昭和一七年六月五日未明・・・・・・
赤城、加賀、蒼龍、飛龍の四隻の空母を中核とした第一機動部隊は攻略目標たるミッドウェー島北西二一〇海里(一海里は1.8km)の地点にたっし、午前一時三〇分(現地時間四日午前四時三〇分)に攻撃隊を発艦させた。
その陣容は零式艦上戦闘機三六機、九九式艦上爆撃機三六機、九七式艦上攻撃機三〇機の合計一〇二機もの大編隊である。
第一機動部隊の指揮官である南雲 忠一中将は一〇二機の勇者達が大空へ飛び立っていくのを感慨深げに見守った。
彼は本来、航空屋ではなく駆逐艦を駆り、その魚雷で大型艦を沈めたりすることを生業とする水雷屋である。そんな彼が機動部隊の指揮を執っている辺りに日本海軍の致命的な人事問題があるのだが・・・・・・
だが開戦劈頭の真珠湾奇襲以来、インド洋でも指揮を執り続けた南雲は次第に航空戦にも慣れ始めていた。
「この戦いに勝ち、ミッドウェーを落とし、和平交渉を優位に進める、か・・・・・・その為には負けられんな」
「攻撃隊が発艦したか・・・・・・」
人によっては・・・・・・いや誰が見てものんびりした態度で対空巡洋艦吉野艦長結城 繁治大佐は呟いた。
傍らの吉野副長である網城 雄介中佐は少し表情をきつくした。
・・・・・・戦闘中に何をのんきな・・・・・・
目線がそう言っていた。
だが結城は網城の非難の視線を丁重に無視しながら歩き出した。吉野艦橋内の誰もが唖然としている。
「何処にいかれるのですか?」
相当神経が逆立っているのだろう。網城の声は裏返りがちであった。そして結城はちっとも軍人らしくない人懐っこい笑顔を浮かべて言った。
「私室で紅茶を飲むのさ」
そしてやや音程の外れた鼻歌を歌いながら結城は私室へ向かった。
「・・・・・・砲術長は艦長と付き合いが長いそうだが、昔からあんなのなのか?!」
網城の非難の矛先は吉野砲術長である高井 次郎少佐に向けられた。砲術長にしてみればいい迷惑であろう。
「大丈夫ですよ、副長。我々の出番はまだ先のことですよ。ならば少しくらい楽にしていても構わないでしょう」
「だが!」
網城の両目から炎が噴出している。
「艦内の士気にも関わるのだぞ!あんな調子で・・・・・・まったくこっちの調子が狂うわ・・・・・・って砲術長、聞いてるのか?!」
「すみません、副長。少し調整をしてきます・・・・・・」
網城の小言が長引きそうなので高井は無理に用事を作って逃げ出した。見渡すと艦橋内の他の乗組員も上辺だけは上辺だけは忙しそうにしている。明らかに網城の説教から逃げていた・・・・・・
結城は私室で紅茶を一杯飲んだ後、真っ直ぐに艦橋に戻らずに艦内を歩き回っていた。
吉野は甲板のそこここに対空機銃やら高角砲が所狭しと林立しているので正直に言って歩き辛い。結城も吉野設計には携わったのだがいささかやりすぎたのかもしれなかった。
結城は甲板ですれ違う水兵たちにも気さくに挨拶をする。こうすることで艦内の部下の把握に努めているのだ・・・・・・などと言えたらいいのだが本音はどうだろうか。結城は基本的に自分のことは全て冗句に紛れさせようとするので本質が掴み辛い。だから「海軍一の変人」と呼ばれるのだが・・・・・・
結城は一人の水兵に気を止めた。
その水兵は一心不乱に、周りのものが何も見えていないかのようにスウェーデンのボフォース社からライセンスを買い取って生産した一式四〇ミリ機関砲の銃身を磨いていた。
「精が出るな」
結城の声を聞いて初めてその男は結城の存在に気付いたようだ。だが結城の顔を一瞥しただけで再び作業を再開した。
・・・・・・
天使がちょうど五〇メートルほど走り終えれそうなくらいの間の沈黙。
「・・・・・・コイツは俺の体の一部ですから」
