一九三一年九月一〇日。
 大日本帝国首都大阪府の首相官邸。
 その日、大阪は雲一つない快晴であり、夏の名残が強い日差しが窓から侵入してくるはずだった。しかし首相官邸の会議室の窓はすべて分厚いカーテンがかけられ、わずかな光の侵入すら許さなかった。
 明かりの侵入を頑なに拒んだ会議室の中で、畳四畳分の大きさのスクリーンに写真が投影されていた。航空機から撮影された写真は画質が荒く、にわかでは内容を判断する事はできなかった。
「………以上のことからソビエト連邦の満州侵攻は確実であると考えるのが妥当でしょう」
 だから写真の内容を解説する専門職、軍人が指示棒を片手に弁を振るっていた。内閣総理大臣若槻 禮次郎は軍人の説明が終わると一度だけコクリと頷いた。
「内閣総理大臣として命令します。我が帝国は満州での紛争に介入しない、それを基本方針とします。朝鮮や大連の邦人に、満州への立ち入りを避けるように勧告を出しておいてください」
「命令? 政治家が軍に命令するというのですか?」
 若槻の言葉を聞き流せず、口を挟んだ男がいる。カーキ色の服は帝国陸軍が定めた軍服である。陸軍大佐東条 英機は若槻に言った。
「我が陸軍に命令できるのは天皇陛下のみ。政治家に命令されるいわれはありません」
 東条 英機は傲慢さを滲ませる口調で言い切った。たかだか陸軍大佐ごときに自分の言葉を否定された内閣総理大臣は苦虫を噛み潰した表情を見せている。そして内心で呟いた。
 何を考えてあのような法を作ったのだ、先人は。政府が軍隊と言う暴力装置を制御できないような法は、いつか破綻を起こすのではないだろうか。
 若槻の懸念は現実となった。

大火葬戦史外伝
満州の砲火
前編「満州1931」



 大日本帝国憲法第一一条は以下の通りである。
「天皇は陸海軍を統帥す」
 即ち、日本の軍隊の統帥権は天皇のみが持っているということである。しかし昭和の世を迎える頃には、天皇の権力は象徴的なモノに限定されつつあった。
 国家元首ではなく、国家の象徴としての天皇である。
 しかしこの憲法の文章は改定される事はなかった。関東大震災以降の発展と、民主主義の成熟によって改定するべきだと言う流れは幾度となく生じたが、それ らはすべて潰されていた。天皇にのみ命令される立場である日本の軍隊は、内閣総理大臣ですら手を出せない絶対権力を手にしていたのだ。人間とは卑しい存在 であり、手中に収めている権力を自ら放棄することは絶対にしない。日本の軍隊は憲法を改定しようとする政治家たちを「統帥権の干犯である」として直接的、 間接的手法で退場させていた。
 故に、日本は世界でも一、二を争うGNPを誇る超大国でありながら、日本の軍隊は文民によるコントロールを受け付けないというおかしなことになっていた。



