葬戦史R
第五章「灰になるまで」


 一九四二年一月一六日。
 ハワイ真珠湾。
 先年末に何者かによって燃料施設が爆破され、著しく戦略的価値を減じたとはいえど、この太平洋に浮かぶ島は合衆国太平洋艦隊にとって重要な地である。なぜなら太平洋艦隊の司令部があるからだ。
 その司令長官席に腰掛けているハズバンド・キンメル大将は頭を抱えていた。
 彼は苦悩していたのである。
 誰の眼、少なくともマトモな教育を受けた軍人の視点を持っていれば、ルーズヴェルト大統領の下した命令に苦悩するはずだ。なぜならばあの御仁はフィリピンの救援のために艦隊を急行させたからだ。
 合衆国の植民地で、大日本帝国の目と鼻の先であるフィリピンに援軍を送ること自体に悪い点はなかろう。誰だって味方を救いたいものだ。
 だが、米海軍が確保できている泊地はジョンストンまでであり、フィリピンまで無補給での航海を余儀なくされるのだ。当然ながら一歩でも間違えればフィリピン救援に向かった艦隊が、太平洋に虚しく漂う漂流艦隊と成り下がることになる。
 当然だが、この急すぎる派兵には理由がある。当初では三ヶ月は自給可能だったはずのフィリピンの航空兵力がわずか二週間ほどで壊滅したからだ。制空権が確保できなければフィリピンは日本軍の上陸を許し、陥落を待つのみとなるだろう。
 そうなればルーズヴェルト大統領の支持率にも影響する。フィリピンが、地政学的に防衛は困難であると専門家ならばわかってくれるだろう。しかし国民の大半は軍事のことを知らない。彼らにわかるのは、合衆国の領土であったはずのフィリピンが、大日本帝国に占領されてしまったこと。そして、その批判はふがいない軍と、その軍を統率する政府、特に大統領であるフランクリン・ディラノ・ルーズヴェルトに集まるだろう。
 だから、ルーズヴェルトは勝利を欲しているのだ。
「……………」
 キンメルには今回の艦隊派遣が無茶な暴挙であることがわかっていた。
 しかしキンメルは表面的にはルーズヴェルト支持を口にしていた。彼はコネで出世してきた軍人であり、ルーズヴェルトと深いつながりにある。だから自分は太平洋艦隊司令長官の椅子に座っていられるのだ、能力的には要求される水準を満たしていないはずの自分でも。
 太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメルはルーズヴェルトの意のままに動く傀儡でしかなかった。だが、本人もその境遇を喜んで受け入れていた。



 一方でホワイトハウスでは大統領に苦言を呈する男がいた。
「大統領!何故あのような命令を出したのですか?!」
 ホワイトハウスの主に詰め寄る老人。自分が正しいと思ったら絶対に怯まない不屈の男。それはアメリカ合衆国副大統領 サイモン・エドワーズである。
 ルーズヴェルトは自分の耳元を飛びまわる小うるさい蝿を除けるように右手を振って言った。
「仕方ないだろう、サイモン君。フィリピンの陸軍を見捨てろとでも言うのかね?」
 ルーズヴェルトが腰を下ろしている車椅子に詰め寄るサイモン。
「フィリピンは元々からジャパニーズの奥深くにあり、護りきることは困難なのは自明の理です!」
 ルーズヴェルトは、ハァ、ヤレヤレという表情を見せる。
