一九四二年二月六日。
 大日本帝国首都大阪にある海軍軍令部「扶桑ビル」八階の次長室。
 海軍軍令部次長の遠田 邦彦中将にとっての戦場はここだった。銃弾は飛び交わないが、ありとあらゆる情報がこの戦場では扱われる。遠田はフィリピン戦での戦果と被害集計、そして今後のための手配などを行わなければならなかった。
 遠田は書類に判子を押しながら机に置かれた受話器を取る。
「………次長の遠田だ。第三部が保管している合衆国海軍艦艇リストを持ってきてもらえるか?」
 遠田は受話器を置くと椅子の背もたれに身を預けて小さく息を吐く。いよいよ初老と呼ばれるようになった身体は、遠田が首を回した際にポキポキと悲鳴をあげる。
 そして三分ほど、何をするでもなく頼んだ書類を待っていた遠田だったが、ついに痺れを切らして再び受話器を取る。
「おい、さっき頼んだリストはまだか?」
 遠田の問いに対する答えは「急いで持って行きます」というモノだった。こんな返答で納得できるほど遠田は人ができていない。遠田は文句を言う代わりに「俺はタバコを吸いに行ってるから、次長室に置いておけ」と伝えた。そしてタバコとライターを慌しくポケットに詰めると次長室を後にし、喫煙室へと向かった。
 ………いつもなら事務関連の面倒は全部押川に押し付けてやってるんだがな。
 だが、今日、遠田は押川に広島に出張と言う名目の休暇を与えていた。日米開戦の際に遠田が破いた帝国歌劇団のSチケットの代わりを持たせて。
 喫煙室で安タバコを吹かしながら遠田は一人呟いた。
「………一日でいいから世界中が休みになる日を作って欲しいな。官民、老若男女問わず、生きとし生ける者すべてが休みになる休日が」
 そう、その日は戦争すら休みになるのだ。遠田はそんな日を夢想しながらタバコを吹かしていた。



葬戦史R
第九章「ホーリー・デイ」



 日本最大の軍港、広島県呉市。
 六万トン級の大戦艦を建造できるほど大ドックを持つのは日本国内ではここと佐世保と横須賀、そして満州事変の際に一度ソ連の物となり、返還の際に建造途中だったドックを完成させた旅順くらいであろう。
 その大ドックに一隻の戦艦が入渠していた。それはほんの数ヶ月前にこのドックを出たばかりなのに、もうこのドックに帰ってきた。こうも短期間にドックに出入りした例は珍しいだろう。
 その戦艦の名は大和という。
「まぁ、よくもこれだけやられましたね」
 造船大尉牧野 茂の声には皮肉の色が濃かった。まるで芸術家が、彼の作品を理解せぬ無粋者と会った時のような不機嫌さで牧野は言葉を紡いでいた。
 その声をバツの悪そうな表情で受け止めたのは大和艦長の山本 光であった。
「ん、いや、まぁ、その………何だな」
「史上最強の戦艦である大和が、格下相手によくもまぁ………」
「正直、スマンかった」
 牧野のイヤミに対して山本は申し訳なさそうに頭をかく。そして素直に頭を下げた。それを見た牧野は皮肉の矛を一先ずおさめた。山本の態度のこともあるが、彼の額に深々と残った傷痕を見て思いなおしたのだった。彼は戦場で生きるか死ぬかの窮地を潜り抜けてきたのだ。自分のような後方で設計図を引いてばかりいるような者では絶対に経験できないようなことが多々あっただろう。
 餅は餅屋、造船士官は造船士官。それぞれがそれぞれの最善を尽くせばいい………。牧野はそう思う事にした。
「ところで、修理はどれくらいかかりそうです?」
 牧野と山本にとってはありがたいことに、第三者が話題を転じてくれた。牧野はこれを絶好の助け舟とばかりに乗った。
「そうですね、副砲周辺の補強なども行いたいですから………最低でも一〇ヵ月はかかるかと。上にはそうお伝えください」
 牧野の言葉をメモに取る第三者とは押川 恵太少佐であった。彼は呉に帰還した大和を始めとする第三艦隊の被害状況をレポートにまとめ、提出するためにここにいるのであった。
「やっぱりそれくらいはかかるか………」
 修理に最低一〇ヵ月はかかるという牧野の目算を聞いてガックリと肩を落としたのは山本だった。
「仕方ないか、俺が不甲斐なさ過ぎたからなぁ」
「あ、でも山本大佐の応急処置が的確だったから沈没を免れたようなものです。普通だったら沈んでましたよ」
 慌ててフォローを入れる牧野。山本ほど申し訳ないと言う態度を前面に押し出されては、高圧的にでることもできない。
「まぁ、後のことはお任せしますね」
 押川は牧野にそう言った。牧野は力強く頷き、「一日も早く大和を戦列に復帰させて見せますよ」と胸を張って宣言してくれた。押川はその表情と言葉に頼もしさを感じ、山本はありがたさを感じていた。



 鶏は三歩歩いただけで物事を忘れてしまうという。
 押川は昔から思っていたのだが、この人は鶏の眷属か何かなのではないだろうか?
