一九四二年二月一〇日。
 海軍軍令部「扶桑ビル」八階の次長室の扉を一人の男が叩いた。タンスの奥に眠っていた純白の第二種軍装は、まだかすかに防虫剤の臭いを残している。だが、鼻のいい者ならば気付いただろう。彼が防虫剤の臭いの他に、もう一つの臭いを漂わせている事に。それは人の死を誘う臭いであった。
「入れ」
 海軍軍令部次長の遠田 邦彦は扉をノックする男にそう言った。男は何の迷いもなく扉を開け、その姿を遠田の視界にさらした。
 なで肩のやや小柄な体格の男の垂れ気味の細い目は黒一色で内心の動きを第三者に察知させない。ポーカーを行わせれば海軍内でも屈指の強さを誇るほどに、彼は感情を包み隠す事と感情の欺瞞を得意としている。あのギャンブルジャンキーである連合艦隊司令長官の山本 五十六ですら彼との勝負は絶対に遠慮するのだと言う。
「結城 繁治中佐、ただいま出頭いたしました………とでも言えばよろしいでしょうか?」
 結城 繁治。これが彼の名前だ。そして彼の名前を聞いた時、古くから海軍内にいた者は一斉に眉をひそめると言う。眉をひそめながら彼らは結城をこう呼ぶのだ。
「鬼畜王」
 遠田が結城をもう一つの名前で呼んだ。結城は「もう慣れた」とばかりに不名誉な呼び名にも微動だにせず「はい」と返事をした。
「待っていたぞ、鬼畜王」
 遠田はそう言うと次長室の応接用ソファーに腰かけるように勧めた。結城は遠慮なくソファーに深く腰を降ろし、軍服のポケットから葉巻を取り出して火をつけた。それはキューバ産の高級葉巻だった。ニコチンさえ補給できればいい、と安タバコを大量に噴かす遠田と対照的に、結城は何でも最高のモノを望む傾向があった。食事は最高の料理が食べたいし、タバコだって最高のモノがいい。そして戦争をするなら最高の戦力が欲しい。
「まだ現役復帰のための講習が続いているのか?」
 予備役中佐だった結城は日米開戦に伴った予備役の現役復帰の流れによって海軍の表舞台へと返り咲いた。しかし予備役だった者たちはブランクが長く、せっかくの経験が錆付いてしまっていることが多かった。故に最近の海軍事情を知るための講習が行われているのだった。
「はい。今日は一日限りのシンデレラ・タイム休日だったのですが………」
 貴方に呼ばれてここに来ました。結城は続きを視線で語った。
「俺なんか開戦からこの方休みなしだぞ。それから、言い忘れたが今じゃ軍令部は全館禁煙だ。タバコが吸いたければ喫煙室まで行け」
「しばらく顔を出さないうちに軍令部も変わっちゃったようで………」
 結城は肩をすくめながらそう呟くと葉巻を灰皿に押し付けた。
「さて、それで何の話がしたいんですか?」
「現代の最新技術についての特別講義って奴だ」
 遠田はそう言うと執務机の引き出しから辞典よりも分厚いファイルを取り出すと結城に向かって放り投げた。結城はファイルの厚さと重さに顔をしかめる。あの薄っぺらい紙を束ねただけだと言うのに、何と重いことか。
「まぁ、どうしようもないモノも中にはあるが、とりあえず目を通して欲しい物にはチェックを入れてある。読んでくれ」
 結城は視線をファイルに落とす。確かにファイルにはしおりが何枚も挟まれている。このしおりが挟まれているページを読めということか。………しかしそれだけでも何百枚になるんじゃないのか?
「ほう、ジェットエンジン実用化の目処が立ったんですか?」
「ああ、ドイツのヒトラーが奮発して設計図やら現物やらを贈ってくれたからな。そのエンジンを使う飛行機の設計を行い、さらに量産体制を整えないと画餅にすぎないが………」
 遠田は執務机の端に置かれている袋に手を突っ込みながら言った。その袋にはキャンディーが入っている。遠田はレモン味のキャンディーを口に放り込みながら続けた。
「来年………四三年の末か四四年の頭には量産体制が整っているだろ」
「遠い未来の話ですね。それまでに戦争が終わっているといいですが」
「ジェットに関してはこっちもおっかなびっくりで、ゆっくりと実験を進めるしかない。悪いが、ジェットに頼った作戦を立案するのはやめてくれ」
 なるほど。研究が失敗する可能性が高いジェット機をアテにせず、確実にアメリカに勝てる作戦案を立てろというわけか。………簡単に言ってくれる。
「ところで、このVTヒューズってのは何です? ヒューズが信管だというのはわかりますが………」
「VT? ああ、Variable Timeの頭文字をとったアレか………。簡単に言うとだ、信管の中にレーダーを入れたモノのことだ。レーダーはわかるよな?」
「電探ですか。さすがにそれくらいはわかっていますよ。私は電探の導入に関わっていましたしね」
「そうだったか? とにかく、信管の中にレーダーがあってだな、敵機と砲弾との距離測定し、一定距離以下になると爆発するようにできる信管のことだ。俺たち海軍では対空砲火の命中率向上に期待している」
「それは面白そうな信管ですね」
「ただ、研究室レベルでは作れるんだが、どうも量産が難しい。砲弾に使う信管だから、砲撃の際の衝撃に耐えなければいかんのだが、砲撃に耐える真空管というのが量産できないらしい」
 遠田は口の中に入れたキャンディーをバリボリと噛み砕きながら言った。結城はキャンディーが砕ける耳障りな音を聞きながら、「ふむ」と考え込む。
 このVTヒューズという奴、これはもしかしたら海戦を根底から変えてしまうかもしれんな………。そのような思いが胸をよぎる。
「まぁ、聞いた話じゃ外務省にイギリスがVT信管量産に関する資料提供を打診してきているらしいがね」
「イギリスが? イギリスはアメリカ支持ではなかったのですか?」
「表向きはな。だが、あのチャーチルがすんなりアメリカ支持で終わるわけないだろう」
 遠田がやや苦味のある笑いをこぼした。
「イギリスはアメリカと日本が長期戦を戦って互いに疲弊することを狙っているのさ。結果、二大国の国力が衰え、あわよくばイギリスが再び国際社会をリードする………まぁ、そんな筋書きだろう」
「自分の手を汚さない辺りが辛辣ですね」
「まぁ、誰だって漁夫の利とかそういう言葉を狙いたがるものなのさ」
「やれやれ………」
 結城は溜息を一つ吐くとファイルを読むことに集中する。しばらく海軍から離れている間に随分と変わったものだ。ほんの数年前では夢のようなことが実現間近。人間とは何と素晴らしいものか。
 そして同時にこう思う。
 その技術を同族殺しに使ってしまう辺り、人間とはどうしようもない愚か者だと。

