陸軍参謀総長と陸軍大臣を兼任する東条 英機陸軍大将の朝は早く、夜は遅い。
 陸軍軍令と軍政。どちらか一方だけでも大変な量の仕事となる。それを二つも掛け持ちするのだ。その仕事量は半端ではない。
 何せ帝国陸軍は平時でも何十万単位の人間が所属する組織。日米開戦後に通された国家総動員法の採用によって徴兵制度が復活した事で、今後はさらに大きく膨れ上がる事になるだろう。たとえ財閥と称される大企業でも、帝国陸軍ほどの規模にはなるまい。
 その国内最大規模の組織のトップを兼務すると言うのだ。陸軍参謀本部では「東条閣下は一日三〇時間の執務を行っている」と囁かれているほどだ。
 そんな東条 英機にとっての唯一の娯楽はアマチュア無線コミュニティ「チャンネル・ツー」にアクセスする事であった。今日も参謀本部の執務室で昼食を取りながらアマチュア無線機のスイッチを入れている。
 日本におけるアマチュア無線の普及は満州事変に起因している。
 ソビエト連邦が「世界革命の第一歩」として満州に兵を送りこみ、帝国陸軍の石原 莞爾というお調子者が「満州救援」を名目として、政府の許可を待たず勝手にソ連軍と衝突した宣戦布告なき戦闘、つまり事変である。
 この事変で帝国陸軍はソビエト陸軍にコテンパンにやられた。
 満州事変の後、帝国陸軍はその敗北の分析に血眼になった。そして敗因を大きく三つに分けた。ソ連軍の持つ戦車に対する抵抗手段がなかったこと。そもそも重砲を始めとする砲撃力が皆無であったこと。そしてソ連軍の通信妨害に対する手段がなかったこと………。
 満州でソ連軍の指揮を取った「赤軍の赤い彗星」ことミハイル・トハチェフスキーは自らこう語っていた。
「敵軍の戦力は三つの要素で構成されている。一つは火力、一つは機動力、そして最後に通信である。これらのうちの一つでも奪えば、敵軍は三分の一が無力化されたということになる」
 詳細は別途記載することになるだろうが、帝国陸軍はトハチェフスキーのこの言葉を嫌というほど思い知らされた、ということだけ記しておく。
 そして日本軍は満州事変での敗因となった要素の改善に取り組み始めたのだった。
 火力と機動力に関しては重戦車虎王の開発、または一五五ミリ級重砲の自走砲化で補った。
 通信に関しては帝国陸軍だけでどうにかなる問題とは思えず、民間の手を借りる事にしたのだ。
 つまり通信産業に対する国の補助が行われたのだ。これによって日本の通信産業は大いに盛り上がり、三年で技術力は爆発的に向上した。そしてその向上した技術を軍隊に還元させたのだ。今や帝国陸海軍は世界でも一、二を争うほどの通信能力を完備している。
「これだけの無線があの時にあれば………」
 東条は誰に言うでもなくボソリと呟いた。しかし即座に自分の言葉を否定する。
 いや、結果論ではあるが、我々は満州事変で負けて正解だったのだ。あれがなければ帝国陸軍の組織的欠陥は露呈することなかったのだから………。
 東条の考えは扉をノックする音で中断を余儀なくされた。
「入りなさい」
 東条の声を合図に扉が開かれる。ノックの主は彼が副官として採用している少佐だった。
「閣下、会議の時間です」
 飾り気のない、簡潔な言葉。見せ掛けよりも中身を重視する東条 英機はこの副官の実務一辺倒な姿勢を買っていた。
「わかりました。では行きましょうか」
 東条はアマチュア無線のスイッチを切って立ち上がる。
 今から首相官邸に向かい、日米戦争の事に関する会議が行われるのだ。海軍から持ちかけられたこの会議での議題はアメリカが開発に成功したと言う新型兵器のことだという。海軍軍令部次長遠田 邦彦曰く「戦争の意味を変えてしまう」ほどの新型兵器………。
 東条 英機はあらかじめ読むようにと渡されていた資料の内容を思い出して身震いする。その震えは件の新型兵器に対する恐怖の表れであった。