 牧野の前ではあれだけかしこまっていたにも関わらず、港を後にした山本は、港でのことを忘れてしまったのではないかと思えるほどに元気であった。
「さて、今は何時かな………?」
 山本はポケットから懐中時計を取り出して時刻を調べる。彼の祖父が日露戦争に参戦した記念に政府から贈られたという金の懐中時計は正確に時を刻んでいる。現在、午前一一時二八分だ。
「押川、ちょいと早いが昼飯でも食うか」
「そうですね。今だと店も空いてるでしょうし………っと、ごめんなさい」
 少し早めの昼食をとるという山本に押川は同意した。だが、その際に意識が少し散漫になったようだ。押川は誰かにぶつかってしまう。
「いえ、こちらこそすいません………って、あれ? 山本中佐、いえ、大佐じゃないですか」
 押川とぶつかったのは山本が衣笠副長時代に同じ艦の乗組員だった荻本 研であった。
「おお、荻本少尉か」
「おかげさまで私も中尉になりました」
「そうか! そりゃめでたいな!」
 山本が荻本の昇進を自分のことのように喜んでそう言った時、荻本が大きなカバンを持っていることに気付いた。
「お? どっか出張でも行くのか?」
「いえ、実は衣笠を降りて軍令部勤務になることになったんです。一三〇四の汽車で大阪に行くんです」
「なるほど。栄転だな。おい、荻本。俺たち今から昼飯食いに行くんだが、お前も来るか? 昇進祝いにおごってやるよ」
 自分も昼飯を食べに行くところでした、と荻本は山本たちと同行することになった。
 山本たちが入ったのは軍港近くのうどん屋であった。大衆的な値段と、誰もが納得する味を備えた店で、呉軍港に働く者たちにとって大人気の店である。だが、まだ昼食には早い時間であったので店は空いていた。
 押川は天ぷらうどんを頼み、荻本は無難にきつねうどんを注文した。「コレなんかどうだ?」と山本は無責任にコロッケうどんというどこの馬の骨かよくわからない品を薦めてきたが、荻本はもちろん丁重に断った。だが、どういうわけか「この店のうどんは美味いんだ」と言ってこの店を選んだ張本人の大佐サマはカツ丼を注文した。セットとしてミニうどんがついてくるにも関わらず、大佐サマはそれも辞退した。
 怪訝な表情の荻本に押川が言った。
「山本先輩は子供の頃にうどんで食中毒になって、以来うどんが食べられないんですよ」
「じゃあ、何でうどん屋に入るのかな………?」
「さぁ………」
 荻本と押川のナイショ話を遮ったのは山本だった。
「そういや荻本、軍令部に栄転はいいとして、何やるんだ?」
「ああ、それは………」
 荻本はチラリと横目で押川を見やる。どうやら軍機に触れることをやることになるらしいことが荻本の様子から知れる。
「ああ、別に俺個人の興味で聞いただけだからな。言いたくなければ言わないでいいぞ」
「まぁ、先輩になら言ってもいいと思いますよ」
 同じ軍令部員で上官の押川少佐がそう言ったので荻本は一度頷くと軍令部での仕事内容について話し始めた。
「実は、今度開設されることになった対米諜報班に勤務することになりました」
「ほう。アメリカと戦争してるから、それ専門の部署を作ることにしたのか」
「まぁ、そういうことです。何でも軍令部次長が設立を強く主張したとか………」
「おい、軍令部員。今の軍令部次長って誰だっけ?」
「遠田 邦彦中将ですよ」
「ああ、オンティーか」
 そういや、あのオッサン、まだ風俗通いやってんのかね? 山本は茶を啜りながら呟いた。ちなみにオンティーとは「遠田ティーチャー」を縮めたあだ名で、山本たちの間ではそう呼ばれていたのだった。