 一九三一年九月一七日。
 満州鉄道大連駅に特急「あじあ」号が停車する。二本のレールを滑る車輪が火花を散らして巨体にブレーキをかけている。
「三番ホームに到着しました列車は、一三時五一分大連発、ハルビン行き特急『あじあ』号でございます」
 大連駅の各所に設けられたスピーカーが駅員の特徴的な抑揚がつけられた声を拡声させる。特急「あじあ」号の扉が開かれ、ハルビン駅、途中停車する長春駅 に向かう乗客が多く乗り込む。その多くは満州で商売をする日本人だったが、中には親子連れの観光客の姿も見えた。大人たちは興奮を抑えきれないのか鼻を穴 を膨らませ、子供たちは興奮を隠そうとせずに、まだ塗料の臭いがするほど真新しい特急「あじあ」号に乗車していく。
 特急「あじあ」号は先月に完成したばかりの満州鉄道自慢の高速特急だ。関東大震災後に誕生した「新大地」の豊富な資源を財源に急速な発展を遂げた日本の 技術力は加速する一方で、一九三四年辺りに実現する予定だった特急「あじあ」号は計画より三年以上も早く実現され、満州の大地を走っているのだった。
「特急『あじあ』号、発車いたします。お見送りの方はもう少しお下がりください」
 駅員が「あじあ」号の周囲の安全を確認し、確認が取れたので手を上げて笛を吹く。その音を合図に「あじあ」号の扉は閉められ、「あじあ」号は大きく、そして長い汽笛を吹き鳴らして走り始める。
 ゆっくりと、だが確実に速度を増やしながら走り始める「あじあ」号を見送る一団に、カーキ色の服を身に着けた者たちがいた。言うまでもなく、帝国陸軍の将校たちである。
「い、いよいよですね、中佐」
 まだ若い、少尉の階級章をつけた軍人が張り詰めた声で言った。その響きは返済不可能な借金を背負ってしまい、やむをえず強盗を行ってしまった善人を連想させる。
「そうだな………」
 それに対して応えた男の声は正反対の印象を与える。まだ生きている魚をまな板の上に置き、捌いて今日の晩御飯を作るかのような、一ミクロンの後悔も感じさせない響きだ。
「少尉、我々は渡ったのだよ」
「は?」
「我々のルビコン川を渡ったのだ。今更どうこう言った所で何も変わらないよ、少尉」
 しかし少尉の顔色は変わらない。いや、中佐の言葉を聞いて後悔の色を深めたようにすら思える。嗚呼、どうして自分はこのような陰謀に加担してしまったのだろうか。
 後の歴史家曰く、「大日本帝国が生んだ最悪の山師」こと石原 莞爾は悪魔のように微笑みながら時が過ぎるのを待っていた。



 一九三一年九月一七日。
 大日本帝国の首都機能が大阪に移転したため、陸軍参謀本部のビルも大阪は梅田に新しく建設されていた。
 いかにも陸軍的な堅実な作りのビルディングは建築業界では「保守的すぎる」と不評らしいが、使う方は何一つ文句が思い浮かばないほどによいデキであった。
 参謀本部の食堂で少し遅めの昼食を取っているのは東条 英機一人であった。食堂で調理と経営を担当しているオバチャンも昼休みに入っており、東条は文字通り一人であった。
「東条、英機陸軍大佐だね?」
 食堂には自分以外誰もいない。そう思っていたし、事実そうだったのだから、東条は不意に声をかけられて味噌汁を吐き出しそうになった。しかし陸軍大佐であり、エリート街道を駆け上がる者のプライドからか、味噌汁をブザマにはきこぼす事はなかった。
「いかにも、自分が東条ですが………貴方は?」
 東条は声の方に振り返り、そして顔をしかめる。東条に声をかけたのは泥だらけで、さらに布の端が惨めなほどボロボロになった法衣を纏った僧侶であった。僧侶は禿げ上がった頭を撫でながら名乗る。
「儂は阿門。見ての通りの坊主じゃ」
「はぁ………」
 汚らしい坊主が、自分に何のようなのだ。東条の眼差しはそう尋ねていた。阿門は一度だけ苦く笑う。
「ところで、統帥権を振りかざして若槻に噛み付いたらしいな?」
「どうしてそれを………?」
 政府と軍の高官のみが出席したあの会議での内容は最高機密だ。このような一介の坊主が知っているはずがない。まさかこの坊主、スパイなのでは………。
「スパイがわざわざ目の前に現れるかね?」
 阿門と名乗る僧侶は東条の内心を簡単に覗き、そして披露してみせる。それに腹を立てるよりは、目の前の僧侶に対する怖れが成長していくのを東条は感じていた。
「それはともかく………」
 阿門は懐からタバコを取り出し、ライターで火を点ける。
「東条大佐、君は明日から忙しくなるだろう」
「明日ですと?」
「そうだ。それまでに色々と思いを巡らせておいた方がいいぞ。私はそれを教えに来ただけだ」
「待ちなさい、それはどういう意味です?」
「もう一つだけ教えておこう。君の心の拠り所は、二つのことを望まない。一つは戦争、そしてもう一つは自殺………」
「自殺?」
「自殺は責任を取った事にならない。自殺は逃避でしかない。そういうことだ」
 阿門はそれだけ言い残すと東条に背を向け、一度も振り返ることなく食堂を後にした。東条は歩み去っていく阿門を止めることはなかった。そのことすら思い浮かばなかった。阿門の言葉の真意を、東条は計り損ねていたのだった。
 彼が阿門の言葉の真意を掴むのは、もう少し先のことである。