葬戦史R
第一〇章「A record of war」


「大佐、全機出撃準備が整いました」
 痩身の、壮年の男が銀髪の若い美男子に、丁重に報告する。いかに年齢が高くとも、階級の差を越えることはできない。それが軍隊という組織である。
 ストーリン・ボルド少佐はトラック諸島に進出したB17隊の隊長を務めている。
 アメリカ陸軍航空隊の創設とほぼ同時に航空隊に入隊した古強者であり、少佐の階級も、一兵卒からの叩き上げでなったのだ。その風格たるや堂々たるものである。
「うん。ストーリン、任せたよ」
 そしてB17隊の若き司令官 ナナス・アルフォリアはそう言ってストーリンに軽く微笑んだ。細かい指示など必要ない。歴戦のストーリンならば自分が求めることを一〇〇%実行してくれる。そう信じるが故だ。
「わかりました」
 ストーリンの返事は素っ気無い。しかしそれはストーリンが、ナナスに反感を抱いているというわけではない。彼は目の前の銀髪の若造を敬愛しているシンパの一人である。真の信頼に言葉など不要。行動で信頼を示せばいいのだ。
「僕の考えた『あの陣形』ならジャパニーズの攻撃もある程度なら防げるはずだ」
 そう言った後、ナナスは一瞬だけ躊躇う表情を見せた。しかしナナスは心中を口にすることに決めた。
「………それから、全機無事で帰ってきてくれ」
 ストーリンはその言葉にただ頷くだけ。
 ストーリンは知っているのだ。ナナスの言葉がとても守れる代物でないことが。
「では、行ってきます」
 こうしてストーリン率いる六八機の「空の要塞」の群はトラック諸島を飛び立った。