「で、その対米諜報班は、諜報だけに第三部所属なのか?」
 海軍軍令部には四つの部があり、第一部は作戦担当、第二部は軍備担当、第三部は情報担当、第四部は通信担当と部によって仕事の内容は大いに変わる。
「いえ、既存の部では面白くないとオンティーは言い出しまして」
 押川は冗談めかして言ったが、諜報、つまりはスパイというモノは存在が確認できてはいけないものだ。姿形が見えないからこそ相手に気付かれにくく情報を集める事も出来る。そういう意味で、遠田は既存の部署に対米諜報班を属させる事を嫌ったのだ。
「対米諜報班は第一三部に所属します」
 押川の言葉を聞いた山本は三度瞬きすると、次に腹を抱えて笑い出した。遠田の悪趣味な冗談がツボにはまったのだった。
 元々四部までしかない軍令部に、よりによって一三部を設立するとは何とスケールの大きな話か。それに、一三とはキリスト教にとって忌むべき数字。遠田は対米諜報班の姿を隠すと同時に、対米諜報班をアメリカにとって忌むべき存在にしようというのだ。何と愉快痛快な話ではないか。
 その時、注文していた昼食が山本たちに届けられる。山本たちは仕事の話を止め、食事を純粋に楽しむ事にした。そして一五分後、カツ丼を米粒一つ残さず間食した山本はお茶を二杯飲み干してからすっと立ち上がって押川の肩を叩いた。
「うし、じゃ、行くぞ………ん? どうした」
 山本は押川と荻本が自分を怪訝な目で見ていることに気がついて尋ねた。自分が何かおかしなことをやったのか?
「あの、言いにくい事なんですが………」
「そうですよ、先輩。俺たちの昼飯、おごってくれるんじゃないんですか?」
 押川の分までおごると言った覚えはないが、しかし荻本に関しては記憶にある。山本は耳まで真っ赤にして伝票をひったくった。そして精算をすませると押川を連れてさっさと荻本と別れたのだった。彼は自分で言い出した事を完全に失念しており、非常に居心地が悪かったのだった。
 荻本はそんな山本を見てクスリと苦笑しながら山本たちに敬礼。自分は対米諜報班に転属となり、押川少佐も軍令部勤務であるために戦死の可能性は限りなくゼロに近い。だが、山本は今後も大和艦長として対米戦を戦うのだ。これが今生の別れになってもおかしくはない………。その思いが荻本に敬礼の姿勢をとらせ、そして荻本は生涯この光景を忘れないのであった。



 空母 瑞鶴。
 帝国海軍最新鋭の空母も呉の母港でその艦体を休めていた。
 その間、乗員たちには上陸許可が出され、乗員たちはそれぞれの休息を味わっていた。
 だが、瑞鶴飛行隊の隊長である斗賀野 龍次郎少佐は休息を楽しめなかった。彼は部下を連れて、飲みに行かねばならなかったのである。
 斗賀野たちが入ったのは呉軍港の近くにある居酒屋だ。まだ昼前であったので店はガラガラと言っていいほどで、店主が斗賀野が部下を連れて入店してきたことに驚いていたほどだ。部下たちは人数分のビールとツマミを店主に注文して早速ハメを外し始める。部下たちは死線を潜り抜け、そして生き残ったことを純粋に喜び、快楽の時を過ごそうとしていた。
 しかしそれは斗賀野にとって苦痛の時でしかなかった。なぜならば斗賀野 龍次郎はアルコールの分解酵素を持ち合わせておらず、残念ながら酒は一切飲めないからだ。
 それでも上官であるために部下を連れて飲みに行かねばならなかった。酔いすぎてハメを外しすぎる部下が出ないように気を払わねばならないからだ。上級者の辛いところだ。