葬戦史R
第一一章「海狼の宴」



 一九四二年四月四日午前一一時二三分大日本帝国首相官邸。
「XB−29 スーパーフォートレス………」
 内閣総理大臣幣原 喜重郎は資料の表題を読み上げる。外交畑出身のハト派の首相は軍事に疎い。資料を何度見てもその意味がわからなかった。だから首相は臆面もなく尋ねる。
「で、この戦闘機・・・がそれほど問題なのですか?」
 無知なのは罪ではない。本当に罪なのは無知である事を恥じず、知識を仕入れようとしないことだ。その意味で質問にためらいのない首相の姿勢は素晴らしい。素晴らしいが………。
「首相、戦闘機ではなくて爆撃機です」
 東条が首相の言葉を訂正する。まったく、空を飛ぶ軍用機はすべて戦闘機か。
「この資料にも記してありますが、この爆撃機は在来の戦闘機では決して上がれぬ高度を飛ぶことが出来ます」
 東条はそう言ったが、その言葉は嘘だ。XB−29の飛行高度一万メートルは、陸軍の鍾馗、海軍の零戦でも到達する事ならできるからだ。しかしそれは「到達できる」というだけ。そこで戦争ができるかといえば………東条の言葉が正しくなる。
 東条はチラリと隣に座っている海軍の代表者の顔を見やる。海軍軍令部総長永野 修身海軍大将が太い眉毛を指で弄くっている。それはあまりに緊張感に欠ける仕草だ。東条に同調してくれる風には、まったく見えない。東条は内心に苛立ちの波が生じるのを感じる。
 永野 修身は軍令部総長であるが、それは表向きだけだ。少なくとも東条 英機はそう考えている。海軍の軍令を司るのは永野ではなく、その補佐を行うはずの次長遠田 邦彦。帝国海軍随一の戦略家である彼がこの場にいたならば、倣岸とも取れるほどの自信を後ろ盾に政府のお歴々を説得してくれただろう。
 だが、この場に遠田はいない。東条は援軍が望めぬ状況で、独り戦いを開始するのであった。



 では、遠田 邦彦中将は会議にも出席せず、何をしていたのであろうか?
 遠田は年甲斐もなく給料の大半を風俗につぎこむような男であるのだから、やはり風俗通いを行っているのであろうか?
 当然ながらそれは違う。遠田は海軍軍令部「扶桑ビル」にいたのだから。
「戦艦五隻、空母五隻を中核とした艦隊がジョンストンを出撃したか………」
「扶桑ビル」地下三階部分は作戦司令室となっている。野球場が一つすっぽりと入ってしまうほどの大空間に所狭しと設置された演算機。それはまるで墓地の墓石のように林立している。
「おい、スクリーンに敵艦隊を表示してくれ。マップサイズは三番で頼む」
 遠田の指示を受けて部下たちが動き始める。三分も待たないうちに三〇〇インチのスクリーンにトラック諸島近海の海図が映し出され、赤い光点がスクリーン上で点滅を繰り返す。
「すごいな………」
 三〇〇インチの巨大スクリーンに、視覚的に表示される情報。これは情報の扱いに一大革命をもたらすだろう。遠田と共に地下作戦司令室を訪れている結城 繁治中佐は素でそう呟いた。
「ふふ、凄いのはそれだけじゃないぞ」
 遠田は友達におもちゃを自慢する子供のような目で次の指示を出す。
「おい、味方艦の情報も表示してくれ。そうだな、マップサイズは六番で、敵艦隊を中心にしろ」
 遠田の指示でスクリーンが切り替わり、今度は赤い光点がスクリーンの中央に表示される。そして赤を囲むように現れる青い光点。
「ほぅ………」
「これだけの設備を整えているのは世界中を探しても我が大日本帝国だけでしょう」
 今やすっかり遠田の秘書官扱いとなった押川 恵太少佐が鼻息荒く宣言した。
「この『トチロー』のおかげで帝国海軍の情報収集、解析能力は格段に向上しましたよ」
「『トチロー』?」
「ええ。今はだいぶ安定してくれたんですが、可動開始直後は酷かったですからね」
 押川は当時の苦労を思い出して肩をすくめる。可動開始直後は不具合の嵐で、情報は表示されない、されたと思えば計算が間違っている、操作になれていないことを差し引いても動きが遅い………etcetc。そこでついたあだ名が『トチロー』。理由、とちりまくるから。
「押川、苦労話なら後でやれ。今は他にやることがある」
 遠田にそう言われて頭を下げる押川。しかしまだ言い足りない様子なのが表情からも窺える。
「とにかくだ、結城。このトチローを使って戦場の情報を集め、統轄する。お前にはこれの使い方について慣れておいてもらう必要がある」
「なるほど。それで私を呼んだんですか」
「そうだ。さて、では本題に入ろうか」
 遠田はそう言うと赤い光点に目をやる。その視線は射るように鋭い。



