大火葬戦史外伝
「どこでもいっしょ」


「吾輩は猫である。」
 その通り。私は猫である。
 何でも前記のような文章で始まる小説とやらが人間世界には存在するようだ。
 私もそれに倣ってこの文章を始めようではないか。
 そういえばその文章、続きは、
「名前はまだ無い」
 だそうだが、私は違う。
 私にはキチンと名前がある。
 それについてはもっとドラマチックな場面で語ろうではないか。


 どうも私は捨て猫とかいう人種(猫だから猫種やもしれぬ)だったらしい。
 私に残っている最も古い記憶。
 それは箱の中で雨に濡れていることであった。
 兄弟が何匹か、箱の中にいたはずなのだが………
 兄弟たちは私よりもはるかに好奇心旺盛だったのだろう。
 箱を出ていき、そして帰ってこなかった。
 その後、兄弟たちを見た事はない。
 おそらくはどこかで死んだのであろう。
 とにかく、私は独り箱の中で、冷たい雨に身体を濡らしながら鳴き続けるしかなかったのだ。
 非力。
 あまりにも非力であった。
 だがしかし、生後間もない子猫であった私が、それ以外にできることなど存在しなかった。
 雨は私の体温を奪う。
 私はとてつもない眠気に襲われた。
 それは今にして思えば死の前兆であったのだろう。
 だが子猫に過ぎない私にはその眠気の危険さがわからず、その眠気に身をゆだねようとしていた。
 そして永遠の闇が私の視界を覆おうとしたその瞬間。
 私は何者かに抱きかかえられ、宙を舞った。
「何だ何だ。ズブ濡れじゃないか?」
 人間の雄が私を顔をジッと見ながら言った。
「首輪は無し、か。捨てられたんだな。可哀想に………」
 雄は私を憐れむような目で見ると、ポケットから布切れ(どうもハンカチとかいう代物のようだ)で私の濡れた身体を拭ってくれた。
 そして自分の懐に私を入れ、そのまま歩き出した。
 私は困惑していた。
 生まれてからすぐに、人によって捨てられた私に手を差し伸べた人。
 人とは不思議な生き物ではないか。
「ニャア」
 私が何気なしに鳴く。もしかしたら自分の生を確かめるために鳴いたのかもしれない。
 すると私を抱える雄の表情がたちまち緩んだ。
「ん〜。やっぱり猫ってなぁ、可愛いなぁ」
 雄は私の気持ちを知ってか知らずか。そのように言いながら自分の縄張りへと歩いていった。
 私はこうしてこの雄の元で暮らすこととなった。