男は急に結城に話し掛けた。実はその時の結城の神経は呉に残してきた家族の方にいっていたので男が何を言ってるのかに気付くのが遅れた。彼もまた結城に勝るとも劣らない「帝国海軍の異分子」の一人ようだ。
「・・・・・・ああ、そうか。貴様の名は?」
「内藤兵曹長であります」
「君のような機銃主がいる限り吉野は、いや、艦隊の防空は安心のようだな」
内藤と名乗った男は少し照れながら素直に頭を下げた。普段しない表情をしてしまったので困ったような表情を浮かべた。
「努力を期待する・・・・・・以上だ。作業を邪魔して悪かったな・・・・・・」
結城は艦橋へと戻ろうとする。内藤はその結城の背に見事な敬礼をして見送った。
「艦長、電探(レーダー)室より報告。敵攻撃隊です」
吉野副長である網城の声は初陣の興奮を抑えきれていない。・・・・・・この吉野の戦闘処女も遂にこの瞬間で終わるのだ。
「総員戦闘配置」
結城の声が伝声管を通じて艦内の全域に響き渡る。吉野はにわかに騒がしくなっていった。
「それから旗艦に報告、『敵攻撃隊接近シツツアリ』だ」
そして吉野の喧騒は艦隊全てに伝染した。
上空にて待機していた零式艦上戦闘機隊は吉野より報告のあった方角へむけて飛行する。先ずは彼等が敵攻撃隊と雌雄を決することが防空戦の第一段階だ。
「・・・・・・にしても電探は本当に信用できるんですか?」
網城の声は不服ではないにせよ不本意でありそうだ。
結城はそんな網城に対し諭すように言う。
「いいかね、副長。我が友邦ドイツは英本土上空での制空戦、バトル・オブ・ブリテンに敗れたがそれは英空軍が電探を使って巧妙な迎撃布陣を執れたからによるのが大きいのだ。我等もその戦訓に習わねばなるまい?」
「はぁ・・・・・・ですが電探は電波を放出し続けるもの。『闇夜に提灯』になりはしませんか?」
「闇夜に提灯」
これは電探導入に反対するものの全てが言うセリフである。つまり、基本的に電探よりもその電波を逆探知する逆探の方が性能がいいのは定説である。故に電波を放出し続ける電探を使用すれば敵にむざむざ発見されて逆にやられる、という考えだ。それにはなかなかの説得力がある。
「でてくれば叩けばいい。我等のこのミッドウェー作戦の主目的は敵艦隊の殲滅だからな。望む所だ」
「ですが性能の面でも・・・・・・言いにくいですが我が国の工業力では満足な電探は・・・・・・」
結城は眉をピクリと動かした。
やはり網城中佐は優秀な男である。日米双方の工業力の差を理解している。大砲屋は頑迷な保守的思想にガチガチに固められた者が多いと聞くが彼には例外のようだ。
「安心したまえ。あれはドイツ製だ」
「ええ?!」
・・・・・・ドイツ製だったのか?知らなかったぞ?!
「正確には真空管が、だがね」
日本は工業力がショボすぎた。はっきり言って電探に必要なマトモな真空管は自力で作れなかった。自力で作れるのはどうしようもなく性能が悪く、しかも耐久性に乏しく、すぐにつぶれた。
結城は電探の必要性をしっかり認識していたので、ボフォース四〇ミリライセンス化の際にドイツからの真空管の輸入も認めさせた。だから吉野の電探は(まだ)マトモな性能を発揮できた。
そう、吉野は日本が誇る高い建艦技術と最高級の高角砲である長一〇センチ、スウェーデンが誇る優秀な四〇ミリ機関砲、そしてドイツ製真空管を使うという実に多国籍な技術の結晶である。
「さて、閑話休題・・・・・・といくかね」
結城が表情を引き締めた。
だが・・・・・・
「・・・・・・艦長・・・・・・」
高井砲術長が何ともいえない表情で話し掛けてきた。彼は本来は砲術指揮所にいるはずなのだが・・・・・・
「言うな、砲術長」
「我が軍の戦闘機ってあんなに強かったんですね・・・・・・」
「副長、言うな」
・・・・・・敵の攻撃隊は何ともはや・・・・・・
