大陸暦一九三九年一一月二六日。
 すっかり冬の寒気に包まれたオゼロ第五飛行場だったが、この日も第九一四戦闘機連隊は訓練飛行を行っていた。
 ウサギの毛皮でできた飛行帽を被ってはいるが、冬の寒気に加えてバタフライ練習機で高度二〇〇〇メートルに上がってしまえば寒さはもっと厳しいものになる。
 第九一四戦闘機連隊のユリヤ・クロチキナ少尉候補生は操縦桿を股に挟んで固定しながら座席の下に座布団のように敷いていた上着をさっと羽織る。本来なら規定の飛行服や飛行帽以外身につけるのはご法度であるが、クロチキナのように要領がよくて、かつ冷え性の隊員は訓練飛行で離陸した後に持ち込んだ上着を羽織ることで寒さ対策を行っていた。
「前線だと電熱服ってのが支給されるらしいけど、アタシたちにも欲しいもんだよ、まったく………」
 クロチキナは誰に言うでもなく呟いてからスロットルレバーを押してバタフライ練習機のエンジンであるウェザーエンジンの出力を上げていく。空冷三〇〇馬力エンジンであるウェザーの爆音が次第に高まっていき、それにあわせてバタフライも速度を増していく。バタフライ練習機は風防を持たず、操縦席が露天であるため寒風が容赦なくクロチキナの顔を叩いていく。クロチキナは飛行帽につけていたゴーグルを下ろして風によって視界が奪われることを防いだが、しかし頬は寒風にしびれるしかなかった。
「ひ〜、さぶ〜い!!」
 ウェザーエンジンの爆音に紛れて震えるクロチキナの声。速度が増したクロチキナのバタフライが今日の訓練飛行でペアを組むナジェスタ・アナニエヴァ少尉候補生の機体に追いついた。
 ナジェスタ・アナニエヴァは今年で二八歳になり、第九一四戦闘機連隊の隊員の中でも年長側に属する女性で、本人もそれを自覚しており公私に渡って隊員たちの「姉」となるように努力していた。ゆえについたあだ名は「ナジー姉」。そんなナジー姉がクロチキナに目線を送るなり左手で口元を抑えた。どうやらクロチキナが持ち込んで羽織った私物の上着がピンク色をしていて目立っていたことに吹き出したらしい。
 しかしそれも一瞬のこと。クロチキナのバタフライはアナニエヴァ機に近寄り、ぴっちりとした密集編隊を組む。そしてその状態で右に左に旋回していく。訓練が始まった頃は編隊飛行をおっかなびっくりでやっていたが、訓練を続けてきたことで難なくこなすことができていた。
 そんな中、クロチキナがふとオゼロ第五飛行場の方に目を向けると飛行場にトラックが何台も到着しているのが見えた。
「ありゃ、トラックがあんなに来るなんて珍しい………」
 クロチキナはそう呟いてからすぐに意識をアナニエヴァとの編隊飛行訓練に戻した。飛行場で何か起きているのか気にならないといえば嘘になるが、そんなことより今は飛ぶことに集中するのだ。今の自分は訓練中の身であるし、正直にいうと飛ぶことそのものが何より楽しく、好きで仕方ないのも事実だったからだ。
 まぁ、もっと暖かい季節か、一年中暖かい場所で飛んでいたかったっていう気持ちも嘘じゃないんだけどね。

魔女と呼ばないで!?