 一九四二年四月四日現在、アメリカ合衆国海軍大佐 ウィリアム・ハリルは米海軍空母 ワスプの艦長を務めている。
 直情的で、喧嘩っ早い性格の持ち主で、日本人で譬えるならば「江戸っ子」にあたる男である。
 そんな彼はワスプ艦長就任以来、頭を悩ませていた。
 何に迷っているのかって?
 対日戦のこと? いいや、違う。
 じゃあ嫌な上官にでも出会ったのか? それも違う。
 わかった、女のことだ!
 その答えは当たっているといえば当たっている。しかし彼は認めようとはしないだろう。
 何故なら………。
「おい、邪魔だ。どいてろ」
 ハリルがあからさまに邪険にした態度で少女を、一三歳くらいに見える、いたいけな少女を追い払おうとする。その少女の外見を簡潔にするならば、「天使のような」という形容がピッタリであろう。しかし………。
「ちょっと! レディーにその態度は失礼じゃないの!!」
 ハリルの態度に対し、少女が烈火のごとく怒り狂う。これを見てしまうと「天使のような」という形容を使うには気が引ける。しかし元気なのはよいことでもある。
「レディー? 軍艦にレディーなんぞおらんよ」
「じゃあ、アンタの目の前にいるあたしは何なのよ!」
 少女が口を尖らせてハリルの返答を待つ。
「がきんちょ、かな?」
 ハリルは肩をすくめながら、そう応じようとする。だが………。
 ドゴッ
 少女の蹴りがハリルの股間にめり込む。男にしかわからない激痛がハリルを襲う。
「Å♯★◇○♪∴∀仝!!」
 ハリルが股間を押さえながら、意味不明な呻き声をあげる。
「失礼なこと言わないでよね!!」
「そ、そういうことをするからがきんちょなんじゃねーか………」
 ハリルが息も絶え絶えに、それでも反論を続ける。
「それに、そんな板胸でなにがレディーだ」
 その言葉を言ってしまうということは、ハリルは自らの死刑執行文書にサインしたも同然の意味であった。瞬く間に少女から「殺意の波動」が滲んでくる。
「そりゃ、あたしは小さいですよ! 小学生並につるぺた童顔でノロマですよッ!! でも搭載機数はジャップの空母と同等なんだからね!!」
 そう言い切らないうちに少女のアッパーがハリルの顎を砕く。
「フンッだ!!」
 そういうと彼女は部屋から出て行った。
 彼女はワスプ。
 そう、帝国海軍の瑞鶴のように、彼女もまた艦魂であった。もっともハリルが瑞鶴のことを知ればこう言ったであろう。
「アイツとミス・ズイカクが同じ艦魂!? 冗談じゃない! ミス・ズイカクのほうがおしとやかなヤマトナデシコでいいじゃないかよ! アイツはホンモノのアバズレだ!!」



