大火葬戦史外伝
究極総統アドルフ


 一九三九年のある日のこと。
 ドイツ第三帝国首都ベルリンは、清潔な太陽の光を浴びて輝いていた。
 国家社会主義ドイツ労働者党、いわゆるナチス党が政権を握って六年。ドイツは関東大震災後に誕生した新大地の豊富な資源を有する日本との結びつきを強め、戦争を行わずして生存圏を確保する事に成功していた。ドイツ経済は日本から輸入される上質な資源を用いた貿易で莫大な黒字を示しており、ドイツ国内は安定し、平和な日々が流れていた。
 ベルリンの商店街でみずみずしい果物を売るおばさんは、心地よく肌を照らしてくれる太陽を見て「今日もいい日になりそうだねぇ」と呟いた。その時、一台の国民車フォルクスワーゲンが果物屋の前を通過した。
 国民車を部下に運転させて、男は後部座席で行儀悪くふんぞり返っていた。
 男の名はエルンスト・レーム。ナチス党突撃隊総司令官で、ナチス党の要人の一人である。
 かつての欧州戦争(第一次世界大戦のこと)の際に三度も重傷を負ったレームだが、本人はむしろその事を「箔がついた」と歓迎している節があった。レームは鼻と頬に今でも残る傷痕を撫でながら国民車の窓を流れていくベルリンの街を眺めていた。膝の上に小さな紙箱を載せながら。
 そしてレームを乗せた国民車は首相官邸に入っていった。



 ベルリンを照らす陽光とは正反対に、この男の表情は晴れなかった。
 男の名はアドルフ・ヒトラー。ドイツ第三帝国の総統である。
 その雄弁と気迫でドイツ国民を魅了し、ドイツのカリスマとなった総統閣下であったが、ここ数日は覇気の消えた顔で執務を可もなく不可もない程度でこなし、時折腕を組んでぼんやりと執務室の天井を仰ぐだけであった。小柄な体格もあって、今のヒトラーは村役場の役人のようにチンマリとして見えた。
「あの、総統……」
 明らかに元気のない総統を見かねて声をかけたのはハインリヒ・ヒムラーであった。ヒムラーは親衛隊の指導者としてSSとゲシュタポ(国家秘密警察)を指揮していた。眼鏡をかけた痩せ型の男で、覇気も乏しく頼りないように見える。しかし規律を遵守させることと謀略に長けており、ドイツの治安を向上させる一方で多くの党内の対抗者を失脚させていた。
 そのヒムラーが恐る恐るといった体でヒトラーに尋ねた。
「どこか、調子でも悪いのですか?」
 ヒムラーがこうまでヒトラーを恐れるには理由がある。ドイツのカリスマ総統閣下は非常に気分屋で、ほんの些細なことでヒステリーのように激怒することがあるからだ。
 ヒムラーは自分に総統の様子を尋ねるように言ってきたゲッベルスやゲーリング、ヘスといった同僚たちの顔を恨めしげに思い返した。
 彼らとヒムラーで、ヒトラーの調子を尋ねようという話は確かにあった。だが前記のようにスズメバチの巣のような総統の機嫌を誰が好んで突付こうか。そこで男たちは恨みっこなしという前提で、生贄をジャンケンで決めることにしたのだった。ドイツ国内で最高水準の権力を持った男たちのジャンケンは、勝ちを焦ってチョキを出してしまったヒムラーの一人負けとなったのだった。
「………え? ああ、いやいや、そんなことはないぞ。余はどこも悪くない」
 ヒトラーはヒムラーに声をかけられたのだということに一瞬気付かなかった。やはり今のヒトラーは集中力を欠いていると言わざるを得まい。その後もヒトラーは今三つほど精彩を欠いた状態で執務に当たるのだった。