第二章「隼は舞い降りた」

 アナニエヴァ、クロチキナのコンビが訓練飛行を行う中、オゼロ第五飛行場ではちょっとした騒ぎが起きていた。
 騒ぎと言ってもトラブルの類ではなく、どちらかというと注文していた商品が届くのを待つわくわく感が飽和して漏れ出しているようなものだったが。
「まだかな、まだかな〜♪」
 ご機嫌で鼻歌を歌っているのは第九一四戦闘機連隊の整備班のバレンシア・チェルシー二等兵だった。バレンシア・チェルシーは今年で一七歳になる。幼少の頃から機械いじりが好きで、女だてらにカピタル工業高校に入学したエンジニアの卵だった。といっても高校を卒業する前に『共和国』は『帝国』と戦争状態に入ったため、チェルシーは航空機生産工場の女工として徴用されることになるはずだった。しかし彼女はガリーナ・ヤーシナの呼びかけた飛行倶楽部の女子会員の志願に整備兵として応募した。幸い、彼女がカピタル工業高校で航空機の構造について学んでいたのとその時の講義でガリーナ・ヤーシナと知己を得ていたこともあって彼女の志願は受理され、第九一四戦闘機連隊に配属されたのだった。ガリーナ・ヤーシナも女性でありながらどの生徒よりも熱心に自身の講義を聴き、そして積極的かつ鋭い質問を投げかけてきたチェルシーのことをよく覚えていたのだった。
 身長一四七センチと同年代の女子と比べても一〇センチは小さな体にツナギをまとい、肩にかかるくらいの長さの髪をポニーテールに結んだチェルシーは軽いステップでオゼロ第五飛行場のハンガーを落ち着きなく歩き回っていた。
「楽しそうね、チェルシー」
 そんなチェルシー二等兵に声をかけたのは整備班の班長を務めるイエヴァ・クレシェバ大尉だった。イエヴァ・クレシェバは今年で三四歳。チェルシーの年齢はちょうど半分になる。
 クレシェバに声をかけられたチェルシーは人懐こい笑顔を浮かべた。
「あ、班長。えへへ。やっぱいくつになっても新しいおもちゃが届くのを待つのはわくわくしますよ」
「ふふ、実は私も楽しみで仕方ないの」
 クレシェバがチェルシーに微笑みかけ、チェルシーはクレシェバの手を取って「でしょ! でしょ!!」と飛び跳ねる。
 クレシェバには兄が二人いたが妹はいなかった。もし妹がいたのなら、チェルシーのようにかわいいものだったのかしら? ………さすがにまだ母娘てほど歳は離れてない、はずだからチェルシーは妹分でいいはずよね。クレシェバが声に出さず内心で呟く。
 その時だった。四台のトラックが連続してハンガーに入ってきた。
「班長ー! 荷物が届きましたー!!」
 第九一四戦闘機連隊第一整備中隊のレジーナ・マスロワ中尉がクレシェバを呼ぶ。クレシェバは声にコクリと頷いてから声をあげた。
「整備班、集合ー! 積荷の確認をするわよ!!」



 アナニエヴァ、クロチキナのコンビは後から飛び立ってきたラリッサ・クリーナ、リリヤ・パブロワのコンビがそれぞれ単独で搭乗しているバタフライ練習機が追いついてきたのを確認してから四機のバタフライでひし形を描くように編隊を組んだ。
 アナニエヴァ機を先頭にして、その少し後ろにクロチキナ機、パブロワ機が平行して飛ぶ。
 ユリヤ・クロチキナ機はひし形の最後の一角としてクロチキナ機、パブロワ機の後方へと飛んだ。その際にクロチキナ機は先頭を行くアナニエヴァ機の真後ろに位置するのではなく、若干だがパブロワ機側に寄った位置を選んだ。もしクロチキナ機がアナニエヴァ機の真後ろに位置すればただのひし形ではなく綺麗な正方形、野球のダイヤモンドのような四角をを描けただろう。しかしそれをしてしまった場合、クロチキナ機はアナニエヴァ機の気流を受けて飛行が困難になってしまう。故にクロチキナ機はアナニエヴァ機の真後ろを避けたのだった。