零戦隊の猛攻により壊滅してしまったのである。
結城もそれは予測できた。零戦の強さは散々聞かされているからだ。だがあそこまでとは・・・・・・
「予想以上、でしたね・・・・・・」
算を乱した敵攻撃隊は爆弾や魚雷をさっさと投下して逃走を図ったのだ。故に吉野を始めとする艦隊は一発の機銃弾も放たなかった。
「これでは道化だよ・・・・・・」
結城の一言は吉野の状況を的確に表していた。
だがもっと滑稽で、道化としか言い様の無い事態があった。
「南雲長官・・・・・・」
「うむ」
南雲は大仰に頷いた。
「第二次攻撃の用意をせよ」
こうして帰頭した攻撃隊に燃料や爆弾が再び搭載されていく。
だが・・・・・・索敵機はとんでもないものを発見していた。
我、敵機動部隊ヲ発見ス・・・・・・
南雲は決断を迫られた。
ミッドウェ−か、機動部隊か・・・・・・
どちらを優先するべきかに南雲は僅かにではあるが判断を迷った。
だが南雲は機動部隊の攻撃を優先させることにし、ミッドウェー攻撃用に搭載した対地爆弾を機動部隊攻撃用の対艦爆弾や航空魚雷に換装させたのである。
この判断はこの場に限って言えば過ちであった。装備の換装はおおよそではあるが二時間程度の時間がかかる。さらに作業を急がせる余りにこの時、外した対地爆弾はなんと格納庫に置いたままであった。もしもこの場でちょっとした火災でも発生すればすぐさま誘爆を引き起こしかねなかった。
南雲機動部隊の四隻の空母は危険な状態であった。
「電探室より報告、敵攻撃隊です!」
「第二次攻撃隊ですか・・・・・・随分と早いですね」
「いや、空母からのものだろう。ミッドウェーからではないよ、副長」
結城はそう告げると再び伝声管に怒鳴った。
「総員戦闘配置!旗艦赤城に信号!『敵攻撃隊迫ル』だ!!」
「何、攻撃隊だと?!」
旗艦赤城の艦橋内は騒然となった。なぜなら今の我々の空母は・・・・・・
「艦長、すぐに爆弾や魚雷を投棄させろ!でないと大変なことになるぞ!!」
南雲は拳を握り締めた。
その表情には先ほどまでの余裕は消え去っていた・・・・・・
南雲機動部隊の上空を守る零戦隊は米機動部隊より飛び立った攻撃隊に襲い掛かった。
「やらせはせんのよ!」
空母加賀に所属するある搭乗員はそうつぶやくと零式艦上戦闘機に猛禽の如きするどい軌道であやつり鈍重な米雷撃隊に襲い掛かった。
雷撃機隊を守ろうと米海軍の主力戦闘機F4Fワイルドキャットは零戦と比べると洗練といった言葉からは程遠いずんぐりとした機体を急降下させて立ち向かった。
「ジャップ!」
F4Fの両翼に搭載された合計四丁のブローニングM2 一二・七ミリ機銃が唸りを上げる。
だが零戦はいとも簡単にその射撃をヒラリとかわした。
「シット!」
F4Fは零戦に追いすがろうと旋回を開始する。だがF4Fと零戦では見た目にも後者の方が機敏そうであり、現実にそうであった。F4Fの後ろにあっという間に回りこんだ零戦は機首の計二丁の七.七ミリと両翼で計二丁の二〇ミリ機関砲を連射する。
「ぐわああああああああああ」
命中したのは大半が七.七ミリ弾であったがそれに乱打されたF4Fは機体のあちこちをボロクズのようにされて墜落する。典型的な撃墜であった。
・・・・・・そしてこのような光景があちこちで見受けられた。F4Fでは零戦にたちむかうことは不可能でないにしても困難であった。
そしてF4Fの追撃を振り切った零戦隊は雷撃隊であるTBDデバステーターに襲い掛かった。
F4Fよりも遥かに遅く、遥かに鈍重なTBDはわずか数分間の間に壊滅的な打撃を受けた。
四一機いたはずのTBDはわずかな間に四機にまで打ち減らされた。
九割以上の損害・・・・・・
この空域に関しては日本軍の圧勝であった。
だが・・・・・・幸運の女神は米海軍を見捨ててはいなかった。