 執務室の扉を数センチ単位で開き、中の様子を伺っていたのはヒムラーを向かわせた三人だった。即ちヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相、ヘルマン・ゲーリング空軍総司令官、ルドルフ・ヘス副総統である。
「おい、どうやら本当に総統の様子がおかしいぞ」とはゲッベルスの弁。
「私が獄中で総統の『我が闘争』を口述筆記していた時とは比べ物にならないな」とヘスは昔を懐かしむ目で呟いた。
「おい、俺には中の様子があまりわからん。もう少し詰めてくれんか?」
そう言いながらゲーリングは体をグイと前に押し込む。ゲーリングの肥満体と扉の間でゲッベルスとヘスは圧迫される。
「ちょ、おま………ッ!」
「圧死す………」
 バキバキバキ。
 執務室の扉が断末魔の悲鳴を上げながら前のめりに倒れていく。
 執務室の絨毯に倒れた扉はわずかな埃を巻き上げ、ゲッベルスたちの周辺を舞う。
「ゲ、ゲホッ、ホッ!」
「ゲーリング空軍司令、マジでダイエットしてください!」
「いや、さすがにこれはショックだな………」
 ゲーリングの肥満体を責めるゲッベルスとヘス。ゲーリングも想像以上のウェイトだった自分の体にショックを隠しきれない様子だった。
 だが一番驚いているのは執務室の主、我らが総統閣下であった。
「お、お前たち………これは一体何のマネだ!」
 いきなり執務室のドアを破ってドイツ第三帝国の高官が入ってきたのだ。驚かない方がどうかしている。
 ヒムラーはこの件がヒトラーの怒りを呼び覚ますと判断。何とかとばっちりを受けないうちに逃げようと脳内で打算を高速で繰り返した。
 だがヒトラーの怒声が飛ぶ前に素っ頓狂な声が辺りに響いた。
「うわ、何だこりゃ………。おい、アドルフ、一体何があったんだ?」
 小さな紙箱を持ったレームがヒトラーに尋ねた。ヒトラーとレームの付き合いは長いといえども、未だに弱小政党内の盟友のように親しく話しかけてくるレームの姿勢に毒を抜かれたヒトラーは怒る事をやめて、「お前たち、この扉を修理していけよ」とだけ言った。
 普段は粗野で乱暴な男とレームをバカにしていたヒムラーであったが、今回だけはヒムラーに感謝しようと思った。もっともその感謝の思いもせいぜい二、三日持てばいい方だが。



「なるほど。アドルフの様子がおかしいから見に来たって訳か」
 ヒムラーから事情を聞いたレームはうんうんと頷きながら言った。その後ろでは第三帝国の宣伝相と空軍司令官と副総統が壊れたドアを修理していた。何だかとてつもなくシュールな光景ではあった。
「まったく………余はどこもおかしくはないと言っておるだろう」
 ヒトラーはそう言って背を椅子に預けた。
「ははは。まぁ、いいじゃないか。心配されるってのは、みんなに愛されてる証拠だぜ、アドルフ」
「お前に『愛されている』とか言われたら虫唾が走るな」
 ヒトラーは本気で身震いしながら言った。ちなみにこの発言はレームがガチの同性愛者であることを指して言っている。
「言ったな。俺だってお前みたいな貧相な男を愛したくないね」
 レームはさらっと言ってのけた。
「やれやれ、我が国では同性愛は禁止なんですがねぇ………」
 ヒムラーの呟きは小さかったためにレームとヒトラーの耳には入らなかった。
「ところでレーム、今日は何しにここに来たんだ?」
 書類仕事の際にインクで汚れた手を拭いながらヒトラーは尋ねた。
「ああ、そうそう。部下からの贈り物でチョコレートをもらったのはいいんだが、俺は甘い物は好きじゃないんでな。アドルフ、お前はチョコレート好きだったろ?」
 そう言うとレームは手に抱えていた小さな紙箱をヒトラーに手渡した。中には高級そうな包みに入ったチョコレートが入っていた。ヒトラーが好みそうな甘さを前面に押し出したチョコレートであった。
「う………」
 だがヒトラーはチョコレートを見た瞬間に固まってしまった。ヒトラーはわずかに体を震わせながら一度開けた紙箱を閉じる。
「いや、今日は仕事が沢山あってな。残念だがチョコレートを食べている暇がないんだ」
「あれ? 総統、今日はそれほど重要な用件は一切ありませんが………」
 ヒムラーが言葉を紡ぎ終えるより早く、ヒトラーの睨みがヒムラーを射抜いた。
「あ、いや、あの、その………」
「とにかく、余は忙しいのだ。チョコレートを食べている暇などない」
 ヒトラーは紙箱をレームに返そうとする。
「いや、返さなくていいって。今度暇になった時に食えばいいからよ」
「いや、そんなことをしてはチョコレートに申し訳ない。レーム、突撃隊で分けて食べればいいじゃないか」
「何だ? やけに今日は謙虚じゃないか。いつもなら他人のチョコレートを奪ってでも食うクセに」
「余はそこまで卑しくない! ………えぇい、レーム、お前が来ると昔のように騒いでしまうから喉が渇くではないか」
 ヒトラーは使用人を呼んで喉の渇きを潤す水を持ってくるように言った。ヒトラーの望みを聞いた使用人は足音を立てないまま、戦闘機のように素早く水を持ってきたのだった。
 ヒトラーは水を一口含んで一瞬、顔をしかめた。だがすぐさまいつもの表情に戻した。しかしレームはその一瞬の変化を見逃さなかった。
「おい、アドルフ、お前今顔をしかめたろう?」
「な、何のことだ、レーム」
「お前、もしかして水が歯にしみるのか?」
「な、何のことだ、レーム。余は決して歯など痛くないぞ!」
 ヒトラーはそう言ってから自分が墓穴を掘ってしまったことに気付き、慌てて口をふさいだ。だが一度口をついて出た言葉を戻すことなどこの世の者にできやしない、たとえ第三帝国総統であったとしても。
「おい、ヒムラー」
「はい。すぐさまベルリン………いや、ドイツでも最高水準の歯科医を用意させましょう」
「いや、その必要はない。余は決して歯科医など必要としていないぞ!」
「総統、虫歯は自然治癒することのない病です」
「余、余は決して………」
「はいはい、大人しく歯医者に行こうな、アドルフ」
 レームとヒムラーに両脇を抑えられたヒトラーはまるで連行されるかのように歯医者に連れて行かれたのだった。
「やーめーてぇ〜〜!」
 ヒトラーの生の人間としての叫びが総統官邸にこだましたが、歴史書のどこにも記される事はなかったという………。



