「…………………」
貝塚は夜になっても瑞鶴から退艦することなく、瑞鶴の長官室で静かに本を読んでいた。
「あの、貝塚さん? 帰らなくてもいいんですか?」
艦魂の瑞鶴が怪訝そうに尋ねた。
「ん? あぁ………たまにはいいだろう?」
貝塚は適当に返事してその場を濁した。
「うちは嬉しいですけど………」
瑞鶴はそう呟いてからハッとなって頬を紅く染めた。
「………………」
微笑みながら貝塚は視線を本に戻す。
しかし意識は本に戻さない。
彼は軍服の懐に手をやる。
拳銃のズシリとした重みを噛み締めるように撫でる。
「…………何事もなければいいのだがな」
貝塚はポツリと呟いた。
男はすでに瑞鶴艦内に入っていた。
男は警備の兵士たちに出会うたびにその手を兵士たちの眼前にかざし、そしてそのままゆっくりと歩きさるのみ。
兵士たちはただ呆然としているだけで、男に注意することもない。
否、男の存在すら認識できていなかった。
男の一族に古来から伝わる術、「隠身(おんしん)」。
男の一族はこの術を使い、はるか昔より人知れず魔と戦ってきているのだ。
ましてや男は退魔師の中でも最強ランクを意味する龍面をつけている。それはこの男の術力の高さも意味しているのだ。
たかだか帝国海軍陸戦隊如きに隠身が破かれるはずがない。
男はそのまま瑞鶴に乗りこむ…………前に懐から紙切れを取り出した。
「……………………」
男は何も言わぬままにその紙切れを瑞鶴に張る。
「………結界はできた。もう逃げれぬよ」
男は遂に瑞鶴に乗り込んだ…………
「?!」
瑞鶴が身体をビクッと震わせる。
「どうした、瑞鶴?!」
貝塚が尚も震え続ける瑞鶴の肩に手をやって尋ねた。
「い、いえ、な、何か寒気がして…………それに、何か体が締め付けられるような……………」
「何?!」
貝塚は咄嗟にインターホンを取り、何か異常がないかを確認しようとする。
だが…………
「通じないだと?!」
何度呼びかけても応答は無かった。
「まさか!」
そう思って長官室のドアを開けようとする。
だがいくら捻ってもドアは開くことは無かった。
つまり…………
「閉じ込められた?!」
その時、貝塚の耳に足音が聞こえてきた。
「貝塚さん………」
不安そうな瑞鶴の声。恐怖に少し震えている。
カチャリ
以外にも長官室の扉は大人しく開けられた。
だが乱暴に開けられた方がどれだけ幸せだったか。
なにせ扉を開けて入ってきた男の威圧感は並ではなかったからだ。
「………………」
言葉もなく貝塚は一歩前に出て瑞鶴をその背に隠す。
男は「やはり」と言いたげに仮面の中の目を細めた。
「何者だ?」
貝塚は感情を抑えた口調で尋ねた。
「疾月(ハヤツキ)。我が名は疾月」
疾月と名乗った男は腰の太刀に手を添える。
「………貴様、何者だ?」
貝塚は懐から拳銃を取り出し、先にかまえた。
銃口が照明に照らされて鈍い光を放つ。
「異端を始末する。それが我が使命。それでは不服か?」
だが銃口が自分に向けられてもなんのその。疾月は冷然としている。
「異端………だと?」
「そうだ。主にもわかっておるだろう。そこの少女がこの世にあってはならない存在であることくらいは」
「何?!」
「………いいだろう。教えてやろう。艦魂の正体をな………………」
「艦魂はな、自縛霊の一種とされている」
自縛霊。
何らかの不幸に見舞われた魂が、成仏できずにその死に場所にしがみ付き、霊となることである。
「自縛霊である以上、自身に関係のある場所に宿るのが普通であるが、ごく稀に例外が存在する。宿るべき場所すら知らず、ただ強烈な怨念のみを残す場合である。おそらく、生前の彼女の末路は悲惨なものであったのだろうな」
「……………………」
言葉もなく疾月の言葉を聞くしかない貝塚。
瑞鶴の表情はやや蒼い。
「考えてみるがいい。この空母が先の日米戦争でどのような活躍を遂げたかを。それは彼女の怨念の為せる業。彼女の禍々しい怨念こそが米軍の攻撃からこの空母を守りぬいたのであろうよ」
「……………………バカな」
何事かを呟く貝塚。
疾月は仮面の奥の瞳に不審の色を宿らせた。
「バカな! 瑞鶴が、怨念に囚われているだと? ふざけるな!!」