「いいか、敵がこうやって被ってきたらだな………」
 そう言いながら斗賀野は身振り手振りを交えて空戦の極意を教えてやる。
 酒に夢中になる者もおれば、斗賀野の話を一心不乱に聞いている者もいる。斗賀野としてもこうやって話していれば酒を勧められないですむので楽であった。それに空の話は彼の心を弾ませるのだ。
「おや、斗賀野少佐じゃないかね?」
 斗賀野の後ろから声。そこには第四艦隊司令長官の大枝 忠一郎がにこやかに立っていた。好々爺としか言いようの無い表情だ。
「あ、ちょ、長官!」
 しゃっちょこばって敬礼する斗賀野。そんな斗賀野を見て大枝はニコリと微笑んで抑えた。
「いやいや、気にするな」
 そういうと大枝はデカイ声でこう言った。
「ここで会ったのも何かの縁だ。よし、今日は儂がみんなに奢るぞ! 大いに飲んで、英気を養ってくれ!!」
 大枝のその言葉は斗賀野を除く全員の心の導火線に火をつけた。若い搭乗員連中の歓喜は瞬間で爆発した。
「よ、よろしいのですか、長官?」
 こいつらは遠慮を知らず、長官の財布に少なからぬダメージを与える事になりますが………。
「なぁに、気にするな。君たちの活躍があればこそ、フィリピン海では負けなかったのだからな」
「はぁ」
「コイツはそのお礼という奴さ」
 大枝はにこやかな表情のまま斗賀野のグラスにビールを注ぐ。大枝は斗賀野が酒を一滴も飲めない事を知らない。無知の善意ほど恐ろしいものはない………。
 一瞬だけ躊躇した斗賀野。しかし意を決したかのように斗賀野をビールを喉の奥に流し込む。
 ええい、ままよ!
 ………………
 斗賀野は目まぐるしく顔色を変化させたかと思えば、床に突っ伏して倒れてしまった。
「お、おい、斗賀野少佐?」
 驚いた大枝が斗賀野の肩を揺する。だが、すでに斗賀野は夢の世界へと旅立っていた。しばらくは戻ってきそうにない。
「………ビール一杯で!? 信じられん」
 自他共に認める酒豪の大枝としては信じられない思いであった。



 一方で、瑞鶴艦長の貝塚 武男大佐は瑞鶴の艦長室に篭りっきりであった。
「いいんですか、貝塚さん」
 空母瑞鶴の艦魂の瑞鶴が気遣わしげな視線を貝塚に送る。
「ん? 何がだ?」
 ずっと本を読んでいた貝塚は、顔を上げて瑞鶴を見る。その本は密かなブームになっている架空戦記という奴で、茂山 富鶴著の大仮想戦史という本であった。
「いえ、みなさん、街の方へ行かれたようなのですが………艦長はうちとずっといっしょでいいんですか?」
 貝塚は、何だそんなことか、と言いたげな表情をする。
「気にするな。俺は自分の意思でここにいる」
「は、はぁ・・・・・・」
 だが、まだ納得がいかないような表情の瑞鶴。
「お前は瑞鶴艦内からは一歩も出れないのだろう?」
「はい」
「ひとりぼっちは寂しいだろう」
 貝塚はまっすぐ瑞鶴の目を見ながらそう言った。瑞鶴は自分の頬がさくらんぼのように赤くなっていくのを感じた。瑞鶴は恥ずかしさのあまり、貝塚に背を向けると心にもないことを尋ねた。
「………それ、同情、ですか?」
 ああ、自分は何を言ってるのだろう? 瑞鶴は自分でも自分の行動が理不尽だと悟っていた。しかし一度走り始めた汽車が簡単には止まらないように、堰を切った言葉は止まらない。
「うちは同情なんてされたくありません! 迷惑です!!」