「およ? ワスプちゃんじゃないの。どうしたの?」
 ハリルの部屋を飛び出してきたワスプは、ワスプの(ややこしいなぁ)格納庫にやってきていた。
 そこでオレンジ色の髪をした青年士官に声をかけられる。
 彼こそは空母 ワスプの飛行隊長であるオリビエ・ポプラン少佐である。
 帝国海軍でも艦魂が一部の者にしか見えなかったように、合衆国海軍でもワスプの存在を知るのはごく一部だ。しかしポプランはその一部である。
「少佐、聞いてください! ヒドイんですよ、艦長ったら!!」
 そういうとワスプはポプランに艦長室でのことを詳細に語る。
「あははははッ!」
 ポプランはおかしそうに爆笑する。
「まったく、あの艦長には見る目がないな。ワスプちゃんはぜったいにグラマー美人になるぜ。このワスプ飛行隊長のオリビエ・ポプラン様が保障してやるよ」
「レディ・キラーのポプランじゃなくてか?」
 ポプランの後方から面白くもなさそうに言う人物がいる。ワスプの飛行副長のイワン・コーネフ大尉である。
 ポプランは、先のコーネフの言葉のように、名うての色事師であり、ダース単位の愛人を抱えているのである。対するコーネフのほうは女に興味が無いとでも言うかのように、手空きの時間は黙々とクロスワードをするような人物で、二人はまったく対照的な人物である。しかしそういう性格同士は奇妙にウマが合うことが多く、彼らもその例外にはなっていない。
「ワスプちゃん、こいつの言うことは信用しないほうがいいぞ」
「何を言うか! ポプラン家の辞書に『ウソ』の文字は無いぞ!!」
「『間違い』とかならあるんだろ。もしくは安物すぎて落丁してるかのどちらかだ」
「………友達がいの無い奴だな。かばってやろうとは思わんのか?」
「友達ィ? 誰が?」
 この二人の絶妙なやりとりに思わず噴出してしまうワスプ。
「とにかく、機体の整備を手伝えとの御達しだ。行くぞ、ポプラン」
「あ、じゃああたしもこれで………」
「ああ」
 ワスプの後姿を完全に見送った二人は機体の整備を手伝いながら、艦長とこの艦の艦魂を肴にして雑談を並行させる。
「しかし、ワスプちゃんもなんだかんだ言いながら艦長にベッタリだな」
 とはコーネフの言葉。
「艦長はボインちゃんが好きだからなぁ。ワスプちゃんでは分が悪かろうよ」
「お前さんみたいにか?」
「俺は一八歳以上三〇歳未満の美女なら何でもいいんだ。艦長とは少し違うな」
「お前さんが好きでも向こうが好いてくれるかはわからんがね」
「……………」
 この二人はそういう間柄であった。



 空母ワスプは、合衆国海軍第七任務部隊に所属している。
 第七任務部隊とは、マリアナ攻略のために新たに編成された部隊であり、旗艦は新鋭戦艦ワシントン。他にワシントンの姉のノースカロライナ。旧式戦艦とはいえ四〇センチ砲戦艦のメリーランド、コロラド、ウェスト・バージニアの五隻の四〇センチ砲戦艦を主力としている。
 また、空母の方もレキシントン、ヨークタウン、エンタープライズ、ホーネット、ワスプの合計五隻である。重巡以下の補助艦艇もその陣容に相応しい数がそろえられている。
 この兵力ならば十分にマリアナを攻略できるであろう。
 第七任務部隊は最後の補給を受けるために、一路トラックを目指していた。
 だが、そんな第七任務部隊を見つめる視線がある。
「おう、いるいる」
 帝国海軍潜水艦 伊一九である。
 伊一九の艦長 和泉 紳陽中佐は潜望鏡を覗きながら歓喜の声を上げる。
「よし、奴らを食うぞ」
 潜望鏡をたたみ、制帽を被りなおしながら和泉は宣言した。
 和泉の言葉に伊一九の一同の顔がパッと明るくなる。
 帝国海軍はトラック失陥以来、徹底した潜水艦によるトラック封鎖作戦を実行に移していた。その戦果はそこそこであったのだが、伊一九は今までトラック行きの輸送船団に出会ったことがなかったのである。
 だから今まで僚友たちの戦果を指を咥えて見ているしかできなかった。しかしそれも今日までだ。
「戦艦に空母に巡洋艦。何でもござれとはありがたい話だぜ」
 和泉のその言葉に思わず周囲の者の表情が緩む。
「とはいえこのままでは危険も大きいからな。『アレ』でいくぞ! 勝負は今夜だ!!」
 和泉は自信満々でそう言った。