 トラック諸島を失った大日本帝国は、米国の次の目標をマリアナ諸島だと定め、手持ちの航空兵力の大半をマリアナ諸島のサイパンに集結させた………いや、させている途中であった。
 今、サイパンにある航空機は二〇〇機しかない。戦闘機はその内の五割もない。
 その数で米国が誇る「空の要塞」B17の群と戦わなければならなかった。
 だが、少数の分、帝国の航空隊の質は最上のものに等しい。選りすぐられた精鋭たちがマリアナに集められているのだ。
「行くぞ、勇二!!」
 選ばれた精鋭の一人、帝国陸軍第一三戦隊、通称「翔虎隊」のタイガージョーがまさに虎のように吼える。
「おお!」
 魔神 勇二少尉もそれに応えて続く。
 彼ら、翔虎隊はフィリピン戦終決後に一度内地に帰還し、新型機を受領している。
 中島飛行機が製作した「それ」は従来までの和製戦闘機とは一風代わったフォルムを持っていた。
 それもそのはずだろう。その「新型機」の設計をしたのは日本人ではないからだ。
 ドイツ第三帝国は帝国から資源を買い、経済を成り立たせていた。しかし財源のないドイツでは買える量が自ずと限られてくる。
 ドイツ第三帝国総統 アドルフ・ヒトラーは帝国にこう交渉してきた。
「我が大ドイツの優秀な技術者を何人か帰化させるから資源をもう少し安くで売ってくれないか?」
 帝国はこの風変わりな条件にのった。一大資源国家たる帝国にとって資源はあまり価値を持たない。しかし優秀な技術、それは宝石よりも貴重な存在であったからだ。
 こうして帰化し、中島飛行機に入社したのがクルト・タンク博士(帰化し、名前を『鍛駆 来人』としている)であった。
 そして翔虎隊が駆るのは鍛駆博士設計の二式戦闘機 鍾馗である。(ちなみに、なぜかこの鍾馗は中島社内では開発コードFw190と呼ばれていた)
 発動機は海軍も金星として採用しているハ三三。出力は一五〇〇馬力。高性能よりも安定した稼働率を念頭において設計された発動機なだけに信頼性はバツグンという武人に相応しい発動機である。
 最大時速は六一二キロと今のところ日本最速の戦闘機だ(尚、戦闘機以外では一〇〇式司偵が六四〇キロと最速)。
 今のところ翔虎隊に一〇機ほどしか配備されていない。貴重な機体でもある。



「こいつがB17 『空の要塞』か」
 鍾馗のコクピット内で勇二は思わず武者震い。
 なぜならB17は巨大な四発重爆撃機であり、見るものに強烈なプレッシャーを与えるからだ。だが勇二はプレッシャーに圧しつぶされるような臆病ではない。
「相手にとって不足はない!行くぞ!!」
 勇二の鍾馗は猛烈な勢いで降下する。それはさながらモズの如し。
 だがB17の大群は勇二を近づけまいと機銃を一斉に放ち始めた。単調な連射ではない。それはまるで蝶を絡めとろうとする蜘蛛の巣のように勇二の鍾馗を包もうとしていた。
 操縦桿とフットバーを巧みに操って弾幕から逃れる勇二。しかし一機の隼が弾幕に捕まり、右翼を吹き飛ばされてきりもみ、墜落を開始する。勇二は戦友の最期を目の当たりにし、歯噛みしながら叫んだ。
「くそっ! 何だこの弾幕は!!」



「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」
 ストーリンが機長を務めるB17「ママトト号」に若い男の叫びが轟く。B17のエンジン音、機銃の発砲音にも負けないその叫びは野獣の咆哮であった。
 彼の名はリック・アディスン。階級は少尉。彼は「ママトト号」の機銃手の一人である。
 彼の普段の風貌は金髪の美青年と呼びうるに足る。ただし、少し童顔ではあるが。性格も温厚であり、多くの仲間からの信頼を得ている。
 しかし今の彼は悪鬼さながらの形相をしている。黄金の髪を振り回して吼える姿はさながら修羅のごとし。
 彼は飛行帽を被ると性格が豹変することで知られている。
 リックの弾幕は正確そのもの。一機の隼がリックの弾幕にマトモに突っ込む格好となる。一二.七ミリの洗礼を浴び、火達磨になって墜落する隼。
 リックの口元が歪む………いや、彼は笑っていた。見るものの心を凍てつかせる死神の笑みであった。それ故に彼は「赤い死神」と称されるのだ。