 そう言うと瑞鶴は艦長室を出て行った。貝塚はそんな瑞鶴の後姿を見つめていることしかできなかった。いや、己の表現力の乏しさを呪うことも行っていたが、貝塚には瑞鶴にかけるべき言葉が見つからなかった。
 少女瑞鶴は艦魂であり、空母瑞鶴から一歩たりとも外に出る事はできない。だから、この船としては大きいが、数千単位の人が暮らすには狭い空母瑞鶴艦内では必ず貝塚に出会ってしまうだろう。少女瑞鶴はその時、貝塚にどのような顔で、どのような言葉をかければいいのか確信を持つことはできなかった。
 ………………
 その日、少女瑞鶴は貝塚と会うことなく過ごしたが、翌日には貝塚と遭遇した。
 瑞鶴はどのような顔をしていいのか結局わからなかったので、俯きながら貝塚に挨拶した。
「お、おはようございます」
 貝塚は昨日のことは気にしていないようだった。いつもと同じように、優しい声で応えてくれた。
「おはよう、瑞鶴」



 荻本と別れた山本と押川が向かったのは広島市内にある広島市民劇場であった。大阪市内にある大帝国劇場と比べると高級ホテルと民宿ほどに差が開いている。しかし、今宵、この小さな市民劇場は世界最高の劇場となる。
 広島市民劇場をシンデレラに仕立て上げるのは、日本が世界に誇る帝国華撃団であった。日米戦開戦以後、帝国華撃団は全国各地を回るツアーを行い、日本全土の国民の戦意高揚を図っていた。今日はこの広島市民劇場で公演が行われるのであった。
「娯楽を統轄して国民の戦意高揚を図ろうだなんて、上も考える事がセコいな」
 決して広いとはいえない広島市民劇場の席にどっしりと腰を降ろし、両腕を組んだまま不機嫌そうに山本は言った。基本的に大味な性格をしていると言われるし、自分でもそう思っている山本であるが、しかし譲れない部分は確かに存在し、その部分に関しては一徹なまでに頑固であった。
「まぁ、戦争がなければ広島で帝劇の公園を見ることなんてできなかったんだし、案外喜んでいるんじゃないですかね?」
 押川は皮肉めいた口調を吊り上げた口元に乗せた。広島市民劇場は入場開始から数分で満員となっている。山本たちは指定席の切符であったために席は確保されているが、立ち見は当然の混み具合である。まるで長期休暇の際の特急列車のような混み具合だな、と押川は感じた。
「ところで今日の演目はなんだ?」
「そんなことも知らないで来たんですか?」
 呆れ顔の押川は山本にパンフレットを手渡す。そのパンフレットには山本が子供の頃から馴れ親しんだ話のタイトルが書かれていた。
「ほぉ、桃太郎か」
 山本は肩をすくめながら言った。
「桃太郎がお供と共に鬼を退治する。その鬼、肩には星。額には米の字、といったところか」
「それ、なんて超人です?」
 ………そんな取りとめのない話をしているうちに帝国華撃団の公演は始まり、ゆっくりと幕が上がり始める。



 その桃太郎は山本の言ったとおり、鬼をアメリカに見立てたプロパガンダの臭いが漂う脚本であった。だが、その臭いは山本の予想とは違って全然鼻につかなかった。それは帝国華撃団の女優たちの演技のおかげであった。彼女たちの演技は時には腹を抱えるほどの笑いを、時には血を滾らせる興奮を、そして最後には感動の涙を観客たちに与えた。桃太郎が自らの行いを悔いた鬼に手を差し伸べ、今までの敵意を水に流して友情を誓うシーンの盛り上がりはさすがであった。
「いやぁ、やっぱり素晴らしい公演でしたね」
 興奮冷めやらぬ様子で押川がまくしたてる。山本はどこかそわそわした面持ちで視線を忙しく動かしていた。山本の様子を不思議に思った押川が「どうかしましたか」と尋ねる。