 満州南部の長春郊外に住居を構える李家は裕福とまではいかないが、一家五人と十名ほどの小作人を養うに充分な土地を持っていた。
 李家の当主である策杏は小作人を奴隷のように扱うのではなく、家族の一員として見ていた。それ故に李家の農場は常に和気藹々としており、いつも笑いが耐えない良い農場であった。
 李 策杏には三人の娘がいた。農家の娘なのだから、深窓の令嬢のような新雪の如き肌は持たない。だが太陽の光をよく浴びて、土に抱擁されて育った娘たちは眩しいばかりの笑顔と誰からも愛される愛嬌を持っていた。
 そんな李家の三女、紅蘭は李家が住まう村だけでなく長春全体でも有名だった。まだ一〇歳にもならない紅蘭はクセの強い髪を三つ編みに束ね、そばかすの多い顔をよくはにかませる少女であった。だが彼女が有名なのは容姿のためではなかった。その理由は彼女の頭の中身である。
 紅蘭は子供の頃から物覚えのよい娘だと言われていたが、それはもはや驚くレベルを超えていた。恐怖すら感じるレベルに達していたのだ。
 彼女は一度見たモノなら何でも理解してみせた。策杏が趣味でバラしたものの、元通りに動かなくなっていた機械時計を修理してみせたのが四歳の時。以降、 彼女は事あるごとにその能力を発揮し、徐々に力を強めつつあった。今や辞典クラスの本を一度読んだだけで、内容のすべてを理解できるほどだった。それは何 ページの何行目の文字が何であるかを正確に当ててみせるほどだった。
 長春の医者は彼女がサヴァン症候群なのではないかと疑い検査した。サヴァン症候群とは知的障害を伴う自閉症のうち、ごく特定の分野に限って、常人には及 びもつかない能力を発揮する者のことである。「忘れる」という能力が欠落しているため、一度見たモノは完全に記憶できているのである。しかし、李 紅蘭は サヴァン症候群ではないと診断された。彼女に自閉症の兆候がまったく見られなかったため、サヴァン症候群の定義から外れてしまうためだ。
 そのことを李 策杏は「神から二物与えられた」という風に捉えていた。通常、何かしらの欠陥が伴うはずのサヴァン症候群であるが、紅蘭にはそれがない。 それはすなわち神に愛された子供だということではないか。策杏は三女の成長を楽しみにしながら、日々を農作業に費やしていた。
 そう、あの日までは。



 一九三一年九月一七日深夜………。
 太陽が地平線の向こうに隠れてから数時間。星明りすらも厚い雲によって隠されたため、満州・ソ連間の国境は明かり一つなかった。
 当時、満州は中華民国の一部であるとされていたが、実際には張作霖率いる軍閥が支配する状態であり、中華民国軍というよりは張作霖軍が満州の防衛に当っていた。
 張作霖は国共内戦によって華中・華南で争いを始めた中華民国を尻目にしながら満州で兵力と国力の増強を行い、独立を宣言する準備が着々と進めていた。だが、それはすべて無駄な努力となってしまった。
 満州・ソ連間の国境を見張る第一二三国境監視楼に駐留する第六三四歩兵中隊に所属する中一等兵は監視楼の頂点で星明かりが差し込まない、闇夜に視線を 送っていた。中一等兵はマッチを擦るとタバコに火を点し、ついでに時計を確認する。二三時五九分四五秒。あと少しで日付が変わるな………。
 中一等兵はそんなことを考えながら紫煙を吐き出す。その時だった。
 カッ
 中一等兵はあまりの眩しさに目を閉じた。夜が一瞬にして昼に変わる。この魔法を成し遂げたのは照明弾のおかげだった。涙で滲んだ中一等兵の視界に映るの は土埃を巻き上げながら進む戦車、戦車、戦車………。鉄の肌を持つ暴れ牛は顔を監視楼の方に向けたかと思うと、監視楼に向かって火を吐いた。
「なっ!?」
 中一等兵は不気味な浮遊感に捉われる。床を踏みしめている感覚が「なっ」という間に消えていくのだ。中一等兵が最期に見たのは倒壊し、自分目掛けて崩れ 落ちてくる監視楼の天井のレンガであった。レンガが自分の顔面を砕く音を聞いたような気がしたが、痛みを感じる暇もなく、電源を急に引っこ抜かれたテレビ のように視界が消える。中一等兵を始めとする第六三四歩兵中隊は、ソ連軍の戦車の砲撃によって崩れ落ちた第一二三国境監視楼と共に戦死したのであった。生 存者は一人もいなかった。
「監視楼、破壊!」
「おい、通信を発した様子はあったか?」
「ありません! 周囲に聞こえるのは我々が進軍する音のみであります!」
「よし。ならば前進を再開する!」
 一九三一年九月一八日午前〇時一二分。
 ソ連軍は一切の抵抗も受けずに国境を突破。大挙して満州へと攻め寄せたのだった。