「やれやれ、総統にも困ったものだ」
 結局、ヒトラーの調子が悪かった原因は歯痛であった。ヒムラーが探してきたドイツ一の歯科医の治療を受けて歯痛を克服したヒトラーは以前までのカリスマを完全に取り戻し、再び執務に奨励し始めたのだった。
 そしてあの場に居合わせた者たち、つまりレーム、ヒムラー、ゲッベルス、ゲーリング、ヘスの五名はゲーリングの屋敷でヒトラーをツマミにして酒を飲んでいた。
「そもそもアイツは以前から尋常じゃない量のチョコレートをむしゃむしゃと食ってたからな。虫歯の一つや二つ無い方がおかしいくらいだったぜ」
 レームがウィスキーをグラスに注ぎながら言った。
「ですが虫歯一つで総統があそこまで調子を狂わされるとは………正直意外でしたね」
 まるで英国人のように肩をすくめてヘスは言った。
「我がドイツでは総統が最強の権力者ですが、その総統をあそこまで苦しめたのだ。チョコレートはまさに史上最強というべきだろうな」
 ゲッベルスが溜息をつきながら呟いた。そしてゲーリングが茶化すように言った。
「はは、さすがゲッペルス宣伝相。言うことが面白いな」
「わ、私はゲッ『ペ』ルスではない! ゲッ『ベ』ルスだ、間違えるな、このデブ元帥!」
 自分の名前を間違えられたゲッベルスが顔を真っ赤にしてゲーリングに掴みかかる。宣伝相の悩みは多くの人に自分のことをゲッペルスだと思われていることであった。
「お、いいぞいいぞ。やれやれー!」
 ゲッベルスとゲーリングの取っ組み合いを見たレームが二人をはやしたてる。
「おい、止めろよ、二人とも」
「「黙れ!」」
 ヘスが慌てて二人を引き離そうとするが、逆に二人の矛先がヘスに向くことになってしまい、ヘスは二人から殴られて気を失ってしまった。気を失ったヘスを楽しげにレームは見物していた。酒の席は瞬く間に喧嘩の席に変わろうとしていた。
「やれやれ………こんなことを他国に知られたら我が国の威厳が失墜しますぞ」
 ヒムラーが頭を抱えて嘆息した。しかしゲッベルスが投げた酒の入ったグラスがヒムラーの胸元に直撃する。ヒムラーの胸元は酒でグッショリとなってしまった。
「テメェ、何しやがる!」
 そして一瞬で頭に血が上ったヒムラーが喧嘩に加わる。
 この狂乱は騒ぎに気付いた近所の者が通報するまで続き、五人は歯痛を根絶して勢いを取り戻したヒトラーから大目玉を食らうこととなるのであった。


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