 四機のバタフライは編隊を組んでは解散し、四機それぞれのポジションを変えながら飛行を続けていた。一一月下旬頃はまだ編隊飛行に馴れていなかった第九一四戦闘機連隊だったが、アレクセイ・ナジェイン飛行隊長が組んだ訓練プログラムが効果を上げていることは一目瞭然だった。
 そんな時、急にリリヤ・パブロワのバタフライが翼を右に左に振りはじめた。何事………!? ユリヤ・クロチキナはパブロワ機に目線を向ける。バタフライ練習機の露天操縦席でリリヤ・パブロワが右方向を必死に指差しているのが見えた。
 右………? クロチキナはパブロワの指す方向に眼を動かす。そして初めて気が付いた。まだごま粒のような大きさだが、何かが四つ平行に並んでこちらに向かって飛行してきている。そしてそれは高速で近づいてきているのだろう。機影は見る間にに大きくなっていく。
 クロチキナはゴクリとツバを呑んだ。この辺りの空はオゼロ第五飛行場で訓練中の第九一四戦闘機連隊だけが使用するよう周囲にも通達している。そして今、訓練飛行で飛んでいるのは自分たちだけだ。
「まさか、『帝国』機………?」
 クロチキナは自分の呟きで体から冷たい汗が流れるのを感じた。今の自分たちは練習機に乗っている。もしも接近する相手が『帝国』の機体だったら、なすすべなく撃墜されてしまうのは火を見るより明らかだ。体が震え始める。露天のバタフライ練習機のコクピットに寒風が吹き込んでくるからではない。それは自分に向かって死の恐怖が接近してきているからだった。
 そんな中、ラリッサ・クリーナ機だけは対応が違った。
 クリーナ機だけは接敵するまでの間に高度を稼げるだけ稼ごうとスロットルレバーを目一杯押し込んで機体を上昇させたのだった。自機の高度を蓄えておいて、敵機に攻撃を仕掛けられればその瞬間に機体を降下させ、高度を速度に変えて敵機の攻撃から逃れようとしていた。
 だが彼女らの不安は的中しなかった。接近しつつあった機影がはっきりと視認できる距離まで近づいてきた時、その翼と胴体に「月と星」のマークが描かれていた。「月と星」は『共和国』の国旗であり、空軍の国籍マークである。つまりこの機体は『共和国』空軍の機体、つまりは味方機であった。
 バタフライ練習機と同じく空冷エンジンを一基収めた機首から機尾にかけて細く絞られていく胴体、複葉機であるバタフライ練習機と異なり一枚だけの主翼、そして密閉された風防、主翼内部に格納された降着装置。バタフライ練習機とその機体を見比べると、その機体は明らかに新しく、そして強そうな「戦闘機」であった。
 この時点でクロチキナは知らなかったが、この戦闘機こそ『共和国』空軍最新鋭戦闘機であるファルコン戦闘機だった。そして第九一四戦闘機連隊が本来装備するはずの戦闘機こそがこのファルコン戦闘機なのだ。
 つまり、ついに第九一四戦闘機連隊にファルコン戦闘機が空輸されはじめたのであった。



 オゼロ第五飛行場に四機のファルコンが飛来し、一機、また一機と着陸してくる。
 第九一四戦闘機連隊の女性パイロットたちは滑走路の片隅で『共和国』空軍最新鋭戦闘機の着陸を見守っていた。
「バタフライとは違って着陸時のスピードがすごく速いのですね」
 そう呟いたのはソフィア・アヴェリーナ少尉候補生だった。彼女は全金属単葉単座単発戦闘機であるファルコンと、自分たちが乗ってきたバタフライとの違いに感嘆の息を漏らした。
 ………バタフライは主翼が二枚ある複葉機であるが故に速度が二桁キロメートルになっても失速することなく飛び続けることができるほどで、着陸時は多少角度がついていたとしてもリカバーは容易だった。しかしファルコンでバタフライと同じような速度で着陸を行おうとすればたちまち失速して着陸事故を起こすであろうことがアヴェリーナには容易に想像できた。
「着陸時は階段を降りるように高度を下げる。基本を忘れないようにした方がよさそうですわね」
 それはアヴェリーナの誰に言うでもない独り言だった。しかし彼女の背中に同意の声がかかる。