「実はな、トイレに行きたいんだ」
「でも、この人波でトイレに行くのは………」
 そう、公演が終わったからには客は劇場を出なければならない。満員御礼を三回は出せるほど人が入っている今の広島市民劇場は客の退場が追いつかず、人がまったく動いていなかった。
「だが、行くしかない」
 山本はモーゼの如く、人の荒波を切り拓こうとしている。男前な決意と口調ではあるが、動機が動機なだけにどこか情けなさが漂っているが。
「そこまでガマンしてたんですか?」
 押川の呆れ声を背中で聞きながら山本は動かない人波に飛び込んでいった。押川が広島市民劇場を出たのは公演終了から一時間後のことだった。そして何時まで待っても山本が出てこなかった。押川は大阪へ戻る飛行機の手配のこともあるので山本を置いて、呉にある海軍航空隊の飛行場へと向かった。押川の休日はこれで終わり。明日からはまた軍令部で情報を相手にした戦争の日々である………。



 押川と別れてトイレに向かっていたはずの山本だったが、彼の足はトイレとは違う方向に向いていた。山本は本人ですらあきれ返るほどの方向音痴であるが、この場合、彼は道を間違えていない。これで、正しいのだ・・・・・・・・・
 彼は帝国華撃団の楽屋の扉を何の迷いもなく開いた。当然、中には帝国華撃団のトップスタァたちがいる。彼女たちは山本と言う部外者が立ち入ってきたにも関わらず、誰も彼を追い出そうとはしなかった。
「ぃよっ」
 山本は右手の人差し指と中指を伸ばして振った。去年からこの挨拶を彼は好んで使っていた。
「あ、山本さん。来てたんですか?」
 帝国華撃団の座長を務める真宮寺 さくらは山本の姿を見て一礼した。
「ああ。なかなかハマリ役だったな、さくら君の桃太郎は」
「ありがとうございます」
 帝国華撃団の座長を務めるほどの実力と人望を備えながらも真宮寺 さくらは新人のように初々しく頭を下げた。いつまでも新しい心を忘れない。それが真宮寺 さくらの最大の特徴であった。
「ところで、アイツはどこかな?」
「あら? さっきまでここにいたはずなのに………」
「ああ、忘れ物したとかで舞台袖に行ってるよ」
「アイツ」を探す山本と真宮寺に「アイツ」の居場所を教えたのは桐島 カンナであった。山本よりも高い身長と浅黒い肌、そして鍛えられた筋肉。帝国華撃団の男役として縦横無尽の活躍をみせる女優である。
「ああ、ありがと。舞台袖ってこっちでいいのかな?」
「ああ、いいよ」
 山本はカンナに片目を閉じながら敬礼すると足早に舞台袖の方へ向かった。楽屋を出るなり早足は駆け足に変わり、踵が強く床を蹴る音が響く。この音、楽屋のみんなに聞こえてるだろうか? もし聞こえているなら、きっと今の自分は笑いの種になっているだろう。だが、構うものか。開戦前に衣笠に乗ってトラックまで出張って地獄をくぐり、生きて日本の土を踏む事ができたと思えば今度は最新鋭戦艦の艦長としてフィリピンで艦隊決戦。今の俺は疲れている。この俺の疲れを癒してくれるのは、アイツしかいないんだ。駆け足になる俺を誰が笑う事ができるだろう。
 駆け足の山本が劇場の舞台裏にたどり着く。弾んだ呼吸を必死に整えながら、山本は舞台裏を見回す。彼が目的とする「アイツ」はすぐに見つかった。クセの強い紫の髪を三つ編みで束ね、深いスリットの入ったチャイナドレスから覗く脚は細く、長く、そして処女雪のよう。実年齢より幼く見える童顔に丸い眼鏡をかけたアイツは俺の視線に気がつくと俺の方に振り返り………舞台裏に置き忘れていた小道具を床に落としてしまった。
