けば。彼女の呼吸はなく、すでに事切れているのは一目瞭然だった。
「おい、冗談だろ………? おい、クリーナ、起きろよ、起きてくれよ………」
 ナジェインは自分の声が震えているのを自覚していた。だが震えは自分では止められなかった。
「飛行隊長………?」
「ラリッサは、無事なのかよ!?」
 第九一四戦闘機連隊のパイロットたちも集まってくる。そこでナジェインは改めて自分の立場を思い出した。そう、ナジェインは飛行隊長なのである。彼は悲しみに暮れるのではなく、この場を収めなければならなかった。
 ナジェインはすっくと立ち上がって第九一四戦闘機連隊の隊員たちに向き直った。そして最大限の自制を行った上で口を開いた。
「ラリッサ・クリーナ少尉候補生は………帰らぬ人となりました」
 ナジェインの言葉に悲鳴に近い声や動揺のざわめきが広がっていく。
「彼女の死はショックだと思う。だが、忘れないで欲しい。これからの君たちは着陸の事故だけでなく、『帝国』の空軍と戦うことになるのだ。当然、撃墜されて死ぬ者や負傷する者も多く発生するだろう」
 ナジェインは努めて平静な声になるようにしているつもりだった。しかしその声からは内で流動する感情の波が伺えていた。だから彼女たちは飛行隊長の言葉に耳を傾けていた。
「祖国は、『共和国』は、それでも君たちに戦って欲しいと思っている。だが、それは決して死ににいく、傷つきにいくための願いではない。君たちに期待しているのは、『勝利』の二文字なのだ。それは忘れないで欲しい」
 ナジェインはひっくり返ったファルコン七号機から離れて整備班のレジーナ・マスロワ中尉にファルコン七号機の引き起こしとラリッサ・クリーナの亡骸の回収をお願いした。
「………総員、ラリッサ・クリーナ少尉候補生に敬礼!」
 ナジェインの言葉に従い、四七名になったパイロット候補生たちが敬礼を行った。敬礼のために踵を打ち鳴らした音が一つに重なり、早すぎる死を向かえた戦友の鎮魂を願う弔鐘となった。



「………大変だったな、少佐」
 ひっくり返ったファルコン七号機を起こしてハンガーに格納し、ラリッサ・クリーナを遺体袋に包んだ時にはすでに日が落ちて夜になっていた。その間、陣頭で指揮を執りつつ作業を見守っていたアレクセイ・ナジェイン少佐をルキヤン・ポポフ大佐は労った。
 ポポフは司令室兼男性宿泊施設のログハウスのリビングのソファーにナジェインを座らせ、自らの執務机の引き出しから一本の酒瓶を取り出した。それは『共和国』のウィスキーでは一番メジャーなズォークの一二年ものだった。ポポフはグラスを二つ用意し、ナジェインの前に置いたグラスに琥珀色した液体を注いだ。そして自らのグラスにもウィスキーを注いで中身を一気にあおった。
「………大佐はこのような事故で部下をなくした経験がありましたか?」
「あったな。俺が現役のパイロットだった時、まだ航空機そのものが発明されたばかりで運用のイロハが固まりきっておらず、少なくない数の部下や同期、上官を事故で失った。パイロットから士官の道を歩むようになっても事故そのものは何度か起きて、やっぱり部下を失うことはあった」
「そうですか………」
「それに慣れろとは言わん。だが、お前自身の身の振り方は考えなければならないだろうな」
 ポポフの助言にナジェインはうなずくことはせず、注がれたウィスキーのグラスをぐいとあおった。ズォークの芳醇なアルコールがナジェインの喉を焦がしていく。
「………俺、あの娘は飛行倶楽部の頃から知っていたんです。飛行倶楽部で飛行機のことを教えて、彼女が初めて練習機で飛行する時に後部席に乗っていたのも俺だったんです」
 ポポフは空になったナジェインのグラスにウィスキーを注いで続きをうながした。
「俺、もっと彼女に教えておかなければならないことがあったのかもしれない………。俺が教えていなかったことが、今日の事故に繋がったんじゃないかって………」
 ナジェインは両手で顔を覆って、そして初めて感情を発露させた。両手の指の隙間から男の涙がこぼれていく。
「そう、か………」
 ポポフは天井を、いや、もっと遠いなにかを見据えながら応えた。
「人生なんて後悔の連続なのかもしれない。ただ、その後悔を繰り返さないようにはできる。そうだろ、少佐?」
「………はい」
 ポポフの言葉にナジェインはようやく頷いた。ラリッサ・クリーナは着陸事故によって帰らぬ人となってしまったが、これ以降の事故をなくす努力ならできるはずだ。そういうポポフの言葉の正しさはナジェインにも理解できた。
 そして翌日以降も第九六三爆撃機連隊との射撃訓練は続けられたが、射撃訓練もそれ以降の訓練でも一度も事故は起きなかった。
 大陸暦一九三九年一二月二七日。
 第九一四戦闘機連隊についに訓練終了の通知と前線への投入の連絡が入ったのだった。第九一四戦闘機連隊の戦争は、これから本番を迎えようとしているのであった。


第二章「隼は舞い降りた」

第四章「第九一四戦闘機連隊、出撃す」

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