そして一気にまくしたてる貝塚。
「アイツは………アイツはそんな奴ではない! 俺は信じない、そんな戯言!!」
「………だが」
「彼女が人を呪い殺したというのならまだしも、彼女は何もしていない。俺以外には見えることすらないし、触れることも許されないのだぞ?! それでも彼女を始末するのか?!」
だが疾月は貝塚の叫びに感動した様子も無く、無言で太刀を抜いた。
「………彼女は霊魂。『この世にあってはならない』存在。それだけで始末する理由には充分……………」
ヒュォッ
そう言い終わるやいなや。白刃の太刀が煌き、貝塚のかまえていた拳銃の銃身があっさりと断ち切られる。
「退け………さもなくば、斬る!!」
「退く訳には………退く訳にはいかない!!」
貝塚はそう言い切ると疾月にまっすぐ向って行く。
「逃げろ、瑞鶴!!」
だが貝塚のタックルをかわすことなど疾月にとってすれば稚戯に等しいことであった。
「逃げれるものか…………」
疾月は貝塚に強烈な当身を食らわせる。
「グッ………ハッ?!」
貝塚は己のあばら骨が軋み、砕ける音を聞いた。そして床に崩れ落ちる。
「貝塚さん!!」
瑞鶴が悲鳴をあげる。
「人の心配をしている場合ではあるまいて…………」
疾月は再び太刀を振るう。
瑞鶴はとっさに身をかわしたが、刃は彼女の左腕をかすめ、彼女の白い肌に紅い血の痕を残した。
「我が太刀は霊剣………異端を切り裂くために作られし霊剣。主のような艦魂を切り裂くことなど容易いこと」
疾月はそういって眼を細める。笑っているのであろう。
だが瑞鶴はその眼光に完全に威圧され、身動きすら取れなくなっていた。
「あ………ああ……………」
「安心しろ。貴様の魂は永遠の安らぎの元へ帰るだけ。大人しく我が太刀を受けよ!」
そしてゆっくりと瑞鶴に歩み寄ろうとする疾月。
瑞鶴は、一歩たりとも動けなかった。
「観念したか………む?」
だが疾月は何者かが自分のすそを引っ張っていることに気付いた。
否。
誰かがすそを離さず握り締めており、疾月の前進を阻んでいるのであった。
床に寝そべっているしかできない貝塚のささやかな抵抗であった。
「逃げろ、瑞鶴………早く!!」
貝塚の叫びでようやく我に帰った瑞鶴は必死で走って部屋から出る。
「…………瑞鶴は、やらせない」
貝塚の決意は固い。
だがそれを見た疾月の行動は冷淡であった。
「そうか。後悔せよ」
それだけを呟くと疾月は床に寝そべっている貝塚の腹に蹴りを入れた。
「グッ………」
だがそれでも貝塚は離そうとはしない。
「うああああああああああ!!」
貝塚は獣のように叫ぶと余力のすべてを振り絞って疾月に飛びついた。
まさか貝塚にこれほどの力が残っていたとは思わなかった疾月は虚をつかれた格好となり、貝塚と揉みくちゃになったまま床を転がった。
「えぇい!!」
疾月は初めて声に焦りの色を見せた。
おそらく貝塚の執念に驚いているのであろう。
だがその時、疾月の面が取れたのであった。
「な?! アンタは…………」
疾月の素顔を見て唖然とする貝塚。
疾月の正体は軍事雑誌「球」のカメラマンとして自分たちの前に姿を曝していた男。
つまりは弓削 厚であった。
「クッ!!」
逆説的であるが、自分の正体を貝塚が知ったことによって弓削はこの手詰まりな状況を打破できた。
貝塚に一撃を浴びせ、今度こそ失神させると弓削は立ち上がり、衣服の埃を払ってから再び面をつけ直す。
そして弓削は瑞鶴を追うべく長官室を後にするのであった。
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ………」
瑞鶴艦内を走って逃げる瑞鶴。
しかし艦魂である彼女は瑞鶴の艦外にでることは叶わない。
「貝塚さん…………」
そして彼女は艦橋に出たのであった。
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ…………」
そして呼吸を整える瑞鶴。
しかし何故艦橋なのだろうか。
瑞鶴は自分の行動に少し疑問を抱いた。
というか艦橋以外に行こうとすると気分が悪くなったのだ。
何故? 何故、艦橋以外に向おうとすれば気分が悪くなったの?