「ほう、アヴェリーナ少尉候補生は早くもファルコンとバタフライの違いがわかったか」
 誰かに聞こえているつもりのなかった独り言に返事を返された時、人はどういう反応を示すか。それについての意見は分かれそうだが、少なくともアヴェリーナは赤面した様子で声の主に振り返った。アヴェリーナの独り言に反応したのは第九一四戦闘機連隊飛行隊長のアレクセイ・ナジェイン少佐だった。
「飛行隊長………聞こえていましたの?」
「ああ、すまない、驚かすつもりはなかったんだ」
 恥ずかしそうに口元に手を添えて目を伏せるアヴェリーナにナジェインは困った表情で頭をかいて謝った。
「ただ、アヴェリーナ少尉候補生の着目点は正しい。バタフライで学んだ基本はファルコンにだって通じるものさ」
 ナジェインはそういうとアヴェリーナに軽く手を振り、着陸したばかりでまだプロペラが空転しているファルコンに向けて足早に駆け寄っていった。
 ナジェインがファルコンの傍に駆け寄った時、整備班によって昇降用のはしごがファルコンに設置された。それと同時にファルコンの風防が胴体後部にスライドして開かれる。そして一人の男が背を伸ばしながら立ち上がる。
「ご苦労様。自分はこの第九一四戦闘機連隊飛行隊長のナジェインだ」
 ナジェインの声を聞いた男は少し慌てた様子ではしごを使ってファルコンから土の上に降り立って敬礼する。
「お久しぶりです、ナジェイン大尉………あ、いや、今は少佐でしたね!」
 ファルコンから降りてきた男はナジェインのよく知る顔だった。ナジェインは思わず驚きの声をあげた。
「お前、ゲンナジー、ゲンナジー・ボブコフ中尉か!?」
 第九一四戦闘機連隊にファルコンを空輸してきたパイロットの一人はナジェインが負傷する前に所属していた第五一二戦闘機連隊で部下だった男、ゲンナジー・ボブコフ中尉だった。思いがけずかつての部下と再会したナジェインは懐かしそうにボブコフに話しかける。
「久しぶりだな、ボブコフ! だが、なぜここに? 第五一二戦闘機連隊からは離れたのか?」
 ナジェインの言葉にボブコフは少しだけ寂しそうな表情を浮かべ、ズボンの右脚のすそをめくってみせる。そこにはボブコフの足はなく、木製の義足があった。
「ボブコフ………!」
「少佐が負傷した二週間後だったかな? 俺もやられちまいまして、右脚の膝下から先を持ってかれちまいました」
「そんな………」
「マーチンも、ステファンも死んでしまいました………」
 ボブコフが俯いて先に逝ってしまった戦友の名を告げる。そして目線を木製になった自分の右脚に向ける。
「俺も脚をやられたので教官配置に回されるはずだったんですが、まだ飛んでいたかったんで上に無理を言って機体の空輸任務に残してもらったんです。義足でも機体の空輸任務くらいならできますからね。しかし、まさか少佐の部隊に来ることになるとは思いませんでした」
 ボブコフは視線を上げてオゼロ第五飛行場を見渡す。整備班の者がファルコンをハンガーに運んでいるのを興味津々に眺めてるパイロットたち。それは在りし日の第五一二戦闘機連隊にもあった光景だった。男と女、性の差こそあるが、そこには確かに空を飛ぶことが好きなパイロットと、機械いじりが大好きな整備班の両方がいた。
「噂には聞いてましたが、これが飛行倶楽部の、それも女子会員を集めた戦闘機連隊ですか………」
「………お前はどう思う?」
 ナジェインの質問にボブコフは直接は答えなかった。
「………実は、ここに飛んでくる最中に練習機が四機、飛んでいたので少し脅かしてみたんですよ。スロットル全開の全速で接近していく形で」
 四機? ああ、今はアナニエヴァ少尉候補生たちが訓練飛行で上がっていたな。