 その日の夜。この日は月は出ていなかった。星のみが暗黒の世界をを照らそうとしている。だが小さな星の輝きでは限度があり、視界は確保されているとはいい難い。
 戦艦 ノースカロライナ艦長のアンソニー・マイケル大佐は夜中にも関わらず艦橋に出ていた。
「艦長、お休みになられないでよろしいのですか?」
 気遣わしげに副長が聞いてくる。
「大丈夫だ。明日の昼間に休ませてもらうつもりだから」
「はぁ」
「嫌な予感がするんだよ。今夜、何かが起こりそうな気がして、眠れないのだ」
 ハリウッド役者級の二枚目のマイケルの顔に憂いの色が着色される。それだけで世の女性たちのハートを撃沈したも同然であろう。
 しかしマイケルの守護天使はいささか気まぐれであり、彼に危害は及ばないものの、彼を道化にさせる事件が数多くあることは既述済みである。
 今までは笑って済ませれることしか起きなかった。しかし今夜は違っていた。
「ガッデム!!」
 マイケルの口の端から思わず漏れる呪詛の言葉。
 彼の視野にはメリーランドの右舷に聳え立つ水柱が映っていた。



「命中音多数!」
 その報告に伊一九内は沸いた。
「艦長、我々も負けてはおれませんよ!!」
「おう、そうだ! 我が艦も魚雷を発射しろ!!」
 和泉の命令と共に伊一九は魚雷を発射する。
 ブシュウという圧搾空気の音。その音と同時に大和の砲弾よりもはるかに巨大な魚雷が飛び出しているのである。


 
「クソッ! 敵潜水艦はどこだ?!」
 ノースカロライナ副長が吼える。
「わかりません!」
「何ィ!!」
「ジャップは酸素魚雷を使っており、魚雷の航跡がまったく掴めず、おまけにこの闇では………」
「それを発見するのが貴様たちの仕事だろうが!!」
 激昂するあまり部下に当り散らす副長。
「落ち着け、副長」
 マイケルはそれをたしなめる。ある意味で彼は副長に感謝していた。副長が取り乱してくれるからこそ、自分は冷静にいれるのだから。
「ソナー員、耳を澄ますんだ。魚雷関連の音を一つも聞き逃すんじゃないぞ」
「は、はいッ!!」



「クッ、ジャップめ………」
 ハリルは歯噛みして悔しがる。
「まんまと待ち伏せされていたとはな」
 ハリルの右拳は硬く、硬く握り締められている。
「艦長………」
 ワスプが心配げにハリルに声をかけてくる。その小さく華奢な体が小刻みに震えている。未知の存在である艦魂の彼女にとって、この艦が被雷すればどうなるのかわからない。それだけに不安が大きいのであろう。
「……………」
 ハリルはそんなワスプの頭に手を置く。そして自分の胸元に抱き寄せる。
「大丈夫だ。俺が護ってやるからな。安心しろ」
 それは小さな呟きでしかなかった。しかしワスプにとっては百万の虚飾で飾られた言葉よりも頼りになった。
「うん」
 ワスプは年相応の少女の表情でハリルに寄り添う。
「信じてるよ、ハリル」
 だがワスプのその声はハリルの「面舵一杯!!」の怒号でかき消される。でもワスプの想いはハリルに伝わっていた。何故なら、ワスプの震えは止まっていたのだから。