「サイモン君。我々、合衆国に敗退はあってはならんのだよ」
「なッ………!?」
「今、この国の世論は私を支持してくれている。『真珠湾の燃料施設を爆破した卑劣なジャップに対し、トラックで正義の鉄槌を振り下ろした英雄』としてだ。ここでフィリピンを見捨ててみろ。私の支持率は急落するではないかね」
 確かにルーズヴェルトの支持率はかつてないほどの高さを誇っている。成功したとは決して言いがたかったニューディール政策を推し進めたルーズヴェルトの支持率は三〇%程度しかなかったが、今では八〇を超えて九〇に届こうとしていた。そしてその原因はルーズヴェルトがマスコミを効果的に利用したからだ。自らを英雄として魅せるためにルーズヴェルトはマスコミを利用している。だが、合衆国は民主国家であり、報道の自由が補償されている国でもある。フィリピン陥落となればマスコミが必ずそのことを報道するであろう。ルーズヴェルトはフィリピン陥落の報道で自分の栄光に傷が入るのを嫌っている。サイモンはそう考えていた。
「……………」
 サイモンは納得のいかない表情をしている。だが、ルーズヴェルトが聞く耳を持っていないことを理解した彼は戦略を変えた。
「では、大統領。質問を変えましょう」
「何かね?」
「何故にフィリピン救援艦隊に一六インチ(四〇センチ)砲戦艦がいないのですか?」
「ジャップの一六インチ砲戦艦ナガトクラスはトラックで一隻が沈み、もう一隻が大破している。奴等に一六インチ砲戦艦はもうないのだよ。ならば一四インチ(三六センチ)砲戦艦で充分だろう?」
 憮然としているサイモン。完全に納得できたわけではないが、ルーズヴェルトの言葉には一応の説得力があった。サイモンは一番聞きたかったことを切り出す。
「………ならばその命令を私の名前で出したのは何故ですか?私はそのような作戦自体聞かされていませんが?」
 意外そうな表情を見せるルーズヴェルト。
「おや? 海軍のことなら何でも知っているサイモン君ならば、この作戦に同意してくれると思っていたのだがね? 何せキャラハン中将に負ける要素はないだろう?」
「ジャパニーズが長期戦の構えをとったらどうするのですか? フィリピン救援艦隊の燃料の余裕はないはずですが………」
「何、安心したまえ、サイモン君。ジャップは艦隊を繰り出してきたよ。残存の戦艦のほとんどを持ってきてな。ここでフィリピン救援艦隊と戦い、傷つけばトラックやマリアナ方面での攻略作戦も容易になるよ」
「!!」
 サイモンはルーズヴェルトの真意を悟った。
 ルーズヴェルトとてフィリピンを本気で防衛できるとは思っていないのだ。要するにダニエル・キャラハン率いるフィリピン救援艦隊は撒き餌なのだ。
 その撒き餌にジャパニーズ・インペリアル・ネイビーは食いつくだろう。彼らにとってフィリピンほど目障りな棘はなく、早期に攻略せねばならない土地だからだ。我々にはそれほどの価値がなくとも、彼らにはそのように写るのだ。
 そしてジャパニーズの残存の戦艦は傷つきしばらくは出撃不能になるだろう。
 さすれば後は太平洋艦隊に残された一六インチ砲戦艦を押し立ててトラック、マリアナ、オガサワラと攻略していけばこの戦争に勝てる。
 キャラハン艦隊はどうなるって?