「だいたい慌てふためいて為すすべなく………って感じでしたが、一機だけしっかり高度を取ろうとしてたのがいましたよ。ありゃあ、いいカンしてますね。バタフライとファルコンの速度差じゃ高度をとっても無駄かもしれませんが、彼女がファルコンに乗って『帝国』の戦闘機と戦う時なら接敵前に稼いだ高度の位置エネルギーは速度に変換するなりして有利に戦えます」
「なるほど。伝えておこう」
 ナジェインが頷いた時、積荷を降ろしてハンガーから出てきたトラックがクラクションを鳴らした。それを聞いたボブコフがトラックに向かって手を上げた。
「………さて、ファルコン第一陣、四機は確かに届けましたよ。俺たちはあのトラックに便乗して帰ります」
「そうか。すまないな、せっかくここまで空輸任務についてもらったのに、茶の一杯も出せなくて」
「いえ、今の俺の任務は空輸ですから。………少佐、御武運をお祈りしてます」
 ボブコフはそう言って敬礼。義足ゆえにおぼつかない足取りでトラックの方に向かって歩いていく。ナジェインはボブコフが届けたファルコンの機首にそっと触れた。
 ボブコフはトラックの荷台に登ると横に寝転がって久しぶりに会ったナジェインと、彼が飛行隊長を務めることになる第九一四戦闘機連隊について思いを馳せる。
 ………少佐、第九一四戦闘機連隊にはかつての第五一二戦闘機連隊と変わらない活気が確かにありました。だからこそ少佐はこれから数え切れないほどの負傷者と未帰還機を見送ることでしょう。愛国心に燃えた彼女たちにあなたは出撃を命じていくのですから。
 ………少佐には悪いですが、第九一四戦闘機連隊の飛行隊長の任にあたるのが、俺じゃなくて本当によかった。これが俺の偽らざる本音になってしまいますよ。



 オゼロ第五飛行場は元々キャンプ地だった場所を空軍が接収し、航空機の発着が可能な飛行場として整備していた。
 第九一四戦闘機連隊の司令室兼男性宿泊施設のログハウスには電話線も引かれており、第九一四戦闘機連隊連隊長のルキヤン・ポポフ大佐は受話器を手に通話を行っていた。
「………つまり我が隊に配備されるファルコンは第二小隊までの八機だけだというのですか?」
 ポポフの声に抗議の色が強い。当然だ。第九一四戦闘機連隊の定数は三個中隊四八機、それだけのファルコン戦闘機が揃って初めて部隊として成り立つ。
「そうだ」
 しかし電話の向こうの相手、第九一四戦闘機連隊が属する第九航空団のチモフェー・ゴロレフ中将は第九一四戦闘機連隊に回せるファルコン戦闘機は八機だけだと宣言したのだった。
「もちろん第九一四戦闘機連隊を最前線に出す際には定数を確保させる。だが、現在の戦況では四八機分も訓練に回せる状況ではないのだ」
 ゴロレフ中将の言葉にポポフの声が引きつる。
「………そんなに戦況が悪化しているのですか?」
「今月頭まではさほどでもなかったが、先週に入ってから『帝国』の攻勢が再開された。最悪、年明けには首都防衛戦になるかもしれん」
「………ッ」
 受話器をかろうじて手にしたまま、言葉なく息を呑むしかできないポポフ。ゴロレフはその沈黙を納得だと受け取った。
「とにかく、大佐は第九一四戦闘機連隊の戦力化を急いでくれ。頼んだぞ」
 ゴロレフはそう言い残して受話器を下ろした。ポポフの耳にガチャンという音が残された。



 大陸暦一九三九年一一月二六日から第九一四戦闘機連隊に配備が開始されたファルコン戦闘機はゴロレフ中将の言葉通りに八機でひとまず打ち止めとなった。集まった八機のファルコンはまず整備班による分解整備に回された。
 それは整備班班長のイエヴァ・クレシェバ大尉は事前に生産メーカのトリロンブ社が作成していた整備用マニュアルを整備班全員に目を通させていたが、さらに実機に触れて整備用マニュアルの内容を確認し、体に覚えさすことで整備の効率化を図りたかったためだ。そしてクレシェバの申し出をナジェインとポポフは快諾した。
 整備班がファルコンの分解整備を行う期間として二日の猶予が与えられ、ナジェイン自身もそれに付き添うことになった。