 ソ連軍、満州侵攻を開始!
 日本の首脳部がこの情報を入手したのが一九三一年九月一八日午前三時頃。その報告を受けて政府首脳部が緊急の会議を開いたのが同日午前五時三八分。草木も眠る丑三つ時にも拘わらず、迅速に集合できたと言っていいだろう。
「それで、ソ連軍の動きはどうなのかね?」
 若槻首相が真っ先に尋ねたのはソ連軍の動向であった。彼らは満州のみならず、日本の領土である朝鮮半島まで侵攻してくるのではないか。若槻はそれを恐れていた。
「ソ連軍の動きに関する情報は錯綜しておりますが、しかし大きく分けてソ連の攻撃は三方向に分類できます」
 満州の地図を広げさせ、指示棒片手にソ連軍の動向を説明するのは東条 英機であった。東条はまずモンゴルを指し示す。
「一つはソ連の属国であるモンゴルから攻める部隊。その目標地点はチチハルであると考えられます」
 次いで東条は指示棒の先をモンゴルから見て右上へと動かした。
「二つ目はアムール川、もしくは黒竜江と呼ばれる川を渡河する部隊。これも最終的にはチチハルを目指して南下すると考えていいでしょう」
 東条はそう言うと水を一口飲んで口の中を湿らせる。
「以上の二つは一個師団程度の戦力と見られ、張作霖軍閥から見れば大軍ではありますが、それでも主力ではありません」
「……………」
「ソ連軍の主力は満州からソ連領に向かって流れているソンホワ川に沿うかのように進軍する部隊です。その数は一個軍団。満州を占領するどころか、その気になれば満州を石器時代に戻すことも出来るほどの戦力であると言っていいでしょう」
 ざわざわざわ………。
 東条の報告を聞いた政治家たちは互いの顔を見合わせる。満州に攻め寄せたソ連軍の戦力は、日本が朝鮮や大連の守備に置いている関東軍をさらに上回る戦力であった。ソ連軍の矛先が朝鮮や大連に向いた場合、守りきれるのだろうか?
 不安の色で化粧された政治家たちに東条は言った。
「ですが、これらの戦力が大連や朝鮮に向かうことはない。私はそう言い切っていいと思います」
「理由は?」
「簡単です。ソ連軍は満州の制圧を目的としているからです。もしもここで二匹目、三匹目のウサギとして大連や朝鮮にまで兵を送ろうとした場合、兵力が分散 され、張作霖の軍閥でも充分に戦う事が出来るでしょう。ソ連は満州を制圧するために、何よりもまず張作霖の軍閥を撃破しなければならないのです」
 ただ土地を占領するだけではダメなのだ。敵軍の戦力が残っていては、せっかく占領した土地が取り返されてしまう可能性があるからだ。所謂、「目的はパリ、目標はフランス軍」という奴だ。敵軍を粉砕してしまえば後は切り取り放題となるだろうから。
 故にソ連軍は戦力を分散させるのではなく、集中させて張作霖の軍閥との決戦を挑まなければならない。その決戦は張作霖の軍閥が敗退する可能性が高い。し かし、おいそれと決着がつく物にはならないだろう。張作霖軍閥とソ連軍が決戦を行っている間に日本は動員を行い、大連と朝鮮の双方に援軍を送ればいいの だ。動員が済み、戦力が整った大連と朝鮮に手を出す事をソ連はしないだろう。超大国となった日本との全面戦争は対共産主義十字軍の結成を促す恐れがあるか らだ………。
 以上の考えを簡潔に東条は披露し、政治家たちの顔から不安の色をとりあえずは取り除いた。
 だが、その時である。ドアが乱暴に開け放たれ、陸軍少佐の階級章をつけた男が乱入してきたのだ。慌てすぎた足は絡み合い、男は無様に転倒してしまった。
「何をやっているのです………」
 東条は呆れながら転倒した少佐に右手を差し伸べる。そして左手で少佐が落とした紙切れを拾い、内容を確認する。
 ビターン
 今度は東条も転倒した。足腰が立たなくなるほどの衝撃が、この紙切れには秘められているのか。若槻は密かに喉を鳴らし、覚悟を決めて紙切れの内容を読み上げる。
「関東軍より通達。我、コレヨリ張作霖軍閥ト合流ヲ果タシ、共ニ共産主義者ヲ打チノメサン………」