 帝国陸軍でも随一の熱い魂を持つことで知られるタイガージョー。
 だからといって冷静な判断が下せないわけではない。むしろ戦闘時の彼は怖いくらいに冷静だ。
「ふむ、米軍め………考えたな」
 B17隊の陣形は、あのタイガージョーをも唸らせるほどに綿密であった。
 互いに寄り添うように飛び、互いの機銃の死角を埋めるというやり方。
 これこそがナナスの秘策、名付けて「コンバット・ボックス」。
 これでは並大抵の攻撃では撃墜できない。それこそ体当たりするくらいの覚悟は必要だ。
「だが、これでどうだ!!」
 タイガージョーの鍾馗がB17の一機に向かって全速力で向かっていく。
 発動機が焼ききれんばかりのオーバーブースト。しかしそんなものに構ってられない。鍾馗はグングンと加速していく。
「喰らえ!!」
 鍾馗の両翼二門の二〇ミリ機関砲と機首二門の一三ミリ機関砲が吼える。
 正確無比なその射撃は頑丈さを自慢とするB17の機体の一点に集まり、「空の要塞」を噛み砕いた。一機のB17の翼が切断され、高度を下げ始める。
「よし、次!!」



「何だあの新型は? 速いぞ!!」
 リックが思わず舌打ちするほどにその新型機の一機の軌道はズバ抜けていた。
「やるじゃないか!」
 その一機を見てさらなる闘志に駆られるリック。
 ブローニング社が開発したM2 一二.七ミリ機銃が唸り、一二.七ミリの鋼鉄の五月雨を吐き出す。
 だが当たらない。しかしリックの巧みな射撃によりその一機の新型機はある一点に追い詰められていた。さすれば撃墜できるはず………。
「リック少尉、一機だけに構っている場合ではない! 三時方向の奴をやってくれ!!」
 ストーリンがリックを叱責する。
「ええい!!」
 ストーリンの言葉は正しい。忌々しいがあの一機に夢中になるあまりにママトト号を危険にさらすわけにはいかない。防御機銃にとっての勝利は敵機を撃墜することではない。自分と仲間の安全を守る事ができる。それがリック・アディスンにとっての勝利であった。



 リックの狙っていた敵機。
 それこそがタイガージョーの鍾馗であった。タイガージョーは、今のB17の機銃が自分を狙い続けていた場合、間違いなく撃墜されていたことを知っていた。
「危ないところだった………」
 さすがのタイガージョーも額に冷や汗が滲んでいる。敵B17の射手はそれほどに巧者であった。
「この私を追い詰めるとはな………世界は広いということか」
 そこで周囲を見回すタイガージョー。
 翔虎隊の鍾馗たちはよくやっている。
 隼や海軍の零戦よりも優れた最大速度を活かし、B17を少なく見積もって六機は撃破してみせている。
 しかしそれでも焼け石に水の感は拭えない。
 残存の六二機のB17隊はサイパンに次々と黒い塊を投下し始めたからだ。それはすなわちこの迎撃戦に敗退したことを表す。
『………やられたな、タイガージョー』
 無線機から勇二の声がする。その声は覇気がなく、沈み込んでいた。無理もない。フィリピンでは負け知らずだった翔虎隊にとって初めての敗北といっていいのだから。
「早急に迎撃方法を研究せねばならんな」
 タイガージョーはすでに「次の迎撃戦」を念頭に入れていた。
 そうだ。
 今日は負けた。
 しかし明日も、明後日も負けるいわれはない。
 今日の屈辱をバネに、明日の栄光を掴み取るのだ。タイガージョーは決意をこめた口調でそう言った。



 帝国海軍航空隊には様々な部署がある。
 艦戦、艦爆、艦攻、艦偵………。
 そんな中で一番隊員の連帯感が強い部署はどこだろうか?
 その答えは陸上攻撃機である。
 この時期の帝国海軍の主力陸攻は一式である。
 この機体は中国での国共内戦でも給与されてたことのある機体なのだが、重大な欠点を抱えていた。
 航続距離を優先しすぎたあまり、防弾性能がおろそかになっていたのである。
 国民党軍は一式陸攻があまりに燃えやすいので一式の購入中止を本気で考えたほどであった。
「それは待って欲しい」と一式陸攻の製造元の三菱の技術陣は慌てて改修型を設計した。
 それがこの一式陸攻改である。
 これには世界的に見ても水準以上の防弾が施されており、国民党軍も何とか納得してくれた。実際問題、ソ連の支援を受けている中国共産党空軍は一式陸攻改の撃墜は困難であるとして、空戦での撃墜ではなく、爆撃による地上撃破に戦術を切り替えたほどだ。
 マリアナ方面の帝国海軍陸攻隊の面々はこの一式陸攻改の強化改造型、一式陸攻改二型を装備していた。これはエンジンを強化し、更なる防弾と爆弾搭載量を追求した機体であり、陸軍も一式重爆として採用している当時の日本最優秀爆撃機であった。
 だが………。



