葬戦史R
第七章「夜の帳の中で」


 一九四二年一月二〇日。
 この日、大阪の天は朝から厚い雲に覆われていた。雨も雪も降らなかったが、雲は夜になっても晴れることはなく、月や星をみることはできなかった。この日は空から光が降り注がない一日、それは非常に憂鬱な一日であった。
「このような憂鬱な一日の締めくくりだからこそ………」
 カーテンを払い、窓の外を見ても街灯の明かりしか見えない。そんな夜を指して軍令部次長の遠田 邦彦中将は言った。
「政治の話をするに相応しい。そう思いませんかな、ご一同?」
「つまり遠田中将はこう言いたいんだ。政治の話は憂鬱だ、と」
 遠田の言葉を受けて苦く笑いながら返したのは軍需大臣の和泉 信興であった。元々は建築家であり、大阪遷都の際の都市計画の指揮をとったことで知られている。その後、政治家の道を歩み、震災後に常設されることになった軍需大臣のポストについている。巷では東のフリッツ・トート(ドイツの軍需大臣。アウトバーン建設などに尽力)、西の和泉 信興と並び称されている。
「戦時中の戦争の話なんか、憂鬱極まりないですからな」
 遠田はカーテンを閉ざすと、用意されていた自分の席に足を進め、そして深く腰掛けた。それと同時に扉が開き、数名の老人が入室する。
 まず、一人目は大日本帝国首相の幣原 喜重郎であった。四度の外務大臣を経験し、諸外国との協調を前面に押し出した幣原外交を推し進め、ついに首相に上り詰めた男であった。
 幣原の次に入室してきたのは陸軍大将東条 英機であった。陸軍参謀総長と陸軍大臣の両ポストを兼務し、帝国陸軍の軍令と軍政の両方をつかさどっている。
 その後、大蔵大臣や海軍大臣などの入室が続き、そして最後に入室してきたのはこの男であった。
 外務大臣吉田 茂。和泉は吉田の姿を見るなり相貌を曇らせた。吉田 茂は幣原首相のように、外交畑で実績を積んできた男だ。和泉に負けず劣らずな評価と才能を有し、そして和泉よりも押しが強い。目的のためならば手段を惜しまない強引さを持った政治的豪傑。それが吉田 茂であり、和泉 信興と並ぶ次期首相候補である。
「さて、これでそろったようですな」
 吉田が席についたことを確認した遠田は、一度だけ浅く頷くと切り出した。
「自分は海軍軍令部次長の遠田 邦彦中将であります。今回の司会を務めさせていただきます。さて、今日お集まりいただいたのは他でもない。帝国が今直面している未曾有の国難に、如何に挑むか。その政府・軍部の統一見解を下したいのです」
 遠田は目線だけを動かして一同の表情を瞳に映す。
「………確認のために言いますが、五・一五事件と二・二六事件。この二度にわたる軍のクーデター騒ぎで統帥権は見直され、帝国陸海軍はあなた方内閣の下につくことになった。今や軍の手綱を握るのはあなた達、政府のお偉方です」
「おい、遠田君………」
 まるで統帥権の移動が行われたことが不満であるかのように聞こえる遠田の物言いに、軍令部総長永野 修身大将は額に汗を滲ませながら遠田の裾を引っ張った。二度のクーデター未遂によって憲法が改正され、大日本帝国陸海軍の統帥権は政府が握ることになった。民主主義国家(そう、大日本帝国は「帝国」を名乗りながら民主主義国家なのだ)としては当然のことなのだが、しかし旧憲法体制下での軍の独立を望む者、つまりは統帥権の異常に反対する者は相当数に上った。政府と軍は旧体制派をパージすることで急速に体制を入れ替えたのだった。
 遠田は、海軍の旧体制派をパージする運動の最前線で活動していた経験がある。だから以上のようなことを口にしても波風は(防波堤を破壊するほどには)立たない。だが遠田の上司である永野にとって、防波堤を超えないとわかっていても、自分の近辺で波風が立つのは気持ちがいいものではない。
 遠田のような有能ではあるが、性格に問題を抱える部下を持ったために永野は苦労が絶えかった。
 遠田は露悪的な表情を一変。真剣な眼差しで政治家連中に問うた。
「この際だからハッキリさせたいのです。我々、帝国陸海軍はアメリカ合衆国を相手に、どこまでやっていいのでしょうか・・・・・・・・・・・・・・・?」