 関東軍の司令部が置かれているのは関東州の旅順だ。かつて帝政ロシア軍の軍港と要塞が築かれ、数多の命が失われた場所に、軍の司令部が置かれているのは当然の摂理であろう。
「連隊長殿、出撃の準備、整いました」
 帝国陸軍中尉竜崎 英策はそう言って上司に敬礼。竜崎の背後では鉄製の猛牛がガソリンの鼻息を荒くしていた。
 帝国陸軍独立混成第九九連隊は名前こそ連隊であるが、実際の規模は旅団級であった。竜崎 英策を始めとする独立混成第九九連隊に属する者たちは「白波連 隊」と自分たちのことを呼んでいた。最新鋭である八九式中戦車を装備し、随伴歩兵やら連隊付砲兵部隊やらをごっちゃにした独立混成第九九連隊は連隊単独で 戦闘が行える。いわゆる諸兵科連合部隊、後の世にいう戦闘団カンプフグルッペの走りだといえる。
 中国大陸の広い大地で諸兵科連合部隊の戦闘データを集めていた独立混成第九九連隊に出撃命令が下ったのは今から三〇分前だ。わずか半時間で出撃準備が完 了したのは、明日から実弾を使った演習を一週間ほど行う予定があったからだ。故に物資、弾薬、燃料は一通り揃っており、迅速な対応が取れたのだが………。
 独立混成第九九連隊を率いる近藤 白虎大佐は胸の支えが取れないでいた。ソ連が満州軍閥との国境地帯に部隊を集結させていたのはわかっていた。その威嚇の意味を込めた実弾演習だと聞かされてはいたが、そうすると疑問がわいてくる。
「どうして長春に『あじあ』号がいたのだ?」
 長春に向かった特急『あじあ』号に乗る邦人を救出するために関東軍は出陣する。近藤は関東軍司令部からそう聞かされていた。邦人を赤い悪魔から救う。それは軍人の本分ともいえ、近藤の心の奥底から闘志が燃え上がる。だが、その炎にはゆらぎが見られた。
「もしや関東軍の司令部は『あじあ』号の邦人を利用して満州に介入しようとしているのではないか?」
「連隊長殿………?」
 近藤は三度だけ頭を振ると、湧き上がる疑問を胸の内に閉まった。
「いや、何でもない。では、すぐに出撃する」
 近藤の疑問は的中していた。
 関東軍司令部、いや、石原 莞爾は政府が発した満州への立ち入り禁止命令を大連の邦人に伝えていなかったのだ。ソ連軍が国境に集まっている事すら知らず、呑気に新型特急に乗った日本人たちは、関東軍の満州介入への絶好の口実として使われていた。