「・・・・・・」
彼は十字を切った。意識してやったわけではない。だがそうせざるを得なかった。
彼の乗る機体はSBDドーントレス。日本軍で言う九九式艦上爆撃機に相当する機体である。
彼等SBD隊はTBD隊と違って高空にいた。だから零戦隊の目を上手く誤魔化すことに成功したのだ。
TBD隊の運命は・・・・・・
彼、ロバート・アンダーソン少尉は操縦桿を握る力を強めた。
「ジャップめ・・・・・・必ずTBD隊の敵を取らせてもらうぜ」
アンダーソン少尉は後席の相棒に声をかけた。
「ガルシア、いくぜ!!」
後席の相棒、サミュエル・ガルシア少尉の声はいつもと違っていた。いつもの彼は陽気で能天気なヤツなのだが・・・・・・さすがに今ばかりは沈痛というオブラートにその声は包まれていた。
「ああ、やってやるぜ!!」
彼等六五機のSBDドーントレス隊は進撃を続けていた。
「上空に敵艦爆!!」
見張り員の叫び声が吉野に木霊する。だが結城は落ち着き払っていた。ただいつものように飄々としている。
「・・・・・・」
網城には結城がとてつもなく頼もしい存在に見えた。
・・・・・・案外、いつもの艦長の行動は演技なのかもしれないな。我々を安心させるための・・・・・・
結城は伝声管に顔を近づけた。
「砲術長・・・・・・用意はいいか?」
「いつでもござれ、ですよ」
最初は遥か彼方に見える芥子粒のような存在であったSBDが次第にはっきりと肉眼で確認できるようになってきた。
「撃ち方・・・・・・」
艦橋内に緊張が走った。
「始め!」
遂に吉野がその真価を発揮する時が来たのである。
その印象はなんと表現すればよいだろうか。
吉野が爆発したかに見えた・・・・・・
地獄の釜が開ける瞬間が見えた・・・・・・
海面から鋼鉄のスコールが降り注いできた・・・・・・
様々に形容できる。だがそれが言い表そうとする事実はただ一つである。
吉野は対空戦闘を開始したのだ。
合計三二門の長一〇センチ砲が、合計四〇門の一式四〇ミリ機関砲が、合計六〇門の改装二五ミリ機銃が一斉に射撃を開始したのだ。
さらに恐るべきことに吉野の砲術の責任者である高井 次郎は帝国海軍随一の対空砲火の専門家であった。
彼の諸元は完璧であった。
吉野の上空をフライパスし、赤城に向かおうとしていたSBDはたちまち黒い花に包まれた。すなわち長一〇センチ砲の弾幕に包み込まれたのである。こうなれば撃墜まで・・・・・・
そう言っている間にも一機が火球と化して大空に散華した。直撃したのだ、長一〇センチ砲弾が・・・・・・
何ともいえないマゾヒズムな音を立てて一式四〇ミリ対空機関砲は高速で四〇ミリ弾を吐き出しつづけていた。
そしてその機関砲を普段と同様にまったくの無表情で操り続けているのが先ほどあの結城艦長に変人と言わしめた内藤兵曹長であった。
彼の射撃のセンスは天性のものであろう。
彼の射撃は極短い。だがその大半が有効弾となるのだ。四〇ミリもの大口径弾に襲われた米軍機は被弾個所が一撃で吹き飛んだ。そして機体バランスを崩して墜落。
だが内藤は撃墜しても喜ぶわけでもなく淡々と照準を定めている。彼はその意味では人でなく高度な戦闘機械であった・・・・・・
「くっ・・・・・・アンダーソン!マズイぜ・・・・・・あぁ、チャーリーが・・・・・・」
ガルシアの声を聞いて自分の右手方向に視界を移す。
僚機であるチャーリー少尉のSBDが補助翼を吹き飛ばされて失速し、墜落を開始していた。
・・・・・・くそっ、ジャップめ・・・・・・
アンダーソンは自分の判断を悔いていた。
ジャップの空母への最短ルートを通ったってのに・・・・・・何なんだ、あの艦は?!巡洋艦程度の大きさだが・・・・・・あの対空砲火は尋常じゃない。クソッたれめが!!