自問自答する瑞鶴。
だがその答えは案外早くに出たのであった。
「逃がしはせぬよ」
「キャアアアア?!」
疾月がもうそこに来ていた。
艦橋の入り口をふさがれ、完全に逃げ場を失った瑞鶴。
「残念であったな。ここ以外にお前は行けないように結界で誘導路を作っておいたのだ。ここ以外にお前は逃げ込めれなかったのだ」
そして月光に太刀を煌かせる疾月。
「…………迷わずに成仏しろ。貴様は前世の記憶を失くしているはず。ならばこの世にもう未練などあるまい」
「い、いや…………」
「何故だ? 何を迷うのだ? 自分の死した理由を覚えているのか? そんなはずは無い。覚えているのならば貴様はこの空母の乗員を皆殺しにしていたはずだ!!」
お前は男たちに強姦され、そして激しい怨念を抱きながら死んだのだから。
内心で疾月はそう呟いた。
彼は瑞鶴の死の真相を知っていた。
だが口にすることはない。口にすれば彼女は確実に前世の記憶を取り戻し、そして再び激しい憎悪に身を焦がすからだ。
「わかった。貴様の未練を聞こう。何故成仏したくないのか申してみろ」
一旦太刀を鞘に戻し、尋ねる疾月。
「私が………私がいてくれることを望む人がいるからです……………もう怨念なんてどうでもいい。私は、あの人の傍で、同じ時を過ごしたいのです!!」
一瞬、躊躇ったものの自分の偽らない気持ちを伝える瑞鶴。
疾月はその言葉にギョッとした。
「…………そうか」
疾月は何故か何かを悟ったような表情を浮かべ、完全に戦闘態勢を解いた。
「…………貴様、すでに記憶を取り戻しておるな?」
疾月の言葉に黙って頷く瑞鶴。
「はい。ちょうど日米戦が終わった辺りに」
「…………フッ、貴方の愛しい人がやってきたようだな。陳腐な表現であるが、愛の力は確かに偉大であるな」
疾月の言葉に瑞鶴が艦橋入り口に眼を向ける。
貝塚が、壁に手をつきながらヨロヨロと歩いてきているのが見えた。
「貝塚さん!!」
急いで貝塚に駆け寄り、そして貝塚に自分の肩を借してやる瑞鶴。
「貝塚さん………」
疾月はその面を取り、自らの意思で素顔を曝す。
瑞鶴は疾月の正体に眼を丸くしていた。
「弓削さんだったの…………」
「もう私は彼女を狙うことを止めます」
弓削はいつもののんびりした口調で貝塚に言った。
「な、何故ですか? あそこまで瑞鶴を狙っていたというのに…………」
「…………少し、昔を思い出しましてね」
弓削は曖昧に笑い、貝塚の疑問をはぐらかした。
「貝塚さん。人が異端の存在と寄り添うのは難しいですよ? 私はそれで……………いや、私のことはいいですね」
「弓削さん? 貴方もまさか………」
「それは企業秘密としますよ。ところで………私の霊力ならば、彼女を人と同質にできます。最後に、それだけはさせてもらえませんか?」
「瑞鶴を………人に?」
「正確に言えば、誰の眼にも見えるようにするということですよ。現状では限られた人にしか見えないんでしょう?」
「…………いいのか?」
「はい。私の理想………貴方たちならば実現できそうな気がしましたのでね」