 ………おそらくは二度と合衆国に帰ってこれなくなるのだろう。
 だから、あの艦隊の指揮官はキャラハンなのだ。私が気に食わないやつだと閑職に回していた彼のだ。彼ならば海軍に対する打撃も少ない。海軍に多大な影響力を持つ私に嫌われ、支持する者がほとんどいないから………。
 嗚呼、フィリピン救援艦隊の全将兵よ。君たちは私が殺したも同然なのだ。怨んでくれていいよ、キャラハン君。
「もういいかね、サイモン君? 私は午後に議会で演説しなければならんのでね。今のうちに原稿に目を通しておきたいのだ」
 ルーズヴェルトの言葉にサイモンは首を横に振ることができなかった。ホワイトハウス執務室を後にしたサイモンには覇気はまったくなく、一〇歳は老けてしまったかのようであった。



 一九四二年一月一七日。
 フィリピン近海。
 帝国海軍第四艦隊は合衆国海軍のフィリピン救援艦隊を迎え撃つため、おっとり刀でここまで来ていた。
 第四艦隊旗艦戦艦大和艦橋。
「長官、瑞鶴三番機より入電。『我、敵艦隊発見ス。戦艦六、空母一、巡洋艦、駆逐艦多数』とのことです」
 通信参謀の報告に第四艦隊司令長官 大枝 忠一郎中将はゆっくりと頷いた。
「長官、攻撃隊を送りましょう」
 航空参謀が血気盛んに促す。
「うむ。だが問題は攻撃隊に何をさせるかじゃろうな」
 大枝がおっとりとした口調で呟く。
「何を仰いますか!? 目標は決まっています。戦艦ですよ!!」
 航空参謀が鼻息荒く怒鳴る。その航空参謀の言葉に艦橋内は、「またか」という空気に満ちる。
 航空参謀は(当然ではあるが)大の航空主兵論者であり、常日頃から「戦艦なんかただのデカブツだ。これからは空母の時代だ」と公言して憚らない。
「航空参謀、今の戦況をよく考えるべきじゃねーか?」
 熱弁を振るう航空参謀の横から口を挟んだのは大和艦長山本 光大佐であった。
「何? どういうことだ!!」
 幕僚でもないのに作戦計画に口を挟む部外者に声を荒立てる航空参謀。大枝の周りの参謀連中もあまりよい顔はしていなかった。
「だからな………」山本が右人差し指をピンと立てて語り始める。「今、我が方の戦艦は五隻だ。そして敵は六隻。大和が世界初の四六センチ砲戦艦だとしても、数が劣っているのは確かじゃないか。そのような状況で貴様は航空機に戦艦を狙わせるのか?」
「何を言う! このような戦況だからこそ航空機で戦艦を一隻でも沈めておくのではないか!!」
「だが、沈めれなかったらどうするんだよ?」
 山本の冷たい一言。
「沈めれないことはない! 現に九七艦攻の航空魚雷の威力は水雷戦隊が持つ魚雷に決してひけをとらん!!」
 さて、後世では一九四二年当時、航空機による戦艦の撃沈を信じていたのは一部の見識豊かな優秀な軍人のみであるというのが通説になっている。
 だが、それは実は事実とは異なっている。
 航空機で戦艦を撃沈できた実例は、確かにない。だが、カタログスペックだけを見るならば、確かに航空機による戦艦の撃沈は可能であるとされていた。目覚しい発達を遂げる航空機ならば戦艦の撃沈は理論上可能である。これはこの時代に生きる海軍軍人にとって、実は共通見解であった。帝国海軍でも「航空機による戦艦の撃沈は可能とみるべきである」という内容の公文書が残されているくらいだ。
 だが、山本はあえてその常識に異を唱えた。当然だが航空参謀は納まらない。航空参謀は詰問の口調で山本に尋ねた。