「ふむ・・・・・・敵は分散してきたな。我が吉野を避けるようにしているな」
結城は落ち着き払った声で言った。
「艦長、どうしますか?」
網城の声にも結城は落ち着いた声で返事した。
「動くわけにはいくまい。我が吉野は赤城を守りきってみせる・・・・・・これが任務だ」
網城は沈黙した。だが結城の唇が僅かに動いたのを見逃さなかった。そして密かに読唇術をかじっている網城には艦長の呟きが分かった。
・・・・・・あと二隻、吉野があれば守りきれるのだが・・・・・・
「敵機直上!急降下!!」
見張り員の報告、いや絶叫が響き渡った!
そして死をも恐れずにただ我武者羅に突っ込んできたSBDの腹部から黒い塊が落ちてきて・・・・・・
「!!」
空母加賀の甲板に落ちた黒い塊・・・・・・五〇〇ポンド爆弾は信管を正常に作動させて加賀の甲板に赤い花を咲かせた。
「加賀、被弾!」
だが結城は表情一つ変えずに戦闘指揮を執り続けた。普段の彼からは想像もつかないほどに今の彼は真の軍人であった・・・・・・
加賀の甲板で炸裂した五〇〇ポンド爆弾は甲板に大穴を開けた。そしてそこにもう一弾が投下されてきて・・・・・・今度は格納庫内で五〇〇ポンド爆弾が炸裂した。
今度はさっきとは比べ物にならないくらいに大きな花が咲いた。
三万トン以上の排水量を誇る大型空母の加賀が打ち震えた。
そう、艦内の魚雷や爆弾、そしてそれらを搭載し、燃料も満載した攻撃隊が誘爆を起こしたのだ。
たちまち加賀は日本最大の排水量を誇る巨大空母は煉獄の炎に焼き尽くされた。
消火に走る乗組員もいたがそれらをも飲み込んで煉獄の炎は加賀の艦内を焼き尽くす!
もはやこれまでであった・・・・・・
「やったぞ、アンダーソン!ジャップの空母が火達磨だぜ!!」
「おお!次は俺たちの番だな・・・・・・」
そう言うとアンダーソンは自らのSBDを急降下させる。目標は格納庫誘爆を起こした加賀のすぐ後ろにいた空母・・・・・・蒼龍であった。
「敵機、蒼龍に向かいます!」
赤城の見張り員の報告、もとい悲鳴が聞こえる。
それを聞きながら南雲は唇をかみ締めた。強く噛みすぎたので口内に血の味がする。
「・・・・・・・・・・・・・・」
もはや南雲の慙愧の念は言葉にならなかった。
一方、蒼龍艦長の柳本 柳作大佐もムザムザやられるつもりは無かった。
「面舵一杯!」
柳本の指示で蒼龍が艦体をきしませながら面舵を切ろうとする。
この軌道で敵艦爆の急降下を逃れれるか微妙な線であった。
「間にあえ・・・・・・間にあえ・・・・・・間にあえええええぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」
柳本の叫びが蒼龍に木霊した。
「シット!これじゃあたらねえぞ、ガルシア!!」
アンダーソンが悔しそうに叫んだ。
「だが腹に爆弾抱えて引き起こそうってのか?!そんなことやっちまったら空中分解だぜ!!」
ガルシアがアンダーソンの暴走を制止した。
「投下!」
彼等のSBDドーントレスの腹部に搭載された五〇〇ポンド爆弾が離れ、それと同時に身軽になったSBDが増速するのが分かった。そしてアンダーソンがSBDを引き起こす。
ガルシアは引き起こしの際のGに耐えながら、自分達が苦労して運んできた五〇〇ポンドの荷物が狙っていた空母のすぐ近くで水柱を上げるのを悔しげに見つめていた。
・・・・・・だがアンダーソン達の努力は無駄ではなかった。
至近弾となった五〇〇ポンド爆弾の破片や爆発の際の圧力が蒼龍の電気回路を切断し。蒼龍の半身が不随になったからだ。
その報告を聞いた柳本は蒼龍の最後を悟った。
「ならば・・・・・・」
柳本は恐るべき行動に出たのである。
「艦長、蒼龍が・・・・・・」
網城の声が上ずっている。信頼の置ける副長の指差す先を見た結城は絶句した。