「ようし、これで大丈夫だろう」
 雄は私を風呂場とかいう所に連れて行き、そしてお湯で私の身体を温めてくれた。
 そして身体をしっかりと拭うと温かいミルクを出してくれた。
 私は遠慮することもなく、そのミルクにむしゃぶりついた。
「うはぁ、かっわいいなぁ、おい」
 雄は私の姿を見ながら悶えていた。
 おかしな奴だな。
 死の顎から逃れたこともあり、私にはその雄を観察するほどの余裕が生まれ始めていた。
 白い布に身を包み、よく日に焼けた黒い肌を持つ雄であった。
「おっと、自己紹介がまだだったか。俺は山本 光だ。ヨロシクな!」
 雄はミルクを飲み終えた私を抱きかかえ、ニコニコしながら言った。
 どうも彼は猫好きな人種らしかった。
「猫君や。君は今日からうちの一員になる。そこで君の名前を考えねばならない」
「ニャア」
 目尻が下がりっぱなしの山本 光とやらが高らかに宣言する。
 しかし私としては異論はなかった。
 だから私は一声鳴いた。
「う〜ん。なんかいい名前とかないかなぁ」
 光が頭を右前足で掻きながら考える。
 私は光の腕から飛び降り、光の部屋で適当にくつろぐことにした。猫というのは気ままな種族なのだ。
「トロ………いや、これは喋る猫専用だよなぁ」
 …………猫は絶対に喋らないはずだが?
「コイツは雄なんだから男っぽい名前でないとダメだしなァ」
 光は頭を捻りながら、何やら箱状の何かのスイッチを入れた。
 するとそこから何やら人間の声が流れてきたではないか。
 今の私ならばそれはラジオであると理解できるのだが、子猫の私の世界は狭い。そのようなものを理解できるはずもなかった。
 私はラジオから逃げた。
「あははは。コイツはラジオって言ってな、声が出てくるんだぜ?」
 光は笑いながら私に教えてくれた。
『…………今日のニュースはこれで終わります。キャスターは私、山岸 次郎でした』
「……………………」
 何故か光は私を見つめる。
「ニャア?」
「決定。君の名前は次郎。山本 次郎だ!!」
 ……………感動的どころか呆れてしまうほど安直に私の名前は次郎と定まった。
「イチチチチ…………やっぱりあんまり調子のってジタバタするもんじゃないか」
 急に腹を押さえてうずくまる光。
 私は不穏に思い、光の腹の辺りを見た。
 光の腹は包帯に覆われていた。
 今までの動きで傷がまた裂けたのだろうか。包帯にうっすらと血が滲んでいた。
「次郎。コイツは名誉の負傷なんだぜ? 勘違いするなよ」
 私を撫でながら、光はそう言った。
 やはり不思議な人間であった。
 その時、光の縄張りを外から隔絶するためにつけられているもの(ドアというらしい)が何者かに叩かれる音が響いた。
「ん? 誰だ? …………竜崎か?」
 光は不審に思いながら、ドアを開けた。
 私も誰が来たのか気になり、ヒョコっと首を上げて隙間を除き見る。
「あぁ?! あ、貴方は!!」
 光の驚愕に満ちた声。私からでは背中しか見えないが、きっとその両目も驚きに見開かれているに違いない。
 そこには赤い、足元に切れ込みの入った布を身につけている人間の雌がいた。目の前になにやらよくわからないものをつけている。これまた後で知ったのだが、あれは眼鏡とかいうものらしい。光は眼鏡をつけた女性が好みだという。…………人間の好みとは私にはわかりかねる世界だ。


「いや〜、あははは」
 雌は何やら愛想笑いを浮かべながら光の部屋に入ってきた。
「い、いや、スイマセン………こんな汚い部屋に入れちゃって……………」
 光は恐縮の極みだと頭を下げる。
 しかしそう言われて私も縄張りの周囲を見回すが、本当に汚い。
 何やらよくわからない、四角のもの(本とかいうらしい)がそこいらに散乱している。
 おまけに筒状のもの(これはゴミ箱とかいうものらしい)はあふれかえっており、中のものが外に飛び出している始末。
 今だからいえるが、要するに光は平均的な男の部屋を持っていたのであった。
「あの………掃除する気はあるんですけど…………その、モチベーションが涌かないっていうか、その……………」
 しどろもどろになりながら言い訳する光。
「い、いや、急にやってきたうちにも責任あるし、その………」
 雌の方もしどろもどろになる。
 どうも二人の面識はそんなに深くはないようだ。
「あ、い、今、お茶でも出しますね?」
 光は急に立ち上がって玄関の脇ににある何かの方(台所なんだそうだ)へ向った。
「ニャア?」
 雌はそこで初めて私の存在に気付いたらしい。
「おっ? 猫ちゃんやないの。こっち来いや、ホレ」
 雌は私を手招きする。
 私は遠慮なく雌の膝の上に乗った。
「………珍しいな。アパートやのにペットOKやなんて」
 これは後でわかったのだが、光の縄張りは本当は私のような猫はダメなんだそうだ。光はそのことで縄張りの本当のボス(大家さんとかいうらしい)にしこたま叱られることになるのだ。まぁ、私の保有は例外的に許されたらしい。
「お茶、入りましたよ、紅蘭さん………あ?」
 湯気を立てている何かを円形のものの上に置き、運びながら光は私の姿を見て一瞬固まった。
 な、何やら光から殺意のようなものが感じられるのが怖いが。
「と、とにかくどうぞ………」
 とにかく光は紅蘭とかいう名前の雌に湯気を立てている何かを差し出し、食料も出した。
「甘いものが好きなん?」
 どうもその食料は甘いらしい。
 子猫の私は後でくすねてやると不穏なことを考えた気がする。
「え? い、いや、まぁ、そうです。男のクセにお恥ずかしい…………」
 光は何やらガチガチに緊張している。
「あ、あの………」
「は、はい?」
「あの時はほんまにすんまへんでした」
 紅蘭はそう言って頭を下げた。
「え? え? え?」
 光は何やら慌てて紅蘭に頭を上げるように言った。
「ちょ、待って下さいよ。紅蘭さんは何も悪いことしてませんってば!!」
「でも………でもうちの代わりに刺されたし」
 あ、紅蘭の声に悲しみの色が見える。
 目から水のようなものがこぼれている。
 それが膝の上で丸まっていた私にこぼれた。
 しかしあの時に散々浴びた雨とは違い、それは温かかった。
「いや、あれはその………軍でちゃんと訓練やってた者としては、暴漢に刺された時点で俺の負けでして、あぁ、何を言ってるんだ、俺は?」
「うちなんかの為に………うちなんかの……………」
 後はもう声にならないようだ。
「い、いや、ファンとしては当然っていうか、その………」
「ニャア」
 何気なく鳴いた私の一言で部屋に沈黙が訪れた。
 この時ばかりは「少し悪い事したかも?」と思った。
「………あぁ、ゴホン。と、とにかくアレは私が勝手にやったことなんで、紅蘭さんが謝る必要はないですよ、いや、マジで」
「ホンマに………ホンマにええの?」
「はい。私としては、帝国華撃団の李 紅蘭さんのためならば例え火の中水の中。何なりとお申し付け下さい、姫様」
 光は多分、紅蘭を笑わせようと必死だったのだろう。
 しかしTPOをわきまえた方がよかったんじゃないかと思う。
 子猫の私から見ても、この状況で冗談を口にした彼はおかしいと思ったからだ。
「……………………」
「……………………」
 沈黙。
 私はあ〜あ、と思いながら尻尾を振る。
「…………『何なりとお申し付け下さい』っていうのもホンマ?」
「え? は、はい………」
「ほんなら………今度の公演、見に来てくれへんやろか?」
 彼女はそう言って長方形の薄い何かを差し出す。
「これは………え? と、特等席じゃないですか!!」
 それはどういうものなのかは私にはわからないが、光の驚きは尋常ではなかった。
「それから、公演が終わってから食事でも………その……………」
「い、行きます、行きます! 例えその日に日米戦が始まっても、軍を抜けてでも絶対に行きます!!」