弓削はゆっくりと歩み寄り、瑞鶴の前で止まった。
「瑞鶴………いや、薫嬢とお呼びした方がよろしいかな。それで、いいですね?」
「薫………?」
怪訝そうな貝塚の声。
「ああ、うちの本当の名前です。うち…………」
「おっと。薫嬢、始めさせてもらうので口を閉じてもらおうか?」
さりげなく瑞鶴………いや、薫の口を閉じさせる弓削。
そして弓削は何事かの呪文を唱え…………
「はい。これでいいはずです。では私はこれで消えます。後はお二人の幸せを祈らせてもらいますよ」
弓削はニコリと怪しげな笑みを浮かべ、瑞鶴から立ち去ろうとする。
そして貝塚とすれ違いざまにポツリと呟いた。
「貴方の真っ直ぐな想いが彼女を救ったのでしょう。その気持ち、忘れないで下さいね。私はもう失くしてしまいましたから……………」
「弓削さん…………」
だが弓削は貝塚の方に振り返ることも無く、そのまま立ち去っていった。
そして艦橋に残された二人。
「…………………」
「…………………」
互いにかけるべき言葉を見出せず、沈黙だけが周囲を支配していた。
だが貝塚は意を決し、言葉を紡ぐことにした。
「瑞………あ、いや、薫」
「は、はい………」
顔を真っ赤にして貝塚の顔を真っ直ぐ見据える薫。
「俺は不器用な軍人だ。こんな時にもこれといった言葉が思いつかない。だから直球で言わせてもらう」
「は、はい………」
「俺と………俺と、共にいてくれ。それだけで、それだけで俺はいい」
貝塚はそう言い切った後にハァ、と息を吐き出した。海兵受験した時でもここまで緊張した記憶は無い。
「それだけじゃ………うちは満足しませんよ?」
薫は意地悪く笑うとちょっと背伸びして貝塚の唇にキスをした。
そして強く抱き合う二人。
すでに時刻は日の出の時であり、東の彼方から差し込んでくる陽光が二人を暖かく祝していたという。
「貝塚中将、結婚おめでとう」
日米戦争期にはGF長官を務め、戦後に軍令部総長となった大枝 忠一郎元帥が貝塚の肩を叩きながら笑う。
「おめでとうございます、長官。しかし若くて綺麗な奥様ですね」
貝塚の瑞鶴の戦闘機隊長として太平洋を駆け巡った斗賀野 龍次郎中佐も貝塚を祝す。
そう。今日は貝塚 武男中将とその妻、薫の結婚披露宴であった。
「いや、本当にありがとうございます」
貝塚はいつになくにやけ顔で知り合いの祝福の言葉を受けていた。
「しかしあんな美人、どこで捉まえたんですか?」
押川 恵太大佐がからかうような表情で尋ねた。
「瑞鶴だよ。瑞鶴で出会ったのさ」
正直者な貝塚は真実を口にしたが、誰もそれを信用しようとはしなかった。
「あ、花嫁のお色直しが終わったみたいですよ」
斗賀野が貝塚に報告する。
「いよ、この幸せモノ!!」
「三国一の果報者!!」
様々な言い方でからかわれながらも貝塚は純白のウェディングドレスに身を包んだ薫を出迎え、そしてキスした。
「そう。俺たちはいつまでも一緒にいような」
貝塚は薫にだけ聞こえるように耳打ちした。
もちろん薫は最高の笑顔でその言葉に答えた。