「命中音、少なくとも二!!」
 その報告に和泉はほくそえんだ。
「ようし、さっき狙ったのはコロラド級戦艦の一隻だ。これでコロラド級二隻に魚雷をぶち込んだことになるな」
「前方に着水音!!」
「何!?」
 自艦が探知され、爆雷投射を受けてしまったのかと和泉は体を強張らせる。
「大丈夫です、本艦のはるか前方です」
 水測長の言葉に和泉は安堵する。
「どうやらアメさんはこちらを正確に捉えているわけではないようです」
「魚雷発射位置を推測して攻撃しているだけのようだな」
 水測長の言葉に頷く和泉。我が帝国海軍のみが実用化している酸素魚雷の射程距離は長い。米軍の予想地点よりはるか遠くから雷撃できるのである。
「さて次は………」
 危険ではあるが潜望鏡で海上を確認しながら和泉は次の獲物を物色する。
「ふむ、アレをいただこうか」
 潜望鏡越しに和泉の視界に映るもの。それは平べったい甲板を持った空母。
 そう、ワスプであった。
 威力や射程の長さの他にも、酸素魚雷は純酸素を動力としており、航跡を残さないことで知られている。
 それと今宵の闇の帳。
 それらは帝国海軍の潜水艦たちを味方していた。
 当時のソナー技術はまだ稚拙であり、魚雷回避は目視に頼るところが大きいからだ。
 ワスプに威勢のいい返事をしてみたものの、ハリルはワスプを護りきれるか自信が無かった。
「ソナー室、何か異常は無いか?」
「異常ありません、多分………」
 その曖昧な返事にハリルは激昂しかける。しかし寸での所でそれを耐える。
 今現在、帝国海軍の潜水艦多数に第七任務部隊は襲われており、その混乱で水中は攪拌され、ソナーがあまり使い物にならないとハリルも悟ったからだ。
「やるしかない、か」
 ハリルは決断した。
 しかしその決断が忌むべきものだとは百も承知だ。しかしそうしなければハリルは後悔することになるだろう。「がきんちょ」との約束が果たせなかった、と。
「航海長」
「は、はい!」
「操舵、俺に任せてくれないか?」
「え?」
 航海長は唖然とした。ハリルは自らワスプの舵輪を握ろうというのである。艦長自ら舵輪を握るということは明らかな越権行為だ。それに、艦長は操舵手を信頼していないということにも繋がる。艦長はワスプ艦内の人間関係にヒビをいれるつもりか!?
 しかしハリルの眼光の奥に見える決意の光が航海長の反論を封じた。
「わ、わかりました」
 渋々ながらハリルに舵を任せることを宣言した航海長。
「すまんな。責任はすべて俺がとるからな」
 ハリルは舵をグッと握る締める。
「さぁ、来い!!」



「マズイな………」
 ノースカロライナ艦橋で指揮をとるアンソニー・マイケルは焦っていた。
 すでに戦艦 メリーランド、コロラド、ワシントンが被雷し、速力を大幅に落としている。沈みはしないだろうが修理にしばらく費やすことになるであろう。
 つまりマリアナ攻略作戦は早くも頓挫したことになる。作戦海域にすら辿り着かぬまま。
「かくなる上は、本艦だけでも無事であらねばな………」
 空母は全隻が無事であるが、彼は空母だけでマリアナが落とせるとは思っていない。制海権とは戦艦と戦艦がぶつかりあって決まるものなのだから。



 一九四二年四月五日の日が昇る。
 海中にある伊一九ではその日の出を拝むことはできない。
 だがそれでも伊一九艦内はかつてない喜びに満ちていた。
「諸君、諸君らの素晴らしい操艦、そして雷撃により我々は多くの艦艇を喰い、米軍のマリアナ攻略作戦を頓挫させた。これからも、この調子で頼むぞ!!」
 和泉の訓示に全員が敬礼で応じる。
 それはとても誇らしげで、頼もしげな敬礼であった。