 その二日間、整備班の手はすべてファルコンに取られることになったためバタフライ練習機を使用した訓練も中断されることが言い渡され、第九一四戦闘機連隊四八名の女性パイロットたちは二日間の休暇が与えられることとなった。
 大陸暦一九三九年一一月二八日。休暇の一日目となった朝で時計の針は七時二〇分を指し示していた。
「休暇ねー」
 オゼロ第五飛行場が出来る前から建っていた三人用のバンガロー。その室内に設置された椅子の背もたれに背中を這わせるようにして背中を伸ばしながら女性が口を開いた。簡素な部屋着にピンク色の上着を羽織った女性は第九一四戦闘機連隊パイロットのユリヤ・クロチキナ少尉候補生だった。クロチキナは子供の頃から外で遊ぶのが好きだった活発な性格で、子供の頃から日に焼けた小麦色の肌をしていた。それは二一歳になった今でも変わらない、彼女の特徴であった。
「急に言われても困るよなー」
 椅子にもたれた拍子に背骨がパキッと鳴ってクロチキナは眉をひそめて椅子から立ち上がって隣にいた少女に尋ねた。
「リリヤはどうするの? なにか予定でもある?」
 クロチキナとは対照的に雪のように白く、ほっそりとした肢体に白いシャツと毛糸のセーターを部屋着にしたリリヤ・パブロワは少し考えた表情を見せたがすぐに首を横に振った。
「あ、でも便箋が欲しいかな」
 白魚のように喩えられる指をあごに当ててパブロワは言った。クロチキナが釣餌を見つけたナマズのような表情でパブロワの言葉に食いついた。
「便箋? なに、彼氏に手紙でも送るの?」
「もう、ユリヤさんったら。私にそんな人いないって何度も言ってるじゃないですか………。家族への手紙ですよ」
「ま、それは天丼って奴よね………とはいえ、家族へ手紙か。すっかり忘れてたわね、そういうの」
 クロチキナはよく日に焼けた手でパブロワの銀色に近い金髪をぐわしぐわしと撫でた。そうやってパブロワにじゃれるのがクロチキナの日課だった。パブロワも三つ年上のクロチキナが自分と同じような目線でじゃれてくれるのは嫌いではなかった。
「………何、便箋が欲しいの?」
 バンガローの寝室の扉がカチャリと開き、寝間着のまま一人の女性が姿を現した。
「あ、おはよ」
 寝癖がついた髪をポリポリとかきながらラリッサ・クリーナが挨拶する。二人の返事を聞きながら眠気が残った足取りでクリーナはバンガローの外にある手押しポンプ式の井戸に向かっていった。大陸暦一九三九年の『共和国』では蛇口をひねって水が出るタイプの水道はまだ都市部にしかなく、オゼロの元キャンプ地などでは井戸の存在は珍しいものでもなかった。
「ラリッサ、あんたはなにか予定あんの?」
 まだ眠そうなラリッサに代わって手押しポンプを押してやりながらクロチキナが尋ねる。手押しポンプによって吸い上げられ、口から勢いよくでた水は冬の寒気でよく冷えており、それで顔を洗うことでラリッサ・クリーナを緩く包み込んでいた眠気は完全に晴れていった。
「ラリッサさん、タオルです」
「ありがと、リリヤ」
 濡れた顔をタオルで拭って初めてラリッサ・クリーナは完全に起床したと言えた。
「予定っていうほど立派なものじゃないけど、オゼロの町に行ってみるつもりよ。便箋が欲しいのなら町で買えばいいんじゃないの?」
「あ、そっか。町に出ればいいのか」
 クリーナの言葉を聞いて初めて気が付いたという表情でクロチキナとパブロワは同時に手を叩いた。
「でも町まで結構距離があるんじゃないの?」
「ま、どーせ暇だからいいんじゃない?」
「たしか町まで歩きだと二時間くらいかかったはずですけど………」
 三人は「さすがに二時間も歩きたくないわね………」という表情を浮かべて考える顔。
「あら、みなさんも町に出られますの?」
 そんな三人娘に声をかけたのはソフィア・アヴェリーナだった。アヴェリーナは手にヤカンを持っていた。井戸の水を汲んでお茶かコーヒーでも淹れるつもりなのだろう。