 そしてその日以後。
 彼女、李 紅蘭はちょくちょく光の縄張りに顔を出すようになった。
 彼女も猫が好きなのか。
 私は彼女にもよく可愛がってもらった。
 幸せな日々であった。
 しかしそれは永遠に続くものでもなかったのだった。



 その日のことは忘れもしない。
 私が光に拾われてから六年後の夏の日のことだ。
「次郎、すまないが、またしばらく出かけるので紅蘭のところに行ってくれないか?」
 光が猫じゃらしで私をいじくりながら言った。
 光はどうも「軍」とやらの都合でちょくちょく家を長期的に留守にするのであった。
 その間、私は李 紅蘭の家で預けられるのである。
 今回もいつものことだと私は軽く流してしまった。
「ニャア」
 私の返事に光は満足げに頷いた。
「ようし、紅蘭の家に行くかぁ!」
 そういえばいつからだろう。
 光が紅蘭のことを「紅蘭さん」ではなく「紅蘭」と呼ぶようになったのは。
 とにかく、それが私にとって、最後の日であった。
 光と共に過ごしたのは。


「気をつけて行きや? 死んだら許さへんで?」
「縁起でもないことをあっさりと言わないで欲しいなぁ、紅蘭」
 光は頭をポリポリ掻きながら、困ったような表情を浮かべていた。
「ま、とにかく後は頼む。今回はマリアナだからなぁ。ちょっと遠いけど………ま、直に帰るさ」
 光はそう言ってウインクした。
「次郎、俺がいなくて寂しがる紅蘭をしっかり慰めてやれよ。いいか、舐めるなら彼女の…………」
「アホ!!」
 バキッ
 紅蘭の一撃が光を襲う。
「は、早く行ってしまえ、この変人!!」
 紅蘭は顔を真っ赤にして怒っている。
「何だよ。俺がいない間、お前の操が夜泣きしないように次郎にアドバイスをだな…………」
「…………………」
 紅蘭の全身から怒りのオーラが出ているのがわかる。ハッキリいって、その怒りの矛先ではない私でも怖い。
「と、とにかく行って来るわ。んじゃね〜〜」
「二度と帰ってくるな、アホ〜〜〜!!」
 そして光は帰ってこなかった。