「終わったな」
 ハリルはワスプ艦橋で独り日の出を眺めている。
 周囲を見渡せば、敵潜水艦の魚雷を受けて、傾いている艦艇が多々ある。
 昨夜はまさに悪夢の一夜であった。
 潜水艦の襲撃が終わった事を確認してからハリルは疲労でぐったりした体を艦長用のシートに預けていた。
「艦長」
 背後からの声にハリルは振り向きもせずに答えた。
「なんだ?」
 ワスプであった。
「あ、あのね………」
 日ごろあんなにおてんばな彼女が借りてきた猫のように大人しくなっている。
「な、なんだよ。気味悪いな」
 そう言ってからハリルはハッとする。さきほどの言葉がワスプを不機嫌にし、また自分を殴りに来るとでも思ったのだろう。
 ワスプはゆっくりハリルに歩み寄る。
 そして………。
「Thank you」
 そう言うとワスプはハリルの頬にキスした。
 そしてそのまま走り去っていく。
「……………」
 ハリルは目をパチクリさせながら思った。
「これがあいつとの友好条約締結の証なんだろうな」、と。



 知っての通り、日本列島は火山が数多くある、火山列島だ。
 火山は地下の水を暖め、それをお湯に変える。そして湧き出たお湯を、日本人は「温泉」として重宝している。
 その温泉に浸かりながら、男は日本酒を一杯やっていた。
 何とも和風な光景ではないか。
 しかしそれを実践している男は和風とは程遠かった。
 金髪碧眼。
 彼もまた、ドイツから帰化してきた優秀な技術者である。
 彼の専門。それは、戦争。
 元ドイツ海軍の潜水艦戦術の神様とも言うべきカール・デーニッツは、ドイツでの権力闘争に負け、日本に無理やり帰化させられて、今では手壊日覩 神或であった。
 当初はふてくされていた彼だが、日本の温泉と、帝国海軍の優秀さに感激し、今では全身全霊をかけて帝国海軍潜水艦部隊の増強に努めている。
 そんな彼が指南したのが「狼群戦法」である。
 これは簡単に説明すれば、多数の潜水艦による包囲殲滅戦術である。
 この戦法が功を奏し、トラック沖で米艦隊を捕捉撃滅できたのである。無論、それを正確に実行できる情報の扱いが必須となる。その情報の扱いを担当したのは遠田 邦彦たちが軍令部の地下で操作していたトチローであった。
 人間の考え出した作戦を、機械が実現に向けてフォローする。これこそが新しい時代の黎明となるのだ。
「日本よいとこ 一度はおいで〜♪」
 ヘタクソな日本語だが、その声は弾みに弾んでいる。
 日本人 手壊日覩 神或にとって、今こそがこの世の春であった。



「ご苦労だったな。敵艦隊は大ダメージを受けた。マリアナに対する攻勢は頓挫を余儀なくされるだろうな」
 開口一番に遠田 邦彦はそう言って軍令部第一三部の労を労った。
「ところで、今回は荻本中尉の働きが大きかったとか?」
「ええ、あいつは情報の神様とでも言うべき男でして。彼が我が部にいてくれるのは、まことに百人力ですよ」
 とは第一三部部長の弁。
「そうか。しかしみんなの力があってこそだろうさ」
「ありがとうございます」
 そして遠田はニコリと笑い、
「そこで褒美として焼肉奢るぞ! 無論、私の奢りでだ! 今は戦時中で肉なんか滅多に食えんだろうから、しっかり食えよ!!」
 その言葉に第一三部の喜びは弾けた。
「オオォー!!」
「帝国海軍、万歳!!」
「遠田次長、万歳!!」
 第一三部の面々は、これが天国かとでも言わんばかりに肉を食いまくった。
 そして英気を養い、新たな任務に就いたのであった。
 その意味で、遠田こそ上に立つべき人物であろう。
 しかし結城 繁治だけはトラック沖で潜水艦部隊があげた戦果を見ながら、独り憂慮の表情を浮かべていた。そう、攻勢はまだ終わっていない。これから始まるのだ、という強い確信を抱きながら。


第一〇章「A record of war」


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