 遠田の言葉に同意だと頷いたのは東条 英機であった。熱心な天皇崇拝者であるが、満州事変の際に既存の法制度では軍の暴走を抑えることができないと悟った東条は、誰よりも統帥権の移譲を望んでいた。そして念願かない、旧体制派に対する弾圧が始まった時、東条は陸軍内での旧体制派駆逐のために誰もが唖然とする行動に出た。それが前述の陸軍参謀総長と陸軍大臣の兼任である。東条は陸軍の権力を一手に握ることで、海軍よりも中枢にこびりついていて駆除が難しかった陸軍の旧体制派駆逐を強引に推し進めたのだった。
「遠田中将の仰ることに陸軍も同意します。我々、帝国陸海軍がどこまで許されるのか。たとえばマリアナ辺りで防御に徹し、アメリカの疲弊を待つのか。またはハワイを攻め落とし、太平洋の制海権を手中に収めた所で講和を求めるのか。はたまた米本土上陸を行い、アメリカを屈服させるのか………。どこまでこの戦争を続けるのかによって戦略が変わります、というよりそれが決まらないと戦略が決められないといっていい。戦略のない軍隊が勝つのはラッキー以外の何者でもない。私は、この国を不確かなラッキーに頼らせたくはない」
 遠田の言葉を補足する東条の言葉。居並ぶ幣原内閣の政治家たちは腕を組み、「むぅ………」と考える声を漏らした。そんな中、彼だけは明確な答えを返した。
「合衆国との戦争に利益などあるまい。目指すは早期講和、これだけだ」
 幣原に代わって東条の問いかけに答えたのは吉田であった。
「早期講和………。簡単に言ってくれるなぁ」
「何か言ったかね、遠田中将?」
「いえいえ、独り言ですとも、独り言」
「………ふん。聞かなかったことにしてやろう」
 吉田はそういうと慇懃に葉巻を咥え、火を灯す。そして悠然と煙と燻らせてみせた。
「………諸君、最近都市部を中心に数を増やしている牛丼屋を知っているかね」
 吉田が急に振った話題に目をパチクリさせる一同。そんな中、吉田の言葉に応えたのは遠田であった。
「所謂、『速い、美味い、安い』ですね。軍令部の傍にあるからよく利用していますよ」
 件の牛丼屋は遠田が口にした「速い、美味い、安い」をスローガンに、都市部の労働者と学生に絶大な支持を誇っていた。欧米のメディアなどは「昼食を迅速に済ませ、昼休みを短くすることで日本は急激な発展を成し遂げたのだ」とまで言っている。日本人が「エコノミック・アニマル」と呼ばれる所以の一つであった。
「そう、それだ。その牛丼屋が使っている牛肉。あれはアメリカから輸入している牛肉だ。いや、牛肉だけではない。今や我が国の食物の多くは輸入に頼り、そしてアメリカはその輸入先の『お得意さん』というヤツだ。我が国は、アメリカと戦争をしてはいかんのだ」
 如何に石油や鉄鉱石、その他の希少資源が新大地から発掘されたとしても、人間は食わなければ生きていけない。その食をアメリカに大きく頼っているからこそ、アメリカとの戦争は早期に終結させるべきだと吉田は主張した。
「だが、食料の問題はオーストラリアやヨーロッパから輸入するという手もある。無論、戦争が長引いていいわけがないが、講和を急ぐあまりに弱みを見せる必要もあるまい」
 吉田に反論したのは吉田のライバルとされている和泉軍需大臣であった。ただ、吉田のライバルであるから吉田とは反対の意見を披露した訳ではない。和泉には和泉なりの考えがあってのことだ。椅子から立ち上がった和泉はそのことを自らの弁舌で証明する。
「早期に戦争を終わらせることに執心するあまりに視野狭窄に陥ってはいけない。現状での早期講和は我が国が大幅に譲渡しなければならなくなるだろう。この際、長期戦すら視野にいれた戦略も検討するべきだ」
「大幅な譲渡ですと………?」
 和泉の言葉に吉田派で知られる大蔵大臣が反応した。和泉は彼に何冊かの新聞を突きつけた。その新聞はアメリカ合衆国で発行されている新聞であった。