「嘘や………嘘やろ、そんなん………………」
 紅蘭の顔が蒼ざめている。
 彼女は新聞とやらを読んでいるのだが、文字の読めない私にはそれに何が書かれているのかはわからない。
 ただ、その新聞に光の顔写真が載っているのはわかった。
「次郎………こっち来い」
 いつもの朗らかな彼女からは想像もできないほど落ち込んだ声で紅蘭は私を呼んだ。
 そして椅子に座る彼女の膝元に飛びつく。そこは私の席なのだ。光はいい表情をしなかったが。
「山本はんが………山本はんが行方不明になった……………」
 その言葉を聞いた時、私はショックのあまり、目の前が真っ暗になった。
「泣いたらアカン。泣いたらアカンねんで、次郎。泣いたら………泣いたら山本はんが死んだことを認めるのと同じなんやからな…………」
 必死に涙をこらえ、現実に直面しようとする彼女の姿は…………憐れであった。
 私はその時、初めて光を恨んだ。
 私を拾ってくれてから六年ほどたつが、彼を恨んだのは始めてであった。
 私は紅蘭の膝の上から降り、そして何気なく紅蘭の縄張りの窓の外を見つめた。
「次郎………アンタ……………」
 彼女はハッとしたような声をあげる。
 今にして思えば、既に人に飼われて六年経つ私に残された最後の少量の野生が働いたからなのだろうか。はたまた偶然なのだろうか。
 そう、私が何気なく向いた方角は、光が向ったというマリアナとやらのある方角だったのだ。
「ニャア」
 私は一度だけ、短く鳴いた。
 それだけだ。
 言いたいことはすべて彼に再会したときにぶちまける。そう心に決めたのだ。



 そしてそれから幾度となく日が昇り、そして落ちた。
「ただいま、次郎」
 彼女、李 紅蘭は一応の復活を遂げていた。
 とはいえそれは表面上の復活でしかないのは誰の目にも明らかであったが。
 しかしその日、彼女は思いもよらぬ珍客を抱えていた。
 そう。
 人間の子供であった。
 優しく抱く、紅蘭の腕の中ですやすやと眠りについている子供。
 それは新たな山本家の住人であった。
 三十六と名付けられた子供は彼女、李 紅蘭の新たな支えとなったのだった。



 …………………………
 それから幾年月が流れた。
 私はすでに一〇歳を超えて、かなり経過している。
 年齢の増加など一〇歳となったのを契機に数えるのを止めた。
 もう私は生きているのか死んでいるのかすらよくわからなくなっていた。
 一日を山本家の縁側で、丸くなって過ごす。
 ただそれだけのために生きていた。
 私はすでに死んで然るべき存在であった。
 しかし私は死ぬわけにはいかなかった。
 そう。
 アイツの帰る瞬間を見るまでは、私は死ぬわけにはいかないのであった。
 私はその日もポカポカとした縁側で丸くなり、眠っているのか起きているのかよくわからない境目にいた。
「次郎………次郎か?」
 不意に声をかけられた私は耳をピクリと動かし、顔を上げた。すでにその何気ない動作すら私には困難となっていた。
 懐かしい声である。
 それは…………
「ニャア」
 私は…………感極まって鳴いた。往年のような精気に満ちた泣き声ではないが、細い弱々しい声で私は鳴いた。
「お前………俺が帰るのを待っていたのか?」
 彼は私を抱き上げた。
 懐かしい顔。
 私が待ち望んでいた顔。
 年齢の経過を欠片も感じさせない、あの時のままの顔で彼は私を抱き上げた。

…………山本 光

 私の待ち望んでいた主人の帰り。
 それは夢なのか、現実なのか。
 私にはもうそれはわからなかった。
 ただ私に言えることは唯一つだ。
 私は満足の中で死んだ。
 その後はどうなったかは知らないが、私は信じる。
 光、紅蘭、三十六の三人が、幸せに暮らしたであろう事を。



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