「沈められる! 理論上、航空機による戦艦の撃沈は可能なのだ! 軍令部もそう結論付けたではないか!!」
「だが、それは演習やカタログスペックを検討して導き出しただけだ。実際に航空機による対艦攻撃は、一度も行ったことがない。実戦で魚雷が命中できるのか、それは証明されていないんだ」
 山本の言葉に思わず詰まる航空参謀。
「悪いが、今はそのような博打に出ているときではない。幸い、駆逐艦や巡洋艦のような小艦には航空機は有効だ。中国での内戦で共産党に駆逐艦を航空攻撃で沈められたことがあるからな。ならば航空機には駆逐艦や巡洋艦を狙わせるべきだ」
「なるほどな」
 今まで黙って聞いていた大枝が口を開く。
「駆逐艦や巡洋艦を減らしておいて、艦隊決戦の際に水雷戦を優位に進めようというのだな」
 我が意を得たりと頷く山本。山本は水雷戦隊の魚雷で戦艦の数の劣勢を埋めようというのだった。
「冗談ではない! そのような小艦を狙うために搭乗員たちは訓練してきたわけではない!!」
「航空参謀」
 大枝の声色が変わる。迫力に満ちたその声に思わず沈黙する一同。
「戦争は、我ら軍人の趣味で行っていいわけがない。すべては国民を護るために戦うのだ。それをわかっているのだろうな?」
 航空参謀は下を向いて俯いた。肩も落ち、完全に萎れている。
「では第五航空戦隊に連絡してくれ。『攻撃隊ヲ発艦サセヨ。タダシ目標ハ補助艦艇也』とな」



「畜生、あの鉄砲屋どもめ!!」
 第四艦隊の送り出した攻撃隊を束ねる村田 重治少佐は九七式艦上攻撃機の操縦席でひとしきり大和に座乗する司令部を罵った。
「何が補助艦艇を狙えだ! 戦艦を狙わせろってんだ!!」
 村田は荒れている。雷撃の神様とまで言われる村田はこの戦いで「史上初の航空機で戦艦を撃沈した男」になるつもりだった。しかし第四艦隊が下したのは戦艦を狙うなという命令だった。村田は己のはらわたが煮えくり返るのを感じた。
 だが、これだけ文句を言いながらも村田は戦艦を狙うつもりはなかった。彼も軍人なのだ。上からの命令には絶対服従。さすがにこの慣習には逆らえない。
『クソッ、クソッ、クソッ! いつかあの鉄砲屋を見返してやるからな!!』
 村田が激しく第四艦隊司令部をなじっている様をキャノピー越しに覗いていたのは護衛戦闘機隊を率いる斗賀野 龍次郎少佐であった。彼は生粋の戦闘機乗りであり、気持ちのいい性格をしており、上司にも部下にも好かれている。いわゆる「理想の上司」という奴だ。
 斗賀野は操縦席の隅に持ち込んだ水筒から温かい茶をコップに注ぐ。魔法瓶によって温かさを保ち続けている茶は真っ白い湯気をたてる。斗賀野は操縦桿を自分の股間で挟み、空いた手で茶を一口含んだ。喉を潤すのではなく、口の中を湿らせる程度の水分補給だ。
「さて、大丈夫なのかな………?」
 斗賀野は視線をはるか向こうに待ち受ける米機動部隊に向ける。斗賀野は三三歳になるが、これが初めての実戦になる。たとえば翔虎隊のタイガージョーのように中国の内戦で戦っていた経験もない。だから己が訓練として磨いてきたすべてがこの戦いで試されるのだった。海軍奉職以来二〇年余り。そのすべてが正しかったのか、それとも無駄だったのか………。その結論があと少しの時間で試されるのだ。斗賀野は自分が緊張していることを自覚した。
 こんなに体が強張って、はたして大丈夫なのだろうか………?
