広島県呉市内にある古びた四階建てアパートの一室。
 一室の奥で、男は寝そべっていた。目を凝らせば、うっすらと埃が堆積しているのが見える。不精な主に貸し出されたばかりに、一室はもう何ヶ月も掃除をしてもらっていなかった。男は気持ちよさそうに体を転がす。
 日差しはついに傾き、窓から差し込む光が夕日に変わった頃、男は西向きの窓から入ってくる光に眠りを妨げられて身を起こした。
 眠気の残りをあくびで吹き飛ばしながら背を伸ばした男の視線に紺色の衣服が映る。それは男の仕事着であり、勝負服でもある帝国海軍の軍服だ。
「あー、もう四時半かぁ」
 帝国海軍中佐の山本 光は時計を見やって大あくび。
「せっかく一週間の休暇をもらったってのに、これじゃ持ち腐れもいい所だな」
 山本はそんなことをボヤきながらヤカンに淹れておいた麦茶をあおる。
 山本の乗艦である衣笠が整備のためにドック入りしたのが一月前。事務作業をすべて終わらせた山本はやることがなくなったので、久しぶりになる休暇を海軍に申請し、海軍はその申請に許可を与えた。今日は二週間与えられた休暇の四日目だが、山本は何をするでもなく日々をゴロゴロして過ごすばかりだった。
「ニャア〜」
 麦茶で喉を潤す山本の足元で可愛らしい声が聞こえる。山本の足にすりよってくるのは山本の愛猫である次郎だった。野良猫だったところを山本に拾われた次郎の毛並みはペットショップで並べられている猫たちに比べると確かに劣ってはいるが、しかしそれでも今の次郎の毛は泥まみれだった。
「ニャア」
 次郎がもう一度鳴く。鳴き声が「おい、飼い主。たまにはワシを風呂に入れんかい」という催促に聞こえたのは山本の心に落ち度があるからだろう。
「ん〜………ま、明日だな、明日。今日できることは明日でもできる………」
 山本の声を聞いた次郎が悲しげに「ニャア」と鳴く。この調子じゃ山本の休暇中に次郎の毛が綺麗になることはないだろう。
 ………コツンコツン。
 しかし次郎の聴覚は「希望」が足音を近づかせているのを捉えた。次郎が嬉しそうに「ニャア〜〜」と長く鳴いた。足音は山本の部屋の前で止まり、代わってチャイムが鳴らされた。
 ピンポ〜ン
「はい、こちら葬儀屋」
 山本は相手が面食らうことを口走りながら扉を開けた。しかしチャイムを鳴らした客は山本より何枚も上手の女だった。
「ああ、今日は葬儀屋? ほんなら葬式を一つお願いするわ、山本はんの」
「………俺が、俺の葬式するってのは珍しい話だな」
「そやな。新聞に載るんちゃうか?」
 山本は負けを認めながら肩をすくめ、客を部屋の中に招き入れる。客は李 紅蘭という年端の行かない少女だった。化粧をまったく施さない素顔の少女は元気よく笑う。しかし山本は知っている。彼女が化粧を施した時、彼女は日本中を魅了する女優に変わるのだ。帝国歌劇団花組所属、李 紅蘭。これが彼女の公式の肩書きである。
 ひょんなことから紅蘭の危機を救ってしまった山本は、紅蘭と付き合う仲になり、互いに忙しい身ながらも少しずつ時間を割いて会っているのだ。
「………ん? 紅蘭、その買い物袋は?」
 紅蘭が大きく膨れた買い物袋を提げていることにようやく気付いた山本は買い物袋の中身を尋ねる。紅蘭は、はにかみながら買い物袋を床の上に置く。
「えへへ、今晩はエビチリやで」
「そりゃいい。この間、梅田の軍令部まで行った際に入手した焼酎で一杯やるかな」
「でも、その前に」
「んあ?」
 紅蘭は床を指差して強い口調で尋ねた。
「この埃は何? めちゃくちゃ汚いやんか!」
「いや、俺も久々の休暇で部屋に戻ったばかりで掃除できてないんだよ」
「今日で休暇四日目とちゃうんか?」
「ギク………ど、どうしてそれを!?」
「ちゅうか、山本はんが先週うちに言うたんやんか! 今週から休みに入るから遊びに来いって」
「あれ? 俺、そんな連絡したっけ………?」
 先週といえば大阪梅田の軍令部に出向して、そのついでに紅蘭と梅田地下街で飯食って………。うぅん、紅蘭と入った寿司屋で日本酒を三合開けたトコまでは覚えてるんだが………どうやらその後に口走っていたらしい。
「ニャア〜」
 次郎が嬉しそうに鳴くと紅蘭の足元に擦り寄る。次郎の毛の汚れを見た紅蘭は呆れ顔に怒りの色を混ぜて次郎を抱きかかえると山本に突き渡した。
「次郎もドロドロやんか! 山本はん、今すぐお風呂に入れたり!!」
「サ、サーイエッサー!!」
 山本は最敬礼で次郎を受け取った。



 それからわずか半時間後。ようやく本来の毛並みを取り戻した次郎をひざの上に置き、山本は視線を一八〇度回した。
「う〜ん………」
 あのごみ屋敷がわずか半時間で人間の住居としての姿を取り戻していた。片付けられない典型の山本からすれば紅蘭の掃除の手並みは魔法のように映る。
「お前、やっぱ魔法使いなんじゃねえの?」
「何言ってんの。女の子なら誰でもできるで」
 そうなのか? じゃあ女の子というのはみんな魔法が使えるのか? 山本が軽いカルチャーショックを覚えていた時、紅蘭がつけたラジオが

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