蒼龍が艦隊から離れて単独で敵艦爆隊に向かっていったからだ。
そうなれば駆逐艦や巡洋艦の対空砲火の支援も受けられなくなる。つまり被弾する確率が格段に上がるというのに・・・・・・
「柳本大佐・・・・・・」
結城は蒼竜艦橋で仁王立ちしているであろう柳本に向かって敬礼した。そしてそのすぐ後に意識を対空戦闘に再び切り替えた。
吉野艦橋内にいる全ての兵士がその結城の行動に倣った。
・・・・・・蒼龍は既にこの時に危険な爆弾やら魚雷やらを全て海中に投棄していた。
故に加賀のような事態は避けれたのだ。だが柳本はそれが自艦だけであることを知っていた。故に彼は自らおとりとなって赤城と飛竜を守ろうとしたのだ。
舵に異常をきたしたと見た米艦爆隊は次々に蒼龍に向かってきた。
敵艦爆の見事としか言い様のない急降下を見て柳本は莞爾と笑っていた。
「ふふふふふ・・・・・・ははははははははは!」
柳本の哄笑は続いていた。柳本は狂ったように笑い続けた。
「馬鹿め!米軍!この蒼龍はオトリなのだよ・・・・・・ふははははははは!それに気付かず・・・・・・貴重な爆弾を浪費するがいいさ!ぶはっ、ふはははははははははははははは!!」
蒼龍の甲板に一弾、また一弾と五〇〇ポンド爆弾が降り注ぐ。
だが蒼龍の前進は止まらなかった。
当たり前だ。
本来、大型艦に航空攻撃を仕掛ける際には艦爆が対空砲火や空母の飛行甲板に穴を開けて、雷撃機の魚雷でトドメを刺すのが普通だからだ。爆弾では相当数の被弾がない限り沈みはしなかった。加賀のような不運な例外は除いて・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
赤城から零戦が飛び立った。後続の飛龍からもである。
あの米軍の攻撃の結果、空母加賀と蒼龍は撃沈された。
加賀は格納庫内で整備中であった攻撃機の誘爆でたった二発の被弾で海底へと旅立った。
蒼龍は結果的に爆弾八発を受けて大破した。飛行甲板のそこここに大穴を開けられており、さらにそこから発生した火災によって燃え盛っている。本来ならば駆逐艦などで牽引し、本土まで連れ帰って修理するのが理想なのだが・・・・・・
「不可能だな」
南雲はポツリと呟いた。ここはミッドウェー近海。敵地の真ん前である。その様な所でそんな手間のかかることはできない。蒼龍は味方の魚雷で処分された。
だがまだ南雲の闘志は収まっていなかった。
・・・・・・こうなれば米軍の空母も道連れだ!
かつての真珠湾攻撃の際に慎重論を展開してハワイへの再攻撃をためらった時の影は何処かへ消えうせていた。今の南雲は修羅であった。
「攻撃隊発進準備!!」
一方、もう一隻の生き残った空母飛龍では・・・・・・
「ただでは帰れんよ・・・・・・加賀や蒼龍の敵をとるまでは・・・・・・」
男の両目には炎を揺らめいていた。並々ならぬ闘志を持つ男。彼の名は山口 多聞・・・・・・帝国海軍少将であり、蒼龍と飛龍を中核とする第二航空戦隊の司令であった。
彼は帝国海軍きっての航空主兵論者であり、海軍随一の機動部隊の指揮官であった。
山口も南雲同様に修羅と化していた。二人の修羅の企図した攻撃は成功するのであろうか・・・・・・
ここでカメラを一旦は敵である米艦隊にはじめて向けてみよう。
米第一六機動部隊指揮官であるレイモンド・スプルーアンス少将は旗艦である空母エンタープライズ艦橋にいた。
彼の表情は複雑なものであった。
確かに二隻の空母という敵よりも少数の兵力で一隻の空母を撃沈し、一隻の空母を大破せしめた(この時彼等は蒼龍の自沈をまだ知らない)。
これはよくやったと言えよう。だが問題は攻撃隊の損害の多さであった。
彼は日本艦隊の攻撃に、戦闘機二〇機、艦爆六五機、雷撃機二九機の計一一四機を送り出した。さらに近海に遊弋する僚友フランク・J・フレッチャー少将旗下の空母ヨークタウンからも戦闘機六機、艦爆一二機、雷撃機一二機を出させた。