 各自が様々な思いを抱きながら、村田 重治に率いられた攻撃隊、零戦二六機、九九式艦上爆撃機三四機、九七式艦上攻撃機二八機の部隊が合衆国海軍フィリピン救援艦隊目指して飛翔を続けていた。



「艦長、直援機、全機上げました」
 合衆国海軍フィリピン救援艦隊に唯一随伴する空母 サラトガ。
 サラトガ艦長のブライアン・マルカムは部下のその報告に満足げに頷いた。
「さて、フィリピンでは陸軍のP40がジャップの陸軍の戦闘機に散々な目に遭わされたそうですが、我々のF4Fは大丈夫でしょうか?」
 サラトガ副長がマルカムに聞いてきた。
 マルカムはその問いに対し、いつもの口調でいつもの台詞を述べた。
「戦の帰趨など予想不可能。それこそカオスだよ」
 サラトガのみならず合衆国艦隊にとって初の実戦が行われようとしてはいるが、まったく緊張を感じさせないマルカム。そんな艦長の姿はサラトガの乗員を安心させるに充分であったという。



「へっ、いよいよ俺の初陣って奴だな!!」
 北の空の方角に黒いゴマ粒のような影が見える。他でもない。ジャップの送り出した攻撃隊である。
 サラトガ所属の戦闘機乗りのトーマス・ウッディ少尉ははやる気持ちを抑えきれずにスロットルを開く。それと同時にエンジンが甲高く吼え、愛機F4F ワイルドキャットが増速する。
 ワイルドキャットの名に似合わず、このF4Fは素直な操縦性の機体であり、トーマスは手足のように操れた。
「見てろよ、ジャップ! 黄色いのは白いのに勝てないってことをじっくり教えてやるぜ!!」
 トーマスは白人優越主義者であり、関東大震災以来ウソみたいな急成長を遂げた日本という国を嫌いぬいている。そもそも人件費、材料費の大幅カットで安く、おまけに品質のよい日本製品はアメリカに大量に出荷されており、それが原因となってアメリカの経済は冷え込んでいるのも一面の事実なのだ。トーマスはその不況のあおりを受けて職に就けなかったので軍に志願したのである。
 軍は思っていたよりは居心地のいい世界であった。飛行機というのがこれほどに楽しいものだとは軍に入らなければ気付かなかっただろう。だが、それでもトーマスはまだ普通のサラリーマン生活に未練を抱いていた。彼のささやかな望みをぶち壊した日本に対する恨みは大きい。
「行くぜ、ジャップ!!」
 トーマスのワイルドキャットはその名の通りの荒々しい急降下で帝国海軍の攻撃隊に襲い掛かっていく。



「来たか!」
 斗賀野は帝国海軍でも有数の視力を誇る。彼は敵迎撃隊を素早く視認するとすぐさま空中電話と呼ばれる無線機で知らせた。
 敵は青い塗装を施されており、お世辞にも繊細とはいい難い戦闘機である。おそらくはあれが噂に聞くF4Fなのだろう。
 二六機の零戦隊の内、一〇機ほどがF4F隊に向かっていく。敵の数は二五機ほど。数では不利だ。だがそれでもやらねばならないのだ。攻撃隊を守り抜くために。
 零式艦上戦闘機の開発は中国の国共内戦により大きく仕様が変更された。
 当時、共産党軍は中国奥深くの重慶に本拠地を構えており、国民党軍に支給されていた九六式艦上戦闘機では爆撃機の護衛ができずに爆撃隊は無残な結果に終わることが多かった。現場からは爆撃機に追随できる長距離戦闘機を望む声がひっきりなしに送られた。
 同じころ、帝国海軍上層部も長距離を飛翔できる戦闘機を欲していた。
 小沢 治三郎少将(当時)が唱えたアウトレンジ戦法の影響である。それはある意味で大艦巨砲主義を航空戦にも当てはめた考え方であった。敵よりも長い航続距離を持った航空部隊で、敵の航空部隊が及ばぬ場所から一方的に攻撃を仕掛ける。簡潔に説明すれば、そういう内容の考え方であった。虫のいい話に聞こえるが、虫のいい話が実現できればそれは幸いであろう。
 よって現場と上層部、二つの意見によって長距離を飛翔可能な戦闘機の開発が始まったのである。………ただ問題は、帝国海軍はそのような長距離を飛べる戦闘機を、単座単発で求めたことにある。