「これは日米開戦前後に発行されたアメリカの新聞です。いわゆるタブロイド紙からワシントンポストやニューヨークタイムズといった大新聞まで、即ちアメリカ合衆国の言論界の上から下までが我が国を叩き、新大地を広く解放させるようにと主張している。曰く、新大地の資源は人類全体の財産であり、日本が独占していいものではないってね」
 和泉はマスコミの公平性など欠片も信じていない人種であった。彼はすべての報道が何らかの意図によって作られていると信じている。今回、和泉が持参したアメリカの新聞は和泉の考えを裏付ける形になっていた。
 アメリカ合衆国は報道機関を日本叩き一色に染め上げ、日本との戦争の正当性を強調している。そのような強硬姿勢を見せるアメリカを相手に早期講和を望むという弱腰ではつけこまれるばかりだ。だから和泉は長期戦をも辞さない構えを見せていた。
「繰り返します。アメリカは本気で我が国をつぶそうとしている。そのような国を相手に弱腰を見せるのは危険だと私は主張します」
 和泉はそう結ぶと椅子に腰を下ろした。そして腕を組み、静かに目を閉じて反応を待つ。
「………軍部に一つお尋ねしたい」
 しばらくの沈黙の後、静かに口を開いたのは幣原首相であった。
「政治的制約を一切考慮せず、純粋に戦況だけを見たとして、今から譲渡をしない早期講和は可能でしょうか?」
 幣原の質問に東条陸軍大臣兼参謀総長と永野軍令部総長、そして嶋田 繁太郎海軍大臣が顔を見合わせた。そして東条がコクリと頷くと起立して返答を返したのは嶋田 繁太郎海軍大臣であった。これは日米戦争の主戦場が太平洋であり、海軍が中心となる戦いだということに東条が身を引いた結果であった。
「正直に申し上げまして、現状での講和はどうしても我が国が譲渡しなければならないでしょう」
「たとえば今から海軍の全力をあげて艦隊決戦を挑み、それに勝つことで早期講和は望めませんか? 海軍には竣工したての超弩級戦艦と完成間近の二番艦があると聞いておりますが………」
「首相もご存知のように、その竣工したての超弩級戦艦、大和を先のフィリピン沖海戦に出した所、訓練不足からマトモな戦力にはなりえず、大破と判定されるほどの打撃を受けてしまいました。大和の修理もさることながら、大和型二番艦の武蔵も竣工してからしばらくは訓練を行わなければならず、今はとても艦隊決戦を挑める状況ではありません」
「ふむ………。では、フィリピンを早々に陥落させて我が軍の強さを見せ付けるのはどうです?」
「それもおそらく効果は期待できないでしょう。フィリピンを早々に陥落させたとしても、元々アメリカにとってもフィリピンは防衛不可能と思われていた土地。たいした衝撃にはならないでしょう。それに、アメリカ合衆国はフィリピンよりも戦略的価値の高い『太平洋のジブラルタル』を近いうちに手にし、そちらをフィリピン陥落の埋め合わせとして大々的に宣伝するはずです」
「むぅ………。では、早期講和は望めない。それが軍部の意見と考えてよいのですね?」
「はい。陸海軍の見解はそうなります」
 嶋田の言葉を聞いた幣原は一度深く頷くと閣僚の顔を見回しながら言った。
「戦争のプロがそう言うのであれば、我々はそれを信じるしかないでしょう。私も、できれば早期講和としたいですが、ここは長期戦もやむなしとせざるをえないようです」
「だが、我々外務省は各国を通じてアメリカに和平を求め続けますぞ」
 幣原にそう言ったのは外務大臣の吉田であった。幣原は吉田に頷いて言った。
「お願いします。戦争中で、早期講和の道が途絶えたといえども話し合いの機会があるのならば行う方がいい」



 広島は大阪と違い、空にはおぼろげに光る月と、宝石屑のように輝く星が見えた。広島県の山奥にある一軒の古い寺は電気が通わぬ言わば廃寺で、星空の明かりがなければ何も見えない所だった。
「いい月だ………」
 八〇歳を越えた老人が杯を呷って呟いた。髪をそり落とした頭を撫でながら月見酒を堪能する。その目の色は底知れぬ深淵を感じさせる。彼の名は阿門。かつては仏道を志し、徳の高い法師として生きていたのだがある日を境に道を違えた。酒を飲み、肉を食らい、女を抱く………。欲の赴くままに生きる彼についた通り名は「破戒無慚」阿門であった。破戒無慚とは戒律を破りながら恥と思わない僧のことを言う。阿門はその評判を知ってか知らずか、欲望のままに生きることをやめようとしない。