「おはよ、ソフィア」
「はい、おはようございます」
 ペコリと頭を下げるアヴェリーナ。クロチキナはアヴェリーナの持つヤカンをポンプの口の先に置かせてからポンプを押してヤカンに水を入れる。
「ありがとうございます。………で、町にいく話ですけど、今日はあと一時間もすればここに食料や生活必需品を積んだトラックがくるそうですから、そのトラックがここを出る時に荷台にでも乗せて頂いて町に出るのはどうですか?」
 アヴェリーナは「私やナジーさんもそれで町に出るつもりですの」と続ける。アヴェリーナの情報に三人娘は感心の声をあげた。ソフィア・アヴェリーナは今年で二二歳。おっとりとした性格で、年下である三人娘にも丁寧な物腰で接してくれる。しかしパイロットとしての操縦技術もさることながら、周囲の情報を観察して適切な情報を取得するという点では第九一四戦闘機連隊でも随一だった。訓練飛行で彼女と組んだ場合、隊長役を任せるとすごく飛びやすいというのがパイロット間での評判だった。
 三人娘はアヴェリーナの提案に乗って町に出ることにしたのだった。



 オゼロは「満月湖」と呼ばれる大きく真ん丸い湖のすぐ傍にできた集落が元になって発展してきた町だった。行政区分的にオゼロ市として扱われ、面積は二〇〇平方キロ程度である。
 大陸暦一九三五年に行われた国勢調査によるとオゼロ市の人口は三〇万ほどで、面積の割に人口は少なめである。つまりは田舎の町であるということだ。
 しかし田舎の町とはいっても駅の近くはそれなりの人口が集まっており、人口が集まれば自然と商店が増えていく。つまりは栄えていくということだ。
 そんなオゼロの駅前に一台のトラックが停車した。そして荷台から妙齢の女性たちがぞろぞろと降りてくる。
「無理言って乗せて頂いて、本当にありがとうございました」
 ソフィア・アヴェリーナが運転席の男に頭を下げる。
「いやいや、こっちも積荷を降ろすのを手伝ってもらったんだ。これくらいお安い御用よ」
 運転手はそう言って第九一四戦闘機連隊の女性パイロットたちに手を振る。彼女たちはそれに敬礼で応えた。それからトラックは走り去っていく。
「さて、とりあえず便箋探すかー」
 クロチキナとクリーナ、パブロワの三人は駅の傍の商店が集中した通りをぶらつきながら便箋が売ってそうな文具屋か郵便局か雑貨屋でもないかと歩き出した。
『帝国』との戦争が始まってから半年ほどが経っているが、オゼロの町は『共和国』首都カピタルよりもさらに東にあるため、西から攻め寄せてくる『帝国』との最前線からはまだ遠く、そこまで悲壮な雰囲気が漂っているわけではなかった。
 しかし町のあちこちに「打倒『帝国』! 新兵募集!!」や「スパイに気をつけよう! 迂闊な発言は敵を利する!!」といった戦争を意識したポスターが貼られているのが目に付くのもまた事実であった。それに町中で見かけられる人々に若い男性の姿が少なくなっているのも見て取れた。つまり若い男性は徴兵で取られているということなのだろう。
 そんな中、数少ない若い男性の一団が三人娘を見かけて口笛を吹いてから声をかけてきた。
「君たち、かわいいね? 俺たちと遊ばない?」
 男が口にしたのは古典的で特徴のないナンパの文句だった。見たところ、男たちはみんな『共和国』空軍が支給しているフライトジャケットを羽織っていた。
「なに、あんたたちも空軍?」
 クロチキナの言葉に男たちはニッコリと笑って続けた。
「お? 俺たちが空軍だってよくわかったね? そ、この近くにある飛行場で訓練中の第九六三爆撃機連隊のパイロットよ、俺たち」
 馴れ馴れしくパブロワの肩に手を伸ばそうとした男からパブロワを庇うようにクリーナは前に出る。
「そりゃ私たちも空軍だしね。第九一四戦闘機連隊よ」