 当然ながらその要求仕様は無茶としか言いようのないものとなった。だが、発注を受けた三菱の技術者堀越 次郎の絶妙の設計はその不可能事を可能としてみせた。極端とも言える軽量化によって実現された長距離飛行と軽快な運動性。それは海軍が想定していた理想をさらに上回る出来であった。
 早速、帝国海軍は零式艦上戦闘機11型として採用した。
 しかし思いもよらない壁が零戦を襲うこととなる。
 いざ訓練を開始した部隊で空中分解が続出したのである。口の悪い搭乗員に言わせれば零戦は「殺人機」であった。
 ただちにその原因究明に乗り出した三菱の技術陣はその原因を知り、複雑な笑みを浮かべざるを得なかった。
 なぜなら帝国海軍の採用いている一〇〇オクタンの高品質燃料が原因だったからだ。
 零戦の発動機である栄は九七〇馬力として設計されていた。しかし一〇〇オクタンもの高品質燃料は栄の出力を設計値以上引き出してみせたのである。その数なんと一一〇〇馬力。
 そのために零戦は当初の予定よりもはるかに早い速度で飛びまわれたのである。航続力を稼ぐために限界ギリギリまで軽くしている零戦は華奢であり、その速度向上に耐え切れなかったのである。
 そこで航続力の低下覚悟で機体強度の改修を行い、零戦は晴れて21型として本格的に採用されたのである。
 最高速度五七〇キロ。急降下制限速度は七二〇キロにまで達する。尚、武装は七.七ミリ機銃×二、二〇ミリ機関砲×二である。
 さて、閑話休題である。
「行くぞ!!」
 零戦の操縦席で吼える斗賀野。先ほどまで自分を縛っていた緊張感はもうない。実戦の只中に飛び込むことで斗賀野は緊張を感じるということを忘れてしまったのだった。
 斗賀野の零戦は猛禽類のような鋭い軌道で、山猫ワイルドキャットの突っ込みをかわす。F4Fはそのまま旋回を続け、格闘戦を挑んできた。
「バカめ! 零戦に格闘戦で勝てると思っているのか!!」
 斗賀野の口元が自然と緩む。機体強度の強化によって重量が多少増え、運動性が初期型より少し落ちた零戦二一型であってもその運動性は十二分に軽快なままだ。見た目にも鈍重そうなF4Fなどに遅れをとるはずがなかった。
 一回、二回、三回………。
 一〇回も旋回しないうちに斗賀野は敵F4Fの後ろを押さえていた。
「南無阿弥陀仏!!」
 斗賀野は機銃を発射する。
 ドドドドドドドドドドドド
 七.七ミリではなく二〇ミリのみの射撃。七.七ミリと二〇ミリの混成射撃では弾道が異なり、照準がつけにくいからだ。
 二〇ミリという航空機用の兵装としては大口径砲の攻撃を受けたF4Fは木っ端微塵に砕け散る。
「よし!」
 斗賀野は国民党支援の義勇兵として中国で戦った経験はない。この戦いが初陣なのである。少佐であり、年齢も三三歳と大ベテランといっても差し支えないのだが、今の斗賀野は学校の試験でいい成績を出した少年のように自分の戦果を喜んでいた。
「零戦ならばアメ公の戦闘機にも負けはしない!!」
 勝ち誇ったかのようにそう宣言する斗賀野。
 だが、その優越感も一瞬のことであった。
 彼の目は確かに捉えていた。
 こちらの数倍の数の戦闘機が迫ってくるのを。ざっと零戦の二倍、いや三倍はいるだろうか。
 敵の空母は一隻しかいないと聞いていた。だが、あのF4Fの数は何だ。こちらよりはるかに数が多いではないか。アメリカ人はいかなる魔術を使ったのであろう………?
「ヤバイかな………」
 さっきまでの高揚感ははるか彼方。斗賀野は額に脂汗を滲ませながらそう唸るように呟くしかなかった。



「食らえ! ジャップめ!!」
 トーマスの叫び。
 ダダダダダダダダダダダダダダ
 両翼計四丁の一二.七ミリ機銃が吼え、弾丸のシャワーを忌々しいジャップの艦爆に浴びせかける。
 ジャップの艦爆は一二.七ミリ弾がほんの二、三発命中しただけで火達磨になり墜落していく。要するにジャップの機体に防弾などという考えは一切ないのだろう。だから少し被弾しただけでハリウッド映画のように派手に爆発するのだ。
 ほれみろ。
 やっぱり奴等、所詮は黄色い猿なのだ。猿には防弾云々のことなんかわからないのだ。ハハハハハハハハ、甘いんだよ、ジャップ!!