・・・・・・だが・・・・・・・
帰頭したのは戦闘機四機、艦爆二四機、雷撃機四機の計三二機でしかなかった。
確かに敵艦隊には打撃を与えた。だがその与えた損害よりも遥かに大きい自軍の消耗であった。
さらに怒り狂った敵艦隊はこちらに向けて攻撃隊を差し向けたという・・・・・・
元々スプルーアンスはこの海戦に参加するわけではなかった。本来ならば闘志に溢れ、機動部隊指揮経験も豊富なウィリアム・F・ハルゼー中将が執る筈だったのだ。
だがハルゼーは悪性の皮膚病でダウンしたのだ。そして病院のベッドで自分の代打として指名したのがスプルーアンスであった。
故に彼はここにいた。本来の彼はデスクワークの道を歩んできたのだが・・・・・・
だがこのスプルーアンスの思考は幾分かの自嘲の念が強い。彼は周囲の期待よりも遥かに大きな戦果を既に挙げているのだ。入院中のハルゼーも親友の大活躍に大いに面目を保てるはずである。
だがそれも次の攻撃を凌ぎきってこそ・・・・・・
スプルーアンスは帽子をかぶり直して気合を入れなおした。
・・・・・・一方、赤城と飛龍より飛び立った攻撃隊はかなり殺気立っていた。
もしもこの殺意で人が殺せるとすれば間違いなく米艦隊は全滅するであろう。それほどに全身から殺意が満ち溢れていた・・・・・・
そうこうするうちに小林 道雄大尉率いる第一次攻撃隊、戦闘機一三機、艦爆二六機の計三九機の復讐者達は遂に仇敵である米海軍正規空母ヨークタウンを発見し、攻撃に移った。
「く、日本機か!F4F隊に迎撃させろ!!」
ヨークタウンに座乗するフランク・J・フレッチャー提督は開戦以来ずっと空母機動部隊の指揮を執っており、また珊瑚海で日本の機動部隊ともやりあったことのある歴戦の勇士である。
それ故に日本海軍のパイロットの錬度が自軍のそれに比して圧倒的なまでに優れていることを知悉している。
フレッチャーの指示で一二機のF4Fが攻撃隊を阻止すべく襲い掛かっていくのが見えた。フレッチャーはF4F隊が攻撃隊を阻止してくれることを神に祈っていた。
だがこの場面で幸運の女神とやらは米軍を完全に見放していた。
いや、どのような強力な力を持った神であったとしてもこの局面は避けることができなかったかもしれない。
何故なら零戦の搭乗員達の錬度はそれほどまでに高かったからだ。
あっという間にF4F隊は壊滅してしまった。F4F隊にできたことといえば零戦の二十ミリ二丁、七・七ミリ二丁の牙から逃れるべく逃げ回るくらいであった。
二六機の九九式艦上爆撃機はヨークタウンに向かって突進を続けていた。
米艦隊も必死である。その持てる対空砲火の全てを使って九九艦爆を落とそうとする。
そして一機の九九艦爆が火球に包まれた。日本機の防弾性能は基本的に米軍のそれに比して弱いのでちょっとした被弾であのように火球となってしまうのであった・・・・・・
だが他の九九艦爆はそんなことを無視するかのようにヨークタウンの甲板めがけて急降下を開始した。
「取り舵一杯!」
ヨークタウン艦長も必死の操艦で巧みに九九艦爆の猛攻を避けようと努力した。だが神業ともいえる錬度を持ち、さらに復讐に猛り狂う攻撃隊にはヨークタウン艦長の努力は通用しなかった。
ヒュルルルルルルルル
爆弾が空を切る際の特有の甲高い音がヨークタウンに木霊し・・・・・・
「!!」
ヨークタウン甲板に九九艦爆の二五〇キロ爆弾が突き刺さった。二五〇キロの黒い矢はヨークタウンの甲板を突き破り、格納庫内にまで到達し、そこで遅動信管を作動させた。
先の攻撃でヨークタウンの攻撃隊は壊滅的打撃を受けていたのが幸いであった。加賀のような派手な誘爆を起こさなかったからだ。だがそれも所詮気休め程度のレベルでしかなかった・・・・・・九九艦爆隊の攻撃はまだ続いているのだから。