 空になった阿門の杯に酒を注ぐのは三〇代の成人男性であった。細い目のまなじりが垂れており、どこか抜けた雰囲気を漂わせた男であった。だが、この男の名は日本軍の中では禁句とされている。人呼んで「鬼畜王」………。
「………ええ、しばらくはこのような月は拝めないでしょう」
 阿門が「破戒無慚」と呼ばれるのはその生活態度が原因だ。ならばこの男が「鬼畜王」と呼ばれるのは何故であろうか? それは男の経歴にあった。
 男の名は結城 繁治。帝国海軍の予備役中佐であるが、彼が若くして海軍を去ることになった原因は一九三六年の二・二六事件にあった。
 二・二六事件の際、賊軍と近衛師団による梅田での市街戦はほぼ拮抗状態にあった。長期戦は日本に何の利益ももたらさない、むしろ不利益だけが残るだろう。そう判断した結城 繁治は海軍の身でありながら重砲大隊を指揮する牟田口 廉也大佐を煽動し、梅田に弾幕砲撃を行わせたのだった。結果、二・二六事件はその日のうちに鎮圧され、日本にとっての悪夢はわずか一日で終了となったのだ。
 だが、軍令と完全に無視した結城の独走は決して許される性質のモノではなかった。二・二六事件終結後、結城 繁治は自らの希望という形で海軍を後にした。それが二・二六事件の際の独走の罰であることは誰の目にも明らかであった………。
 海軍を追われた結城は妻と共に阿門の暮らす広島県の廃寺に身を寄せ、世捨て人同然に生きていた。自分のやったことに後悔はないし、自分の才能が必要とされる機会がくればまた海軍に戻ることになるだろう………。そう考えていた。そして結城の考える通りに世の中は動いていた。
「やはり、海軍に戻るのか?」
 阿門は月から目を離さずに尋ねた。結城はコクリと頷くと口を開いた。
「………アメリカが相手の大戦争。その終結には私の才能が必要だと遠田次長が仰いましてね。近日中に予備役軍人を全員現役に戻し、私もその一人に入る予定です」
 結城の細い目が憂鬱のためにますます細くなる。結城は希代の戦術家であった。海軍兵学校時代から中佐として軍を追われるまで、彼は常に軍令の道を歩んでいたが、彼の立案する作戦はすべて敵を打ちのめしていた。だが、彼は最大の戦果をあげるためにありとあらゆる物を利用する傾向があった。それは謀略だけでなく、味方の生命すら内包している。故に彼は「鬼畜王」と呼ばれるのだった。
「そうか………。この寺も寂しくなるな」
 阿門はアルコールの臭いがするため息を大きく吐き出した。



 夜の幕が降りても帝国歌劇団の一日は終わらなかった。
 座長を務める真宮寺 さくらを初めとする見目麗しい乙女たちの練習は、本人たちが納得するまで続くのだ。練習が、日付が変わっても続けられることはざらであった。
 その中で特に練習に真剣に打ち込む少女は李 紅蘭であった。年齢は一九歳。紫色したクセの強い長髪を三つ網に束ね、チャイナドレスを纏っている。チャイナドレスのスリットは深く、彼女の脚が覗いているが、童顔で化粧もほとんどしていない彼女はエロスよりも活発さを感じさせている。
 さて、彼女、李 紅蘭は名前からもわかるように、中国で生まれている。彼女の生まれは満州に住む、どちらかというと裕福な家庭であったという。だが、彼女は満州事変ですべてを失ってしまう。家も、財産も、そして愛する家族も………。
 満州に侵攻を開始したソ連軍は勢いは凄まじく、竹を破壊する勢いであった。当時まだ幼かった紅蘭に残る満州事変の記憶といえば、両親に手を引かれ、旅順を目指して慌しく足を動かしていたことだった。旅順に行けば日本海軍の艦艇が満州から脱出させてくれると聞いている。紅蘭の両親はその噂を頼みにソ連軍から逃げ延びようとしていた。だが、ソ連軍を食い止めるべき日本と満州軍閥の陸軍はすでに敗北し、抵抗らしい抵抗を受けずに旅順へ迫るソ連軍より早く旅順に着くことは李 紅蘭たちにとっては不可能であった。