『四時方向に敵機!』
『何をしている! 早く墜とせ!!』
『今やっている!』
 ガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガ
 機銃がうなりをあげて弾丸を発射する耳障りな音。
『畜生、畜生、畜生、畜生!』
 壊れた蓄音機のように同じ言葉を紡ぎ続ける。
 その罵声に近づいてくるエンジン音。
『ヤバイ! 撃ってき………』
 ガンガンガンガンガンガン
『おい、どうした? 返事をしろ!』
 だが返事はない。
『二番発動機、発火!!』
『大丈夫だ! 自動消火装置が働いた!』
 白煙をあげていた二番発動機の煙が見る間に細くなり、止まった。
 だがこれは根本問題の解決にはなっていない。
『うわっ! また来たぁ!』
『護衛の奴らは何してるんだ!』
 ダンッと操縦席に握り拳を振り下ろす音。
『うわああああぁぁぁぁぁぁ』
『右翼から出火!』
『くそっ!』
『右翼、脱落!』
『畜生!』



「くそっ! これでは………」
 サイパン島より一式陸攻改二型の護衛としてついてきた零戦隊。その一員の木下 一中尉は歯噛みをして悔しがった。また一機、一式陸攻改二型が撃墜されてトラック近海の漁礁となる。撃墜したのはP40 ウォーホーク。機首に施されたシャークマウスペイントこそ勇ましいが、鈍重で速力もそれほど高くなく、零戦にとっては鷹ではなくカモのはずだった。フィリピンでは面白いくらいに撃墜できていた。それは事実だった。
 だがマリアナ・トラック間の距離は長い。単発単座の零戦ではパイロットに莫大な疲労を強要するのだ。疲れきった頭ではマトモな思考ができない。それ故に木下たちは零戦を思うように操れず、性能ではるかに劣るはずのF4FやP40に面白いくらいに墜とされていた。
「畜生………」
 木下はしびれたように思考が鈍い頭を必死に振って一式陸攻改二型に襲い掛かるP40に立ち向かっていた。