次の被弾はヨークタウンのエレベーターを粉砕した。エレベーターは見るも無残な姿をさらしており、もはやヨークタウンが空母としての能力を削がれたのは確かであった。
そして三発目は最悪の形となった。艦橋を直撃したのである。その為に艦長はおろかフレッチャー少将までもが被弾時の衝撃、さらには爆弾が爆発した際の爆風で切り刻まれて・・・・・・救護班が駆けつけた際には艦橋内で生きているものは誰一人なく、さらに死体すら完全にバラバラにされていてどのパーツが誰の物なのか、それすら判別不能であった。
さらに第二次攻撃隊、戦闘機一五機、攻撃機一九機がようやく戦場に到着したのだ。
攻撃機は全機が九七式艦上攻撃機でありその腹には航空魚雷が抱かれていた。
そして頭脳を失っていたヨークタウンにそれを回避する術はなかった・・・・・・
結果としてヨークタウンは八本もの魚雷を喰らうことになった。
八本もの魚雷が集中的に命中すれば例え防御力に優れている戦艦と言えども蕪辞ではなかったろう。それだけの被弾を防御力に難がある空母が受けたのだ。ヨークタウンは十分もしないうちに横転し、ミッドウェー沖を墓地として沈没していった・・・・・・
「そうか、フレッチャー提督が・・・・・・」
スプルーアンスは胸元で十字を切った。戦友を失うのは辛いことである。
「提督、もう一度攻撃隊を出して反撃しましょう!フレッチャー提督の敵を取りましょう!!」
参謀達が血気にはやる中でスプルーアンスは余計に冷静になっていった。
「まぁ、待て。先の攻撃で艦載機の消耗が予想より遥かに激しい。これでは第三次攻撃など不可能ではないかね?」
「ですが、ジャップも再度攻撃してくるかも・・・・・・・」
参謀の一人がそう言って反撃を試みた。だがスプルーアンスの冷徹な頭脳はその反撃も計算済であった。
「だが彼等もヨークタウン攻撃の際に攻撃機の相当数を撃墜されているそうだ。おそらく再攻撃は不可能であろうよ・・・・・・」
そう言うとスプルーアンスは何かを思いついたような表情を見せた後にこう付け加えた。
「我々は作戦を成功させたのだから文句はあるまい。欲張りすぎると罰があたるよ・・・・・・」
「二隻の空母を沈められて、反撃で一隻撃沈、か・・・・・・」
赤城艦上の南雲は呟いた。その表情は苦渋に満ちている。
「我が軍の敗北だな、これは・・・・・・」
南雲はミッドウェーの方角に視線を向けて何時までも見続けていた。本来ならば今ごろは日の丸の旗が揺らめいていて戦勝気分に沸き立っていたであろう島を・・・・・・
「副長、終わったようだね」
結城は網城にそう呟いた。網城は静かに頷いた。
「ふふふ・・・・・・副長、後は頼むぞ」
結城はそう言うと艦橋を出て行こうとする。おそらく艦長室に行くのだろう、あのクソ不味い紅茶を飲みに・・・・・・網城はそれを咎めなかった。明らかに網城の抱く結城のイメージは変わりつつあった。
今思い出しても神業としか言い様のない結城の操艦・・・・・・巧みに敵の攻撃を回避し、逆に絶好の対空砲火の射撃地点へと艦を持っていく。そして砲術長である高井の絶妙な弾幕に包まれた敵機は次々に撃墜されていく・・・・・・あの中で網城はたいしたことを何一つできなかった。網城は己の無力感に苛まれていた。
網城は拳を強く握り締めた。そして気付かされた。自分がいかに偏見に凝り固まっていたのかを・・・・・・そしてこれからは頼りになる艦長の下でこの吉野のナンバー2として成長していこうと。
この瞬間から網城は大砲屋ではなくなった。彼は結城たちの同志の一人となったのだ。それをどうとるかは人にもよるが・・・・・・ただ一つ言えるのは網城の人生は未だかつてないほどの充足感に満たされているということだけである・・・・・・
序章 誕生
第二章 海の男達の夜
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