 李一家が旅順にたどり着いた時、その時すでに旅順はソ連軍の手に落ちていた。そして彼女の両親はパルチザンと疑われてソ連兵に射殺されてしまう。彼女の父親が、護身用に猟銃を携帯していたのが原因であった。
 こうして天涯孤独となった紅蘭は、旅順の農家に引き取らることになる。新たに誕生した満州人民共和国の方針のおかげで小作農から自作農に格上げされた紅蘭の引き取り手は、自分がされてきたことをそのまま紅蘭に行う心の狭い人間であった。要するに、旅順返還交渉が実りを結ぶまでの数年間、紅蘭は小間使い同然の暮らしを強要されるのであった。
 謀略と交渉の末に旅順返還が成った時、紅蘭は満州人民共和国に移住を命じられた引き取り手の農家に黙って旅順に残った。引き取り手の農家は紅蘭に逃げられたことを怒って地団駄を踏んだそうだが、日本の勢力圏に戻った旅順では探しようがなく諦めるしかなかった。
 紅蘭は自由と引き換えに再び孤独になったが、しかし孤独は不自由ほど辛くはなかった。むしろ彼女は共産主義国に数年間滞在することで、共産主義国の構造的欠陥を直感的に見抜いていた。即ち、共産主義とは努力の否定なのだ。努力しても報われることがない世界が、人間に発展をもたらすとは思えなかった。紅蘭は努力すれば報われる(と思われた)資本主義社会の日本で生きることを選んだのであった。
 そして彼女の守護天使は数年間の沈黙を破って活動を再開し始めた。紅蘭は日本のNGO団体の一員として旅順査察に来ていた藤枝 あやめと知り合い、彼女の紹介で神戸の英国人夫婦の許へ引き取られることとなったのだった。以降、彼女は日本語を努力して覚え、そして努力の末に日本のみならず世界的規模で人気を誇る帝国歌劇団の一員となり、スターへの階段を登り始めたのであった………。
 少なくとも李 紅蘭の公式プロフィールはこうなっていた。それは一面では真実であったし、一面では虚構だった。
 結局の所、李 紅蘭はコンプレックスの塊であった。彼女は自分の容姿が人より優れているとは思っていなかったし、才能だって恵まれているとは思っていない。彼女はマリア・タチバナのような美女ではなく、神崎 すみれのような女優としての才能もなかった。だから彼女は努力することで、己の限界ギリギリ、場合によっては限界以上の力を発揮する必要があったのだった。
「ではもう一度、最初から通してやってみましょう」
 座長の真宮寺 さくらの指示に一番大きな声で「はい」と応えたのは紅蘭であった。



「いらっしゃいませ!」
 昔ならば「草木も眠る」とされていた時間になっても梅田は人の活気があった。梅田の牛丼屋は深夜にも関わらずそれなりの客数を確保しており、客の数に対してアルバイトの学生は足りていなかった。致命的なまでの不足ではないが、これでは一人一人の客に注意を払っている暇はなかった。
 そんな牛丼屋に訪れたのは東条と遠田であった。東条は牛丼屋の繁盛を見ると店の一番奥の座席に腰掛けるよう遠田に言った。
「アメリカ産の牛肉はしばらく輸入できなくなるそうですが、この店はどうするのでしょうね?」
 東条は眼鏡を外し、レンズをティッシュで拭いながら呟いた。遠田は注文を訊きに来た店員に牛丼並盛二つを注文し、店員が向こうに行ったことを確認してから応えた。
「和泉軍需大臣ではありませんが、確かに豪州産の輸入を行えないかどうか手を打っているらしいですがね。一時的なるか長期的になるか………とにかく牛丼の販売中止は免れないでしょう」
「ふむん………。米国との長期戦はやむなしとしても、だからといってダラダラと続けるわけにもいきませんね」
「まったくです。なるべくさっさと講和を締結して、この残業三昧の生活からオサラバしたいものですよ」
 遠田はそう言うと露悪的に肩をすくめた。一昔前の東条ならばこのような態度に不快感を示していただろう。だが、今の東条はある程度の冗談を理解するようになっていた。
 東条 英機が無趣味の男であるのは有名な話で、軍務以外には奥方と一緒に一度だけ歌舞伎を見に行ったくらいしか娯楽らしいことはしていなかった。風俗店に通いすぎて奥さんに愛想をつかされて離婚した遠田のような快楽主義者からすれば信じられないことであった。