 舞台は変わって日本本土。
「遠田次長も人が悪いよなぁ」
 海軍軍令部の押川 恵太少佐はそう言って嘆息した。
 彼は聞き上手の天才としか形容のしようのない特技を持っていた。
 海軍兵学校時代、上級生であった現大和艦長の山本 光大佐の主張「眼鏡をかけた女性はどれほど素晴らしいか」を適当な相槌だけで二時間も聞き流したというくらいであ る。ちなみに山本大佐は相手が自分の話に興味を示していないと見るや否や話を止めてしまう性格である。無論、押川少佐にその癖はなく、いかに押川が聞き上 手かがわかるであろう。
 彼は軍令部次長の遠田 邦彦中将の依頼で北海道に来ていた。
 この地には帝国陸軍の戦車試験場がある。
「しかし何でこんな辺鄙なところに戦車試験場をつくるかねぇ?」
 そこは少し道を外れれば熊とランデブーできそうなくらいに素敵な場所にあった。
 とはいえきちんとした理由はある。
 帝国は関東大震災以後の急成長から本州に戦車試験場のような広いスペースが取れなくなってしまったのだ。しかたがないので広大な北海道の地を選んだ訳だ。おかげで戦車試験場は人里離れた場所に建設されることになった。
 無論、押川もそれくらいは理解している。しかしわかっていながらも言わずにはおれないことだってあるだろう。
「あ、先日連絡した海軍の押川ですけど、博士はいらっしゃいますか?」
 海軍軍人というよりも営業マンのような態度と表情で押川は陸軍戦車試験場の警備兵に頭を下げた。
 陸軍と海軍。同じ日本を守る軍隊ではあるが、陸から守ろうとする陸軍と海から守ろうとする海軍の間では考え方の違いと、限られた予算の配分の関係から犬猿の仲なのであるが、押川の低姿勢にはさすがに好感を覚えたのだろう。警備兵は同じ陸軍の上官に接するような態度で押川の探す博士の所在を確かめてくれた。こういう点も押川の才能かもしれない。
「博士ならあそこの第七格納庫にいらっしゃるそうです」
「ああ、ありがとうございます」
 押川は脇を広げた陸軍式の敬礼で警備兵に挨拶して第七格納庫に向かって歩き始めた。
「しかし『第七格納庫』ねぇ」
 ………この戦車試験場、格納庫が三つしかないのに何で「第七」なんだろう?
「ま、いいか」
 しかし件の第七格納庫前に行った押川は思わず人目をはばからず、頭を抱えてしまいそうになった。
「なんだこれ? 『魔神皇帝』? なんだそりゃ??」
 格納庫の扉にでっかく殴り描かれた「魔神皇帝」の文字。
 それがこの格納庫の主、つまりは押川が捜し求める「博士」の趣味によるものだと知るのはもう少し後のことである。
 ともかく意を決して第七格納庫の扉を開ける押川。
 ガガガガガ
 格納庫の扉が物々しい音をたてて開く。しかしそれ以外は静寂が第七格納庫を支配していた。人の気配も感じられない。押川はだだっ広いだけの空間となっている第七格納庫に足を踏み入れた。
「これは………?」
 広い第七格納庫には一両の戦車が格納されているだけであった。
 しかしこの戦車の大きさが並ではない。
 重量は、あの虎王の二倍はありそうだ。主砲の口径にいたっては重巡のそれに匹敵するくらいだ。
 その威容に思わず居住いを正してしまう押川。この戦車は一体………?
「キエ〜ッヒエッヒェッヒェッ」
 背後からの不気味な高笑いに押川の心臓は喉から飛び出した。
「だ、誰ですか?!」
 飛び出した心臓を飲み込みながら押川は目の前の老人に何者かと尋ねた。薄暗い格納庫の中なのでよくわからないが、目の前の人物は身にまとう雰囲気からして異様だった。天才を紙一重向こうに越えてしまった者、特有のデンジャラスが押川の第七感セブンセンシズを刺激していた。
「儂か? 儂はなぁ、ドイツから来た、希代の天才じゃぞい」
「で、では、あなたが………」
「そうじゃ、儂こそが保髏死畫壊 腐壊髏濔難屠じゃぞい」
 保髏死畫壊 腐壊髏濔難屠。
 旧姓 フェルディナント・ポルシェ。
 鍛駆 来人と同様に日本に帰化したドイツの天才技術者。
 しかしその風貌は、どうみてもキ○ガイなジジイでしかない。
 髪は真っ白く、伸びるままに伸ばされて手入れされていない。そして右目には伊達でかけている片眼鏡。
 どうみても天才科学者には見えない。怪しい、悪魔の技術に魅せられたマッド・サイエンティストにしか見えない。
 無論、彼も最初からそうだったわけではない。
 彼はドイツから日本への航海の最中、インド洋にてサイクロンに出会い、頭を強打してしまい、こうなってしまったのだ。それを聞いて当初は頭を抱えていた帝国であるが、その非が自分たちの用意した客船の不備であり、また、能力に欠落は見られなかったのでよしとした(というかせざるをえなかった)のである。
 ちなみに彼の設計する戦車は無意味なギミック(たとえば電気駆動とか)が多く、ドイツ本国では絶対に故障続発であっただろうが、世界第二位の工業国家の大日本帝国であれば(それでも『辛うじて』だが)実用できた。ある意味、実用できてしまった辺りに日本の不幸がある気がしないでもない。
「そいつは魔神皇帝じゃ。儂の造った最強の戦車じゃぞい」
 保髏死畫壊はそう言うと、その超巨大戦車に歩み寄り、その装甲に手を触れ、うっとりとする。そして、歌うように、
「神か、悪魔か。鋼鉄のカイザー」
「何ですかそれ?」
「こいつのテーマソングじゃ。続きが聞きたいのか?」
「………いえ、結構です」
 押川は頭が痛くなってきた。幾らなんでもこの博士の性格は破綻しすぎている。さすがの押川でも話が合わせれない。
「あぁ、ともかくですね、博士に我が海軍陸戦隊のための戦車を設計していただきたいのですが………」
「のった」
 詳細を聞かないうちから保髏死畫壊は快諾した。いささか拍子抜けした体で押川は確認する。
「え? いいんですか?」
「儂が、この天才が言うのだからいいんじゃぞい。若いくせに余計なことを考えるな」
 こうして戦争はますます混迷を深めながら、さらなる激戦へ向けて動き出すのであった。


第九章「ホーリー・デイ」

一一章「海狼の宴」

書庫
 

inserted by FC2 system