「………よぉ、久しぶりだな」
 胸に去来する様々な感情ではなく、山本が舌先に乗せたのはごくありふれた言葉であった。だが、山本の目の前にいるアイツは、飾り気のないありふれた挨拶を何より喜んでくれた。
「山本はん!」
 アイツこと帝国華撃団の女優、李 紅蘭は山本の名を呼び、落とした小道具に見向きもせず駆け寄った。
「何や、今日の公演に来てたんかいな〜。それやったら特等席用意したったのに」
 紅蘭は山本の胸を肘で突付きながら言った。彼女の言う特等席とは、宝石より貴重とされているSS席のことではない。いくら金を積んでも買うことができない最高の特等席、即ち舞台袖の事を指していた。
「ははは、じゃあ次はそうしようかな」
 山本は照れた笑いを浮かべる。そこにいるのは帝国海軍の問題児でも、トラックの英雄でも、大和の艦長でもない、一個人としての山本の素顔があった。そして李 紅蘭の方も女優ではなく、一人の一九歳の少女として山本に向き合っていた。
「って、山本はん、額、どうしたん!?」
 山本の額に生々しい傷痕ができていることに気付いた紅蘭は悲鳴交じりに尋ねる。山本は紅蘭とは対照的に飄々として答えた。
「ん? ああ、フィリピンでちょっとやられちゃってなぁ。ま、脳に異常は見られなかったし………」
 山本は額の傷痕を指差して自慢げに言った。
「それに、こういう傷痕があると男らしく見えない?」
 まるで子供が思い描く幻想そのままの山本の男らしさ像を聞いた紅蘭は口を開けて呆然としていたが、三〇秒で我に返り、山本に膝を曲げて屈むように言った。山本と紅蘭の身長差は大きく、山本が膝を曲げないと紅蘭の手が山本の額に届かないからだった。山本は額の傷痕を紅蘭が撫でるのかと思っていたが、紅蘭は額ではなくその右側にある右耳をガシッと掴むと自分の口元に耳を引っ張って怒鳴った。
「アホかー!!」
「………ッ!?」
 舞台女優特有の大きな声を耳元で叫ばれた山本は全身を痙攣させる。
「な、何すんだよ、紅蘭!」
「何が男らしいや、アホたれ! 危ないことしたらアカンっていつも言うてるやろ!!」
 大木で木登りをして、そこから落ちてケガした子供を叱る母親のような口調で紅蘭は山本に言った。言われた方は苦く笑う。
「ちょ、それ、軍人に言うセリフじゃないって………」
 だが、山本は紅蘭の言葉を笑い飛ばそうとして失敗した。紅蘭が両目に涙を溜めていることに気付いたからだ。
「………悪ぃ」
「グズッ………もう、イヤなんや。戦争で、うちの大切なモノが失われていくのは。だから、山本はんは何があっても生き延びてみせるってくらいの気持ちでいて欲しいねん」
 紅蘭は両目から涙を溢れさせながら言った。
「俺なら大丈夫さ。だって、俺は山本 光だぜ?」
 まるで根拠にならないことを根拠にして、山本は紅蘭を慰めたつもりであった。それでも泣きやまない紅蘭を見た山本は、紅蘭の頬に唇を近付ける。そして彼女の涙をキスで拭ったのだった。根拠にはならないことで紅蘭を説得する山本は、太宰 治の小説に出てくるメロスのようだ。だが、山本はメロスが嫌いではなかった。己を貫き通して暴君を改心させた信義の男、メロス。同じ男としてかくありたいものではないか………。



「ナナス・アルフォリア大佐、入ります」
 大佐の階級とは思えないほど若い青年が入室し、部屋の主に敬礼。
 この青年の外見は非凡だ。
 何と言えばいいだろうか?