 だが、その東条が最近、趣味を見つけたのだった。それは(一部のマニアの間で)急速に普及の兆しを見せているアマチュア無線であった。
 工業化に成功した日本にとって無線機の部品は決して高級品ではなくなっており、アマチュア無線の機材の値段はここ数年で随分と下がったものである。そのアマチュア無線を使った一大コミュニティ「チャンネル・ツー」というのがあるのだが、東条はそのチャンネル・ツーの有名コテハンの一人であった。これはあくまで噂にすぎないのだが、昨年に大ヒットしたチャンネル・ツーから誕生した美談「機関車男」の映画化を後押ししたのは登場なのではないかとまで言われている。彼はそこまでチャンネル・ツーに入れ込んでいた。
 閑話休題。
「そう、対米講和は急がなければならない」
 東条は運ばれてきた牛丼に箸を突っ込みながら言った。遠田は牛丼を口の中にかきこみながら東条の言葉を聞く。
「にも関わらず、海軍の体たらく………何とかなりませんか?」
 東条の口調には棘がある。自分がしてきたことと同じことを相手に求めているにも関わらず聞き入れられない者特有の焦りが塗られた棘だった。
「トラック奇襲は青天の霹靂でした、という答えでは許してもらえませんか?」
「許せません」
 話題の矛先をはぐらかそうとする遠田に対し、東条はにべがなかった。
「そうは言われましてもねぇ………」
 牛丼を食い終えた遠田は茶をすすりながら眉をハの字にする。
「私はまだ五二歳。海軍を好き勝手するにはまだ若いという奴ですよ」
「おや、確か遠田中将は五四歳だったと記憶していますが?」
「……………」
「……………」
 それは普段、遠田にこき使われている押川 恵太などからすれば「見物」と称される光景だった。セコく二歳年をごまかした遠田と間髪いれずに指摘する東条 英機。当事者たちからしてもバツが悪い光景であった。
「まぁ、とにかく私はまだ若いんです。海軍を好き勝手するほどの権限はありません」
「それでは困る。今の海軍の混乱が続くようでは困ります」
 今の海軍の混乱、か………。東条 英機はそう言ったが、実際問題、状況はもっと酷く、そして滑稽であった。
 関東新大地登場による急速発展の結果、国民総生産が増大し、それに伴って軍事費も(割合は変わらなかったが分母がものすごく大きくなったために)増大した。陸海軍はそれまでならば夢物語でしか得られないほどの予算を手にしたのであった。
 そして陸海軍はその予算で「やりたかったこと」のすべてに手をつけた。それによって陸海軍のドクトリンは混迷を極めることになったのだった。
 まだ陸軍は満州事変やその後の中国内戦によってドクトリンが定まりつつあった。問題は関東大震災後、一度も戦争を経験したことがない海軍であった。海軍は未だに混迷するドクトリンに明確な方針を与えることができないでいた。四六センチ砲戦艦である大和型を建造しながら、装甲空母と称される大鳳型を平行して建造しているのはその証であるといえた。
 東条はいつまでたってもドクトリンが定まらない海軍に苛立ちを覚えているのであった。東条は自分が陸軍に対して行ったように、海軍にも断固たる対応策をとってもらいたかった。そして東条にとって、その対応策を実行するのは遠田 邦彦であった。遠田の能力と性格ならばドクトリン問題を抱える海軍の体質に大きな波紋を投げかけるだろう。結果、海軍は明確なドクトリンを手に日米戦を戦うことになる………。
「………まぁ、私だって考えがないわけではありません。そのことはそのうち解決してみせますよ」
「頼みますよ? この戦争は海軍が主役なのですから」
 東条は遠田に釘を刺すとようやく牛丼を口に運び始めた。
 帝国陸軍大将と海軍中将の遅い晩飯はこうして摂られたのだった。
 そして一九四二年一月二〇日の夜が終わり、朝日が昇り始める………。


第六章「誰がために」

第八章「フィリピンの残滓」

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