 だが、何度考えても忌々しい。
 何がって?
 決まっている。F4Fではジャップのファイターとマトモに太刀打ちできないことだ。防弾は紙みたいだが、その分攻撃に出ると奴等は強い。
 今、この空域ではジャップのファイターの三倍以上の数のF4Fがいる。だのに戦力的には互角なのである。なんということだ。主に祝福されし我が白人の戦闘機が、劣等種のはずのジャップの戦闘機に敵わないなんて。
「ムカツクんだよ!!」
 トーマスの苛立ちは一二.七ミリの弾丸として吐き出され、また一機の九七艦攻が犠牲となる。
 だが、トーマスは艦攻、艦爆を狙い撃つことに夢中になりすぎていた。トーマス機の背後に斗賀野の零戦が迫っていることに気がついた時、すでにトーマスはどうしようもない状況に追い込まれていた。上下左右、いかなる場所に行こうとも斗賀野の零戦が射線を確保し続け、確実にトーマスを撃墜するだろう。
「野郎………! ジャップなんかに殺されるかよ!!」
 トーマスは半狂乱になりながら操縦桿を前に倒した。低空で艦攻狩りに従事していたトーマスに高度の余裕はなく、機首を下げたトーマスのF4Fは即座に波間にプロペラを打ち、もんどりうってスクラップとなった。
「な、何だ、あいつ………?」
 トーマスの行動が理解できずに首をひねる斗賀野。だが、彼にも理解できることはあった。零戦隊の奮戦のおかげで周辺空域のF4Fがほとんど駆逐されたことである。つまり、合衆国海軍は戦闘機によるエアカバーを失ったのだ。



「ダメだ! F4F隊、突破されました。攻撃隊、向かってきます!!」
 フィリピン救援艦隊旗艦戦艦 オクラホマに見張り員の悲鳴に近い叫びが木霊する。
「クソッ、ジャップの空母は二隻なんだろう? それならばレディ・サラの息子たちで何とかなるんじゃないのか?」
 フィリピン救援艦隊司令長官のダニエル・キャラハンは航空参謀に向かって非難の色を帯びた声で聞く。
 サラトガには戦闘機と索敵用の艦爆を少々しか乗せていない。空母一隻でありながらあれほどの数のF4Fを上げれたのはそのためである。
「はい。ですが、ジャップのファイターは予想以上の性能でして………」
「チィッ、情報部の奴等は何やってたんだ! その皺寄せが俺たちに来るんだぞ! 給料ドロボウめ!!」
「ともあれ対空戦闘を命じます」
 オクラホマ艦長の声。
「おお、頼むぞ! 戦艦を一隻たりとも傷つけないようにしてくれ!!」
 この時のフィリピン救援艦隊は戦艦と空母を陣形の中心に配し、その周りを巡洋艦と駆逐艦で固めるという、俗に言うところの「輪形陣」を採用していた。
 これならば中心部を狙う敵に対して火力が集中できる。
 だが、米海軍にとって不幸な事に、帝国海軍の狙いはその中心部ではなかった。彼らの狙いはその外周部なのだ。輪形陣では外周部の火力はどうしても薄くになってしまう。
 だから帝国海軍の攻撃隊は想像以上に易々と攻撃を仕掛けることができた。
 そこまで計算していたわけではないが、山本の提案のおかげで帝国海軍は薄くなった対空砲火をくぐるだけでよかった。
「おっしゃあ! 行くぜ!!」
 村田は愛機を、海面スレスレを這うように前進させる。
「高度八メートルゥゥゥゥゥ!!」
 村田のトーンが外れた、いわばキレた声が九七艦攻内を満たす。後席の電信員が思わず「少佐、高度を上げてください! 墜落します!!」と言ってしまうほどで超低空侵入であった。