 そうだ、これだ。
「美男子」
 その言葉を具象化すると言い切っていいほど青年は綺麗な顔をしていた。
「よくきてくれた」
 アメリカ合衆国陸軍長官のアレックス・モズビー大将がのんびりした声でナナスを迎えた。
 彼、アレックス・モズビーは影でこう呼ばれている。
「ワイヤーロープの精神を持つ男」
 何故そう呼ばれるのかというと、彼の前身のジョージ・マーシャルが心労で辞職したのに、彼はしていないからだ。
 現アメリカ大統領のフランクリン・ルーズヴェルトは親海軍派として知られ、副大統領は海軍出身。この状況下では陸軍の予算が冷遇されるのは必然であっ た。だがこれを甘受してはいけない、とマーシャル前陸軍長官は必死に運動を続けていたのだが、有形無形の様々な妨害の結果、胃潰瘍を患ってしまった。
 そこで後任に選ばれたのがモズビーなのだ。
 モズビーは万事におっとりとした性格で………いや、むしろ鈍感であったので、アメリカ合衆国海軍派の様々ないやがらせを平然として受け止め、何とか予算の獲得に成功したのである。
 だが、その予算でも十分ではなく、「何か一つの兵種」しか充実できないとわかったのだった。陸軍内は荒れた。
 しかし当の予算獲得の最大の功労者の一声ですべては結した。
「重爆撃機を造ろう」
 そしてB17は当初の予定よりも遥かに多額な予算が与えられ、性能の向上が図られた。それがあってこそのトラック空襲なのであった。モズビーの慧眼に対する賞賛は増す一方だ。



「ナナス大佐、君をトラック方面のB17隊の隊長に任命する」
 モズビーののんびりしたその声は、ナナスの心の水面に波紋を立てた。
「トラック、ですか?」
 ナナスの表情が渋く歪む。
「うむ。君の才幹が必要なのだ」
 外見が非凡であるナナスであるが、大佐の地位を外見で得たわけではない。
 そう、彼はアメリカ陸軍航空隊随一の智将なのである。
 だからトラック方面のB17隊の指揮権を任されるのはある意味で必然であった。
「トラックの飛行場はもうじき修復されるそうだから、明日にでも出立してくれ」
 緊張感を欠いたモズビーのおっとりとした声。このような声では部下の士気を鼓舞する事ができなかった。
「は、はぁ」
 モズビー直々の辞令を受けてもイマイチ盛り上がらなかったナナスは、ばつの悪い表情で頬をポリポリと掻く。
「わかりました。ナナス・アルフォリア、明日にトラックに向けて出立します」
 何とか表情を引き締めたナナスはモズビーに敬礼。



 ナナス邸。
 ナナスはモズビーに会った後、帰宅を許された。最後の一日を家族と過ごしてこい、というモズビーなりの気遣いだろうか?
 といってもすでに太陽は西に沈み行こうとしていたが。
「……………」
 ナナスはまるで悪い成績をとって帰ってきた小学生のような表情で帰宅してきた。
 ナナスの妻、ライセン・アルフォリアはそれだけですべてを悟った。
「戦場に行くの?」
「え? なんでそれを?」
 ナナスは合衆国陸軍航空隊随一の智将と称されている。しかし、そんな彼も日常生活ではただの多少世間知らずな美男子でしかない。多難な人生を生きてきた妻ライセンにとって、ナナスの心情を見抜くことなど容易い事だった。
「ナナスがそんな表情をするのはそれくらいしかないから」
 ナナスとライセンはまだ新婚ほやほやである。ナナスがトラック行きを渋ったのもそういう事情があるからだ。
「ごめん、必ず帰ってくるから」
 ナナスはそう言ってライセンに笑いかける。優しげな笑み。ナナスと出会うまでは汚泥のような人生を送っていたライセンにとってこれ以上に素敵なものはない。だけど気にかかる事が一つある。
「でも、大丈夫なの?」
「え、何が?」
 ライセンはためらいがちに言う。
「ナナス、優しいからさ。戦争なんかできるのかな、って」
「それは………」
 ナナスは民俗学の研究をしていたこともあり、日本人に対する差別意識はまったく持っていない。他のアメリカ軍人は日本人を「黄色い猿」と思うことで罪から逃れようとしているが、ナナスにはそれができない。心優しいナナスは大いに苦しむ事になるだろう。ライセンはそれを知っていた。
「………僕も、軍人だから」
 ナナスはそれだけ言い、その話題を止めた。
 そして西の彼方へ消え行く夕日。
 一日の最後の輝きを放つ太陽の光に二人の男女の影がライト・アップされ………
 ………やがて影は一つに重なり合う。
 後世の歴史家に言われて曰く、「終わりなき消耗戦」とされるマリアナ攻防戦が開始されるのは、この日から四日後のB17隊のマリアナ空襲からであった。


第八章「フィリピンの残滓」


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