 一九三一年九月一九日午前一一時一二分。
「関東軍が我々に協力してくれる」
 その事実は張作霖に一縷の望みを繋がせていた。
 張作霖の軍閥の総戦力がどれほどだったのか。それは未だによくわかっていない。まるで戦国時代のようにそこいらの農民を民兵として徴集し、戦力としていたからだ。そんなことをしていては誰がどこの部隊にいるか、把握できるはずがない。
 ただ、研究家たちの妥協点として示されている数字は五個師団程度だとされている。ただし、この五個師団は訓練も不足しており、さらに装備も旧式である。ソ連軍の一個師団にも満たない戦力だと思っていいだろう。
 当然ながら、そんな戦力では敗走を繰り返すばかりだ。ソ連軍の勢いは津波のようで、時計の短針が三〇度動く度に満州の国土は赤く塗り替えられていった。
 だが、関東軍が、日本人が応援に駆けつけてくれるならば望みはある。
 関東大震災以降の、冗談のような大発展の結果、超大国となった日本が味方してくれるならばソ連軍を撃退する事は可能なはずだ。何せ彼らは一度ロシア人を撃退しているのだから。
 ならば張作霖の取るべき手段は一つだ。主力を温存しながら、関東軍との合流を目指し、合流以後にソ連軍主力部隊に決戦を挑むのだ。戦闘は熾烈を極めるだ ろうが………何、満州の奥深くまで引きずり込めば補給線も伸びきり、ソ連軍は弱体化しているはずだ。勝機は大きいと考えていいだろう。
 張作霖は全軍に後退を命じた。
 そんな張作霖が唯一気にしていたのは息子のことだった。息子、張学良は張作霖の後を継ぐべき男だ。だが、ソ連軍の侵攻が始まってから姿が見えない。
 神出鬼没で何を考えているのかよくわからない息子であるが、満州を思う気持ちは私以上であり、能力にも申し分ない。アイツならば私が死んでも立派にやっていけるだろうな。
「父上、ただいま戻りました」
 噂をすれば何とやら。張作霖が思いを巡らせていた息子、張学良が張作霖の前に姿を現した。
「おお、学良。どこに行っていたのだ?」
「国境付近の部隊を視察していたらソ連軍の侵攻開始です。危うく死ぬところでしたよ」
 張学良は欧米人のように肩をすくめてみせた。自分が死にかけたことすら冗談にできる辺り、張学良の神経は図太く、そして硬い。
「まぁ、無事で何よりだ。とにかく我々は日本人と合流する。日本人の力を借りればソ連軍など鎧袖一触よ」
「父上、日本人と共闘するのですか?」
「当然だ。共産主義者などに満州を渡せるものか」
「それは………困りましたな」
 カチャ
 撃鉄の上がる乾いた音が室内に響く。張作霖は額に銃口を突きつけられていた。
「学良! これは一体………」
「日本人は満州を必要としていない。あのインチキくさい新大地のおかげで満州などなくても発展できる」
 張学良は迷いのない口調で続ける。
「この満州を発展させるには、満州を必要としてくれる者と手を結ぶべきだ」
「学良!」
「父上、私は、満州はソ連と共に発展します。見ていてください」
 パンッ
 張作霖は額を撃ち抜かれて即死した。見開かれた眼は裏切った息子、張学良を断罪していたが………死人の眼差しが生者に何の影響を与えよう。
「おかしなものだ………」
 張学良は自嘲気味に笑った。
 父、張作霖は死んだ。私が殺した。私は父を殺める間際に「父上、私は、満州はソ連と共に発展します。見ていてください」といったが、どこでそれを見ると言うのだ?
 満州は共産主義の国となるのだ。共産主義者とは唯物主義者だ。死後の世界など認めない唯物主義者の国が、たった今死んだ張作霖に何を期待するのだ?
「とんだ茶番だな」
 張学良は声をあげて笑い始めた。笑いすぎて呼吸困難になり、咳き込みながらも笑い続けた。目の端から涙がこぼれ落ちたが、それが何を意味するのか………。自分にもわからなかった。


中編「追憶1941」


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