「何の、何の! これしきで落ちるかよ! 大和の大砲屋め、俺たちはこんなことができるくらい凄いんだぜ!!」
 高度八メートルのいう飛行機にとって限りなくゼロに近い高度を飛翔する九七艦攻。だが、恩恵もある。その超低高度故に合衆国海軍の対空砲火がまったく当たらないのである。
「ようううううううううぅぅぅぅぅぅぅぅし! ッ射ィ!!」
 村田の叫び声と同時に九七艦攻の腹から重量八〇〇キロ以上の九一式航空魚雷が投下された。
 無論、村田機だけではない。村田のが直接指揮する小隊の機体が一斉に投下したのだ。
 四本の雷跡が重巡ニューオーリンズを襲う。
 ニューオーリンズは必死にその災厄から逃れようとする。一本、二本と雷跡はニューオーリンズと交わることなく通過するのみ。
 しかし三本目は避け切れなかった。否、避けるであろう未来位置へと投下されたその一本の魚雷はニューオーリンズの柔らかい水面下の横腹を食い破る。
「やった! やった!!」
 後席の電信員の子供のようなはしゃぎ声。それを聞くと同時に村田は自分の攻撃が成功したことを悟った。
「おうし!!」
 片手は操縦桿にあてたまま、もう片方の手でガッツポーズをとろうとする村田。ざまぁみろ、大砲屋!!
「………ガッ………クハッ!?」
 だが、彼は腹に違和感を覚える。耐え切れそうにないくらいに強烈な嘔吐感が村田を襲う。
「ガッ!!」
 堪え切れずに「何か」を吐き出す村田。
「しょ、少佐!!」
 うつろな意識の中で村田は後席の電信員の声を聞いたような気がした。それが「気がした」だけなのか、実際に聞こえたのかはわからない。
 言える事はただ一つ。
 断末魔のニューオーリンズの放った対空機銃の一弾が、ニューオーリンズを飛び越えようとする村田機に命中し、村田の内臓を食い破り、村田機を撃墜したことだけである。そしてニューオーリンズはその後、九九艦爆の急降下を受け、トドメをさされた。



 ……………
「ひ、被害集計、読み上げます」
 引きつった参謀長の声。
「重巡ニューオーリンズ、アストリア 軽巡ボイス、ホノルル、フェニックス 駆逐艦カミングス、ドレイトン、ラムソン、コニンガム、カッシン、パーキンス、プレストン、ファニングが沈没しました………」
「大破は?」
 あえて感情を押し殺したキャラハンの声。今、感情を示せばきっと部下を不安にする。その思いが彼の表情に幕を張っていた。
「………ありません。基本的に被弾した艦はすべて沈みました」
「何ということだ………」
 キャラハンは搾り出すような声で、何とか自己の感情を表現した。
「ですが、戦艦は全艦が無事です。ジャップとの艦隊決戦も多少の苦戦はするでしょうが何とかなるはずです。何故なら彼らの戦艦も全艦が一四インチ砲戦艦なのですから」
 砲術参謀はそう言ってキャラハンを慰める。楽観論ではあるが、悲観論より聞こえがいい。キャラハンはその言葉を信じることにした。
「そうだ、そうだよな………」
 指揮シートにもたれかかり、キャラハンはそう呟いた。
 だが、彼は、否、合衆国海軍は知らなかった。
 帝国海軍が世界初の四六センチ砲戦艦を就役させており、訓練もそこそこにこのフィリピン近海まで出撃してきていることを。
 果たしてキャラハンに待ち受けるのは天国か、それとも地獄か。
 それは次回に語られるであろう。


第四章「素晴らしき世界」

第六章「誰がために」

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