 クリーナの言葉に男たちは目を丸くしてお互いの顔を見合わせる。………そして男たちは笑い出した。今度は三人娘の側が何が起きたのかと顔を見合わせる番だった。
「ちょっと、何が可笑しいのよ!」
「いやぁ、ホラを吹くにしてももっと真実っぽいこと言ってくれなきゃあ」
「そーそー、君らみたいな女の子が戦闘機連隊ってのはさすがに笑っちまうぜ」
 三人娘は町に出るにあたって軍服ではなく私服を着て出ていた。そのためか自分たちが第九一四戦闘機連隊であるということそのものが冗談と受け取られている様子だった。
「アタシらが嘘ついてるってのか!」
 ずいと第九六三爆撃機連隊の男たちに歩み寄るクロチキナ。その瞳は男たちに対する敵意で燃えていたのをクリーナは見逃さなかった。パブロワは一触即発の空気の中、どうすればいいのかわからずにおろおろするばかりだった。
「お前たち、なにをしている?」
 そんな中、一人の男が空気に水を差した。男は『共和国』空軍士官用の藍色の軍服をまとっており、肩の階級章には星のマークが二つ入っていた。『共和国』空軍では尉官の階級章には星のマークが、佐官の階級章には月のマークが、将官の階級章には月と星のマークが入っており、マークの数で小中大を示している。星のマークが二つ入った階級章なら中尉ということだ。
 男たちと三人娘の揉め事に割り込んできた中尉は男たちをギラリとにらんで再度尋ねる。
「お前たち、なにをしている?」
 中尉の言葉は同じだが、口調は厳しいものになっていた。第九六三爆撃機連隊の男たちは中尉の気迫に呑まれてしどろもどろになるばかりでろくな返事を返すこともできなかった。
「休暇中に羽目を外すことを否定するつもりはないが、周囲に迷惑をかけることは看過できん。さ、行った行った」
 中尉は左右の腕で男たちを追い返していった。そして三人娘の方に向き直って頭を下げる。
「部下が迷惑をかけたようですまない。日々の訓練を激しくしすぎたからか、羽目の外し方も激しくなってしまったようだ」
「いえ、私たちも突っかかりすぎました。頭を上げてください、中尉」
 頭を下げたまま謝意を口にする中尉はクリーナの言葉を受けてようやく頭を上げた。目の前の中尉はなかなかに誠実な男のようだ。
「では私はこれにて失礼させていただく」
 中尉はそういうと会釈して立ち去っていった。無駄な動きが少ない、キビキビとした歩調は非常に軍人らしい動きだといえた。
 ………第九一四戦闘機連隊か。彼女らの愛国心はうちの男たちに対しても決して劣るものではないだろう。だが、戦闘機パイロットとしてはどうなのだろうか………?
 中尉、第九六三爆撃機連隊のイラリオン・チェーエフ中尉は基地に戻ったらそれを確かめるためにある提案を発してみようと考えていた。
 一方で三人娘はせっかくの休暇の始まりにいきなり水を差された格好となったが、それからは三人で雑貨屋だけでなく服屋やアクセサリー屋など、色々な店を巡り、喫茶店で休憩したり、洋食屋で食事をするなどのありふれた休暇を楽しんだのだった。
 リリヤ・パブロワは後にこの休暇のことを思い出してこう回想した。
 ………あの頃の私たちはある意味で絶頂期だったんだと思います。だって訓練は日増しに難しくなっていってたけれど、それにきちんとついていけて、自分たちの操縦技術が日増しに向上していっていることも自覚できていましたから。それに戦場にまだ出ていませんでしたからね、私たちはまだどこかで浮ついていたんだと思います。
 かくして二日間の休暇は過ぎ去っていき、大陸暦一九三九年一一月三〇日からファルコン戦闘機を操縦するための座学が始まり、一二月二日からは実際にファルコンに搭乗しての操縦訓練が始まっていったのだった。


第一章「再会の飛行場」

第三章「訓練の終わりに」

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